2020/08/10

歌劇「アラベラ」

Arabellaシュトラウスとホーフマンスタールのコンビによる最後のオペラ。1933年初演。ショルティ指揮ウィーンフィルによる映画版を鑑賞。

19世紀後半のウィーン。没落貴族ヴァルトナー伯爵は美しい娘アラベラを金持ちと結婚させ、経済的苦境を脱したいと考えている。アラベラには士官マッテオをはじめ求婚者が何人もいるが決めかねているうち、ハンガリーからやって来た大地主マンドリカをふと見かけ心惹かれる。舞踏会で対面した二人は互いに一目ぼれして将来を誓い合う。
一方、経済的事情から男の子として育てられているアラベラの妹ツデンカは、マッテオに密かな恋心を抱きながらも、彼の姉への思いを成就させようと画策するが、とんでもない誤解を生んでしまい…。

「第二の『ばらの騎士』」を目指して書かれた作品である。初演当時、ウィーンは第一次大戦敗戦後の社会的混乱のさ中にあり、シュトラウスとホーフマンスタールは、ハプスブルクの伝統への回帰により秩序の回復を図ろうとしたと考えられている。

ヒロインのアラベラは自分で結婚相手を決められない受動的な女性であるが、紆余曲折の末、熱烈に求婚された相手と結婚して家庭を築くという幸福を得るに至る。それこそが古き良きウィーンの生き方であるというのだが、オペラの主人公としては若干キャラクターが弱い感じは否めない。

それよりも、妹ズデンカの方が遥かに面白い存在で、後半では実質的な舞台回し役を担っている。実際、本作の前身となったホーフマンスタールの短篇小説「ルツィドール」は、本作のズデンカに相当するルツィドールが主人公なのである。

しかし、ズデンカが行なったことは決して褒められたことではなく、一歩間違えば血みどろの決闘騒ぎになっていたはずである。結果オーライでハッピーエンドだからいいじゃないかと言えばそれまでだが、その辺も含めての懐古趣味のメロドラマというべきか。

ただ、シュトラウスの音楽の素晴らしさは「第二の『ばらの騎士』」に恥じず、ショルティ指揮ウィーンフィルの演奏は作品世界を見事に再現している。歌手陣では、何と言ってもタイトルロールのヤノヴィッツの透明でリリックな歌唱が素晴らしい。残念ながら映像では年を隠せず、カザリアン演じるズデンカと並ぶと、姉というより母親にしか見えないのが玉にキズだが。(笑)

8月9日 ジョグ2キロ

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2020/08/01

レオン・フライシャーのこと

5cdこのところセルのCDを集中的に聴いていて、これまで耳にする機会がなかった協奏曲もいくつか聴いた。ロベール・カサドシュと録音したモーツァルトは、デリケートな美音で綴るピアノと、細かい音型まで気を配った「物言う」オーケストラとの対比が面白かった。

一方、ルドルフ・ゼルキンとのブラームスは立派な演奏ではあるけれど、音楽の進め方について独奏者と指揮者の間に微妙な齟齬が感じられた。この頃を境にセルとゼルキンの長年の友好関係が終わったとされるが、もしかするとそんな事情が演奏にも表れたのだろうか。

そうした中、最も感銘を受けたのがレオン・フライシャーである。彼については「昔々、アメリカにそんな新進気鋭のピアニストがいました」という程度の知識しかなく、その後の病気のことや、最近見事に復活して活躍を続けていることは全く知らなかった。簡単にその経歴を振り返る。

1928年にサンフランシスコに生まれたフライシャーは幼少期からピアノの才能を発揮、アルトゥール・シュナーベルに師事するなど研鑽を積み、1952年エリザベート王妃国際コンクールではアメリカ人初の優勝者となった。その後、国際的ピアニストとして華々しく活躍するも、1964年頃から突然右手薬指と小指が動かなくなる異変が彼を襲う。後に「局所性ジストニア」と診断される症状で、指の運動機能ではなく脳神経に異常があるというのだ。

弱冠37歳にしてピアニストとしての引退を余儀なくされたフライシャーは、その後は指導者と指揮者という新たなキャリアを歩み始める一方、左手ピアニストのためのレパートリーにも挑戦しながら、両手でピアノを演奏することを決して諦めなかった。

外科手術の結果、ある程度の回復を果たした彼は1982年、ボルチモアの新しいコンサートホールで、両手ピアニストとして18年ぶりとなる演奏を行ない、ニューヨークタイムズが1面記事で伝えるなど大きな注目を浴びたが、彼自身は弾きやすい曲に変更したことに不満があり、あれは pretend(偽り)だったと自省している。

Fleishernowその後も様々な治療法を試した結果、ロルフィングと呼ばれる手技療法で大きな改善が見られ、1990年代半ばから本格的な演奏活動を再開するに至る。2004年には Two Hands と題した復帰後初のアルバムが発売された。また、2006年には復帰までの経緯を纏めた Two Hands: The Leon Fleisher Story という短篇ドキュメンタリー映画が作られ、翌年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされた。

略歴が長くなってしまったが、1960年代にセルと録音したベートーヴェン、ブラームス、シューマン、グリークの協奏曲はどれも素晴らしい。卓越した技巧をひけらかすことのない純音楽的な演奏は、30歳台とは思えない熟達ぶりである。オーケストラとの息もピッタリで、流石にセルのお眼鏡にかなったピアニストだけのことはある。

シューマンの第1楽章カデンツァは、これまでリヒテルの演奏が最高と信じてきたが、フライシャーはそれに匹敵する。オケの質を考えると、楽曲全体としてはこちらを決定盤にしたいぐらいだ。

そんな実力あるピアニストが、これからという時期に故障で引退を余儀なくされる。その絶望たるや他人には想像すらできないが、指導者としての能力を自覚し、さらには指揮活動、左手ピアニストとしての活動にも乗り出すなど、新たな進路を自ら切り拓きつつ、両手ピアニストとしての復帰を諦めなかった姿勢には頭が下がる。

きっと神が見捨てなかったのだろう。奇蹟的な回復を果たした彼は、再度ステージに立ち、CDを出すまでになった。Two Hands の最初2曲はバッハのカンタータからで、静謐な音楽に籠められた深い思いが伝わってくる。また自分の病気を引き合いに出して恐縮だが、決して諦めなかった彼の生き方は、自分にとっても大いに励みになる。

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2020/07/29

歌劇「ばらの騎士」

Rosenkavlierシュトラウスとホーフマンスタールのコンビによる最高傑作とされる作品。2017年のMET公演と、1994年のクライバー指揮ウィーン国立歌劇場の公演、それぞれの録画を鑑賞。METライブビューイングの紹介文。

ハプスブルク王朝下のウィーン。元帥夫人マリー・テレーズは、年下の青年貴族オクタヴィアンと情事を重ねていた。ある朝、逢引の余韻に浸っている夫人の部屋に、従兄のオックス男爵が訪ねてくる。成り上がり貴族の娘ソフィーと婚約したオックスは、婚約のしるしである「銀のばら」を婚約者に届ける青年貴族を紹介してほしいと頼みに来たのだった。ふと、いたずら心を起こした元帥夫人はオクタヴィアンを推薦するが、「銀のばら」の使者としてゾフィーのもとを訪れた彼はゾフィーと恋に落ちてしまい…。(引用終わり)

「サロメ」「エレクトラ」と来て、次はまたどんな凄絶なオペラだろうと思いきや、擬古典的な趣向を凝らした、まさかのメロドラマである。「モーツァルト風」を目指していたといい、実際「フィガロの結婚」を下敷きにしたようなストーリーである。

タイトルの「ばらの騎士」とは、紹介文にある「銀のばら」を届ける使者のことだが、実はこれは全くの作り話で実際にはそんな習慣はないそうである。また、作品中で奏でられるウィンナワルツが流行したのは19世紀に入ってからで、時代考証的にはおかしな話のはずである。

しかし、そうしたことを含めて、過ぎ去りつつある時代への惜別を籠めた、美しくも虚構の世界の中だけの大人のラブストーリーが綴られる。そして、この作品でもまた、否これまで以上にシュトラウスの巧みな音楽が全篇を彩っている。無調音楽に近づいた前衛的な前2作とは打って変わり、親しみやすく甘美な音楽が、絢爛豪華な管弦楽法によって万華鏡のように展開していく。

MET公演では、元帥夫人のルネ・フレミングとオクタヴィアンのエリーナ・ガランチャが、それぞれこの公演をもって役を引退することになり、両者の万感の思いがこもった歌唱と演技が見ものだった。「ものには終わりがあるのよ」という元帥夫人のセリフは、そのままフレミング自身の声でもあっただろう。

一方、ウィーン国立歌劇場に9年ぶりに登場したクライバー伝説の94年公演では、クライバーがピットに登場しただけで場内が盛り上がる。前奏曲を振るクライバーの指揮姿は躍動感に溢れ、まさに音楽を形にしたような動きをずっと見ていたいぐらいだった。

歌手陣では、元帥夫人のフェリシティ・ロットが品位ある歌唱と演技を見せる一方、オクタヴィアンのフォン・オッター、ゾフィーのバーバラ・ボニーのカップルがとても初々しく、オットー・シェンク演出のオーソドックスながらやや古臭い舞台を華やかにしていた。

ところで、メゾソプラノが男装で演じるオクタヴィアンと、ソプラノの元帥夫人やゾフィーとの二重唱、三重唱を見ながら、ふとこれは宝塚歌劇の世界に通じるものがあると思った(よう知らんけど・笑)。調べてみると、実際本作を元にした「愛のソナタ」というミュージカルが月組公演で上演されていて、新・東京宝塚劇場の杮落とし公演にもなったそうである。音楽はさすがにシュトラウスのオリジナルではないようだが。

7月29日 ジョグ4キロ
月間走行 19キロ

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2020/07/26

セルのウィンナワルツ

Strauss_20200724185801“冷徹な完璧主義者”とも称されるジョージ・セルがウィンナワルツ? 指揮者活動50周年を記念して作られたというけれど、ほとんど冗談のような取り合わせのCDを聴いてみたら、これが結構面白かったのだ。

1曲目からど真ん中直球勝負の「美しく青きドナウ」。冒頭の弦のトレモロと、これに乗っかるホルンのメロディは実に美しく、いきなり心を掴まれてしまった。これがアメリカのオケの音とは信じられない。

たっぷり歌う前奏に続いて、第1ワルツでは何とウィンナワルツ独特の2拍目3拍目の微妙なズレがちゃんと出来ている! 第2ワルツ以降はなぜか普通の3拍子になるけれど。(笑)

2曲目の「ピツィカート・ポルカ」はセルの面目躍如。どうやったらこれだけピツィカートがピタリと合うのだろう。以下、シュトラウスファミリーの名曲「うわごと」「春の声」「オーストリアの村燕」と続くが、いずれもよく歌う弦楽器を中心に、オーケストレーションの細部まで見通しの良い演奏である。

6曲目の「常動曲」では速いパッセージも何のその、クリーヴランド管の名人芸が冴え渡り、「参りました!」というところで、セル自身の声で “and so forth” (などなど)とユーモラスに締める。ラストは「こうもり」序曲で、これから本当にオペレッタが始まりそうな雰囲気を残して締め括る。

長年クリーヴランド管弦楽団に君臨したセルは、ハンガリー出身ではあるものの幼少期からウィーンで音楽を勉強し、16歳(!)での指揮者デビューもウィーン交響楽団とであったという。

セルの音楽的バックボーンはウィーンにあり、ウィーン流の音楽語法が血となり肉となっているのだろう。このアルバムでも、独特のリズム感や細かい歌い回しの部分ではさすがに「本場もの」には及ばないものの、そうしたセルの原点を十分に感じさせる演奏となっている。

一見妙な取り合わせのウィンナワルツ集を50周年記念にしたのは、実は意外でも何でもなかったのだ。

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2020/07/23

歌劇「エレクトラ」

Elektraリヒャルト・シュトラウス(作曲)とホーフマンスタール(台本)のコンビによるオペラ第1弾で、1909年に初演された。メトロポリタンオペラ2016年公演の録画と、「サロメ」と同じベーム指揮ウィーンフィルによる映画版の2種類を鑑賞した。METライブビューイングの紹介文。

神話の時代のミケーネ王国。父のミケーネ王アガメムノンを母のクリテムネストラとその愛人エギストに殺された王女エレクトラは、復讐を心に誓っているが、頼みの弟オレストは追放され、行方が知れない。罪の意識に怯えるクリテムネストラは、悩みを解決してほしいとエレクトラに訴えるが、突き放される。その時オレストの死が伝えられ、絶望したエレクトラは一人で復讐を果たそうと決意する。だが、オレストは生きていた。再会した姉弟はみごとに復讐を遂げるが・・・。(引用終わり)

父王を母とその愛人に殺された姉弟の壮絶な復讐を描いたギリシャ悲劇をオペラ化したもの。異常性愛の「サロメ」のあとは不倫殺人に対する復讐劇と、観る方にも覚悟が必要な重い作品が続く。ジャケット写真は何だか四谷怪談みたいだし。(笑)

しかし、「サロメ」でも書いたように、そんな内容にもかかわらず、あるいはだからこそか、リヒャルト・シュトラウスの音楽の力だけで見せてしまうオペラと言って過言ではない。本作では管弦楽の規模が更に拡大し、100名を超える大編成のオーケストラが繰り広げる音楽の迫力は大変なもので、通常のオペラが「音楽付きの芝居」としたら、これはもう「芝居付きの一大交響詩」とでも言うべきだろう。

その点、ベームが病気をおして指揮台に立ち、生涯最後の録音となったウィーンフィルとの演奏は他の追随を許さないものがある。ゲッツ・フリードリヒのオーソドックスな演出も相俟って、本作の決定盤とされるのも頷ける。

エレクトラを演じたレオニー・リザネクは音域、声量とも申し分なく、大編成のオケに負けない堂々とした歌唱、演技である。「サロメ」でヘロディアスを演じたアストリッド・ヴァルナイが、クリテムネストラを憎たらしいほどの上手さで演じている。オレスト役のF=ディースカウは若干線が細く、これから人を殺めるという鬼気に乏しい。

MET公演はタイトルロールのニーナ・ステンメが迫真の演技、歌唱を見せているが、パトリス・シェローの現代風の舞台には違和感があり、結末でエレクトラが気を失って倒れるのではなく、茫然と座したままカーテンが降りるのは消化不良な感じがした。

以下は余談になる。エレクトラ(Elektra)という名前はギリシャ語のエレクトロン(琥珀)に由来するそうで、彼女が琥珀色の目をしていたからだそうだ。琥珀は布で擦ると静電気を発することから、electricity(電気)の語源になっている。

また、オレスト(Orestes)という名前からは、黄金期の西武ライオンズを牽引した「カリブの怪人」こと、オレステス・デストラーデを思い出す。しかし、復讐のためとはいえ、母親とその愛人を殺したギリシャ悲劇中の人物の名を我が子につけた親の気持ちとは、一体どんなものだったのだろう。

7月21日 ジョグ2キロ

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2020/07/20

セルのブルックナー第8番

Sicc10250ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の録音を愛聴していることは何度か書いてきた。主としてモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を折に触れて鑑賞し、その都度新たな感銘を受けてきたが、ブルックナーについてはこれまでほぼノーマークだった。

第3交響曲の廉価盤LPを持っているけれど、昔のCBSにありがちな乾いた音と人工的な残響で、最後まで聴くに堪えなかったのだ。その第一印象が悪すぎたせいで、第8番も録音があることは知っていたが、更に長いシンフォニーを聴いてみようという気が起こらなかった。

しかし、最近ソニー・クラシカルとタワーレコードが共同で、アナログ録音の新たなデジタルリマスターに取り組んでいて、その一環としてセル指揮ブルックナー第3番、第8番のCDが2018年に発売されたことを知り、物は試しと聴いてみたのだ。

まずは第3番。一聴してLPとは次元の異なる音に驚いた。弦楽器の音の艶が感じられ、管楽器とのバランスもよく取れている。LPでは保てなかった集中力が最後まで途切れず、全体で約55分と比較的短めの演奏時間が更に短く感じられた。

そして、初めて聴く第8番は冒頭から異様なほどの緊迫感を孕んだ演奏に、思わず居住まいを正してしまった。何より驚いたのが第2楽章の濃密な表現である。ブルックナーのスケルツォ楽章がこれほど深い味わいをもって演奏された例を他に知らない。

この調子で後半に突入したらどうなるかと思いきや、第3楽章アダージョは意外にも突き放したというか客観性を取り戻した演奏で、いかにもセルらしい精緻で格調の高い表現は比類がない。

終楽章はそれまでの音楽を集大成した音の大伽藍で、とりわけ堂々としたコーダには圧倒された。そこまでの演奏が良くても、このコーダのテンポひとつで台無しになる演奏をいくつも聴いてきただけに、この録音全体の素晴らしさを象徴しているように感じられ、演奏が終わってもしばらく椅子から立ち上がれないほどの感銘を受けた。

あとで知ったのだが、この録音は1969年10月に行われ、セルとクリーヴランド管のコロンビアへの最後のセッションとなったものである。セルは翌年4月に生涯最後の録音となったドヴォルザーク第8番とシューベルト「グレイト」をEMIに録音したあと、5月にはクリーヴランド管と初来日して今も語り草の名演を聴かせたが、帰国後間もない7月30日に多発性骨髄腫のため急逝し世界中の音楽ファンを驚かせた。

来日公演にピエール・ブーレーズを同行させたのはセルの体調不良に備えたためとも考えられ、おそらくセルは自身の病状の進行について知っていたのだろう。このブルックナーの録音についても相当の覚悟をもって臨んだに違いない。普段はLP1枚分を1日で録り終えてしまうセルが、実に4日間もかけてじっくり取り組んだことがその証左であろう。

これまでこの録音を聴かなかったのが悔やまれるが、まだ元気なうちに聴けて本当に良かったと思う。と同時に、この驚異的な名演奏がその後1年経たずに死去した指揮者によって成し遂げられたことに思うと、憚りながら同じく癌との闘いの真っただ中にいる自分にとって、これ以上ない励ましに思える。この先、病状が悪化したとしても、この録音のことを思い出し、また実際に聴いて気持ちを奮い立たせたいと思う。

7月18日 ジョグ2キロ

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2020/07/17

楽劇「サロメ」

Salomeリヒャルト・シュトラウスのオペラでは最初の成功作となった作品。ベーム指揮ウィーンフィル他による映画版を鑑賞。

新約聖書の小さな挿話をもとにオスカー・ワイルドが創作した同名の戯曲を台本とする。もともと聖書では洗礼者ヨハナーン殺害のきっかけとなったものの、名前すら明示されていない「ヘロディアスの娘」を主人公に、ワイルドは世紀末の頽廃感濃厚な異常性愛の物語に変貌させ、それをシュトラウスの爛熟した極彩色の音楽が彩る。

あまりに官能的、不道徳であるとして、当初は各地で上演禁止となるほどのセンセーションを巻き起こした問題作で、特に後半でサロメが7枚のヴェールを順に脱ぎながら踊る場面と、その褒美として希望したヨハナーンの生首にサロメが接吻する場面は衝撃的である。

そのショッキングな内容にもかかわらず、いやだからこそか、シュトラウスの音楽の素晴らしさが本作最大の魅了だ。序曲、前奏曲もなくいきなり衛兵隊長ナラボートの歌から始まり、全1幕途切れることなく大河のように流れる音楽は極めて雄弁である。全体のストーリーはもちろん、場面場面の具体的な状況や、極端に言えば歌詞の単語ひとつに至るまで音で表現している。

たとえば第4場でヘロデが「大きな翼の羽ばたき」の幻聴に慄く場面では、本当に風のような音が聴こえる。交響詩「ドン・キホーテ」でも同じような表現があり、シュトラウス自家薬籠中の技なのだ。また、ヘロデがダンスの褒美としてサロメに提案する様々な宝物を表す音楽は、まるで万華鏡のように千変万化する。

タイトルロールはテレサ・ストラータス。細身で可憐な容姿はサロメに打ってつけで、ジャケット写真のようにカツラを被った前半の無邪気さから、後半では髪を下ろし、早くも一人の女として魔性を発揮するまでのドラマチックな変化を演じ切っている。問題のダンスは映画版なのでいかなる映像操作も可能で、一瞬だけ後ろから映る裸体は体格があまりに違うのでおそらくボディダブルだろう(笑)。ヨハナーンのベルント・ヴァイクル、ヘロディアスのアストリッド・ヴァルナイら脇役も素晴らしい。

7月15日 ジョグ3キロ

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2020/07/05

歌劇「ローエングリン」

Lohengrinワーグナー作の「3幕のロマン的歌劇」。1982年、バイロイト音楽祭の公演録画を鑑賞。

10世紀のブラバント公国(現アントワープ近郊)。公女エルザは行方不明になった弟ゴットフリートを殺めたとして、王位を狙う貴族テルラムントに告訴され窮地に立たされていたが、白鳥に曳かれた舟に乗って現れた騎士が神明裁判の決闘でテルラムントに勝利してエルザを救う。
騎士は決して自分の名前と素性を尋ねないことを条件に、彼女と結婚して公国を治めることになるが、テルラムントの妻の魔女オルトラートの奸計により、エルザは婚礼の夜ついに禁を破ってそれを尋ねてしまう。騎士は聖杯王パルジファルの息子ローエングリンだと明かし、再び現れた白鳥の舟で公国を去っていく。オルトルートの魔術で白鳥に姿を変えられていた弟ゴットフリートが元に戻り、公国の後継者となるところで幕となる。

白馬ならぬ白鳥の騎士がどこからともなく現れ、困っているお姫様を助ける。お伽噺のような粗筋を読んだ段階では全然ピンと来なかったが、精妙極まる第1幕前奏曲に始まるワーグナーの音楽に魅入られ、タイトルどおり独特のロマン的作品世界に最後まで引き込まれてしまった。

名前を明かさずともその佇まいだけでエルザをはじめ公国の人々を感服せしめる騎士をペーター・ホフマンが演じている。張りのあるヘルデンテノールの声に加え、立派な体格とハンサムな容貌に恵まれ、まるで本物の騎士が現れたかのようだ。

一方、カラン・アームストロング演じるエルザは、可哀そうだけれど主体性のないお姫様という以上のものはない。それよりも魔女オルトルートこそ、ローエングリンに対抗する強烈なキャラクターを持ち、本作の実質的な狂言回し役を担う。エリザベス・コネルの歌唱と演技は憎々しいばかりで、女イアーゴと言いたくなるほど。それに引き換え、言葉ばかり威勢の良い亭主テルラムントの情けないこと。(笑)

ところで、本作が芸術はもちろん文化、社会、政治など様々な分野にもたらした影響は計り知れない。本作にのめり込んだバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、その名も新白鳥城というノイシュヴァンシュタインを築いて国家財政を破綻させ、その経緯をルキノ・ヴィスコンティは映画「ルートヴィヒ」で克明に描いた。

アドルフ・ヒトラーもことのほか本作を愛し、第3幕第3場の「ドイツの国のためにドイツの剣を!」は、戦意発揚の音楽としてナチスに利用されるところとなった。おそらくそれを踏まえてだろう、チャップリンは「独裁者」の中で、ヒンケルが地球儀の風船で戯れるシーンで本作の前奏曲を流している。

ただのお伽噺と思ったら大間違いなのだ。

7月5日 ジョグ2キロ 

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2020/06/23

喜歌劇「メリー・ウィドウ」

Merrywidowフランツ・レハールの代表作。2015年メトロポリタンオペラ公演の録画を鑑賞。METでのオペレッタ上演は珍しい。METライブビューイングの紹介文。

20世紀初めのパリ。東欧の小国ポンテヴェドロの外交官ツェータ男爵は、亡夫から莫大な財産を受け継いだハンナが他国の男性と再婚すると国が破産しかねないと、書記官の伯爵ダニロにハンナに求婚するよう命じる。実はダニロはかつてハンナと恋仲で、身分違いゆえに結ばれなかったのだ。だが意地っ張りのダニロは頼みを断る。一方ハンナは、ツェータ男爵の妻ヴァランシエンヌの浮気をかばってダニロの誤解を招く。すれ違う恋のゆくえはいかに?(引用終わり)

「指環」を観たあとの箸休めというか、お気楽なオペレッタで気分転換でもと思っていたのだけれど、ごめんなさい。オペレッタ、完全に舐めていました(笑)。全体にとても品の良い、大人向けの極上のエンターテインメント作品だったのだ。

かつて恋仲だったハンナとダニロの間に再び恋愛騒ぎが持ち上がり、そこにツェータ男爵夫人の浮気が絡んで、一時は祖国の命運にかかわる事態に発展するが、最終的には誤解が解けてハッピーエンドを迎える。ストーリー自体は、例によって他愛もないお話である。

主人公の二人は本音では縒りを戻したいのに、過去の経緯と今の状況がそれを簡単に許さない。それでも互いの本心を探り合い、ついに幸福な結末を迎えるまでの過程が本作のキモである。それを象徴するのが有名な「メリー・ウィドウ・ワルツ」で、最初はハミングだったのが、最後に心温まる二重唱となって完成する構成は心憎いばかりだ。

一方、オペラにつきもののバレエは、ともすればそこだけ浮いた存在になりがちなところ、本作では祖国ポンテヴェドロへの愛国心や、ダニロの行動や心理を表現する重要な手段となっていて、オペレッタの不可欠の一部としてきちんと機能を果たしている。

このMET公演ではハンナ役のルネ・フレミング、ヴァランシエンヌ役のケリー・オハラとの豪華共演が話題となった。ケリー・オハラはブロードウェイのスターだが、学生時代はオペラを勉強していて、夜の女王を歌ったこともあるそうだ。確かにコロラトゥーラ系の軽い声質で、マイクなしでの声の通りは今一歩だったが、初オペレッタ初METとしては大健闘した部類だろう。

また、本作はこれもMETでは珍しい英語での上演だが(原語ドイツ語)、日本ではなぜかタイトル自体が英語表記のせいもあってかさほど違和感はなく、英語圏出身の歌手たちがセリフ部分を含めて伸び伸びと演じていたのが印象的だった。トニー賞受賞のストローマン演出も相俟って、特に第2幕の七重唱「女たちをどう扱う?」など、もうブロードウェイ・ミュージカルの一歩手前まで来ている感じだ。

ところで、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の「戦争の主題」後半の下降音型は、本作でダニロが歌う「マキシムへ行こう」を引用したものとされる。その歌詞は何と、「彼女たち(酒場の女たち)は祖国を忘れさせてくれるのさ」というのだ。これを不真面目だと批判したバルトークは、「管弦楽のための協奏曲」第4楽章でこれをさらに引用して茶化すような音楽を書いた。

一方、未亡人殺人事件を題材にしたヒッチコックの名作「疑惑の影」で、本作のワルツが重要なカギとして登場するなど、後世の芸術作品への影響は少なからぬものがある。ヒトラーがこのオペレッタを好んだためナチスに庇護されたレハールは、のちに戦争協力者と目されたという話まであり、ただのお気楽なオペレッタと思ったら大間違いなのだ。

6月21日 ジョグ3キロ

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2020/06/20

クルレンツィスのCD

Pathetique近年話題になっているギリシャ出身の指揮者テオドール・クルレンツィスが、手兵ムジカエテルナと録音したCD4枚を聴いてみた。曲目はモーツァルトの「フィガロの結婚」ハイライト、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」とヴァイオリン協奏曲(独奏コパチンスカヤ)、マーラーの交響曲第6番、そしてストラヴィンスキーの「春の祭典」とカンタータ「結婚」である。

ピリオド楽器を使う楽団とのことだが、ディスコグラフィーにはパーセルからショスタコーヴィチまで並び、そのレパートリーの広さに驚かされる。今回聴いた中でも、モーツァルトではほとんど室内楽のような小編成オケにピアノフォルテを加えて18世紀の音を再現する一方、マーラーやストラヴィンスキーでは大編成オケによる迫力ある音響を聴かせる。かように伸縮自在でありながら、アンサンブルの精度は常に高く保たれている。

ところが、である。

CDを聴いている間じゅう、ずっと妙な違和感に襲われて音楽に集中することが出来なかったのだ。モーツァルトはともかく、それ以外のCDで聴くオケの音がどこかヘンだ。「実際こんな風に聴こえるはずがない」。そう思い始めると、どこがどうヘンなのか気になって仕方なく、音楽の流れに身を委ねるどころでなくなる。

おそらく、録音後のミキシングでかなり作為的な編集が行われたに違いない。特定の楽器が突然前面に出て目立つかと思えば、「悲愴」のクラリネットソロが、舞台袖で吹いているかと思うぐらいの超弱音で始まったりする。協奏曲のヴァイオリンソロがフルオーケストラに負けない大きな音像で再生されたりすると、思わず「ウソだろ」と叫びたくなる。一方では、マーラーの最も音量が大きな箇所では、不自然にピークが抑えられていたりする。

LPレコードの時代から録音後の編集作業は不可欠の工程で、エンジニアの腕の見せ所ではあるのだけれど、ここまで踏み込んで音をいじる、と言って悪ければ作り込んだ録音はなかったのではないか。従来のアーティストだったら許容しないレベルまで、クルレンツィス自身がむしろ積極的に関与しなければ、これらのCDは日の目を見なかったに違いない。そういう意味でも、これまでに類を見ない新しい時代の指揮者なのだろう。

そうなると、実演ではどうなのかが気になるところだ。今年4月に予定されていた来日公演は残念ながら中止になったが、昨年の来日公演では「賛否両論、さまざまな議論が飛び交った」そうである。過去の公演の動画を見ると、チェロ以外の奏者が全員起立したまま演奏しているのもあり、ビジュアル的にも世間の耳目を集めているようだ。

ところで、そうした録音編集や演奏スタイルなど表面的な特徴はさておき、肝心の演奏の中身はどうなのだろう。前述したように、録音の不自然さのため音楽に集中できなかったきらいはあるが、自由闊達な演奏に好感を持てたモーツァルト以外は大して感心しなかったというのが正直なところだ。

チャイコフスキーの交響曲は細部まで克明に表現された演奏だが、協奏曲は奇を衒ったとしか思いようがなく、マーラーは音響の美しさは良いとして、特有の粘っこいリズムとかグロテスクな音色との対比などの味わいに乏しい。「春の祭典」はもっと野性的で「尖った」演奏を期待していたが、これまた大変美しく「円い」演奏に拍子抜けした。

最近、ベートーヴェンの交響曲第5番のCDが発売され、今後チクルスを完成させる予定と聞く。また機会があれば聴いてみたい。

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