2018/07/24

マーラー歌曲集

Toce59089後期交響曲に続いて、これまであまり聴く機会がなかった彼の歌曲集をまとめて聴いたのだ。

マーラーにとって、歌曲は交響曲と並ぶ創作活動の重要な柱で、時には交響曲と表裏一体のような関係にあることは知っているが、ドイツ語歌詞と対訳を見ながら聴くのが面倒なのと、長大な交響曲の2枚組CDの余白に入っていて、つい見過ごしてしまうのだ。(笑)

今回聴いたのは、「さすらう若人の歌」「亡き子をしのぶ歌」「リュッケルト歌曲集」「子供の不思議な角笛」の4作品。大体4、5曲セットで2~30分程度の長さだが、「角笛」だけは全12曲で50分ほどかかるため、コンサートでの実演機会は少ないようだ。

「若人」の旋律を引用した交響曲第1番、「角笛」の一部が移行した交響曲第2、第3、第4番。その本家(?)の歌曲集を聴くことで、交響曲の成立経緯にまで遡った楽曲理解に役立つことは確かだろう。

彼独特の絡みつくようなメロディの背後には常に「歌」があり、つまり「言葉」があるのだ。純粋器楽のはずの交響曲のスコアに、あれほど丹念な演奏指示がなされているのも、そこに理由があるのだろう。

4つの作品の中では、実は一度も聴いたことがなかった「リュッケルト歌曲集」が最も興味深かった。今回はピアノ伴奏版だったので、オーケストラ版も聴いてみたいところだ。

7月23日 ジョグ10キロ

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2018/07/09

マーラー後期交響曲

Wpcs13350マーラーの交響曲では、第1番と第5番の演奏頻度が飛びぬけて高く、次いで第4番や第2番が時折取り上げられるが、第6番以降の後期の交響曲が演奏される機会はさほど多くないように思う。マーラーは「やがて私の時代が来る」と予言したそうだが、現時点では予言は前半だけ的中したといったところか。

ご多分に漏れず、私自身も彼の後期の交響曲は、実演では第6番と第9番をそれぞれ一度聴いただけで、それ以外はCD等でも全曲を通してちゃんと聴いた記憶があまりない。第10番に至っては1枚もディスクを持っていなかった。

最近、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの作品を続けて聴いたけれど、彼らに大きな影響を与えたはずのマーラーの交響曲をちゃんと聴いていないのでは具合が悪いと、第6番以降をまとめて聴いてみたのだ。お恥ずかしながら、未完に終わった第10番の第2楽章以降を補完した全曲版を聴いたのは初めてのことだ。

ひととおり聴いてみて、第6番と第7番はやはり内容的に難解というか、個人的な思い入れが強すぎて万人に受け入れられるとは言い難い。しかし、第8番になるとそこから突き抜けたというか、新たな境地が開けた感がある。第9番、第10番ではさらに達観した境地に入り、死の淵を覗き見るような深さがある。(※個人の感想です)

それぞれ1時間を超す大曲なので、そう頻繁に聴くわけにもいかないが、繰り返し聴けばまた新たな発見があるに違いない。そう言えば、歌曲集などもほとんど手つかずの状態だ。食わず嫌いは良くないし、残りの人生で音楽を聴ける時間も無限にあるわけではないのだ。

7月8日 ジョグ10キロ

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2018/06/30

1分23秒

先日、NHK-BSで放送された、アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会を視聴した。曲目はモーツァルトの交響曲第40番ト短調と、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」というもの。今年3月に本拠地ゲヴァントハウス大ホールにて行われた公演である。

このオケは以前、ブロムシュテットがブルックナーの交響曲第7番を振った来日公演をナマで聴いた記憶があるが、いかにもドイツの古い伝統を感じさせるものの、ベルリンやミュンヘンのオケに比べるとやや地味な印象は拭えない。今回の演奏も大変オーソドックスなものだった。

それよりも驚いたのが、聴衆のマナーの良さである。映像からするとほぼ満員と思われるが、楽章の合間も含めてそれこそ咳きひとつしない。何より、曲が終わってから拍手が起きるまでの時間がとても長い。最弱音で消え入るように終わる「悲愴」では、いつまで経っても場内は静まり返ったままだ。

指揮者が中空で止めていた腕を静かに下ろす。普通ならこれが合図だが、まだまだ。

……

顔を上げて、閉じていた目をおもむろに開ける。ステージ後方の客席からは見えるはずだが、なかなか。

……

指揮棒を譜面台にそっと置く。なんのなんの。

……

譜面台の上に置いていたポケット版スコアを閉じる。ここでようやく拍手が起きた。

その経過時間を計ってみた。音が消える瞬間は分かりづらいので、便宜上、最後から2小節目、コントラバスの最後のピチカート(pppp)からとした。実に、1分23秒である。音楽の余韻に浸る。そして、そこから現実に戻るまでに、ライプツィヒの聴衆にはそれだけの時間が必要なのだ。

「それに比べて日本の聴衆は」などと言うも憚られる。かつてメンデルスゾーンがカペルマイスターを務めたライプツィヒ・ゲヴァントハウスの、そしてドイツの音楽文化の伝統というものをまざまざと見せつけられた思いである。

6月29日 ジョグ10キロ
月間走行 190キロ

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2018/06/06

カラヤン最高の名録音

Swanlake_3音楽ネタをもうひとつ。先日、フォノカートリッジを買い替えて試聴した際、カラヤンがベルリンフィルを指揮した、チャイコフスキーのバレエ組曲「白鳥の湖」を聴いた。LPとCD、同じ音源のディスクで比較してみたというわけなのだが、改めてこの録音の凄さに気づかされた。

中でも1曲目の「情景」は、これまで自分が聴いたカラヤンの録音の中で、最も素晴らしいというか、最もカラヤンらしい名録音だと思う。オペラの序曲や間奏曲など、小品でも全く手を抜かないどころか、小品になるとその芸が一層冴える、カラヤンの面目躍如といったところだろう。

「バレエ」というと必ず登場する、あまりにも有名なメロディで始まる、僅か3分ほどの短い曲。「何をいまさら。こんなの誰が振っても同じ」と、並みの指揮者なら思いかねないところ、カラヤンは違う。最初から最後まで気迫に満ちた真剣勝負を繰り広げるのだ。

まず、「つかみ」が見事だ。ヴァイオリンとヴィオラのトレモロ、それにハープのアルペジオ。冒頭わずか1小節だけで室温が4、5度下がり、霧の立ち籠める北国の湖の風景が現れる。そこに浮かび上がるように、オーボエソロが白鳥のテーマを切々と奏でる。5、6小節目のハープの細かい音型は湖面を吹き渡る冷たい風のようだ。

ところで、このオーボエソロはローター・コッホの演奏だとずっと思い込んでいたが、ネットで調べてみるとカール・シュタインスとする記事があり、その可能性もありそうだ。いずれも名人というにふさわしい奏者であることは間違いない。特に、10小節目アウフタクトからの後半では、クレシェンド、デクレシェンドに応じて微妙にテンポを揺らし、緊迫感をさらに強めている。

19小節目からはトゥッティ(総奏)でテーマを繰り返す。前半は荘厳なホルンの響きが、鬱蒼とした北国の森林風景を思わせる。後半は木管の3連符に乗って、ヴァイオリンとヴィオラが情熱的に、うねるような節回しで歌い、聴く者の心を鷲掴みにする。一歩間違えると低俗趣味に陥りかねない、そのギリギリ手前で踏みとどまるのがカラヤンの「芸」である。

テーマの終わりから3連符による経過的な部分に入り、次第に高潮していく。ff の42小節からの金管楽器群の掛け合い(特に3連符!)は、まるでブルックナーの交響曲のような迫力である。52小節目以降、fff  で白鳥のテーマが再現されクライマックスを迎えるが、その轟然たる音響は聴く者を圧倒する。60小節目で再び冒頭の霧の湖畔の風景に戻り、余韻を残して曲は終わる。

一篇の壮大な音楽ドラマを聴き終えたような感覚になり、これ1曲でお腹いっぱいになるのだが、演奏時間は僅か2分43秒でしかない。自分はこの演奏を聴くたびに、「邯鄲の夢」という中国の故事を思い出すのである。

6月5日 ジョグ10キロ

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2018/06/03

1台のラジオキットから

フォノカートリッジの話題が出たついでに、オーディオに興味を持ったきっかけと、その後のことについて書いてみたい。

タイトルのとおり、それは1台のトランジスタラジオキットから始まった。キットというのは、必要な部品が全てセットされていて、説明書に従って組み立てれば完成するというものだ。小学校高学年のとき、電気工事店の跡取り息子である従兄からプレゼントされたものだ。従弟の私にも電気に興味を持たせようとしたのかもしれない。

それまでプラモデルには親しんでいたけれど、ちゃんと音が出るラジオを自分で組み立てた感激は比較にならないほどで、中学時代には電子工作に熱中するようになった。「子供の科学」という雑誌に掲載された様々なガジェットを拵えた。当時は大阪市内に住んでいて、週末はほぼ日本橋の電気街で過ごす少年だったのだ。(笑)

それがさらにエスカレートして、アンプやスピーカーなどの自作に取り組むようになる。ラックスやケンクラフトなどのアンプキット、オール自作の真空管アンプ、16センチフルレンジを自作ボックスに納めたスピーカーなど、小遣いはほとんど全てオーディオに費やした。

さらに、オーディオと並行して、音楽の方にものめり込んでいく。折角ステレオを自作したのだから、本格的な音楽を聴かないともったいないと、ワケも分からないくせにクラシックのレコードを買い始めた。最初はオーケストラの迫力ある音に満足するだけだったのが、繰り返し聴くうち音楽そのものに心奪われるようになっていく。

オーケストラの編成とか各楽器の音にも興味が湧いて、ポケット版のスコアを買ったりしていたが、そのうち何を思ったか自分でも演奏してみたくなった。とりあえず簡単に音が出そうで、楽器も比較的安価なクラリネットを買ってもらい、教則本を見ながら自己流で練習を始めた。

中学、高校時代は弱小ブラスバンドの一員として活動するだけだったが、高校時代に聴いた某大学オーケストラのブラームスに衝撃を受け、何が何でもこのオケに入るんだという一念で受験勉強に励んだ結果、無事合格したことはだいぶ以前にも書いた。

今から思えば、プレゼントした従兄本人は全く意図しなかっただろうが、1台のトランジスタラジオキットが、その後の私の人生を大きく変えたのだ。他にもそういう人物が2人いるのだが、いずれも本人は全く与り知らないはずだ。

6月1日 LSD40キロ
6月3日 ジョグ10キロ

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2018/05/31

フォノカートリッジを買い替え

アナログレコードプレーヤーのフォノカートリッジを買い替えた。最近でこそ見直されつつあるものの、アナログレコードがCDに主役の座を譲ってから30年近くは経つだろう。自分自身、そう多くはないLPレコードのコレクションを再生する機会は最近ほとんどなくなった。

それでも、ちょっと前にLPでしか持っていない曲を聴きたくなって針を落としたら(このフレーズ、懐かしい・笑)、中心に近い内周部で音がビリつく現象が出た。もう何年使ったか分からないオルトフォンのMCカートリッジの針先がさすがに摩耗していたようだ。

ちょっと専門的になるがMC、つまりムービング・コイル式のカートリッジは、音質が良い反面、針先だけの交換が不可能で、カートリッジ全体を取り替える必要がある。しかし、オルトフォンMC20という機種はもう生産中止になっていて、対応する現行機種はかなり高価だ。

そこで思い切って買い替えることにして、ネット等でいろいろとリサーチしてみたところ、オーディオテクニカのAT-F7という機種が、リーズナブルな価格の割に評価が高いことが分かった。驚いたことに、2010年になって発売された商品ということである。写真は出荷時のダミーシェルについたまま、上下逆の状態である。

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ヘッドシェルへの取り付けやリード線の結線など、デリケートな割に意外に力の要る作業は、手元が見づらくなった身には大変だったが、昔取ったなんとやらで何とか完了。オーバーハングや針圧、インサイドフォースキャンセラーの調整(この辺りの用語は昭和のオーディオマニアしか分からない・苦笑)も済ませた。

再生音はfレンジ、Dレンジともよく伸びて、定位感にも優れている。目の前で演奏しているかのような臨場感、音場感に関してはCDを凌駕するほどだ。これで今後も引き続きアナログレコードを楽しむことが出来そうだ。

5月30日 ジョグ10キロ
月間走行 173キロ

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2018/05/28

関西弦楽四重奏団コンサート

久々にコンサートに出かけた。といっても、NHK-FM「ベストオブクラシック」公開収録として行われた演奏会の観覧希望者に当選したものであり、早い話がロハというわけだ。(笑)

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会場は奈良県文化会館国際ホール。開館50周年記念ということで県も主催者に名を連ね、開演前には荒井知事の挨拶も行われた。出演は関西弦楽四重奏団。全員東京藝大出身で、関西で活躍する若手実力者たちである。

曲目はシュルホフ「5つの小品」、ラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調、休憩後にベートーヴェンのラズモフスキー第3番ハ長調と、時代を遡っていく構成である。

シュルホフはプラハ出身の作曲家で20世紀初頭に数多くの作品を発表したが、ナチスドイツによって「退廃音楽」の烙印を押され、最後は強制収容所で死去。長く顧みられることがなかったが、最近になって見直しの機運が生じている。「5つの小品」はワルツやタンゴなど様々な民族舞曲をモチーフにした諧謔性に富む作品。もちろん初めて聴いたが、刺激的な不協和音がなぜか快感をもたらす不思議な作品だ。

このあと第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリン、2人の女性奏者がパートを交替した。このように曲によってパートを交代するのは、アメリカのエマーソン弦楽四重奏団などでも例があるが、楽曲の性格などに応じて柔軟に対応していくのが狙いだろうか。

続くラヴェルはこの日の出色。緩急や強弱、音色を、まるで万華鏡のように絶えず変化させつつ、まさにひとつの楽器のように4人が一体となった音楽が繰り広げられる。どちらかと言えば明るめの音色を持つ、このカルテットの特質も、曲調とよく合致していた。

休憩後のベートーヴェンもなかなかの力演だったが、急速なパッセージでの細かい音符がやや不鮮明に聴こえたのが残念だった。これは1300人収容の大ホールということも関係しているかもしれない。ラヴェルでは気にならなかったけれど、ベートーヴェンに関しては出来ればもう少しデッドな小ホールで聴きたかったところだ。

なお、アンコールとして、チェロ奏者の義父と紹介されたように記憶するが、福富秀夫という人が作曲した「関西ラプソディ」が演奏された。関西各地で親しまれる歌(最後の「琵琶湖周航の歌」しか分からなかったが)をモチーフにした小品である。

さて、会場を出て大宮通りを渡った登大路園地では、オクトーバーフェストが開催されていた。5月なのにオクトーバーとはこれいかにと思いながら立ち寄ってみたが、ビール300ccが何と千円というお値段だった。ノルウェーじゃあるまいし、いつも飲んでいる金麦が10本飲めるではないかと憤慨して、年金生活者はそそくさと会場を後にしたのだった。(笑)

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5月26、28日 ジョグ10キロ

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2018/05/19

大発見?

久々に音楽ネタ。先日観た映画『アイ'ム ホーム』に、シューベルトの即興曲変ト長調が登場していた。私自身も大好きな曲で、さざ波のようなアルペジオに乗って、抒情的なメロディが控えめに、しかし心をこめて歌われる。

適当な詩をつけて歌えば、彼の数多い歌曲のひとつとして何ら違和感はなく、実際によく似た歌曲をどこかで聴いた気がすると以前から思っていたが、ハッキリしないままになっていた。

そのモヤモヤが遂に解消した。部分的ながら、これにそっくりな歌曲がやはり存在したのだ。シューマンの歌曲集「詩人の恋」第1曲「美しい五月に」の一節である。両者の該当箇所の譜面を示す。偶然かどうか、いずれも第9-12小節である。

シューベルト 「4つの即興曲」D899 第3番変ト長調

Impromptu

シューマン 歌曲集「詩人の恋」 第1曲「美しい五月に」

Dichterliebe

「レミソファ」「ファソシbラ」と、全く同じ音階を動いている。特にシの半音下がりが印象的で、そこが決定的な手掛かりとなった。

シューマンはシューベルトの音楽を好んでいたそうで、自分自身でもよく弾いていたに違いない。意図的な盗作とは思いたくないが、その記憶が頭のどこかに刷り込まれていたのかもしれない。

この類似はとっくの昔に誰かが指摘しているはずと思ったけれど、ネットで検索してみた限りではヒットしなかった。仁鶴師匠ではないが、もしかすると「大発見やァ!」かも?

5月18日 ジョグ10キロ

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2018/02/17

プロコフィエフ交響曲全集

Prokofiev_3プロコフィエフの交響曲と言えば、これまで第1番「古典交響曲」と第5番しか聴いたことがなく、それもいまいちピンと来ていなかった。最近、自分の音楽理解がようやく20世紀に入り、少し前にショスタコーヴィチをまとめて聴いたので、今回はプロコフィエフにチャレンジしてみた。

初めて聴いた中でも第3番、第7番とやはり奇数番号の曲がなかなか面白かった。特に第7番は、第1楽章に出てくるオモチャ時計のような主題が最終楽章でも再現されて、静かなエンディングに繋がるところが印象的だった。

ちょうど、ショスタコーヴィチの最後の交響曲第15番が、同じように子供時代を回想するような感じの終わり方であるのと似ている。もしかすると人間が死ぬ時に聞こえてくるのは、そういう音楽なのだろうか。

ただ、両者の音楽を比較すると、モダニズムや多彩な管弦楽法など共通する部分も数多いけれど、プロコフィエフは少し早く19世紀に生まれただけあって、ショスタコーヴィチに比べるとまだまだ調性音楽に軸足を残しているように思われる。

いわゆる社会主義リアリズムの要請に応えたものだろうが、風刺や皮肉を隠したショスタコーヴィチの音楽に比べれば、より直截的というか素直な音楽で、一般大衆にも受け入れやすいことは確かだろう。

いずれにしても、聴いて面白い音楽であることは良いことだ。管弦楽曲や協奏曲など、まだ聴いていない彼の作品は数多い。今後の楽しみがまた増えた。

2月16日 ジョグ10キロ

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2017/12/12

架空の名演

モーツァルトの交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」。あだ名の由来は、もともとハフナー家のために書かれたセレナードを編曲し、交響曲に仕立て直したことによる。

先月末から、NHK-FMでこの曲を立て続けに3回聴く機会があった。11月29日のクラシック・カフェ、12月3日の名演奏ライブラリー、同8日のオペラ・ファンタスティカで、演奏はそれぞれムーティ指揮ウィーンフィル、テイト指揮イギリス室内管、ベーム指揮ロンドン響(ザルツブルク音楽祭ライヴ)である。

それぞれ特徴ある演奏で、同じ曲でもだいぶ違って聞こえるのが面白かったが、自分にとってのこの曲の最高の演奏は、実は空想上のものである。もう30年以上も前の話になるが(その頃はまだタバコを吸っていた)、飛行機に乗っていて実に不思議な体験をした。ちょっと気恥ずかしい部分もあるが、ある所にそれを書いたものを抄録してみる。

…離陸したYS11がどんよりとした雨雲を突き破るようにぐんぐん上昇するにつれて、鉛色の東京湾が次第に雲に隠れていく。禁煙のサインが消え、タバコに火を点け、目を閉じる。飛行機の旅で一番好きな瞬間である。瞼の裏が急に明るくなって、とても眩しい。目を開けると、窓の外には真綿のような雲海が果てしなく広がり、陽光に輝いている。この世のものとも思えぬその眺めに見惚れているうち、心と体に纏わりついていた疲れが解き放たれ、不審議な安堵感に満たされる。再び目を閉じる。
 その瞬間である。何の脈絡もなく、モーツァルトのハフナー・シンフォニーの第1楽章 Allegro con spirito が頭の中に響き始めた。それも信じ難いぐらいの完璧なテンポとハーモニーをもって…。冒頭主題の2オクターブにわたる力強い跳躍はまさに魂(spirito)の躍動そのもの。それに対置されたメロディは、対照的に柔和な表情をみせ、それでいて一分の隙もない緊密な音楽。剛と柔の絶妙のバランスの上に立った、奔放自在のようでいて、古典の様式から些かも逸脱しない展開。いくら言葉を尽くしても空しくなるばかりである。この美しさはもはや人間の仕業ではない、と思い始めた時、涙が頬を伝って落ちた。
 冒頭主題が一層の雄々しさで再現され、音楽は終結へ向けて急激にエネルギーを蓄えながら高揚していく。ヴァイオリンが人間ばなれした軽やかさで跳びはねる。その圧倒的な美の前に、もはやそうすることでしか感動を処理することができないかのように、涙は滂沱として流れ続ける。…

文字どおり、「架空」の名演だった。この時のような体験は、それまでもそれ以降もないし、「ハフナー」の、否、モーツァルトの楽曲のそれ以上の演奏にはまだ出会っていない。

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