2022/04/18

吉野山奥千本

吉野山の桜は下千本から上千本までは何度も見に行ったけれども、奥千本は何時のことだったか忘れたが、一度行ったきりになっていた。既に満開を過ぎているとの情報に接し、吉野の桜の見納めにと出かけてきた。もちろん今となっては自分の脚で「走って」ではなく、車で行って最も近い駐車場を目指した。

止められる台数が限られているというので、早朝6時に自宅を出発、現地に7時過ぎに到着したが、先客はたった1台のみ。帰るときにはうちの1台だけの貸し切り状態だった。散策中も絵を描いている人が一人いただけで、他には全く人気がなく、西行法師とともに静かな花見を楽しむことが出来た。

Saigyo

ただ、肝心の桜は一部を除いて植え替えが行なわれていて、西行庵の向かいの斜面はまだ若い木が僅かに花をつけているだけの状態だった。これでは花見客が少ないのも致し方ないところだ。

Oku2

Oku1

ところで、同行した家内が、奥千本に行くという話が出て以来、郷ひろみの「あの歌」の一節が耳から離れないとボヤいていたが、実は自分もそうだったのだ。(笑)

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2022/01/15

米国旅行記 その13

11月19日金曜日。朝早い便で発つため早起きしてTVをつけたら、「今日からいよいよホリデーシーズンが始まり、各地の空港では混雑が予想されます」と言っていた。ホテルの朝食提供開始を待っていたら間に合わないので、朝食抜きでチェックアウトしてローガン国際空港に向かう。

空港では手荷物検査待ちの長い行列が出来ていたものの、これまでの経験どおり米国出国は入国に比べると拍子抜けするほど簡単で、出国審査そのものがもはや省略されているようだった。

出発までの時間を利用してサンドイッチを買って食べ、日本入国に際して求められる質問事項をアプリ上で回答する。ボストン発デトロイト行きのデルタ便はほぼ定刻どおり発着。デトロイトでの乗り継ぎもスムーズだった。

デトロイト発名古屋行きは乗客の大半が日本人、CAの何人かは日本語を話すので、もう日本に帰ったような気分だ。この便ではビジネスクラスではなく、なぜか普通のエコノミーより安かったプレミアムエコノミーの座席を買っていたが、隣は空席だったので大変快適に過ごすことが出来た。

翌20日土曜日。セントレア中部国際空港に定刻よりかなり早く到着。コロナ関係の審査だけで2、3時間かかると言われていたが、この日は乗客が少なかったせいか、通常の出国手続きを含めてレンタカーで空港を出発するまでに要した時間は2時間半ほどだった。途中、高速のSAで一度トイレ休憩しただけで、21時までには自宅に到着した(帰国時の行動制約についてはその2を参照)。

しかし、これで今回の旅行が全て終わったわけではない。

この頃はまだオミクロン株が出現する前で、むしろ帰国者の行動制限が緩和されつつあった時期だったが、それでも帰国の翌日から14日間は自宅やホテル等での待機が求められていた。そのため「MySOS」なるアプリをスマホやタブレットにダウンロードして、日に複数回届く居場所確認やビデオ通話に対応しなければならない。

「敵もさるもの」で、これらがいつ来るのか予測がつかず、昼寝の最中にビデオ通話を求められて慌てふためくこともしばしば。こちらの方は電話の呼び出し音みたいなアラームが何度も鳴るのでまだ分かるが、居場所通知の方は「ポロン」とかいう小さい音が1回鳴るだけで、それから3分以内に確認ボタンを押さないといけないので油断も隙もあったものではない。

ただ、この時期の行動制限緩和の一環で、10日目にコロナ検査を受けて陰性が証明されれば、その日をもって待機終了となる措置が取られていた。調べてみたら伊丹空港の検査センターで抗原検査を受ければ2千円ほどで済むことが分かったので、わざわざ伊丹までマイカーで行って検査を受けてきた。結果はもちろん陰性で、11日目に当たる12月1日から晴れて自由の身となった。

準備も含めていろいろと大変な今回の米国旅行だった。体調も万全ではなく、肝心のクリーヴランド管のコンサートには行けずじまいだったが、それも含めていい思い出になった。オミクロン株の出現でコロナを巡る状況は日に日に悪化し、海外渡航などとんでもないという事態になってしまった。自分の体調のことも含めて、まだしも11月に行っておいたのは正解だったと思いたい。

おわり

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2022/01/09

米国旅行記 その12

11月18日木曜日。63歳の誕生日はNYで迎えることになった。

まずはホテル近くの再開発エリア「ハドソン・ヤーズ」内にある地下鉄駅から日系クリニックに向かい、PCR検査の陰性証明書を受領することにする。

ちょうど通勤ラッシュの時間帯だったが、こちらは逆の都心方向なので混雑とは無縁だった。正面奥に見える蜂の巣の化け物みたいな建物は「ヴェッセル」という16階建てのアトラクションで、階段で上がることもできるそうだが、この時はコロナの影響で閉鎖されていた。

Hudsonyards

午後の早い便でボストンに移動する。ボストンはこれで3度目になるが、2005年にボストンマラソンを走り、その報告のためにこのブログを始めてから、もう17年近く経つわけだ。

市内観光はもう必要なく、ボストン交響楽団の演奏会を聴くことだけが目的なので、空港近くで都心への移動に便利なホテルにチェックインした。郊外で人通りは少ないが、ホテルの隣はFBI支部のビルなので治安は完璧だ。(笑)

近くのスーパーで買ったクラムチャウダーとパスタで軽く腹拵えしてから、バスと地下鉄を乗り継いでシンフォニーホールに向かう。ここも3度目になるが、毎回どちらの方角を向いているのか掴めない不思議な場所である。今回はさらにコロナ対策だろうか、ホール正面ではなく側面の通用口(?)から出入りするようになっていたので尚更だった。

Bso

プログラムは、イェルク・ヴィトマンという現代作曲家のトランペット協奏曲「天国に向かって(迷宮Ⅵ)」(アメリカ初演、ボストン響・ゲヴァントハウス管共同委嘱作品)と、マーラーの交響曲第1番である。独奏はホーカン・ハーデンベルガー、指揮は音楽監督のアンドリス・ネルソンスである。

協奏曲は独奏者が曲の途中で演奏しながら入場し、ステージ上を動き回ったり、客席に背を向けて演奏したりと、視覚にも訴える趣向を凝らした曲だったが、内容はいまひとつ理解できなかった。

こういう「尖った」曲の後では、マーラーの交響曲が古典音楽のように聴こえる。歌曲集「さすらう若人の歌」と同時並行で作曲され、青春の明暗両面をときに美しく、またときに残酷に抉り出したこの交響曲独特の魅力を、ネルソンスとボストン響は余すところなく表現していた。

聴衆の熱狂的な拍手喝采に応えて再度登場したマエストロが指揮台に立とうとしたとき、楽団員がやおら楽器を構えて指揮者なしの演奏を始めた。「ハッピー・バースデイ」のメロディが流れたのだ。聴衆も唱和する。

「え、何で俺の誕生日を?」と一瞬だけ思ったが、そんな訳があるはずはなく(笑)、この日は何とネルソンスの誕生日でもあったのだ。

偶然の一致とはいえ、おそらく生涯最後の誕生日にボストン響から思わぬプレゼントをもらったと、勝手な勘違いを許すことにした。予想外の事態が続いた旅の最後にようやく良いことがあったなと、感謝しながら会場を後にした。

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2022/01/03

米国旅行記 その11

11月17日水曜日。この日はニューヨークから電車で約1時間のニュージャージー州プリンストンを訪れた。もう30年近く前になるが、そこの大学院に約1年間社会人留学した思い出の場所である。

11年ぶりの訪問になるが、かつて住んでいたアパートや最寄りの鉄道駅などは最近建て替えられ、すっかり様子が変わっているのに驚いた。しかし、母校の建物は学校の名称が変わってもそのままの姿を見せていた。ただし、正面の池の水は抜かれ、噴水のモニュメントも沈黙したままだった。

Wws

娘、息子が通っていた小学校、幼稚園も当時のまま残っていたが、時間帯のせいか子供たちの声は聞こえてこなかった。

小学校の近くにあり、当時よく利用していたスーパーマーケットが、そのままの名前と建物で営業中で、入ってみると店内の売り場の配置も全く変わっていなかった。

Macaffreys

昨年ノーベル物理学賞を受賞した眞鍋淑郎博士の自宅はここから車で数分の場所にあり、博士夫妻が普段この店に買い物に来ているのはほぼ間違いないところだ。

ニューヨークに戻るともう17時を回っていた。本来はこのあと、カーネギーホールでダニール・トリフォノフのピアノリサイタルを聴く予定だったが、本人が肘を痛めたとかでキャンセルとなった旨の通知を旅行前に受け取っていた。

自分自身の体調や当日の疲れを考えると、かなりハードなスケジュールだったと思われ、これに関してはキャンセルはむしろ有難かった。翌日のボストンへの移動に備えて早めに休むことにする。

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2021/12/28

米国旅行記 その10

15日月曜日はクリーヴランドからニューヨークへ移動。JFK空港から市内への移動に意外に時間がかかったりで疲れてしまい、夕方にホテル近くの再開発エリアに出かける予定は取り止めて休養に努めることにした。

16日火曜日も午前中は体調が思わしくなく、昼過ぎまでホテルの部屋で休養。午後は市内の日系クリニックでPCR検査を受ける。雑居ビルのその階だけは日本にいるような不思議な感覚だった。検査はすぐに済み、翌日午後には厚労省所定書式の陰性証明書が発行される。料金は300ドル。日本国内ではそれよりも高いところが多く、まだ良心的な方だろう。

一旦ホテルに戻って休んでから、19時からのメトロポリタンオペラ公演に出かけた。入り口でコロナワクチンの接種証明書の提示を求められたが、見慣れないはずの日本政府書式にもかかわらず短時間のチェックでOKとなった。大丈夫かいな。

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演目は「トゥーランドット」。ゼフィレッリ演出の名舞台である。作品についてはこちら。当夜の指揮はマルコ・アルミリアート、トゥーランドットはアメリカのソプラノ、クリスティーン・ガーキー、カラフはアゼルバイジャン出身のテノール、ユシフ・エイヴァゾフ(ネトレプコの夫)である。

渡航前にMETライブビューイングの録画を再度観て予習していたが、絢爛豪華な舞台の迫力はやはりナマならでは。2次元の画面では分からない奥行きまで加わった舞台の立体感や、細部まで緻密に作り込まれた装置や衣裳の美しさに、ただただ圧倒された。

歌手陣では、タイトルロールのガーキー(Goerke というドイツ風の名字なので、実際の発音は「ゲルケ」に近いか)が若干軽量級で、ニーナ・ステンメのような鬼気迫る冷酷さを感じさせなかったのは残念。

一方、カラフのエイヴァゾフは伸びのある朗々とした声の持ち主で、第3幕冒頭の聴きどころ「誰も寝てはならぬ」では万雷の拍手喝采を浴びていた。

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この名舞台を見るだけでも今回の旅行の価値は十分あったと思わせる、おそらく生涯最後の貴重な体験であった。

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2021/12/19

米国旅行記 その9

14日日曜日。クリーヴランドは朝から曇り空で、時折小雪が舞っているのがホテルの部屋から見える。昨日出歩いた疲れと、久々に飲んだビールの酔いがまだ残っているのか、なかなか起き上がれない。

朝からTVをつけっぱなしにしていたが、ニュースよりも早く、クリーヴランド管弦楽団からのメールで、本日のコンサートは残念ながらキャンセルになったという連絡が入った。恐れていたことが現実になってしまった。

せめてオーケストラの本拠地、セヴェランスホールの外観だけでも見に行こうかとも思ったが、午後からは横殴りの雪となって、とても外出する気力が湧かない。ここで無理して出かけて体調を崩しては元も子もない。大人しくホテルの部屋でここまでの経過をメモしたり、ベッドでウトウトしながら過ごした。

もともと、この日のコンサートはセミヨン・ビシュコフを指揮者に招いて、チャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」などを演奏する予定だったのが、ビシュコフの出演がキャンセルとなり、代役にティエリー・フィッシャー(ユタ交響楽団音楽監督)を立てて、ムソルグスキー(ラヴェル編)の組曲「展覧会の絵」をメインにしたプログラムを演奏する予定であった。それもキャンセルになったということで、最初からそういう宿命にあったのかもしれない。

当初の旅程ではクリーヴランドだけ訪問して帰国する予定だったので、これではビールを1杯飲むだけのために来たようなものになるところだった(苦笑)。瓢箪から駒というか、帰国便とコロナ検査の関係で、このあとNYとボストンで追加の予定を組んでおいたのが、まだしも不幸中の幸いだったと思い直すことにした。

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2021/12/16

米国旅行記 その8

この日のお目当てのもう一つは、ホーフブロイハウス・クリーヴランドというビアホールである。旅行のプランを練っているとき、クリーヴランド市内の地図を何気なく眺めていて、Hofbräuhaus という文字が目に飛び込んできたときは驚いた。

ミュンヘンにある有名な醸造所直営ビアホールの支店が、まさかアメリカにあるとは思いもしなかった。調べてみると全米で6店ほどあるようだが、そのひとつがクリーヴランドのダウンタウンにあるのだ。

実は若い頃に一度ミュンヘンの本店に行って本場のビールを堪能したことがあって、それ以来の体験が出来ることに胸躍る思いがした。肝臓に転移した癌のため、今は年に一度だけ正月に飲む缶ビール1本で我慢しているが、この際そんなことは言っていられない。冥途の土産の一杯にと、店が混み始める前の明るいうちから店へ出向いた。

Hofbrau

濾過していないため少し濁った感じのラガービールだが、ホップがよく効いた深い味わいはまさに五臓六腑(とりわけ肝臓に・笑)に染み渡った。フライの盛り合わせをアテにチビチビ飲っていたら、店内がどんどん混んできて、最初は両隣空席だったバーカウンターがほぼ満席になった。

Beer

客同士、マスクなしでの賑やかな談笑が盛り上がるに及んで、これはマズいと予定どおり1杯だけで早々に退散することにした。写真は自分へのお土産に買ったビアグラス。そのうちこれでビールを味わえる日々がやって来るが、それはもう抗癌剤治療を断念したあとということになる。

Glass

ホテルに戻る途中、Playhouse Square という劇場街を通った。交差点の真ん中に吊り下がっているのは、GEシャンデリアと呼ばれる電飾である。いかにもアメリカ!という風景だ。

Ge

さて、ホテルに戻って部屋のTVでニュースを流していたら、今日予定されていたクリーヴランド管弦楽団のコンサートが、楽員がコロナに感染した可能性があるため、大事をとってキャンセルになったとの報道が飛び込んできた。自分が行く予定の翌日曜のコンサートは、コロナ検査の結果が陰性という条件付きで、現時点では予定通り開催されるとのことだった。

おいおい。まさにそのコンサートのために、これまで苦労してクリーヴランドまでやって来たというのに。しかし、今さらジタバタしてもどうしようもない。自らの運を信じて床に入ったが、時差ボケに加えて様々な思いが去来してなかなか眠りにつけなかった。

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2021/12/13

米国旅行記 その7

13日土曜日。クリーヴランドの気温は4、5度といったところか。外出が億劫になる寒さである。さらには前日の疲れで寝坊してしまい、朝食会場に終了時刻ギリギリに駆け込む始末だったので、午後からゆっくり外出することにする。

この日のお目当ての一つは、クリーヴランド管弦楽団を世界有数の楽団に育て上げた名指揮者、ジョージ・セルが当時住んでいた家を訪ねる(といっても、現在も人が住んでいるので外から眺めるだけだが)ことである。

グリーン・ラインという路面電車で約20分、最寄りの停留所から歩くこと数分。Larchmere Boulevard という美しい通りに面した高級住宅街の一角にその家はあった。

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以前読んだ A Life of Music (by Michael Charry)にこんな記述が出てくる。

(1951年)5月末、セル夫妻は彼らのクリーヴランド時代の終わりまで住み続けることになる家を購入した。シェーカー・ハイツのラーチミア通りに面した、レンガと石造りのイングランド様式による14室の家だった。寝室4つ、バスルーム2つ、書斎と2台用の車庫を備えたこの家にセル夫妻が支払った金額は、3万6千ドルから4万2千ドルの間であった。(まこてぃん試訳)

その家は70年以上を経た今も健在で、暖かそうな部屋には感謝祭の飾りつけらしいものが窺えた。

近所の別の家の庭先に鹿の姿を見かけた。てっきり飾り物かと思って近づいてみたら何と本物だった。近隣には荒らされる畑もなく、芝刈りをしてくれる鹿と住民とは、ある種の共存共栄関係なのかもしれない。

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2021/12/10

米国旅行記 その6

シカゴからクリーヴランドへの乗り継ぎ時間は2時間15分。搭乗終了が15分前だとしても2時間ある。その間に入国審査と検疫、手荷物の預け替えを行なわなければならないのだが、まだホリデーシーズンが始まる前だし、たぶん大丈夫だろうと思っていた。

甘かった。

11月8日以降の入国条件の変更は、日本人にとってはワクチン接種証明書の追加で一層厳しくなった反面、ヨーロッパなど他の国々にとっては、それまで原則入国禁止になっていたものが条件付き解除となったのだ。

それからまだ1週間経たないというタイミングだったから、シカゴ・オヘア国際空港の入国審査は文字通り長蛇の列をなし、通常の待機場所を溢れた人々が通路にはみ出し、長い長い行列をなす始末だった。

それでも列は少しずつ動いているので、もしかしたらOKかと思っていたが、入国審査と検疫を通過した時点でクリーヴランド行きの出発まで35分という時刻だった。ターミナル間の移動を考慮してギリギリ間に合うかと期待したが、手荷物のタグをスキャンしてもらった瞬間に係員の端末の画面が赤くなり、ビーという警報音が出た。アウト!

すぐ横にあったユナイテッドのカウンターで後続便への変更が行われ、何とかその日のうちにクリーヴランドに到着できることにはなったが、後続便の出発までムダに時間があるのに、ホテル到着は深夜という事態に陥ったのだ。おまけに後続便の機材は一体いつから飛んでいるのかという古い737で、最初からトイレの水が出ないという有様だった。

いきなり前途多難の行程が予告されたようで気持ちが落ち込んだまま、ようやく到着したクリーヴランドのホテルで、恐ろしく愛想の悪いフロント係にチェックインを告げたのであった。

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2021/12/07

米国旅行記 その5

11月12日、ようやく出発の日がやって来た。PCR検査の陰性証明書は前日に入手済み、ワクチン接種証明書や米国滞在中の連絡先メモ(ホテルの名称、所在地)と合わせて、予備にコピーを取ってある。本来は搭乗券も前日にウェブサイトから印刷出来るはずだが、コロナ関係の証明書を確認できるまで発券できない。またビザなしの「ESTA」による渡米のため、帰りの航空券を購入済みであることを示す書面も必要となる。

以上の手続きを最初の出発地の伊丹空港で行う必要があり、相当の時間的余裕を見て出発したが、さすがにこの時期の国際線利用者は少ないようで、国際線カウンターはガラガラだった。しかし、これが実質的な米国への入国審査となるため、航空会社に課せられた責任は重い。その内容がコロコロ変わるのでこちらも大変ですと、応対してくれたANAの職員が言っていた。

無事に審査が終わってクリーヴランドまでの搭乗券を受取り、ひとまずANA便で羽田へ向かう。天候は快晴で上空から富士山や房総半島がきれいに見える。羽田に着くとユナイテッド航空のカウンターでまた必要書類のチェックを受ける。羽田の国際線ターミナルも嘘のように人気がなく静まり返っている。

手荷物を預けてセキュリティ、出国審査を通過。ANAのラウンジで一休みして、いよいよシカゴ行きユナイテッド882便に搭乗する。おそらく最後の外国旅行ということもあるが、自分の体調を考慮して、この後の飛行機は全てビジネスか、それに準ずるクラスの座席を購入してある。

写真はユナイテッドのビジネスクラス、その名も「ポラリス」の座席(というより個室に近い)である。写真では隠れているが、ちゃんと脚を伸ばしてフルフラットの姿勢で休むことが可能だ。

Polaris

ただ、設備はともかくCAのサービスや食事に関してはエコノミーと大差ないように感じた。乗ったことがないので分からないが(笑)、ANAやJALのビジネスクラスなら、もっと丁重にもてなしてくれそうな気がする。

シカゴにはほぼ定刻の15時半頃到着。しかし、ここで最初のハプニングが起きたのだ。

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