「『マタイ受難曲』のことはまだとても書けないけれど」
吉田秀和氏が『レコード芸術』誌1969年3月号に寄稿した標題のエッセイを読んだ(白水社刊『吉田秀和全集5』所収)。その年にカール・リヒター率いるミュンヘン・バッハ管弦楽団と同合唱団が来日するのに合わせ、彼らによる「マタイ受難曲」のレコードについての論評を求められたようである。
全集本にして12頁の比較的短めのエッセイは、標題そのままの「お断わり」的な導入に続いて、まずリヒターが「中庸の音楽家だろう」と喝破するところから説き起こす。ここでいう「中庸」とは、バッハ音楽の宗教的で理性的な面と、現世的で不合理な面との間で、時に応じてどちらかに傾くことはあっても、決して全体の均衡を破ることがないという意味である。
これに続いて、まず「この劇の主人公は群衆」であるとして、第73番の合唱「本当に、あの男は神の息子だったのだ」に、リヒターの演奏の最も大きなアクセントがおかれていることを指摘している。
さらに、「劇のアクセントの、もう一つの重点は、ペテロの裏切りにある」として、エルンスト・ヘフリガーによる第46番の福音史家のレチタティーヴォ「ペテロは外に出て、さめざめと泣いた」に胸をつかれないとすれば、「その人はもう音楽をきく必要などまったくない人である」とまで言い切っている。
また、管弦楽とともに合唱がこの演奏の基礎をつくっているとし、特にこの受難曲全体を貫き、作品の調性的構成の「とめがね」でもあれば、精神的絆の役もつとめている第63番のコラールの演奏を称賛している。
こうした指摘はまさに正鵠を射たものに違いなく、前に読んだ礒山雅氏の著作でもこのエッセイに言及されていた。既に手許にないので不確かだが、とくに最後のコラールについての記述を礒山氏も高く評価されていたように記憶する。
さて、これだけのことを書いておいてなお、「まだとても書けない」とは一体どういう言い草だろう(笑)。エッセイ冒頭の部分で吉田氏はこんなふうに書いている。
私にはまだ、この曲については書く力がない。(中略)むずかしい。第一、『マタイ受難曲』などという音楽は、レコードが手もとに置かれたからといったって、そう簡単にきく気にはなれない音楽である。私は、これから何年生きられるか知らないが、その残された一生の間に、果たして、何回きけるだろう? すでに(実演を)三回きいたことがあるというだけで、もう幸運だといってもよいし、何十回きいたからといって、よりよくわかるようになるときまったものでもない。『マタイ受難曲』というのは、そういう曲なのである。
氏の言わんとするところは何となく分かる。「汲めども尽きせぬ」という言葉があるが、どこまで掘っても底のない深い泉、あるいは、どこまで登っても頂きが見えない巨峰。そんな音楽については、ある種の割り切りがなければとても書けたものではないのは確かだ。
このエッセイの発表当時、吉田秀和氏は55歳。その後、彼が再び『マタイ受難曲』について書いたかどうかは知らない。齢六十三にしてようやくこの曲に初めて接した自分が『マタイ受難曲』のマの字を口にするのも恥ずかしいながら、ただの一度でもCDを聴けただけで「もう幸運だといってもよい」のかもしれない。
併録された「ミュンヒェン・バッハの残したもの」という短いエッセイでは、来日時に著者が間近に接したリヒターの人となりと、そこから生まれる音楽の特質について書かれていて、こちらも大変興味深かった。
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