2019/06/11

バレンボイムのベートーヴェン交響曲全集

Barenboim_1 ベートーヴェン演奏史上に残るであろう画期的な全集盤であると思う。既に全曲を2回通して聴いたが、それがどう画期的なのか、まだうまく表現する言葉が思い浮かばない。ともかく、これまでの演奏とは全く異なるアプローチによって、ベートーヴェン本来の音楽を蘇らせることを志向した演奏であると思う。

バレンボイムが初めてのベートーヴェン交響曲全集を録音するのに起用したのは、シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)であるが、この楽団について彼は自伝の中で以下のように述べている。

「ベルリン国立歌劇場で私が出会ったオーケストラは、非常にすばらしいアンティーク家具に、けれどもいく層もの埃に本来の美しさを覆い隠された家具に似ていた。オーケストラのレベルがたいへん高いことは分かっていたので、私はその埃を取り除く作業に着手した。純粋に音楽的観点に立って、イントネーション、アタックの統一、統一のとれた全体演奏、などの本来の美しさを覆っていたものを取り除いた。少しずつではあるが、このオーケストラが高いレベルを持っているという私の判断が正しかったことが実感され、あっという間にすべてがうまく整った。」

実はこれと同じことが、ベートーヴェンの演奏解釈についても言えるのではないか。手垢のついた伝統的解釈を一旦ご破算にし、「純粋に音楽的観点に立って」ベートーヴェンが本来意図した音楽を再現することを彼は目指したのではないか。サイードと対談した『音楽と社会』という本の中でも、彼はワーグナーが古典派音楽の演奏に対して与えた影響の大きさについて述べていた。

ひとつの例として、偶数番の交響曲は小規模で優美な楽曲と捉える見方が伝統的にある。しかし、それは本当に正しいのか。第7番と第8番を1枚に収めたバレンボイムの演奏を聴くと、それはただの偏見だという気がしてくるから不思議である。おそらく意図してであろうが、第7番が(もちろん立派だけれど)意外に「軽快な」演奏であるのに対し、第8番は冒頭からバスを思い切り響かせた、堂々として重厚な演奏が繰り広げられる。第1楽章展開部144小節目以下の熱のこもった演奏は圧巻である。作品番号が連続するこの2曲は、ともに甲乙つけがたい傑作なのである。

それに限らず、従来の演奏が響きの美しさや全体的な調和を目指した演奏であるとするなら、バレンボイムの方向性は真逆であるようにすら思える。全体にゴツゴツ、ザラザラとした肌触りの音づくりで、フォルテのアタック(音の出だし)はぶつけることも辞さず、クレシェンドやスフォルツァンドなどダイナミクスの変化は強烈である。旧ラジオ局スタジオでの優秀な録音のせいもあるかもしれないが、対旋律や伴奏音型も含めた各声部の音が、溶け合うことなく際立って聴こえる。突飛な譬えかもしれないが、従来の演奏が小奇麗な容器に収まった幕の内弁当だとすれば、バレンボイムのそれは色々な料理がそのまま大皿にざっくり盛られた様子を連想させる。

しかし、それこそが実はベートーヴェン本来の音楽なのではないか。それまでの古典派の音楽がいわば貴族の娯楽音楽でしかなかったのに対し、ベートーヴェンは広く一般市民に向けた芸術作品としての音楽を追求し、様々な試みを実行していった音楽家なのである。第9番第2楽章のティンパニに聴衆が大喜びしたという逸話があるが、意表をつくような楽想や展開で聴衆を飽きさせないのも彼の音楽の特質のひとつとすれば、予定調和的にまとまった演奏は古典派の呪縛から脱していないのだ。

ベートーヴェン時代のピリオド楽器や奏法、自筆譜に基づく新校訂版の使用といった試みは、実は些末的・技術的なことでしかない。モダンの楽器や従前の楽譜でも、ベートーヴェンの音楽の本質を追求することは十分可能だというのが、バレンボイムの主張なのではないか。彼が信奉するフルトヴェングラーの精神を受け継いだ、「魂のこもった」ベートーヴェンと言うことも出来るかもしれない。ただし、演奏様式は全然違っていて、バレンボイムはほとんどインテンポで通していて、アンサンブルは完璧、むろんアインザッツの乱れなど無縁である。

ただ、前の記事でも書いたように、我が国におけるバレンボイムという音楽家の評価が低い、というよりほぼ無視されているのは嘆かわしい。しかし、そのせいなのかどうか、この画期的なCD6枚組が何と990円という値段で入手できたのはとても有難かった。(笑)

6月9日 ジョグ10キロ

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2019/05/24

ズスケQのベートーヴェン弦楽四重奏曲全集

Kicc1334_2 先日、アルバンベルク四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を聴き終えたあと、彼のカルテットでなぜかうちに1枚だけあった第15番のLP盤を引っ張り出して聴いてみた。演奏は Suske-Quartett, Berlin 。ズスケ四重奏団ともベルリン四重奏団とも表記されるが、正確にはベルリン・ズスケ四重奏団と言うべきだろう。

それはともかく、改めて聴いてみて、アルバンベルクQの演奏とは全然違うのに驚いた。まず、音色的な面から言えば、華やかで艶のあるベルクQの音とは対照的に、ズスケQは燻し銀のような落ち着いた味わいである。器に例えれば、前者が光沢のある漆塗りの椀だとすれば、後者は木目を生かした白木の椀とでも言おうか。もちろん、工芸品としての素晴らしさは甲乙つけがたい。

それ以上に興味深いのが、演奏のスタイルというかアプローチの仕方の違いである。ベルクQが4人のソリストが時には丁々発止と繰り広げる「掛け合い」であるのに対して、ズスケQはもっと精緻で求心力の強いアプローチであり、あらかじめ曲の全体像を4人が完全に理解し共有した上で、各奏者はそれを構成するパーツとなって参加しているのである。

リーダー役の第1ヴァイオリンですら例外ではなく、ベルクQのギュンター・ピヒラーが、時にソリストのようにメリハリをつけた演奏をしてメンバーを引っ張るのに対し、カール・ズスケは他の奏者と同様、あくまでひとつのパートを担っているに過ぎないというスタンスを貫き、出過ぎることも埋もれることもない絶妙のバランスを保つ。

好みもあるだろうが、繰り返し聴いて飽きないのはズスケ盤の方ではないかと思う。それで、第15番も含め全曲のCDを入手して聴いてみた。前述のアプローチは全曲を通して共通で、とりわけ後期の曲ではそれが非常に有効に作用しているのを感じた。録音も極めて優秀で、どうやらこちらの方が今後の愛聴盤になりそうである。

なお、このカルテットは1965年、当時シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)の首席コンサートマスターであり、すでにカルテットの経験もあったカール・ズスケが、同楽団の首席たちであるクラウス・ペータース、カール=ハインツ・ドムス、マティアス・プフェンダーの3人と組んで結成され、67年にはベートーヴェンの弦楽四重奏曲の録音を開始した。その後、リーダーのズスケがベルリンからライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団にコンサート・マスターとして移ることになり、カルテットの日常的な活動は困難になったが、ベートーヴェンの録音は特別に同じ顔ぶれによって継続され、80年に至ってついに全曲の録音が完了した。

実に14年の歳月をかけて録音されたことになるが、すべてドレスデン・聖ルカ教会で収録され、ドイツ・シャルプラッテンレーベルから発売された。余談ながら、ラズモフスキー第3番の冒頭、ルカ教会の近くで囀る小鳥の声が僅かに混入してしまっている。最初は我が家の外の鳥かと思ったが、何度聴いても同じタイミングで入るので間違いない。録音技師は気がつかなかったのだろうか。まあ、鑑賞の邪魔になるほどではないけれど。(笑)

5月23日 ジョグ11キロ

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2019/05/15

タブレット譜面によるコンサート

というのを実際に初めて見た。といっても、テレビの録画放送なのだが、遂にそういう時代が本当にやって来たのかと感慨深かった。12日放送のNHKEテレ「クラシック音楽館」の最後「コンサートα」で取り上げていた、今年2月に紀尾井ホールで行われたベルチャ四重奏団のコンサートである。団体名は第1ヴァイオリン奏者の名前からとったもので、4人とも英国王立音楽大学で学んだ仲間だけれど、全員国籍が異なるそうだ。アルバン・ベルク四重奏団に師事したということで、若いメンバーながら実力は十分あるようだ。

彼らはタブレットの譜面で演奏するスタイルらしく、4人それぞれの前には10インチはあろうかという大きなタブレットが据え付けられ、メンバーは着席すると、持参したコントローラー(正確な名前は分からない)を足元に置いた。目を凝らすと「+」「-」という文字が見える。そこを足で踏むとページが進む、戻るという仕組みのようだ。本体とは Bluetooth で通信しているのだろうか。

弦楽器奏者は右手で弓を持つので、紙の譜面をめくるためには一旦弓を膝の上などに置くか、大切な弓を持ったままページを繰るという器用な動作を強いられる。オケでは2人でひとつの譜面台なので、相方がめくってくれるけれど、カルテットではそういうわけにいかない。だから足でめくれると便利だということは分かるが、パート譜は譜めくりのことを考えて製版してあるので、どうしてもタブレットでないとダメというわけではない。

そう思ってネットを検索してみて、実は彼らが見ているのはパート譜ではなくスコアだということが分かり、ようやく得心がいった。なるほど、楽曲の全体構成を皆が常時把握しながら演奏できるというメリットがあるわけだ。これを紙の譜面でやろうとしたら大変なことになるが、それを可能にしたのがタブレットという文明の利器なのだ。彼らも伊達や酔狂で新しがって使っているわけではないのだ。

もうひとつのメリットとして、ステージの照明を落とせるということがあるかもしれない。それによって奏者の集中力は高まり、また夏場でも暑くならないので汗かきの奏者は助かる。自ら発光するタブレットの譜面を使えば、ほとんど真っ暗な中でさえ演奏できるというわけで、この日の紀尾井ホールのステージ上はかなり薄暗い様子であった。

デメリットは・・・。うーむ、今のところ特に思いつかない。バッテリーが切れたり、コントローラーの動作不良など、あり得ないことではないけれど、おそらく対策は講じてあるだろう。あるとすれば、新奇なガジェットに関心がいくあまり、肝心の演奏をじっくり鑑賞するのを忘れてしまったということぐらいだ。(苦笑)

5月14、15日 ジョグ10キロ

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2019/04/18

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲全集

Abq ピアノソナタ全集に続いて、ベートーヴェンの創作過程のもうひとつの柱である弦楽四重奏曲全曲を、初めて通して聴いた。こちらもかなり以前にアルバンベルク四重奏団による全集盤を買い求めていたが、ピアノソナタ全集と同様、「ラズモフスキー」や「セリオーソ」など、標題がついた作品を適当に摘み聴きしていた程度だった。特に後期のものは難解という先入観が強かった。

CDのライナーノートで、評論家の門馬直美氏が「ベートーヴェンにとって最も身近に感じられ、心情を吐露しやすい楽器はピアノだった。しかし、ベートーヴェンは、人生の微妙な問題となると、弦楽四重奏に頼ることが多かった。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、交響曲や協奏曲などでしばしばみられるような、外部を意識した点が少しもない。すべて、外面的効果よりも、ベートーヴェンの心の奥深くからの声をきかせる」(抄録)などと書いているが、まさにその通りだと思う。

とりわけ、後期あるいは晩年のベートーヴェンの音楽については、弦楽四重奏曲なしには知ることができないという指摘は重要だ。最後のピアノソナタよりさらに後の最晩年に書かれた、第12番から第16番にかけての弦楽四重奏曲は、同時期の第九交響曲に聴く理想主義の熱狂とは対照的な、静謐にして内面的ないし瞑想的、哲学的ともいえる音楽が展開されている。しかし、その両者が表裏一体となったものが、ベートーヴェンの音楽の総体なのだとすれば、弦楽四重奏曲を聴かずして彼の音楽は語れないということになる。

ピアノソナタを含めて、これまで食わず嫌いだった彼の後期の作品も、今後は折に触れじっくり聴いていくことにしよう。年齢を重ねることで分かるということもあるが、何よりそれら長大な作品を聴き通せるだけの時間が確保出来ていることに感謝しつつ。

4月17日 ジョグ10キロ

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2019/03/28

ベートーヴェン ピアノソナタ全集

4781821 1992年から96年にかけて録音された、アルフレッド・ブレンデルによるベートーヴェンのピアノソナタ全32曲を初めて通して聴いた。だいぶ前に全集盤を買い求めていたが、3大ソナタなどを適当に摘み聴きしていた程度で、せっかく全集を買った意味がない状態が続いていた。迫力ある音響や多彩な音色の変化を楽しめる管弦楽曲に比べ、ピアノ1台による演奏では飽きるという先入観があり、なかなか手に取る機会がなかった。

今になって考えると、スピーカー買い替え以前の再生環境では、本来のピアノの音が鳴っていなかったという気がする。弦楽器や管楽器と違い、打鍵した瞬間から減衰するピアノの音の再生は特有の難しさがあるのだろう。さらに、同時に奏でられる複数の音が楽器の筐体内で相互に共鳴し、あるいは干渉して生まれる非常に複雑な音空間を再現するのは容易ではない。

しかし、それがきちんと再生されなければピアノ音楽を十分に楽しむことは出来ないし、ましてや作曲当時まさに発展途上にあったピアノという楽器の可能性を極限まで追求したベートーヴェンの意図を聴き取ることは難しかろう。

それが昨秋以降スピーカーを新調してアンプのメンテをして以来、再生音のクオリティが飛躍的に向上し、ピアノについてもこれまでとは次元の異なる音質で再生されるようになった。ピアノの音は決して平板なものではなく、艶と深みをもった音色は奏者のタッチによって千変万化し、立体感や奥行きのある残響となってホールを満たす。これまで聴いていたのは一体何だったのかという思いだ。

というわけで、もちろん一気にではないけれど、全32曲を通して聴いていて、全く飽きるということがなかった。まだハイドンやモーツァルトの影響を脱していない初期の作品から、次第に彼自身の語法を確立し、楽曲構成においても様々な革新的試みを続け、ついには後期のソナタにおける高みに到達した彼の創造の過程を、たいへん興味深く辿ることが出来た。

次は弦楽四重奏曲全集に挑戦しようと思っている。どんな発見があるだろうか。

3月26、28日 ジョグ10キロ

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2019/03/16

シュミット=イッセルシュテットのベートーヴェン交響曲全集

Uccd7053昨年秋にドホナーニ指揮クリーヴランド管による全集を聴いたが、今度はさらに時代を遡って、1960年代後半に収録された、ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーンフィルによる全集を通して聴いてみた。このコンビの「田園」は、自分にとっての「刷り込み盤」というか、いまだこれ以上の演奏に接したことがないくらいの名演だが、それと第九以外の交響曲は聴いたことがなかったのだ。

ウィーンフィルが一人の指揮者とベートーヴェンの交響曲全曲の録音をしたのは、実はこのシュミット=イッセルシュテットが初めてだったそうだ。そう言えば、EMIから出ていたフルトヴェングラーの全集盤も、第8番はストックホルムフィル、第九はかのバイロイト祝祭管との録音であった。

総体的に言うと、独墺系の伝統に根差した、正統派で模範的なベートーヴェン演奏である。しかし、決して教科書どおり四角四面の演奏というのではなく、ここぞというメロディは弦を中心に思い切り歌わせ、またメロディよりもむしろ対旋律を引き立たせたりと、ハッとさせられるような箇所も多かった。

そうした演奏は、ウィーンフィル楽員たちの自発性あってこそだろう。指揮者の統率下、一糸乱れぬアンサンブルを聴かせるというより、指揮者と楽員間の丁々発止の遣り取りはスリリングであり、いかにも生身の人間がやっているという、生命力に溢れた演奏となっている。ベートーヴェンがよく用いる con brio (生き生きと)という曲想標語は、彼の音楽の本質を突いた言葉でもあると思うが、ここで展開されているのは、まさに「con brio の音楽」なのである。

また、特筆すべきは英デッカによる録音の優秀さで、とりわけ弦楽器の艶のある音色が生々しいくらいのクオリティで再現されている。第九の終楽章、歓喜の主題が提示されるところでは、チェロとベースがはっきり聞き分けられる。ただ、入手したCD固有の問題かもしれないが、最後に録音された第7番は低音がやたらと誇張され、また雑音も多くて、今日的レベルでは鑑賞に堪えない。カップリングされた第8番が、演奏録音とも最高の出来だけに残念なことだ。

3月14日 ジョグ8キロ

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2019/02/17

複数の作曲家の楽曲がカップリングされたCD

約30年ぶりにスピーカーを買い替え、アンプのメンテをしたことで音楽再生のクオリティが格段に向上し、手持ちのCDを聴き直す機会が増えている。通常は作曲家名アルファベット順、楽曲ジャンルごとに並べている中から探し出すのだが、それが簡単にいかない場合がある。

それがタイトルにあるようなCDである(何かひと言で表せる業界用語があるのかもしれないが)。クラシックのCDでは珍しくなく、例えばメンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲がカップリングされ、俗に「メンチャイ」と称されるものとか、グリークとシューマンのピアノ協奏曲がカップリングされたCDは数多い。

そういう典型的な組み合わせならまだしも、時には想像もつかないようなカップリングのCDもあって、年々記憶力が低下している自分にはとても覚えきれない。手持ちの全てのCDのリストでも作れば良いのだろうが、そこまで手間をかけるのも面倒だ。

ということで実行したのが、当該CDのジャケットもしくは楽曲リストをコピーしてソフトケースに収め、CD本体とコピーに分けて、それぞれの作曲家の場所に収納しておくという方法である。探してみてコピーだった場合は、カップリングされた作曲家のところに本体があるというわけだ。

該当するCDは全部で50点弱にもなり、「こんな曲のCD、持ってたんや」という意外な発見もあった(笑)。今後、全部を聴くかどうかは分からないが、聴きたくなったときには辿り着け、手持ちのものを無駄にしない仕組みは出来たわけだ。ある意味、「断捨離の逆バージョン」と言えるかもしれない。

2月15日 ジョグ10キロ
2月17日 LSD20キロ

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2019/01/27

異次元の再生音

アンプの修理が終わって、心おきなく音楽を聴けるようになったが、どうもこれまでとは次元の異なる再生音であるという気がしている。RUBICON6の真価がようやく発揮されてきたということだろう。もちろんエージングの効果もあるだろうが、アンプの不具合が解消したことが大きいと思われる。

言葉にするのは難しいけれども、音がひと塊りとなって聴こえるのではなく、それぞれの楽器の音が見通し良く、きちんと判別できるというのだろうか。それにより、内声部を含めた楽曲の構造がまさに浮き彫りとなり、奥行きを伴って立体的に目の前に広がるのだ。

突飛な譬えだが、ちょっと前に流行ったステレオグラムが初めて「見えた」ときの驚きに似ている。普通に見れば平面に印刷された幾何学模様でしかないのに、突然奥行きが生まれ、立体的な図形が透明な水の中に浮かび上がるように見える、あの瞬間の驚きである。

2つのスピーカーから出る音というより、3次元の立体空間そのものが音場として鳴っているかのようである。目を閉じれば本当にそこでオーケストラが演奏しているような錯覚すら覚える。ダリ社が言うところの「スピーカーはその存在を消し」というのは、まさにこういう音を言うのだろう。

ステレオグラムが立体的に見えるのは、両目から入る視覚情報が脳の中でいわば編集されることによるらしい。してみると、2つのスピーカーという点から出る音が、立体空間が鳴っているように感じるのも、両耳から入る音声情報を脳が編集しているためだろうか。大変興味深いことである。

1月25日 ジョグ10キロ
1月27日 LSD40キロ

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2019/01/24

アンプが復活!

最近スピーカーを買い替えたばかりなのに、今度はプリメインアンプにトラブルが発生した。アキュフェーズのE-405という機種で、前のスピーカーと同じく平成の初めに購入したものである。もう30年近く使い続けているが、以前から左スピーカーの音声が途切れたり、カリカリといったノイズが発生することがあり、また、ノイズはなく正常に再生できているようでも、左右の音の定位感が曖昧なように感じられる場合があった。

試みにメインボリュームを左右に何度か回すと大抵ノイズが治まるので、ボリューム内部の接点にゴミでも付着したのかもしれない。いずれ修理か買い替えを迫られるだろうなと思っていたが、最近になってノイズの発生頻度が高まり、折角スピーカーを買い替えたばかりというのに音楽に集中できなくなったので、思い切ってメーカーに修理を依頼することにした。

点検の結果、原因はボリュームではなく、出力リレーという部品の接触不良が原因と判明した。幸いにも部品の在庫があったので交換することが出来た。それ以外はピークメーターのランプが劣化していたため交換したぐらいで、使用状態は全体に良好のようである。ボリューム、スイッチ類の接点もクリーニングしてもらい、30年選手もすっかり若返ったことだろう。

再生してみると、当然のことながらノイズは皆無となり、定位感の曖昧さが一掃されて個々の音像がビシッと決まる。それにより、残響も含めた音場全体の立体感が鮮やかで、音楽により深く没入することができるようになった。

買い替えの10分の1くらいの費用で済んだので、費用対効果は抜群である。あとは同じ時期に買ったソニーのCDプレーヤーが長持ちしてくれることを祈るばかりだ。まさか「30年タイマー」なんて仕込んでないよね。(苦笑)

1月23日 ジョグ10キロ

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2019/01/06

『玉木宏 音楽サスペンス紀行▽ショスタコーヴィチ 死の街を照らした交響曲第7番』

2日、NHKBSプレミアムで放映された標記番組を録画視聴した。NHK公式サイトの紹介文。

第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍に包囲され過酷な状況にあったレニングラードで、ある演奏会が行われた。ショスタコーヴィチが故郷・レニングラードにささげた「交響曲第7番」。飢えや寒さと闘いながら、人々はどのようにして“奇跡のコンサート”を実現したのか? 一方、作品の楽譜は密かにマイクロフィルムにおさめられ、遠路アメリカまで運ばれた。ソビエトとアメリカの大国同士が音楽で手を結んだ、驚くべき政治的背景とは?(引用終わり)

作品の成立過程から各地での初演、内容の解釈や評価に至るまで、異例づくめで謎だらけのこの大作について、当時の世界情勢や政治的背景にまで踏み込んで取材したドキュメンタリーである。1941年9月の作曲者自身による有名なラジオ放送の実際の音源を聴くことも出来た。

ただ、全体的にはこの第7番がファシズムに対する抵抗の象徴として、ソ連のみならずアメリカでも政治利用されたという文脈だけで纏められている点がやや物足りなかった。もちろん、「第7番は、ファシズムはもちろん、私たち自身の社会システム、すなわち全体主義体制、全てを描いている」という、作曲者自身の注目すべき発言も紹介されているけれども、それ以上の掘り下げはない。例の戦争の主題がレハールの引用と思われることなど、音楽的な内容についての解説も欲しかったところだ。

それはともかく、駅伝とウィーンフィル以外およそ観たい番組がない正月のテレビにあって、今年は唯一この番組だけは大変見応えがあった。進行の玉木宏も終始沈痛な表情で冷静に語っていて好感がもてた。どこかで突如千秋真一に扮して指揮を始めないか心配していたが、さすがにそれはなかった。(笑)

1月5日 ジョグ10キロ

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