2022/02/05

「『マタイ受難曲』のことはまだとても書けないけれど」

吉田秀和氏が『レコード芸術』誌1969年3月号に寄稿した標題のエッセイを読んだ(白水社刊『吉田秀和全集5』所収)。その年にカール・リヒター率いるミュンヘン・バッハ管弦楽団と同合唱団が来日するのに合わせ、彼らによる「マタイ受難曲」のレコードについての論評を求められたようである。

全集本にして12頁の比較的短めのエッセイは、標題そのままの「お断わり」的な導入に続いて、まずリヒターが「中庸の音楽家だろう」と喝破するところから説き起こす。ここでいう「中庸」とは、バッハ音楽の宗教的で理性的な面と、現世的で不合理な面との間で、時に応じてどちらかに傾くことはあっても、決して全体の均衡を破ることがないという意味である。

これに続いて、まず「この劇の主人公は群衆」であるとして、第73番の合唱「本当に、あの男は神の息子だったのだ」に、リヒターの演奏の最も大きなアクセントがおかれていることを指摘している。

さらに、「劇のアクセントの、もう一つの重点は、ペテロの裏切りにある」として、エルンスト・ヘフリガーによる第46番の福音史家のレチタティーヴォ「ペテロは外に出て、さめざめと泣いた」に胸をつかれないとすれば、「その人はもう音楽をきく必要などまったくない人である」とまで言い切っている。

また、管弦楽とともに合唱がこの演奏の基礎をつくっているとし、特にこの受難曲全体を貫き、作品の調性的構成の「とめがね」でもあれば、精神的絆の役もつとめている第63番のコラールの演奏を称賛している。

こうした指摘はまさに正鵠を射たものに違いなく、前に読んだ礒山雅氏の著作でもこのエッセイに言及されていた。既に手許にないので不確かだが、とくに最後のコラールについての記述を礒山氏も高く評価されていたように記憶する。

さて、これだけのことを書いておいてなお、「まだとても書けない」とは一体どういう言い草だろう(笑)。エッセイ冒頭の部分で吉田氏はこんなふうに書いている。

私にはまだ、この曲については書く力がない。(中略)むずかしい。第一、『マタイ受難曲』などという音楽は、レコードが手もとに置かれたからといったって、そう簡単にきく気にはなれない音楽である。私は、これから何年生きられるか知らないが、その残された一生の間に、果たして、何回きけるだろう? すでに(実演を)三回きいたことがあるというだけで、もう幸運だといってもよいし、何十回きいたからといって、よりよくわかるようになるときまったものでもない。『マタイ受難曲』というのは、そういう曲なのである。

氏の言わんとするところは何となく分かる。「汲めども尽きせぬ」という言葉があるが、どこまで掘っても底のない深い泉、あるいは、どこまで登っても頂きが見えない巨峰。そんな音楽については、ある種の割り切りがなければとても書けたものではないのは確かだ。

このエッセイの発表当時、吉田秀和氏は55歳。その後、彼が再び『マタイ受難曲』について書いたかどうかは知らない。齢六十三にしてようやくこの曲に初めて接した自分が『マタイ受難曲』のマの字を口にするのも恥ずかしいながら、ただの一度でもCDを聴けただけで「もう幸運だといってもよい」のかもしれない。

併録された「ミュンヒェン・バッハの残したもの」という短いエッセイでは、来日時に著者が間近に接したリヒターの人となりと、そこから生まれる音楽の特質について書かれていて、こちらも大変興味深かった。

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2022/01/27

『マタイ受難曲』

Chikuma礒山雅(いそやま・ただし)著。1994年東京書籍より刊行、2019年筑摩書房より文庫化(ちくま学芸文庫)された。版元の紹介文。

荘厳な響きと、雄大な構想により、西洋音楽の歴史において圧倒的な存在感を誇ってきた“マタイ受難曲”。イエスの捕縛から十字架刑、そして復活までの物語を描いたこの作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、音楽としての価値を超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。いまなお演奏ごとに、そして鑑賞のごとに新たなメッセージが発見され続ける、すぐれて現代的なテーマを秘めている。
バッハ研究の第一人者が、バッハの手書き譜や所蔵していた神学書など膨大な資料を渉猟し、ひとつひとつの曲を緻密に分析して本国での演奏にまで影響を与えた古典的名著。(引用終わり)

たった一つの楽曲について1冊の本が出来るということ自体、ほとんど例を見ないと思うが、それが文庫判にして624頁もの大著であることは、取りも直さずこの曲が紛れもなく「西洋音楽史上最大の傑作」であることの証左であろう。

内容は、新約聖書の4つの福音書に記された受難記事の概要、バッハ以前の受難曲の系譜、バッハ楽曲の作曲経緯と歌詞の由来などを概説した「序論」(ここまでで143頁!)と、各曲ごとにその歌詞の内容や背景、それぞれの音楽の聴きどころを譜例を交えて紹介した「本論」からなり、巻末には参考文献リストやCD紹介、著者自身による全曲の歌詞対訳などを収める。

要するに「これ1冊あればこの曲の全てが分かる」というぐらいの守備範囲を持ち、しかもその内容は、著者がわざわざドイツに滞在して調べ上げたというバッハの神学蔵書を始めとする膨大な文献に基づき、音楽やキリスト教に関する著者の該博な見識をもとに記述された大変高度なものである。と同時に、著者自身の見解も躊躇なく開陳されていて、単なる平板な学術書の域を超えたチャレンジングな面も持っている。

特に「本論」における解説は、ただ対訳を見ながら聴いているだけでは絶対に分からない、歌詞が象徴するものとかその背景を細大漏らさず解説してくれていて興味が尽きない。ただ、これを片手に適宜中断しながらCDを聴いたりしたら、ただでさえ3時間かかる演奏時間が、3日あっても足りなくなること必至だ。(苦笑)

巻末の対訳は平易な口語体で読みやすいが、還暦過ぎの人間にはいかんせん文字が小さすぎる。CDリストは大変参考になる。なかでも著者の挙げるベスト3の一角にショルティ指揮シカゴ響盤が入っているのが意外だった(他はリヒターの旧盤とレオンハルト盤)。「あのショルティがアメリカのオケを振ったバッハなんて」という偏見や先入観をものともしない著者の曇りなき眼に敬意を覚えた。

なお、本文庫の刊行は2019年12月。著者はその前年2月に死去(享年71)しているので、文庫版の出来上がりは目にされなかったものと思われる。

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2021/11/04

『地図帳の深読み 100年の変遷』

Fukayomi_20211103082701今尾恵介著。版元の紹介文。

100年以上の歴史を持つ帝国書院の書庫に眠る大正や戦前戦後の地図帳を、今回も今尾氏ならではの軽妙洒脱な筆致で「深読み」します! 日本一高い山、日本の東西南北端、地名、国名、国旗、国境など…現代の地図と読み比べると、あらゆる部分が変わっていることに気づかされます。各時代の地図帳を「深読み」すると、地図帳が作られた当時の社会情勢、時代背景がまざまざと浮かび上がってきて、歴史好きな方にも読み応えがある一冊に仕上がりました。皆さんが学生時代に使っていた頃の地図帳も登場するかもしれません。家の奥に眠るあの地図帳、今もう一度繙いてみませんか。(引用終わり)

以前に読んだ第1弾に続き、今回はさらに時間軸、歴史を絡ませた興味深い内容になっている。マニアックの度が更に進んだとも言えるが。(笑)

実は自分も古い地図を眺めるのが好きで、特に新旧の対比が容易なこのサイトを見ていると時間が経つのを忘れる。もともと旧街道や廃線となった鉄道がどこを通っていたかを調べるのが目的だったはずが、周辺の市街地や交通網、河川や海岸線の変化を見ていると興味が尽きないのである。

本書ではそこに著者の歴史、産業、政治、経済など各般に亘る該博な知識を動員して、まさに新旧の地図帳を俯瞰するような「深読み」が展開されていて、意外な発見に驚かされることが多かった。そのうちの歴史の部分については、世界史教諭の奥様が知識を授けてくれたからだと、「あとがき」の中で種明かしされているのが微笑ましい。

本書の内容から、ひとつだけ身近な場所での例を挙げれば、大阪府の北端に大小二つのウサギの耳のようになった部分がある。そのうち東側の小さな耳は以前はなかったが、昭和33年4月に京都府南桑田郡樫田村がまるごと大阪府高槻市に編入されたもので、同時に京都府亀岡市の一部が大阪府豊能郡東能勢村に編入されたことで、左側の耳の付け根の部分が太くなったという。

では、なぜそれが「身近な場所」かと言えば、前者はポンポン山のすぐ西側、後者は妙見山のすぐ近くということで、以前何度か走りに(登りに)行ったことがあるからだ。編入の背景となった旧丹波国と摂津国の境界を巡る歴史的経緯等は、本書を読むまで全く知らなかった。

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2021/08/27

『古くて素敵なクラシック・レコードたち』

505360185村上春樹著。以前読んだ『小澤征爾さんと、音楽について話をする』が面白かったので、最新刊の本書も読んでみた。版元の素っ気ない紹介文。(笑)

クラシック音楽をこよなく愛し聴き巧者である村上春樹さんが、LPレコード486枚をカラーで紹介しながら、縦横無尽に論じるという待望の音楽エッセイです。(引用終わり)

曲目別の記事96本に加えて、巻末にトマス・ビーチャム、ジョン・オグドン、イゴール・マルケヴィッチ、そして小澤征爾という、著者の思い入れが特にアーティストの記事4本を配し、合計100本のショートエッセイからなる。

全体を通じて、クラシック・オタク同士の気の置けない雑談みたいな感じで気軽に読める。著者自身、まえがきに当たる「なぜアナログ・レコードなのか?」の中でこう書いている。

これはあくまで個人的な趣味・嗜好に偏した本であって、そこには系統的・実用的な目的はない。「これがこの曲のベスト盤だ!」みたいなガイドブック的意図も皆無だし、「私はこんな珍しいレコードを所有しています」とひけらかすことが目的でもない(中略)。たまたま買い込んだレコードの中で、個人的になかなか気に入っているものを棚から引っ張り出してきて、「ほら、こんなものもありますよ」とお見せするだけのものだ。

ジャケットが素敵なのでつい買ってしまったLPレコードを次々と手に取って眺めたり、匂いを嗅いでみるだけで安らかな気持ちになるという記述には、やはりアナログレコードでクラシック音楽に開眼したファンの一人として大いに頷いてしまう。

楽曲のデジタル録音データを収納した「容れ物」でしかないCDとは違い、黒く光る盤面の佇まいや、手に持ったときの重量感、さらには30センチ四方のアートとも言えるジャケットを含めて、確固たる存在感を示しているのがLPレコードなのである。

この本に触発されて、本書でも紹介されているパウル・クレツキー指揮ウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第1番、イゴール・マルケヴィッチ指揮フィルハーモニア管によるストラヴィンスキー「春の祭典」のLPを久々に聴いてみた。

耳障りな針音ノイズやダイナミクスレンジの狭さはいかんともしがたいが、弦楽器高音部の生々しさや自然な音場感の広がりなどはCDを凌駕し、1960年前後の録音でも今日の鑑賞に十分堪える。むしろ、その後の60年間でレコード業界は一体どれだけ進歩したのだろうという思いを禁じ得ない。

ところで、人名表記でひとつ気になる点があった。それはセルゲイ・クーセヴィツキーの表記についてである。20世紀初頭にボストン交響楽団の音楽監督を務め、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」をはじめ、新曲委嘱による同時代の作曲家に対する支援を積極的に行ったロシア系ユダヤ人の音楽家である。

フランス語表記から「クセヴィツキー」とされることもあるけれど、我が国ではロシア風に「セルゲイ・クーセヴィツキー」と表記されるのが一般的である。しかるに、本書ではブラームスの交響曲第3番(108頁)、シベリウスの「ポヒョラの娘」(297頁)のレコードデータでは、フランス風に「セルジュ・クゼヴィツキー」と表記され、本文中もそれに従っているにもかかわらず、バルトークの「オケコン」成立事情についての文章(224頁)では「クーセヴィッツキー」と書いてあって統一を欠いている。

ボストンとは浅からぬ縁がある村上氏がまさか両者を同一人物と認識しないはずがなく、レコードデータを整理した編集者と作家との間で何らかの齟齬があったものと推察される。

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2021/08/09

『キネマの神様 ディレクターズ・カット』

Director原田マハ著。版元の紹介文。

『キネマの神様』映画化に際し山田洋次監督は自身の若き日を重ねて脚色。そのシナリオから著者が新たに生み出すもうひとつの物語。(引用終わり)

原田マハ著の小説『キネマの神様』を原作とした映画『キネマの神様』の脚本を原作とした小説である。映画やドラマの脚本がノベライズされることはよくあるけれども、その元となった作品の作者自身がノベライズを手掛けたというのは珍しいだろう。

本作の意義について、著者は「まえがき『歓び』」の中で次のように述べている。

脚本は原作から大幅に変更されていた。まったく別物といっていいくらいである。けれど、だからこそ、私は嬉しかった。原作をただなぞらえて映像化するのではなく、原作で最も重要なふたつのエッセンス、映画愛と家族愛が抽出されて深められている。その上で、(山田洋次)監督が完璧に自分自身のものにしている。原作に対する深い読解と敬意、真の創造力がなければ決してかなわないことだ。

「まったく別物」とあるけれども、主要登場人物やその役回りはほぼ原作を踏襲した上で、それぞれの過去にも焦点を当てることで各人物像に深みを生み出している。

ただ、原作でプロット上のキーとなっているブログでの遣り取りは映像化には不向きで、その代わり山田監督自家薬籠中の映画製作ネタを持って来て、「見せる」作品に仕立て直している。

これで原作、脚本ともに読み終え、あとは公開が始まった映画を観に行くばかりになった。原節子がモデルと思われる女優園子役の北川景子の活躍ともども楽しみである。

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2021/07/31

『キネマの神様』

Kinekami原田マハ著。版元の紹介文。

39歳独身の歩(あゆみ)は、社内抗争に巻き込まれて会社を辞める。歩の父は趣味は映画とギャンブルという人で、借金を繰り返していた。ある日、歩が書いた映画に対する熱い思いを、父が映画専門誌「映友」のサイトに投稿したことから、歩は編集部にスカウトされる。だが実は、サイトの管理人が面白がっていたのは父自身の文章だったことが判明。「映友」は部数低迷を打開するために、また歩は父のギャンブル依存を断つために、父の映画ブログ「キネマの神様」をスタートさせた——。(引用終わり)

来月封切りの同名映画の原作ということで手に取った。この作家の作品は初めて読んだが、著者自身「導入部から三分の一はほぼ自分の体験に基づいて描いている」という物語にいきなり引き込まれた。六本木ヒルズを思わせる「アーバンピーク東京」のキャリアウーマンから一転、父が勤めるマンション管理人の仕事を手伝うことになった歩の境遇には同情を禁じ得ない。

物語の後半は、歩の父が「ゴウ」の名でブログに書いた映画評に対し、「ローズ・バッド」という謎の人物から的確かつ辛辣なレスポンスが投稿され、その遣り取りが評判となって「映友」も勢いを取り戻すが、実はその人物とは…という展開となる。著者が「残りの三分の二は完全なファンタジーだ。(中略)こんなあたたかい奇跡が起きればいい」と述べているとおり、もしこんなことが起きたら素晴らしいなという、美しき絵空事の世界だ。

登場人物がいずれも根は善人ばかりで、そのほとんどが映画好きという設定に少々甘さを感じたものの(渡米した歩の友人・清音が実は悪党かもしれないと最後まで期待していたが・笑)、映画好きという一点だけで人と人がこれだけ共感し、連帯できるのだというストレートな物語には、有無を言わせぬ迫力がある。普段あまり映画を観ないという著者が創作した、(少なくとも素人目には)玄人跣の映画評にも驚かされた。

ただ、この原作と映画の公式サイトで紹介されている「ストーリー」とはだいぶ異なる。映画のシナリオに沿った「ディレクターズ・カット」という「もうひとつの物語」も刊行されているようなので、そちらも読んでみたくなった。

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2021/07/22

『静寂から音楽が生まれる』

491548アンドラーシュ・シフ著。版元の紹介文。

今日世界でもっとも注目を集める音楽家の一人であり、日本における人気と注目度も極めて高いピアニスト、アンドラーシュ・シフのインタビュー&エッセイ集。第1部では、自身の芸術家としての基本姿勢、演奏技法と解釈の方法、そしてピアニストおよび指揮者としてのさまざまな経験について語り、第2部では、円熟した巨匠の素顔と音楽への深い洞察が、ユーモアやウィットに富んだ繊細な筆致で紡がれる。(引用終わり)

このところの「シフ三昧」の一環で、大変興味深く読むことができた。

第1部の冒頭、インタビュアーがいきなり「あなたにとって音楽とは」という紋切り型の質問をしたのに対し、シフがこう答えることによって本書はスタートする。

はじめに静寂があり、静寂から音楽が生まれます。そして、音響と構造からなる実にさまざまな現在進行形の奇跡が起こります。その後、ふたたび静寂が戻ってきます。つまり、音楽は静寂を前提としているのです。

一方、第2部の最後はコンサートにおけるアンコールについて書かれた「付言」となっているが、例えばベートーヴェン最後のピアノソナタ、ハ短調作品111にアンコールなど不要とし、「あるのは静寂だけでよいのです」と、巻頭との見事な照応を見せて本書を締め括っている。

実に深い含蓄をもった言葉だと思う。確かにシフの演奏を聴いていると、再弱音の奥に秘められた静謐さとか、休止符によってこそ表現される音楽内容といったことを意識させられることが多い。

そんな彼だから、第2部の「聴衆のための十戒」というエッセイの中で、聴衆も沈黙を保つことを厳しく求め、とりわけ「拍手をするのが早すぎてはなりません」という10箇条目を最も強調している。それも詰まるところ「音楽が静寂に始まり静寂に終わる」からである。

実際、彼のCDはトラックの冒頭すぐに音楽が始まらない。ライヴ録音された「ゴールトベルク変奏曲」では何と11秒も経ってようやく第1音が聴こえる。また、演奏の後もかなりの秒数の余白が置かれていて、その部分も含めての音楽なのだということを如実に表している。

ほかにも、ハンガリー生まれのユダヤ人として、決して幸福ではなかった幼少期の記憶(「人生の中でハンガリーを故郷と思ったことは一度もない」という告白は胸を打つ)や、尊敬する作曲家や教師たち、名演奏家との思い出など、いずれも彼の血となり肉となった経験が率直に語られていて興味が尽きない。

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2021/07/13

『ライオンのおやつ』

Lion_20210709210401小川糸著。タイトルとポプラ社刊ということから、子供向け絵本かその原作と誤解してしまいそうだがそうではない。瀬戸内海に浮かぶ風光明媚な通称「レモン島」にある緩和ケア施設(ホスピス)「ライオンの家」にやって来た、末期癌患者の33歳女性を主人公とする、かなりシリアスな内容の小説である。版元紹介文。

男手ひとつで育ててくれた父のもとを離れ、ひとりで暮らしていた雫は病と闘っていたが、ある日医師から余命を告げられる。最後の日々を過ごす場所として、瀬戸内の島にあるホスピスを選んだ雫は、穏やかな島の景色の中で本当にしたかったことを考える。ホスピスでは、毎週日曜日、入居者が生きている間にもう一度食べたい思い出のおやつをリクエストできる「おやつの時間」があるのだが、雫は選べずにいた。(引用終わり)

当初は同居者の死に立ち会ってショックを受けるなど、雫はいずれ自分も死を迎えることを受け入れられずにいた。しかし、島の美しい自然環境に癒される一方で、代表者のマドンナをはじめとするスタッフやボランティアの心温かいケア、偶然に知り合った島の青年田陽地(タヒチ)との出会いなどを通じ、次第に心の整理がついてくる。

いくらジタバタしても、自分で命のありようを決めることはできない。結局、なるようにしかならないのだ。そのことをただただ体全部で受け入れて命が尽きるその瞬間まで精一杯生きる。一日、一日を、ちゃんと生ききること。ちょうど端から端までクリームがぎっしり詰まったチョココロネみたいに、ちゃんと最後まで人生を味わい尽くすこと。これが彼女の目標となる。

モルヒネの服用や夜間セデーション(鎮静剤)といった処置で苦痛をコントロールしながら、充実した最後の日々を過ごした彼女のもとを、会いたくても会えなかった大事な人たちが訪ねてきて、念願の「おやつ」を振舞うことも出来た。

その後、奇跡的にその次のおやつの時間にも参加した雫はついに最期を迎える。臨終の言葉は「ごちそうさまでした」。最後まで人生を味わい尽くした彼女に相応しい言葉だ。

ところで、『ライオンのおやつ』というタイトルの意味だが、ライオンは百獣の王で、敵に襲われる心配なく、安心して食べたり寝たりすればよい。入居者はみな百獣の王であり、彼らの思い出の「おやつ」は、心の栄養、人生へのご褒美というわけだ。

含蓄のあるタイトルだけど、さて自分にとってのそれは一体何だろう。甘党ではないのでお菓子は思い当たらない。強いていえば王将の餃子だろうか。(笑)

ところで、現在NHK-BSでドラマ版『ライオンのおやつ』が放送されている。ロケ地はどうやら八丈島らしいが、美しい風景に癒されながら毎回楽しみに観ている。

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2021/02/17

町の書店も捨てたものではない

97847584439204年前のスタート以来読み継いでいる『あきない世傳』シリーズの第10弾が発売された。毎回楽しく読ませてもらっているが、今回書きたいのはその内容ではなく、その入手方法についてである。

結果から先に言えば、今回初めて近所の小さな書店で購入することになった。実はこれまでの9巻は全て、発売前から図書館に予約しておき、入荷後比較的早い時期に読むことが出来ていた。

しかし、昨年12月から今年3月末まで、図書館が設備改修のため長期休館となっていて、貸出はおろか新刊の予約すら出来ない状況になっているのだ。このままだと、再開した4月早々に予約を入れたとしても、実際に読めるのは早くて6月以降、下手をすると第11弾の発売が予想される9月を過ぎてしまう恐れすらある。

そのため、今回に限っては自腹を切って(笑)1冊購入することにして、いつものようにアマゾンに発注した。当初は発売日ぐらいに到着する予定となっていたが、翌日になって「商品の発送に遅延が生じました」というメールが届いた。最長で3週間も後になるという。アマゾンと版元や取次との間で何かいざこざでも起こったのか、部外者には知る由もないけれど、一日も早く読みたい読者としてちょっと困る。

そこで、ダメで元々と近所の小さな書店を何年かぶりに訪れ、入荷の見通しを尋ねたら、発売日かその翌日ぐらいには入りますよと、あっさり言われてしまった。何となくだけどJ堂とかK屋などの大規模書店が優先で、町の小さな本屋は後回しというイメージがあっただけに意外だった。

早速その場で注文してアマゾンはキャンセル、無事発売日に入手することが出来た次第だが、ネットショッピング全盛の現在でも、従来どおりの取次ルートが健在であることが分かって、ちょっと心強い思いがした。

仕入れや在庫、物流など経営のあらゆる面を極限まで効率化したアマゾンのビジネスモデルに対抗して、今回は取次店を通じた従来のアナログ式の販売ルートが、ささやかな勝利を収めたと言えるかもしれない。

また、書店以外にも、スーパー、銀行、郵便局、コンビニ、定食屋、弁当屋、パン屋、医療モール、そのいずれもが徒歩圏内にある今の生活環境が、今後の加齢を考えるといかに恵まれたものであるかを再認識した。

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2021/01/21

“George Szell: A Life of Music”

Szell_20210119180201弟子 Michael Charry によるジョージ・セル伝。Kindle版の英書を何とか読破した。セルの生涯とその音楽に対する興味に加え、抗癌剤点滴の長い待ち時間がなければ、到底読み終えることは出来なかっただろう。

ジョージ・セルの生い立ちと天才少年ぶりから始まり、若き日の音楽修業を経て楽壇に華々しくデビューした後、様々な経緯を経てアメリカ・クリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任し、この楽団を世界有数の名門オーケストラに育て上げた過程を詳細に記述している。

紙の本で452頁に及ぶ内容を要約して紹介するのはとても手に余るので、自分として意外に感じたいくつかの点をメモしておくに止めたい。クリーヴランド管と数々の優れたレコーディングを残したセルだが、それ以外にも録音には残らなかった(一部音楽祭のライヴ録音を除き)多面的な活動を展開していたのだ。

  • セルはクリーヴランド管以外にも米国主要オーケストラとの関係を保ち続け、特にニューヨーク・フィルハーモニックには毎シーズンのように客演指揮に訪れていた
  • 毎年夏は必ずヨーロッパに滞在し、ザルツブルク、ルツェルン等の音楽祭に出演したり、夫人とともにスイスで静養したりという生活を繰り返していた
  • 古典派、ロマン派の作曲家の作品を主要レパートリーとしていたが、現代作品とりわけアメリカの作曲家の新作を積極的に取り上げ、その紹介に努めた

さて、セルと言えば、練習での厳しい指導ぶりや、楽員の大幅な入れ替えなどが取り沙汰されるが、それについてはさすがに「与党」である著者の立場から悪しざまなことは書けないようで、セルを擁護するような論調になっているのは致し方ないところか。

ただ、内輪の人間しか知らない裏話がいくつか披露されているので、そのうち2つを紹介することにしよう。

ひとつは、1969年9月にオイストラフ、ロストロポーヴィチ、リヒテル、カラヤン、ベルリン・フィルという組み合わせで実現したベートーヴェンの三重協奏曲の録音を巡る話である。実は同じ年の5月に、セルとクリーヴランド管はオイストラフ、ロストロポーヴィチとブラームスの二重協奏曲を録音していた。ベートーヴェンもセルが指揮して不思議はなかったのに、なぜカラヤンに話が行ったのか。

それは、ロシア人3人のソリストのスケジュールが厳しく、コンサートでの公開演奏を経ず僅か2回のセッションで録音するという条件を、たとえスケジュールが合ってもセルは承知しなかっただろうが、カラヤンはすぐに飛びついたからだというのだ。EMIのプロデューサー、ピーター・アンドリーがそのことについてセルに謝罪する一幕もあったようだ。

もうひとつは1970年の来日公演の際の札幌での逸話である。コンサート終了後、セルがホスト役となって、来日公演スポンサーを招待した宴席が札幌市内の高級料亭で開催された。出席者それぞれに着飾ったゲイシャがついていたが、セルについたのはその筆頭格だった。セルはもっと若くて魅力的なゲイシャに当たらなかったことで気分を害し、さらには宴席の請求額にショックを受けたそうである。(笑)

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