「パルジファル」のコメントの続きのようなことを少し書いてみよう。だいぶ以前に、ラジオキットをプレゼントしてくれた従兄のほかに、「私の人生を大きく変えた人物が2人いる」と結んだ記事を書いた。そのうちのひとりのことである。
「Fさん」と、ここでは呼んでおこう。もう40年も前になるが、勤めていた会社の関係会社の社員で、年齢は自分よりひと回りほど上のベテランさんだった。他流試合というのか、自分のいた職場に研修目的で何か月か派遣されて来られていた。
常に物静かで冷静沈着。業務の関係でともすれば殺伐とした空気の漂う職場にあって、Fさんの周囲だけは穏やかさを失わない。そんな不思議な雰囲気をもった「大人」だった。
そんな彼が書いたある研修のレポートを目にする機会があって、その中のひとつの文章に自分は大きな衝撃を受けた。いや、「積年の蒙を突然に啓かれた」というのが正しいかもしれない。彼はこう書いていた。
「人間関係は悪いのが当たり前」。
「そうか、そうなのか。そう考えればいいのか」。レポートを前に、自分は心の中で何度も独り言ちていた。
お恥ずかしながら、自分は人付き合いというものが苦手で、友達と呼べる人は極端に少なく、たいていの人と良い人間関係が築けない。それは自分の性格的な欠陥から来るもので、何とか是正しようとはするものの果たせない。何か気まずいことが起こると、自分の態度がいけなかったからだと、いつまでも蒸し返したりする。
それがずっと自分の悩みであった(今でもそうである)のだけれど、その一文を読んで、気持ちの持ちよう次第なのだということが初めて分かって、何だか「救われた」のだ。
そう。Fさんは当時の自分にとっての「救いをもたらす者」、一種の「神様」であったと言って過言ではない。それからというもの、他者との人間関係が気まずくなったとき、以前のように一方的に自分が悪いと考える癖は修正され、まずは「それは当たり前のことなのだ」と考えることができ、むろん反省すべき点は反省しながらも、そのことが長く尾を引くようなことは少なくなった。
Fさん自身、自分が書いた文章が若造社員の悩みを救ったなどとは全く意識しなかっただろう。宗教の教祖様のような存在でなくても、神様は至るところに出現しうるのだ。
それは生身の人間である必要もない。過去の人が書いたり発言したりしたことでも良い。愛して止まない飼い犬、飼い猫に心を癒されるなら、ペットたちは飼い主にとっての神様と言っても良いのではないか。
いや、もはや生物である必要すらないかもしれない。懐かしい故郷の風景。美しい絵画。心を震わせる音楽。そういうものに救いを感じるなら、それはその人にとっての神様なのではないだろうか。
と、ここまで書いてきて、日本人独特の思想である「八百万の神々」とは、この延長線上にあるのかもしれないと思ってしまった。ワーグナーの「救いをもたらす者」からは遠いところにあるのだろうが、もしかすると彼が関心を持った仏教思想の一部として、僅かに重なり合うところがあるのかもしれない。
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