政治の話はなるべく避けているが、あえて2点感想を述べておきたい。各種マスコミでうんざりするほど解説された大阪都構想なるものの中味についてではない。住民投票そのものの経緯やその是非についてである。
まず、公明党の強(したた)かさについて。ほとんど風前の灯と化していた都構想について、住民投票でその是非を問うという橋下市長の起死回生の奇策が実現したのは、ひとえに公明党が突如として住民投票実施賛成に転じたためである。時をほぼ同じくして、衆議院総選挙において公明党が候補擁立を予定していた選挙区全てで、日本維新の党が対立候補の擁立を見送ったことから、その裏に政治的取引があったことが確実視されている。
そのまた裏には、橋下氏と良好な関係にある官邸筋、具体的には菅官房長官の介入ないし調整が行われたと見るのが妥当なところである。住民投票翌日の官房長官定例会見で、一地方自治体の住民投票結果に官房長官が個人的感想を述べるなどという異例の事態はそのことの傍証だろう。
それはともかく、政治家橋下徹の誕生に関わった公明党、創価学会は、後に都構想の進め方を巡って橋下市長と決定的に対立するところとなり、市長も「公明党に裏切られた」と公言して、一旦は袂を分かったかに見えた。しかし、都構想で議会の歩み寄りを得られず万策尽きていた橋下市長に、公明党は救いの手を差し伸べ、住民投票の道を開いてやることと引き替えに、金城湯池・大阪の衆院議席を堅持したのだ。
公明党は都構想そのものには反対していて、住民投票は反対多数になると踏んでいたのかもしれないが、仮に賛成多数となっても、「一体誰のお蔭で住民投票が実施出来たのか」ということになり、逆に反対多数になれば橋下氏は政界引退となって、まさに「肉を切らせて骨を断つ」結果を得る。
つまり、どちらに転んでも自らの有利に働くという計算があったのだろう。長年にわたり日本の政治のキャスチングボートを握り続け、各種選挙の日程は創価学会の行事を考慮して決まるとさえ言われる公明党の政治力と強かさを、改めて痛感させられた次第である。
もう一点は、この住民投票自体の是非について。橋下市長は当日夜の記者会見で、「民主主義は素晴らしい」「日本の民主主義はレベルアップした」などと述べているが、本当はそこにある限定をつけなければならない。しかし、恐らくそんなことは百も承知の上でそう言い切ってしまうところが、橋下流の人心収攬術の真骨頂なのかもしれない。
ここで「ある限定」と言ったのは、彼が言っているのはあくまで「直接」民主主義だということである。「民意」を受けた強力なリーダーが、既得権益と戦いながら改革を進める。彼のスタイルからすればそれが理想で、今回大阪はそれに一歩近づいたというのだろう。
しかしながら、日本は議会制民主主義の国である。間接民主主義である。主権者である国民(市民、府民)が選挙によって議員を選び、その議員が議会で議論して法律や条例を作り、政策を決めるというのが原則である。
市議会で住民投票条例を可決したのだから、それでOKではないかと言われればその通りかもしれないが、では議会は一体何のためにあるのかということになる。事あるごとに「民意を問う」として住民投票が実施されるようになれば、議会制民主主義は有名無実化しかねない。
古来、人々は望ましい政治のあり方について色々と頭を悩ませてきた。プラトンが予言したように、民主政治がやがて大衆迎合主義、衆愚政治へと陥り、独裁者の登場を許した歴史もある。そうした手痛い犠牲を払った上で、ほとんどの民主的な近代国家は、議会制民主主義という、わざと手間のかかる制度に行き着いたのだ。
議会が言うことを聞かないからと言って、手間のかかる説得、調整の手続きをすっ飛ばし、住民投票で一気に事を決しようというのは、時計の針を逆に戻すことに他ならない。「分かりやすい政治」は、その反面で大変な危険性がある。人々がそのことを認識しなくなっているとすれば、これは恐ろしい時代だと言わざるを得ないだろう。
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5月20日 ジョグ10キロ
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