2019/11/13

バレンボイムのブラームス交響曲全集

Brahmsブルックナー交響曲全集と同様、バレンボイムにとって2度目となるブラームス交響曲全集。オケは手兵シュターツカペレ・ベルリン、収録は2017年10月で、同年3月にオープンしたばかりのピエール・ブーレーズ・ザールにおいて行われたセッション録音である。ジャケット写真で聴衆が写っているのは、同時期に行われた一般公演時のものだろうか。

第1番第1楽章冒頭から、重心の低い、ズシンと腹にくる重厚なサウンドに引き込まれる。ベルリンの壁が崩壊してもう30年になるけれど、旧東ドイツ地域に残されていたドイツ伝統の響きが再現されたかのようだ。しかし、それでいて対旋律や伴奏音型など細部まで実に見通しの良い演奏であることに驚かされる。このような重厚な響きと見通しの良さを両立させた演奏、録音というのはかつて経験がなく、この全集の最大の成果として誇れるものだろう。

ピエール・ブーレーズ・ザールの音響がそれに寄与していることは間違いない。写真で見ると、楕円形の客席が中央のステージを取り囲む独特の配置となっているが、建物自体はかつての国立歌劇場の倉庫を改造したもので、全体の形状としては天井の高いシューボックス型のホールだそうだ。そのフロアの中央に音源を配置することで、理想的な音響を実現しようとしたのだろう。ちなみにホールの音響設計は日本の永田音響設計が担当した。

ただ、演奏解釈については全面的に賛成とは言いかねる。第1番、第2番は比較的オーソドックスで、じっくり音楽に浸ることが出来たが、第3番、第4番ではテンポをかなり伸び縮みさせた情緒纏綿たる演奏で、時には音楽が止まってしまいそうなほど遅くなる。特に第4番は、冒頭主題からして四分音符のアウフタクトのHを、次の二分音符のGより長くなるほど引っ張る。フルトヴェングラーがベルリンフィルを振った1948年の録音に似た、かなり時代がかったような演奏だ。

自分としては、この第4番は出来る限りインテンポで演奏してほしい。冒頭主題はしばらく演奏してきた音楽の続きででもあるかのように淡々と。第1楽章のコーダも必要以上に煽らず、最後から2小節目のティンパニの四分音符もリタルダンドしない。最低この2点を押さえていない演奏は、基本的に聴く気がしないのが正直なところだ。

ブラームスはこの交響曲を、フリギア旋法だのパッサカリアだの、あえて古色蒼然たる手法を用いて書いた。したがって、形の上ではバロック音楽のような正確なテンポ、地味な音色で演奏すべきである。しかし、そんな古典的な器の中に封じ込めても自ずから滲み出てしまう、作曲者の滾るような熱い思いが籠められている。そのことが分かるような演奏こそが理想であって、クライバーがウィーンフィルを指揮した1980年の録音がまさにそれである。

もうひとつ難点があって、バレンボイムが指揮台で足を踏ん張る「ドン」という音や、ヤマ場で力が入ったときの「シュッ」という呼吸音がかなり頻繁に入る。それだけ気合が入った演奏ということなのだろうが、まるでバレンボイムクジラが指揮台で暴れ回っているかのようである。(苦笑)

しかし、そうしたことを含めてもなお、今日あまり聴くことの出来なくなった重厚な音響によるブラームスは貴重な存在というしかなく、演奏解釈は別として、この音が恋しくなったらまた聴くことになるだろう。

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2019/11/07

歌劇「オテロ」

Otelloヴェルディ晩年の傑作オペラ。シェイクスピアの悲劇「オセロー」を原作とし、それまでのナンバーオペラ(番号が付されたアリアや重唱などを繋げていく)様式を脱して、一瞬の隙もない緊密な音楽が展開する新たな境地を切り拓いた作品である。ヴェルディと同じ年に生まれたワーグナーが、彼の「楽劇」において音楽の流れを切らさない「無限旋律」の手法を用いたのを意識しなかったはずはない。

文字通り「疑心暗鬼を生ず」の猜疑心から、破滅へと突き進む主人公を中心とした人間心理の揺れ動きを、残酷なまでのリアリティーで描き切った「音楽による心理ドラマ」である。とりわけ、主人公を破滅させようと画策する旗手イアーゴの奸計は憎たらしいほどに見事である。実は彼こそが全体の狂言回しを担っていて、実際ヴェルディはこの悪役に惹かれ、作曲中のこのオペラを「イアーゴ」と称していたそうだ。

刺激的なパッセージや不協和音をふんだんに使った音楽も、それまでのヴェルディ作品とは完全に一線を画し、20世紀音楽の到来が近いことをまざまざと実感させるが、そんな中にあってこそ、第1幕最後の愛の二重唱や第4幕「柳の歌」のメロディの美しさが一層際立って感じられ、ヴェルディの音楽技法の円熟ぶりを物語っている。

今回鑑賞したのは、2017年6月英国ロイヤルオペラ公演の録画。ヨナス・カウフマンがオテロデビューを果たし、マルコ・ヴラトーニャ(イアーゴ)、マリア・アグレスタ(デズデモナ)といった実力派とともに臨んだ新演出公演である。指揮アントニオ・パッパーノ、演出キース・ウォーナー。原作者シェイクスピアのお膝元での公演だけに、舞台と客席が一体となってお馴染みの古典を味わい尽くそうという雰囲気が感じ取れた。

さて、これで手許にない「運命の力」と「ファルスタッフ」を除き、ヴェルディの主要作品は一応鑑賞したことになる。続いては、ヴェルディ後のイタリアオペラから、まずはプッチーニを観ていこうと思う。

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2019/11/04

バレンボイムのブルックナー交響曲全集

Bruckner1990年代にベルリン・フィルと録音した、バレンボイムにとって2度目となる全集盤。これまでブルックナーはカラヤン、チェリビダッケ、マタチッチ、ヴァントといった指揮者で聴いてきたが、バレンボイム盤は全く眼中になかった。ところが、少し前に彼のベートーヴェン交響曲全集を聴いて感銘を受け、それならばとブルックナー交響曲全集も入手して試聴してみたのだ。あまり聴く機会のない合唱曲「ヘルゴラント」も収録されている。

期待は裏切られなかった。曲によってはこれまで聴いた中でのベストと思える名演奏である。一言でいえば、大管弦楽の圧倒的な音響美を余すところなく具現化した演奏である。彼の交響曲をカトリック信仰の表現であるとして、一種の宗教音楽として崇敬し神格化するような風潮が、特にわが国では一部評論家の影響を受けて根強いが、これらの演奏はそれに対するアンチテーゼのようですらある。

宗教というフィルターを外して眺めれば、他に類を見ないほどの規模と複雑な構成、メロディや和声の美しさを備えた純粋音楽として、彼の交響曲は確固として存在している。その特質をあるがまま最大限に引き出した演奏であり、ブルックナーの音楽をいわば彼岸から此岸に引き戻した、極めてヒューマンなアプローチと言えるのではないか。とりわけ、これまで宗教色が強いと感じていた第3、5、9番の3曲に大きな感銘を受けたのはその現れと言える。

収録場所は第5、7番がシャウシュピールハウス(現コンツェルトハウス)、それ以外は全てフィルハーモニーである。第4、7番以外は全てライヴ録音であるが、残響が完全に消えてもなお拍手が起きないのはさすがである。テルデックによる録音はダイナミックレンジが広く、各楽器の定位や分離、遠近感まで良く表現出来ている。特筆すべきはコントラバスの音で、余計な共鳴音の少ない、特有の摩擦音を含んだ乾いた音は本当に生々しい。

ところで、先のベートーヴェンは6枚990円、このブルックナーは9枚1823円で入手できた。わが国におけるバレンボイムの評価が低いおかげか、こんな素晴らしい全集が1枚200円程度で入手できたことに感謝しなければならない。実は、最近シュターツカペレ・ベルリンと録音したブラームス交響曲全集も入手したところで、こちらも期待できそうだ。

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2019/10/29

歌劇「アイーダ」

Aidaヴェルディ後期の傑作とされるオペラ。スエズ運河開通を記念して新しく建てられたカイロ歌劇場で上演するため、エジプトを舞台とした新作オペラの依頼を受けて作られた。パリ・オペラ座からの依頼による「ドン・カルロ」、ロシア・ペテルブルクからの依頼による「運命の力」と並んで、ヴェルディは当時としては「世界を股にかけた」活躍をしていたようである。

ファラオ時代の古代エジプトが舞台。エジプトとの戦いに敗れたエチオピアの王女アイーダは、身分を隠したまま奴隷としてエジプトの王女アムネリスの侍女になっている。彼女はエジプトの将軍ラダメスと恋に落ちていた。同じくラダメスを愛するアムネリスは二人の仲に気づき、激しく嫉妬する。最終的に祖国の勝利よりアイーダへの愛を優先させたラダメスは、彼女とともに国外に逃亡しようとして、父エチオピア王に唆された彼女に軍の機密情報を漏らしてしまい、そのため死刑を宣告されてしまう。

委嘱の経緯に相応しく祝典的な要素が強い作品で、古代エジプトを再現した豪華絢爛なセットに、華やかなバレエの場面も織り込まれるなど、壮大な舞台が映えるスペクタクル・オペラの代表格とされる。第2幕第2場の凱旋の場面は最も有名で、今ではサッカーのテーマ音楽になった行進曲が鳴り響く中、本物の馬まで現れて舞台を闊歩するさまは正に壮観である。

しかし、実際のところ「スペクタクル」と言えるのはこの場面だけで、意外なことにオペラの大半は、上記の三角関係の男女の機微と、その背景となる両国の対立、愛国心と復讐心といった内容が主になっている。したがって、凱旋の場面のような華やかさだけを期待していると、意外に地味な内容に肩透かしを喰らうことになる。

とりわけ、第1幕第2場の神殿での祈祷の場面や、第4幕第2場の地下牢と神殿の二重舞台の場面では、極めて抑制されたトーンの音楽が続き、最後はピアニシモのうちに静かに幕が降りる。「スペクタクル・オペラ」としては全く予想しなかった幕切れに驚いたが、本作が単なる見世物ではない、芸術的価値を有する作品であることの証左と言えよう。

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2019/10/11

歌劇「ドン・カルロ」

Doncarloヴェルディ中期の傑作とされるオペラ。フランス語版やイタリア語版、4幕版や5幕版など各種の版が存在するが、今回鑑賞したのは、イタリア語で全3幕に再構成した、メトロポリタンオペラ1986年公演のビデオである。

16世紀スペインを舞台に、国王フィリッポ2世と、フランスから迎えた若き王妃エリザベッタ、その王妃と一旦婚約関係にありながら解消された王子ドン・カルロ、王子の親友でスペインに弾圧されるフランドルの新教徒を擁護するロドリーゴ侯爵、王子を密かに愛する女官エボリ公女、カトリックの権力者・宗教裁判長など、いずれが主役とも言い難いほど多彩な人物が登場。一人の女性を巡る父と子との、カトリックとプロテスタントとの、政治権力と宗教権力との、それぞれの対立が絡みながら繰り広げられる、愛と政治をめぐる葛藤のドラマが、壮大で重厚な音楽によって描かれている。(ウィキペディアの解説に加筆)

本作はパリ・オペラ座の依頼により作曲され、1867年にオペラ座において初演されている。実は1986年にそのオペラ座で本作を観たことがある。たまたま欧米出張中の自由時間、チケットが入手できたので飛び込んでみたのだが、当時はタイトルぐらいしか知らず、複雑なストーリーをほとんど知らないまま、フランス語版全5幕、およそ4時間もの間、ひたすら音楽だけを聴いていた。指揮はジョルジュ・プレートルだったと記憶する。

それ以来、このオペラはやたらと長大で、内容も退屈に違いないという先入観があったのだが、豈図らんや。3幕合わせて約3時間半が短く感じられるほど、最後まで全く退屈することなく観終えることが出来た。最後の場面、エリザベッタへの愛を押し殺してフランドルへ向かう決心をするドン・カルロと、王子を心の底から愛しながらも彼の決意を理解し、快く送り出してやろうとするエリザベッタとの二重唱は心に迫った。

これまで鑑賞してきたヴェルディのオペラの中では最高傑作であると思う。それに寄与したのがこのMET公演の完成度の高さで、ドミンゴ(ドン・カルロ)、フレーニ(エリザベッタ)、ギャウロフ(フィリッポ)、フルラネット(宗教裁判長)といった錚々たる顔ぶれが遺憾なくその実力を発揮し、名曲ぞろいのアリアや重唱を大変感動的に歌い上げている。

ところで、ドン・カルロが祖父カルロ5世(フィリッポの父)の亡霊(?)によって墓の中に引きずり込まれる結末は謎めいていて、いくつかの解釈があるようだが、もしかするとモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の幕切れと何か関連があるのかもしれない。

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2019/10/02

歌劇「仮面舞踏会」

Maschera ヴェルディ23作目のオペラ。18世紀スウェーデンの専制君主グスターヴォ3世が、仮面舞踏会の席上アンカーストレム伯爵に暗殺された事件に題材を取りながら、伯爵は国王の最も忠実な側近である一方、その妻アメリアは国王との秘められた恋に苦しむなど、史実にない設定を交えた「3幕のメロドランマ」(原作のサブタイトル)に仕立てられている。

当時のイタリアでは当局による検閲が厳しかったことから、舞台を17世紀末、イギリスの植民地ボストンに移し、登場人物の名前も変えるなどの改訂を加えて初演に漕ぎつけ、大成功を収めたということだが、現在ではオリジナル版で上演されることも多く、今回鑑賞した1991年収録のメトロポリタンオペラ公演も同様である。演出、装置、衣装はピエロ・ファッジョーニ。ヤマ場となる最後の舞踏会シーンはため息が出るほど美しく、幕が開いた瞬間に聴衆から拍手が起きるほどだ。

「リゴレット」や「イル・トロヴァトーレ」などと比べると、ストーリーは比較的単純で分かりやすい。道ならぬ恋に落ちた国王とアメリアの苦悩はいかにも人間らしく、その悲劇的な結末に十分感情移入できる真っ当な「メロドラマ」であるとも言える。国王役のパヴァロッティ、伯爵役のレオ・ヌッチはいずれもさすがの貫禄を見せていて、迫力ある歌唱のみならず、表情の変化やちょっとした仕草による演技も大変こまやかである。舞台ではオペラグラスがないと分かりづらいが、DVDではアップでしっかり確認できる。

ところで、本作はこのブログ開始早々の2005年4月、ボストンマラソンを走る前にMETの同じプロダクションを鑑賞していた。その予習として購入したのがこのDVDというわけだが、その時2回も観ていたのに、ストーリーの大半を忘れてしまっていた。(泣)

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2019/09/29

歌劇「シモン・ボッカネグラ」

ヴェルディ21作目のオペラ。1857年に初演されたが大失敗に終わる。作品に愛着を持っていたヴェルディは改訂上演の機会を探っていたが、24年後の1881年に大幅改訂されてミラノ・スカラ座で初演、大喝采を浴びた。

シモン・ボッカネグラは、14世紀イタリアのジェノヴァ共和国初代総督に就任した実在の人物である。平民派出身の彼を主人公として、対立関係にある貴族派との確執を軸に、そのさなかで翻弄される男女や親子の情愛、復讐と呪い、誘拐や毒薬による暗殺などが混然一体となって繰り広げられる。これまで観てきたヴェルディオペラの要素を全てテンコ盛りにしたようなストーリーで、同じ原作者による「イル・トロヴァトーレ」と同様、いやそれ以上の作り物くささ、ハチャメチャさである。

しかし、不思議なことに観ていて白けるどころか、最後まで心を掴まれたように引き込まれてしまったのだ。これはひとえにヴェルディの音楽の迫力と巧みさによるものだろう。「え、なんでそんな展開になるの?」と突き放す余裕すら与えないというのだろうか。後で考えるとあまり合理的とは言えない登場人物たちの行動や心情に、まんまとシンクロさせられてしまっているのだ。

と、ここまで書いてきて、これは「オレオレ詐欺」の手口と同じだと思った。犯人側が設定したストーリーは事実無根、全く信用するに値しないものであるにもかかわらず、電話をかけてきた人物の迫真の演技そのものに被害者は引き込まれてしまい、その内容に少々不合理な点があってもそれが見えなくなってしまうのだ。

ということは、この手の詐欺には絶対に引っ掛からない自信を持っていた自分も、下手をすると被害者になる可能性がゼロではないということになる。まさかオペラを観て「詐欺には注意しよう」と思うことになるとは。(笑)

なお、今回視聴したのは2010年のメトロポリタンオペラ公演。まだバリトンに転向したばかりのプラシド・ドミンゴ、指揮を務めたジェイムズ・レヴァインともども、スキャンダルを起こしてMETから追放されてしまったのは残念だが、彼らの芸術は記録として長く生き続けることだろう。

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2019/09/26

ベートーヴェン チェロソナタ全集

Uccd2141_20190926082501「全集」と言っても全部で5曲しかないのだが、内容的には「チェロの新約聖書」(「旧約」はもちろんバッハの無伴奏)と称されるほどの深みと多彩さを有している。ピアノソナタや弦楽四重奏曲と同様、作曲時期が初期、中期、後期と分散していて、それぞれの特徴を反映しているのも興味深い。

作品5の第1番と第2番は、いずれも序奏を持つ長大な第1楽章と、軽快なロンドによる第2楽章という特異な構成で、まだピアノが主役でヴァイオリンやチェロはオブリガート(助奏)的な色彩が強かった当時のソナタの様式を残すものの、生き生きした楽想や意表を突く展開に早くも作曲者の特質が現れている。

第3番作品69はいわゆる「傑作の森」の時期の作品だけに大変充実した内容を持ち、朗々としたメロディで開始される第1楽章、スケルツォの第2楽章、序奏のついたアレグロ・ヴィヴァーチェの第3楽章というオーソドックスな構成の中に、いかにもベートーヴェンという快活で躍動的な楽想が展開される。

一転して作品102の第4番、第5番は、作曲者晩年の特徴である自由な楽章構成、個人的な独白のような緩徐部分、フーガによる緊密な構築美などがみられ、後期のピアノソナタに相通じるものがある。

今回聴いたCDは、ロストロポーヴィチとリヒテルが共に壮年期の1960年代初頭に録音した名盤の誉れ高いもので、剛毅にして男性的な、気迫に満ちたベートーヴェン演奏である。ジャケットからしていかにも男性的な画で、面相や頭頂部の具合から、両者はまるで兄弟のように見える。(笑)

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2019/09/14

マンガ名作オペラ「ニーベルングの指環」上下

Niebelungen_20190913092701里中満智子著。ワーグナー畢生の超大作「ニーベルングの指環」をマンガ本2冊に纏めたもの。版元の紹介文。

(上)神話世界を描いた壮大な作品、ニーベルング。世界を滅ぼすとの呪いをかけられた黄金の指環。欲望渦巻く神々の世界を描く前編。(下)ジークムントの忘れ形見ジークフリートとブリュンヒルデの全てを焼き尽くす愛の行方は? 世界に破滅をもたらすニーベルングの指環は誰の手に渡るのか?(引用終わり)

ワーグナーのオペラをこともあろうにマンガにするなんてと、最初はとても違和感があったけれど、結果的には読んでみて正解だった。これまで「指環」の概略を把握しようと、(文字で書かれた)あらすじを読んだことは何度かあるが、人間関係が複雑なうえに飛躍の多いストーリーがほとんど頭に入って来なかった。かと言って、予備知識なしに観て分かるような代物でないことは明らかで、作品のあまりの長大さと並んで、なかなか実際の鑑賞に至らない原因になっていた。

それが、このマンガ本上下2冊を読んで、ストーリー全体の骨格というか、大まかな流れがすんなりと把握できたのだ。主要登場人物のキャラクターや相互の人間関係を、ビジュアルを通じて具体的に理解することが出来る。「アルベリヒ」と文字で見るより、あのイボだらけでヒキガエルみたいな顔の小男かと直感的に掴める。

もちろん、これがワーグナーの意図を寸分の狂いなく表現したものとは言えないだろう。今後、オペラそのものを鑑賞してみた後で感想が変わる可能性はある。それでもなお、長年の「食わず嫌い」というか、「とっかかりのなさ」に風穴をあけてくれたことは間違いない。マンガを読んだあとでは、文字で読むあらすじも以前より格段に頭に入ってくる。この調子で予習を続けて、いずれは本編オペラに挑戦してみたいと思っている。

 

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2019/09/11

歌劇「椿姫」

Traviata_20190911094701 ヴェルディ中期3大傑作のラスト。原題は La Traviata で「道を踏み外した女」というような意味だが、本邦ではデュマ・フィスの原作タイトルに近い「椿姫」として親しまれている。ちなみに、私の高校時代の歴史だったかの女性教師が同じ綽名で呼ばれていた。そのココロは、教壇で喋ると唾液が飛んで、最前列の生徒が迷惑したことによる。(笑)

今回鑑賞したのは、1994年英国コヴェント・ガーデン王立歌劇場で行われた公演のDVDである。主役のヴィオレッタを当時新進気鋭のアンジェラ・ゲオルギューが務め、彼女の出世作となった歴史的な公演である。指揮はこの劇場の音楽監督を長年務めたゲオルク・ショルティで、彼が死去する僅か3年前のことであった。

独墺系が得意だったショルティがヴェルディ、しかも「椿姫」というのは意外な取り合わせのように思え、前奏曲が始まってあの厳つい顔がアップで映るとかなりの違和感を感じるが、実際にはオペラ指揮者としてヴェルディやプッチーニもレパートリーにしていたようだ。

パリ社交界の華として持て囃されていたヴィオレッタが、ある日純真な青年アルフレードの一途な愛を受け入れ、パリ郊外で彼との幸福な日々を過ごすようになるが、突然現れたアルフレードの父ジェルモンから、娘の縁談に差し支えるからと身を引くよう懇願される。このあたり何となく日本の人情劇のようであるが、見知らぬ娘の幸福と自らの境遇を天秤にかけたヴィオレッタはジェルモンの申し出を了承する。その後の紆余曲折を経て、最終的にはジェルモンも考えを改めアルフレードとの仲を認めるも時すでに遅く、肺結核に侵されていたヴィオレッタはこの世を去る。

このようにヴィオレッタの命運は大きく変遷していき、それに合わせたヴェルディの音楽も非常に振れ幅が大きい。この役を演じるソプラノには幅広い歌唱力、演技力が求められるが、ゲオルギューは期待に十分応えて見事な歌唱と演技を披露している。アルフレード役のフランク・ロパードは少し弱いが役柄にはピッタリ、ジェルモン役のベテラン、レオ・ヌッチはさすがの味わい深い演技を見せている。

蛇足ながら、コヴェント・ガーデンの習慣なのだろう、アリアや重唱が終わった直後の拍手喝采は一切なく、すぐに次の場面へと移行する。DVDで観る限り観客の反応は全く分からないが、舞台の歌手たちには雰囲気は伝わっているのだろう。舞台が一旦止まったまま中断することなく、ストーリー展開に集中できるメリットはあると思われ、これはこれで良き伝統なのだろう。

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