2020/10/12

歌劇「フィデリオ」

Fedelioベートーヴェン唯一のオペラ。1805年、アン・デア・ウィーン劇場で初演。2004年のアーノンクール指揮チューリヒ歌劇場公演のDVDを鑑賞。

セヴィリャ郊外の刑務所。フロレスタンは政敵である刑務所長ピツァロにより無実の罪で捕らえられ不当に監禁されている。フロレスタンの妻レオノーレは男装してフィデリオという偽名で刑務所に潜入、看守ロッコのもとで助手として働きながらフロレスタンを救出する機会を窺っていた。
ある日、ピツァロはフロレスタンの旧友で司法大臣のドン・フェルナンドが視察に来ると知り、その前にフロレスタンを暗殺しようと決心する。地下牢で剣を抜いたピツァロがフロレスタンを刺そうとした刹那、間に割って入ったレオノーレは「まず妻を殺せ!」と自分の正体を明らかにする。ちょうどその時大臣到着を知らせるラッパが鳴り響き、ピツァロの悪事が白日の下に晒される。フロレスタンはじめ囚人全員が解放され、一同がレオノーレの勇気と神を讃えるなか幕が下りる。

ベートーヴェンが何度も改訂を繰り返し、序曲だけで4種類あるなど大変な心血を注いだ作品である。内容的にも自由、解放、夫婦愛を讃える啓蒙主義的な色彩が強く、オペラにしては肩肘張った堅苦しい作品ではないかと敬遠していたが、意外にもそれほど説教臭くはなかった。

レオノーレとフロレスタンの崇高な夫婦愛を賞賛するだけではなく、ロッコの娘マルツェリーネがフロレスタンの男装姿フィデリオに惚れ込み、そのマルツェリーネに横恋慕した門番ヤキーノがしつこく言い寄りといった、よくありがちな実らぬ恋愛を織り交ぜている面白さもある。

しかし、何よりもベートーヴェンの音楽そのものが、諸々の欠点を覆い隠して余りあるほどの説得力をもっている。アーノンクールが指揮したチューリヒ歌劇場の演奏がまた素晴らしく、オケと合唱はとんでもなく上手いし、舞台上の歌手たちのアンサンブルはスタジオでのセッション録音かと思うほどに完璧である。特に、第2幕からしか登場しないフロレスタン役のヨナス・カウフマンが、声楽的には無理があるというベートーヴェンの要求に見事に応えている。

余談を少々。「フィデリオ」という名前は、英語の fidelity(忠実、貞節)と同様、ラテン語の fides(信用)に由来するものと思われ、夫フロレスタンに忠誠を尽くす妻の理想像という意味を籠めた偽名なのだろう。さらに余談になるが、オーディオ用語の high fidelity は「高忠実度(再生)」を意味し、Hi-Fi と略される。それをもじったのが Wi-Fi である。

10月11日 ジョグ4キロ

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2020/10/09

北海道の旅 その4 札幌交響楽団定期演奏会

25日夜は札幌交響楽団第630回定期演奏会を聴いた。同楽団の定演は1月31日、2月1日の第626回以来、約8か月ぶりという。指揮者や曲目も当初予定から変更され、客席は1席おきの半数のみ、さらに入場時は検温と手指消毒を行うなど感染対策が取られた中での開催である。通常は開演前に行われるというロビーコンサートも中止となった。

曲目はシューベルトの「ロザムンデ」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番、ストラヴィンスキーの「管楽器のための協奏曲」、最後に再びシューベルトの交響曲第5番。指揮は広上淳一、ピアノ独奏は伊藤恵である。

札響、Kitara とも初めてだったが、小編成のプログラムもあってか、当地の爽やかな気候を思わせるような、明快で抜けの良い響きを楽しむことが出来た。特に交響曲では弦をはじめとしてよく歌うフレージングによって、シューベルト独特の音楽世界を構築していた。

ただ、最初の序曲などでは弦楽器の鳴りが十全でないと感じられたのが残念だった。前から4列目のほぼ右端という座席のせいもあるが、とりわけ第1、第2ヴァイオリンが物理的な距離以上に遠く感じられた。

勝手な想像だが、ここ数か月の間、個人練習は怠らないにしても、おそらくパート練習すらままならない状況が続き、揃って弾くのが久々ということがあったのではないか。弦楽器のことはよく分からないが、弓づかいとか、ヴィブラートのタイミングなど、細かいところで微妙にズレるというのは考えられる。

ピアノの伊藤恵はさすがにヴェテランらしい熟達した演奏で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中では最も地味なこの曲を面白く聴かせることに成功していた。鳴りやまぬ拍手に応えたアンコールは、まさかの「エリーゼのために」。プロオケの定期演奏会で聴くことはまずないが、一流のピアニストが弾くとさすがに違うものだと感心させられた。

10月7日 ジョグ4キロ

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2020/09/27

歌劇「エフゲニー・オネーギン」

Oneginチャイコフスキーの代表的なオペラ。2017年メトロポリタンオペラ公演の録画を鑑賞。ライブビューイングの紹介文。

19世紀のロシア。田園地方の地主の娘タチヤーナは、読書好きのロマンティスト。活発な妹オリガには、レンスキーという婚約者がいた。レンスキーの友人で社交界の寵児オネーギンを紹介されたタチヤーナは一目で恋に落ち、夜を徹して恋文を書くが冷たくあしらわれる。田舎で疎外感を抱くオネーギンはレンスキーを挑発して決闘となり、彼を殺めてしまう。数年後、オネーギンはタチヤーナと再会。公爵に嫁いで社交界の華となった彼女に驚き、心を奪われるが…。(引用終わり)

原作となったプーシキンの同名小説は、悲劇の主人公を生み出す歴史的、社会的背景への批判や風刺を含むそうだが、オペラ化に際してそうしたリアリズムはほとんど割愛され、男女間の抒情的な恋愛ドラマの部分だけがクローズアップされている。プーシキンとチャイコフスキー、それぞれの生きた時代の違いもあるが、やはりチャイコフスキーという音楽家の特質によるところが大きいだろう。

彼の3大バレエ音楽がそうであるように、言い方は良くないかもしれないが、「劇伴音楽」を書かせたら彼の右に出る者はいない。半音階で下降する憂いを帯びた第1幕への導入曲を聴いただけで、登場人物たちの揺れる思いや、捌け口のない鬱屈した心理の一端が窺える。この動機は全曲を通じて重要な働きをする、一種のライトモティーフとなっている。

第1幕第2場「手紙の場」のタチヤーナの長大なアリア、第2幕第2場の決闘を前にしたレンスキーのアリアが大変感動的であるが、タイトルロールのオネーギンについては、第3幕最後の愁嘆場は別として、「ここが聴かせどころ」というアリアがないのが不思議である。

このオペラの実質的な主役はタチヤーナというべきで、本公演ではロシアが生んだ世界の歌姫アンナ・ネトレプコが、まさに役が憑依したような圧倒的な歌唱と演技を繰り広げる。また、レンスキーにアレクセイ・ドルゴフ、オルガにエレーナ・マキシモワなど、準主役級もロシア出身の実力者が固め、それぞれに好演している。

演出はオーソドックスで、華やかな舞踏会の場面など19世紀ロシアの貴族社会を再現する。また、幕が上がる前のスクリーンに、各場面に応じたロシアの美しい風景を映し出し、聴衆の想像力を掻き立てる趣向もグッド・アイデアだと思う。

9月27日 ジョグ4キロ

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2020/09/21

歌劇「イオランタ」

Iolantaチャイコフスキー最後のオペラだが上演機会は少ないようで、今回鑑賞した2015年のメトロポリタンオペラ公演は何とMET初演だったという。所要時間が半端なことがネックになっていて、1892年の初演時はバレエ「くるみ割り人形」との2本立て、このMET公演も前に書いた「青ひげ公の城」との2本立てである。ライブビューイングの紹介文。

15世紀、南フランスの山中。プロヴァンスのレネ王は、王女イオランタが生まれながらの盲目であることを悲しみ、目が見えないことが彼女に分からないように山中の秘密の城で育てていた。頼みの医師は、イオランタ自ら盲目であることを理解しなければ治療は困難だという。イオランタの婚約者のブルゴーニュ公爵ロベルトと共に偶然城に入った騎士ヴォデモンは、イオランタの美しさに心を奪われるが、言葉を交わすうち彼女が盲目だと気づいてしまい・・・。(引用終わり)

原作はヘンリク・ヘルツが書いたデンマークの戯曲「ルネ王の娘」で、それをもとに作曲者の弟モデストが台本を書いた。ネットで検索すると「アンデルセンの童話に基づく」という記述もみられるが、それが正しいのかどうか現時点で確認できていない。原作戯曲に関するウィキペディア(英語版)の記事でも、アンデルセンとの関連は全く触れられていない。

それはともかく、目が見えない日々を送っていた王女が、ある日訪れた騎士と恋に落ちたことをきっかけに、医師の治療を受けて見えるようになり、二人は目出たく結ばれるというストーリーはまさに童話そのもので、同じ作曲者のバレエ「眠りの森の美女」を連想させる。そこにチャイコフスキーの甘美な音楽が流れるのだから、観客としてはひととき浮世ばなれしたお伽噺の世界に浸れるというわけだ。

タイトルロールのアンナ・ネトレプコ、指揮のヴァレリー・ゲルギエフという最強ロシアペアが、まさに水を得た魚のごとく実力を発揮。ヴォデモン役のピョートル・ベチャワも伸びのある美声を聴かせる(名前からしてロシア人かと思っていたが、ポーランド出身だそうだ。ただ、あの立派な顎と容貌からいつも辻本茂雄を連想してつい笑ってしまう)。

トレリンスキの演出も、変化球が多かった「青ひげ」に比べるとオーソドックスに纏めていて違和感が少ない。全員が神に感謝するクライマックスの合唱になぜか加わらなかったレネ王が、最後の最後で一人脚光を浴びる演出はなかなか秀逸である。

9月19日 ジョグ4キロ

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2020/09/12

歌劇「後宮からの逃走」

Serailモーツァルト26歳の1782年に初演されたジングシュピール・オペラ。1987年のショルティ指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場公演の録画を鑑賞。

18世紀トルコ。スペイン貴族ベルモンテの恋人コンスタンツェは航海中に海賊に襲われ、従僕ペドリッロ、侍女ブロンデともども、トルコの太守セリムに売られて海辺の後宮(ハーレム)に囚われている。コンスタンツェはセリムからの執拗な求愛にも応じず、ベルモンテへの愛を貫いていた。ペドリッロと恋仲にあるブロンデも、後宮の番人オスミンに言い寄られるが相手にしない。
ペドリッロから連絡を受けたベルモンテは後宮に乗り込み、コンスタンツェらを脱出させるために奮闘する。深夜の脱出計画は成功するかに見えたものの、再びオスミンに捕えられ、さらにベルモンテの父がセリムの宿敵だったこと判明する。絶体絶命の二人を待ち受けていた結末とは…。

トルコ軍楽隊の響きを取り入れた序曲は何度も聴いて親しんでいるものの、モーツァルトのオペラでは比較的若い時期の作品で、異国趣味の一風変わった作品ぐらいにしか思っていなかったが、なかなかどうして。

あらすじ自体は例によって他愛のないものだが、このオペラの作曲された年代が、故郷ザルツブルクと決別してウィーンに移住した、モーツァルトの人生の一大転機に当たることを考え合わせると、まことに興味深いものがある。

後宮に幽閉されていたコンスタンツェ(モーツァルトの妻と同じ名前なのは偶然らしい)は、父や大司教によってザルツブルクに閉じ込められていたモーツァルト自身。そこから脱出させてくれたベルモンテは、さしずめ彼の音楽を評価してくれた皇帝ヨーゼフ2世といったところか。あるいは、彼が持っていた音楽の才能そのものかもしれない。太守セリムの高い徳によってコンスタンツェが解放されるオペラのように、モーツァルトも父や大司教からの赦しと和解を願っていたに違いない。

そうした連想はともかく、音楽の素晴らしさは後の「フィガロ」他の傑作オペラにも決して見劣りしない。登場人物ごとの特色がよく表れたアリアや重唱の数々は、意表を突く転調や半音進行を交えた多彩なニュアンスを聴かせる。

ショルティはウィーンフィルを振ったCDが名盤の誉れ高いようだが、このコヴェントガーデン盤でも円熟した音楽づくりを見せている。歌手陣ではオスミン役のクルト・モルが圧倒的な存在感を示していて、ジャケット写真でも主役を差し置いて堂々と一人で写っている。(笑)

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2020/09/06

歌劇「青ひげ公の城」

Bluebeardバルトーク唯一のオペラ。1918年初演。ショルティ指揮ロンドンフィルによる1981年の映画版(写真)と、2015年メトロポリタンオペラ公演の録画を鑑賞。METライブビューイングの紹介文。

架空の時代、青ひげ公の城。公に連れられて城に到着した新妻ユディットは、暗い城内に驚き、陽の光を入れようと提案。同時に鍵のかかる扉を見つけ、それを開けるよう青ひげ公に求める。拷問室、武器庫、宝物庫、花園、青ひげ公の領地・・・5つの扉の向こうの世界はすべて違うが、血や血の色に染まっていたことは同じだった。興奮したユディットは、残る2つの扉も開けるよう要求。残酷な結末を予見した青ひげ公はためらうが・・・。(引用終わり)

男女間の葛藤を象徴的に描いた深層心理劇とも言うべき内容に加え、暗い城内で青ひげとユディットが歌うだけの単調な舞台。ベルクも顔負けするような、観ていて気が滅入る「暗い」オペラである。これがペローやメーテルリンクの童話を素材にした作品というのが信じられない。

ただ、本作は確かに青ひげ伝説に基づいてはいるが、女性の持つ好奇心と不従順を戒める教訓を示した童話を離れて、男が抱える内面の闇と、そこに踏み込んでしまった女の悲劇というドラマへと換骨奪胎されたと言うべきだろう。

さて、映画版は指揮のショルティ、青ひげのコロシュ・コヴァーチュ、ユディットのシルヴィア・シャシュとハンガリー勢で固め、映画の利点を生かした巧みな場面転換を織り込んだ演出も相俟って、本作のスタンダードとも言える出来栄えを示している。欲を言えば、コヴァーチュの表情が終始一本調子なのが少し物足りないぐらいか。

一方のMETは、指揮のゲルギエフ、青ひげのミハイル・ペトレンコのロシア勢に、ユディットはドイツ出身のナディア・ミカエルという布陣。二人の声質の仄暗さもあって、音楽の陰惨さは映画版を上回っている。トレリンスキの演出はプロジェクションマッピングを駆使した斬新なものだが、象徴である扉が全く出て来なかったり、3人のはずの前妻が5人も登場するなど、かなり違和感が残った。

9月5日 ジョグ2キロ

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2020/09/03

最近の「クラシック音楽館」から

日曜夜にNHK・Eテレで「クラシック音楽館」という番組が放送されている。以前は「N響アワー」というタイトルだったと記憶するが、今もNHK交響楽団の定期公演を中心にしたクラシック番組である。最近はコロナのためN響定演が中止になっている関係で、過去のアーカイブ映像が放映されることが多いようだ。

最近では、8月16日に放送された「いまよみがえる伝説の名演奏・名舞台」と、同23日の「追悼レオン・フライシャー」の2本が大変興味深かった。

前者は、今は亡き巨匠指揮者たちの演奏会の記録映像を紹介したもので、そのうちカルロス・クライバーがウィーンフィルを振ったブラームスの交響曲第2番の演奏に惹きつけられた。少し前に観た「ばらの騎士」でも彼の指揮ぶりの片鱗を窺えたが、今回は1曲まるまる通して見ることが出来たのだ。

「ばらの騎士」の記事でも書いたが、まさに音楽を形にしたような流麗な動きは見飽きることがなく、手と指の繊細な動き以外にも、顔の表情や視線の動かし方ひとつで音楽の流れをコントロールしていて、最初から最後まで目が離せない。

また、弦楽器のボウイング(弓使い)は通常、アップ(上向き)とダウン(下向き)をパート内で統一するものだけれど、この演奏では一部奏者が逆に弾いているのが映像で確認できる。これは、第1楽章など3拍子の曲でボウイングを統一すると、小節ごとにアンバランスを生じることから、あえてクライバーの指示で「逆弓」にしているのだろうと、ゲスト解説者の高関健が説明していた。なるほど。

後者は8月2日に死去したピアニスト、レオン・フライシャーの追悼で、2009年10月の来日公演の模様が放送された。全てバッハの曲で、「羊は安らかに草をはみ」「旅立つ最愛の兄に思いを寄せる奇想曲」「半音階的幻想曲とフーガ」「シャコンヌ(ブラームス編曲)」の4曲である。バッハの音楽に真摯に向き合った演奏はいずれも素晴らしく、特に最後のシャコンヌは左手だけでこれだけ深い音楽が出来るものかと感嘆させられた。

フライシャーの手の動きもアップでよく見ることができる。本人も言っていたとおり、復活したあとでもなお、右手の薬指と小指が自然に内側に曲がってしまう様子や、小指の付け根辺りに外科手術の跡と思われる膨らみがあることが分かる。そういう障害を乗り越えた演奏であることが、映像を通して改めて分かるのである。また、理由は不明だが、ピアノに置かれていたのは通常の印刷譜ではなく、五線紙ノートに自ら手書きしたような譜面が用いられていた。

オペラはともかく、音楽は音だけに集中して聴くものと思っているが、こうやって映像と一緒になると、音だけでは分からない意外な情報が得られることもあるのだ。

9月2日 ジョグ2キロ

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2020/08/31

歌劇「ルル」

Luluベルクの遺作となったオペラ。初演は1937年だが、未完に終わった第3幕をツェルハが補筆完成した全幕版がブーレーズ指揮で初演されたのは1979年になってである。今回鑑賞したのは2015年メトロポリタンオペラ公演の録画。METライブビューイングの紹介文。

20世紀初め、ドイツのある町。町で出会った少女ルルを連れ帰って育てたシェーン博士は、彼女に惹かれながらも官僚の令嬢と婚約し、ルルは医者のゴル博士に嫁がせる。男という男を魅了するルルは画家と浮気をし、現場を目撃したゴル博士は悶死。ルルはシェーン博士の妻の座を手に入れる。だが男女を問わず奔放な関係を続けるルルに、逆上したシェーン博士はピストルを突きつけるが、逆にルルに殺されてしまう。投獄されたルルは女の恋人の手引きで脱獄するが、もはや体を売るしか生きる道は残されていなかった・・・。(引用終わり)

ヴェーデキントの戯曲「地霊」「パンドラの箱」をもとにした歌劇。既成のモラルにとらわれず奔放に生きる女ルルは、彼女に魅入られた男女を次々と破滅させながら、ついには自らも悲惨な死を遂げる。初演当時から音楽界に大きな衝撃を与えた、20世紀オペラ最大の問題作とされる。

「ルル」とは一体どういう存在なのか。本公演の演出家ケントリッジはインタビューで、ただ「魔性の女」とか「犠牲者」と決めつけない方が興味深いと語っている。彼女は多面性を有しながら、その断片しか見せないのだという。その象徴なのか、彼女はルル以外にもネリー、エヴァ、ミニョンという名前で呼ばれ、シェーン博士にすら「本当の名は分からん」と言わせる始末である。

本公演をもって18年間演じてきたこのタイトルロールを卒業したマルリース・ペーターセンの歌唱と演技はさすがで、ルルが憑依したかのような迫真のパフォーマンスを見せていた。また、前回観た「ヴォツェック」のフランツ・グルントヘーバーが、謎の老人シゴルヒ役で健在ぶりを発揮している。

音楽的には十二音技法を駆使した無調音楽でありながら、一方ではヴィブラホンやサックスを導入した響きはジャズの影響を感じさせ、斬新かつ多様性のある音楽はベルクならでは。初演時は最初の2幕と「歌劇<ルル>からの交響的小品」(<ルル>組曲)の一部という形で上演されたそうだが、オペラのハイライトとも言えるこの組曲だけでも面白く聴ける。アバド指揮ウィーンフィル、ユリアーネ・バンセ独唱のCDがたまたま手元にあり、METオケとは一味違った濃厚な響きを堪能することが出来た。

8月30日 ジョグ2キロ
月間走行 14キロ

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2020/08/22

歌劇「ヴォツェック」

Img00219世紀前半の作家ビューヒナーによる未完の戯曲『ヴォイツェック』をもとに、アルバン・ベルクが1922年に完成させたオペラ。1925年、ベルリンにて初演。クラウディオ・アバド指揮ウィーン国立歌劇場公演のビデオを鑑賞。タイトルロールはフランツ・グルントヘーバー、マリーはヒルデガルト・ベーレンスである。

小心者の貧乏兵士ヴォツェックが愛人マリーの浮気を知ってこれを刺し殺し、証拠隠滅を図ろうとした自分も誤って溺死してしまうという、全く救いようのない悲惨な物語の一部始終を描いた、ヴェリズモ・オペラの極北のような作品である。

音楽的には、新ウィーン楽派の無調音楽でありながら、過去の楽曲形式の博物館とも呼ぶべき多様性と緻密な構成を有し、西洋音楽の歴史上で画期的な位置を占める作品とされるが、そうと知らずに聴いても大編成のオケによる変幻自在の音響には魅了される。

全3幕15場の合間に演奏される場面転換の音楽も、ただの時間つなぎでない濃密な内容を持ち、とりわけ最終第3幕第5場の前のものなど、単独での鑑賞にも値するほどである。アバド指揮ウィーンフィルによる精緻で集中力に富んだ演奏が光る。

原作者ビューヒナーは生前はおろか死後も長い間注目されることがなかったが、19世紀末からようやく評価されるに至る。手書き草稿の断片を解読した『ヴォイツェック』が1878年に刊行され、その舞台上演を観たベルクがオペラ化を即座に決意、自身で台本も書いて作曲に当たった。なお、当初は本来の Woyzeck を誤読した Wozzeck として刊行され、それがそのままオペラのタイトルに踏襲されている。

ビューヒナーとベルク、時代を超えた両者の才能の結合がなければ誕生しなかった作品であるが、道徳や理性、科学を標榜する近代社会の陰で虐げられ、疎外された者たちの悲劇を描いた本作は、今日における格差や貧困の問題にも通じるものがあり、現代的な価値をも有する作品であると言って過言でない。

ところで、冒頭から登場する主人公の上官である大尉のテーマとして、ベートーヴェンの田園交響曲の主題に似た音型が用いられている。手元にあるオペラ解説書で岩下眞好氏は、田園曲=パストラーレはもともとキリスト生誕を祝う「羊飼いの曲」であったとして、主人公とマリー、子供の一家が、キリスト同様に迫害を受けた聖家族像でありえたことの暗示ではないかとしている。

しかし、これはあくまで大尉のテーマなのであって、いくら「大胆に推理」とはいえ牽強付会の謗りを免れまい。大尉は歩みの遅い人物として描かれていて(第2幕第2場など)、まるで田舎を散歩するように彼が歩く様子を揶揄したもの、ぐらいに考えるのが自然だと思うのだが、いかがなものだろうか。

8月20日 ジョグ2キロ

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2020/08/16

When I'm Sixty-four

映画「ガープの世界」のオープニングとエンディングは、裸の赤ん坊が青空を浮遊する印象的な映像が使用され、そのバックにビートルズの When I'm Sixty-four が流れる。まるでこの映像のために作られたのではないかと思うほどピッタリな選曲に舌を巻く。

歌の内容は、「年をとって髪が薄くなっても・・・君はまだ僕を必要として、僕にご飯を作ってくれるかな。僕が64歳になっても」といったもので(need と feed で韻を踏んでいる)、この歌の作曲当時64歳なんて遥か彼方の将来で、これはもう幾久しく変わらぬ愛を歌ったと考えて良いだろう。

作詞作曲はレノン=マッカートニーとなっている。ジョン・レノンは40歳で凶弾に斃れたが、ポール・マッカートニーは64歳をとっくに過ぎた78歳の今も相変わらず元気でご活躍のようだ。

ところで、映画の主役を務めたロビン・ウィリアムスは、薬物やアルコール依存などの病気を抱えた末に自殺したとされるが、死亡時の年齢は63歳を迎えた直後だった。「64歳になっても」とはいかなかったわけだが、この映画を観たあとでは「それが紛れもなく彼の人生だったのだ」と思えてならない。

時代と場所は全く異なるが、作曲家ヨハネス・ブラームスも64歳を前に癌で亡くなっている。彼の場合はあと約1か月で64歳になるというところだったが、当時の平均寿命はそんなものだったのかもしれない。

さて、自分は64歳まであと2年と3か月だ。64歳に特段の意味があるわけではないが、そこまで頑張ってみようかという目標にはなるかもしれない。64歳になっても、まだ音楽を聴き、オペラや映画を観ているだろうか。まだ少しは走って・・・ま、これはどうでもいいか。(笑)

8月16日 ジョグ2キロ

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