2019/09/14

マンガ名作オペラ「ニーベルングの指環」上下

Niebelungen_20190913092701里中満智子著。ワーグナー畢生の超大作「ニーベルングの指環」をマンガ本2冊に纏めたもの。版元の紹介文。

(上)神話世界を描いた壮大な作品、ニーベルング。世界を滅ぼすとの呪いをかけられた黄金の指環。欲望渦巻く神々の世界を描く前編。(下)ジークムントの忘れ形見ジークフリートとブリュンヒルデの全てを焼き尽くす愛の行方は? 世界に破滅をもたらすニーベルングの指環は誰の手に渡るのか?(引用終わり)

ワーグナーのオペラをこともあろうにマンガにするなんてと、最初はとても違和感があったけれど、結果的には読んでみて正解だった。これまで「指環」の概略を把握しようと、(文字で書かれた)あらすじを読んだことは何度かあるが、人間関係が複雑なうえに飛躍の多いストーリーがほとんど頭に入って来なかった。かと言って、予備知識なしに観て分かるような代物でないことは明らかで、作品のあまりの長大さと並んで、なかなか実際の鑑賞に至らない原因になっていた。

それが、このマンガ本上下2冊を読んで、ストーリー全体の骨格というか、大まかな流れがすんなりと把握できたのだ。主要登場人物のキャラクターや相互の人間関係を、ビジュアルを通じて具体的に理解することが出来る。「アルベリヒ」と文字で見るより、あのイボだらけでヒキガエルみたいな顔の小男かと直感的に掴める。

もちろん、これがワーグナーの意図を寸分の狂いなく表現したものとは言えないだろう。今後、オペラそのものを鑑賞してみた後で感想が変わる可能性はある。それでもなお、長年の「食わず嫌い」というか、「とっかかりのなさ」に風穴をあけてくれたことは間違いない。マンガを読んだあとでは、文字で読むあらすじも以前より格段に頭に入ってくる。この調子で予習を続けて、いずれは本編オペラに挑戦してみたいと思っている。

 

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2019/09/11

歌劇「椿姫」

Traviata_20190911094701 ヴェルディ中期3大傑作のラスト。原題は La Traviata で「道を踏み外した女」というような意味だが、本邦ではデュマ・フィスの原作タイトルに近い「椿姫」として親しまれている。ちなみに、私の高校時代の歴史だったかの女性教師が同じ綽名で呼ばれていた。そのココロは、教壇で喋ると唾液が飛んで、最前列の生徒が迷惑したことによる。(笑)

今回鑑賞したのは、1994年英国コヴェント・ガーデン王立歌劇場で行われた公演のDVDである。主役のヴィオレッタを当時新進気鋭のアンジェラ・ゲオルギューが務め、彼女の出世作となった歴史的な公演である。指揮はこの劇場の音楽監督を長年務めたゲオルク・ショルティで、彼が死去する僅か3年前のことであった。

独墺系が得意だったショルティがヴェルディ、しかも「椿姫」というのは意外な取り合わせのように思え、前奏曲が始まってあの厳つい顔がアップで映るとかなりの違和感を感じるが、実際にはオペラ指揮者としてヴェルディやプッチーニもレパートリーにしていたようだ。

パリ社交界の華として持て囃されていたヴィオレッタが、ある日純真な青年アルフレードの一途な愛を受け入れ、パリ郊外で彼との幸福な日々を過ごすようになるが、突然現れたアルフレードの父ジェルモンから、娘の縁談に差し支えるからと身を引くよう懇願される。このあたり何となく日本の人情劇のようであるが、見知らぬ娘の幸福と自らの境遇を天秤にかけたヴィオレッタはジェルモンの申し出を了承する。その後の紆余曲折を経て、最終的にはジェルモンも考えを改めアルフレードとの仲を認めるも時すでに遅く、肺結核に侵されていたヴィオレッタはこの世を去る。

このようにヴィオレッタの命運は大きく変遷していき、それに合わせたヴェルディの音楽も非常に振れ幅が大きい。この役を演じるソプラノには幅広い歌唱力、演技力が求められるが、ゲオルギューは期待に十分応えて見事な歌唱と演技を披露している。アルフレード役のフランク・ロパードは少し弱いが役柄にはピッタリ、ジェルモン役のベテラン、レオ・ヌッチはさすがの味わい深い演技を見せている。

蛇足ながら、コヴェント・ガーデンの習慣なのだろう、アリアや重唱が終わった直後の拍手喝采は一切なく、すぐに次の場面へと移行する。DVDで観る限り観客の反応は全く分からないが、舞台の歌手たちには雰囲気は伝わっているのだろう。舞台が一旦止まったまま中断することなく、ストーリー展開に集中できるメリットはあると思われ、これはこれで良き伝統なのだろう。

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2019/09/08

歌劇「イル・トロヴァトーレ」

ヴェルディの中期3大傑作オペラの2つめ。メトロポリタンオペラ2015年公演のライブビューイングで鑑賞。

タイトルは「吟遊詩人」の意で、騎士で吟遊詩人のマンリーコとアラゴンの貴族ルーナ伯爵は、ともに女官レオノーラを愛する恋敵であるが(レオノーラが愛するのはマンリーコ)、実は二人は長年行き別れた兄弟であることを本人たちは知らない。ルーナ伯爵は幼い頃ジプシーに誘拐された弟の行方を長年探していて、一方、マンリーコはジプシー女アズチェーナの子供として育てられてきた。アズチェーナはかつて自分の母を先代の伯爵に火刑死させられ、その際誤って自分の子供も一緒に焼き殺してしまったことから、伯爵家に対する復讐の機会を窺っていた。

ルーナ伯爵は弟を誘拐した犯人と判明したアズチェーナと、その息子にして恋敵のマンリーコを相次いで捕らえる。レオノーラは自分の命と引き換えにマンリーコを助けようとするが、それを知って激昂したルーナ伯爵がマンリーコを処刑した瞬間、アズチェーナは「あれ(マンリーコ)はお前の弟だったのだ。母さん、復讐は果たしたよ」と叫び、弟とレオノーラを同時に失ったルーナ伯爵が茫然とするなか幕が下りる。

ああ、ややこしい(笑)。MET幕間のインタビューでアズチェーナ役のドローラ・ザジックが、「イタリアのあるレストランに希少なワインがあって、本作の複雑な筋を説明できたらもらえる」という逸話を紹介していて、「確かまだお店にあるはず」と結んでいる。何もここまでややこしい筋にしなくてもいいようなものだが、復讐とか呪いとか三角関係というのはオペラに欠かせない道具立てで、それらを欠かさず盛り込んだ本作はオペラの中のオペラと言えるのかもしれない。

ヴェルディの音楽が素晴らしいことは言うまでもない。全篇華麗な歌また歌の連続で全く飽きさせることがない。このMET公演では、何といってもレオノーラ役のアンナ・ネトレプコが圧巻の歌唱で聴衆を魅了しているし、脳腫瘍で闘病中だったディミトリ・ホヴォロストフスキーがルーナ伯爵を熱演、影の主役とも言うべきアズチェーナ役を25年前のMETデビュー以来演じてきたザジックはさすがの貫禄を見せている。タイトルロールはヨンフン・リーというおそらく韓国出身のテノールで、線は細いながらもよく伸びる高音で健闘していた。

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2019/09/02

歌劇「リゴレット」

Rigoletto_20190902111601ヴェルディ中期の傑作オペラ。今回視聴したのは歌劇場の公演ではなく、オペラの舞台となったマントヴァなどで撮影された映像に音楽をつけた「オペラ映画」とも言うべきもの。パヴァロッティ、グルベローヴァ、ヴィクセル等の名歌手を揃え、シャイー指揮ウィーンフィルの音楽、ポネル演出と、大変贅沢な顔ぶれで製作されたものである。

ただ、ストーリー的にはどうにもついていけなかった。好色で狡猾なマントヴァ公爵。毒舌の道化役リゴレット。その清純な娘ジルダは公爵に騙される。どの人物にも感情移入どころか、心情理解すらできず、おまけにキーワードが「呪い」というのだからお手上げだ。

しかし、音楽は文句のつけようがないほど素晴らしい。有名な「女心の歌」や、様々な組み合わせの二重唱、大詰めでの四重唱など、緊迫感を増しながらドラマを盛り上げていく。端的に言って、この作品の魅力の大部分はその音楽にあるのだと思う。

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2019/08/30

リヒャルト・シュトラウス管弦楽曲全集

Straussこれも英EMIのボックスセットで、1970年代前半にルドルフ・ケンペがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した、名盤の誉れ高い録音。「管弦楽曲全集」とあるけれど、ホルン協奏曲など独奏楽器と管弦楽のための作品も網羅している。曲目など詳しくはこちら

通して聴いてみて強く感じたのは、シュトラウス作品の驚くべき多様性である。キューブリックのおかげで有名となった「ツァラトゥストラ」に代表されるように、シュトラウスというと大編成のオーケストラによる音の洪水をイメージしがちだが、「町人貴族」や「クープランのハープシコード曲による舞踏組曲」などは、新古典を通り越して新バロックとも言うべきシンプルな音楽で、とても同じ作曲者の作品とは思えない。晩年の「メタモルフォーゼン」は23の独奏弦楽器のために書かれ、それだけの楽器でも作曲者の思いを十二分に表現し得ている。

作風的にみても、初期のヴァイオリン協奏曲やホルン協奏曲第1番はまだ後期ロマン派の範疇に収まっているが、そうした基礎の上に彼独自の音楽語法を次第に確立し、「ドン・ファン」や「ティル・オイレンシュピーゲル」といった傑作交響詩を次々と生み出していく。管弦楽法の多彩さは他に類を見ないほどで、「ドン・キホーテ」では羊の群れが鳴き、主人公が空を飛ぶ。「アルプス交響曲」はまるで一篇のドキュメンタリー映画を観ているようである。

ただ、この「アルプス交響曲」は元々は副題で、出版直前まで「アンチクリスト(反キリスト者)」という標題で作曲が進められたという経緯があり、「ツァラトゥストラ」とともにニーチェの思想が影響しているという、金子建志氏による解説がある。先日書いた「タンホイザー」もカトリック批判に通じる内容を含んでいるが、アルプス交響曲の「狩りの動機」はそれを踏まえていることの証左であるという。大変興味深い指摘である。

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2019/08/27

歌劇「ナブッコ」

「タンホイザー」に続いて、同じワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を観てみたが、もうひとつピンと来なかった。バイロイト音楽祭のVHSビデオはテープが傷んでいて鑑賞に堪えず、メトロポリタンオペラは現代的なセットによる舞台に違和感が残った。音楽的には頻繁に登場する「トリスタン和音」が、矛盾を抱えたままの人間の心理的葛藤を窺わせるが、アリアや重唱は冗長な感じが禁じ得なかった。熱心なワグネリアンに叱られそうだが、極端に言えば「前奏曲と愛の死」だけ聴けば足りるような気がした。

ワーグナーではあと「ニーベルングの指環」4部作のビデオがあるけれど、これをちゃんと鑑賞するには十分な予習が必要と思われるので、また後日に譲ることにして、当面ヴェルディのオペラを年代順に観ていくことにした。手元にある最も初期のものが「ナブッコ」で、ヴェルディ3作目にして彼の出世作となった記念碑的作品である。

旧約聖書に題材を取り、バビロニア国王ナブコドノゾール(ナブッコ)がエルサルムに侵攻してソロモン神殿を破壊、多数のヘブライ人をバビロンに連行(バビロン捕囚)するが、その後ナブッコの2人の娘とエルサレム王の甥イズマエーレとの三角関係からバビロニア王家内の対立が深まり、ついにはナブッコに天罰が下って雷に撃たれ錯乱状態に陥るが、やがてナブッコ自身がヤハウェ神に帰依してヘブライ人を解放するという物語。後半部分はオペラを面白くするための脚色で、史実とは全く異なる設定なのだそうだ。

音楽的にはアンサンブル(重唱)や合唱の使い方が効果的で、とりわけ第3幕の合唱「行け我が想いよ、黄金の翼に乗って」は有名で、「第二のイタリア国歌」とも称されている。MET公演でも聴衆からひときわ大きな拍手喝采を浴び、指揮者レヴァインがそれに応えてこの合唱をアンコールでもう一度歌わせている。

タイトルロールのナブッコ役はプラシド・ドミンゴ。もう70代の彼だが、かつての「3大テノール」の一角が、今ではバリトンに声域を下げて役柄を変えつつ、50年以上にわたって現役で活躍を続けているのだ。

このあと、「マクベス」「ルイザ・ミラー」と観たが、ドミンゴは後者でも娘思いの父親役を好演していた。次はいよいよ中期の3大傑作オペラに入る。

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2019/08/24

モーツァルトのピアノ協奏曲全集

Concertos_20190823085201「作曲家には4つの種類の人々がいます。面白くない作曲家。面白い作曲家。偉大な作曲家。そしてモーツァルト。モーツァルトは誰にも比すことができない」

バレンボイムがあるインタビューの中で語った言葉である(朝日新聞2015年12月9日)。けだし至言である。私見では面白い作曲家は数十人、偉大な作曲家も10人はいると思うが、モーツァルトだけは別格、唯一無二の存在である。

そのモーツァルトのピアノ協奏曲は、もともと作曲者自身が独奏と指揮を兼ねて演奏する(弾き振りという)ために作曲されたもので、今日でもそのスタイルで演奏するピアニストは少なくないが、早くも1970年前後にイギリス室内管弦楽団とその形での全曲録音をなし遂げたのがバレンボイムである。これが私の愛聴盤であることは以前にも書いた。

しかし、折角全集盤を持っていながら、これまでは適当に摘み聴きする程度で、全曲を通して聴いたことはなかった。バレンボイムのファンとしてこのまま終わってはならじと、第1番から第27番まで、全集盤には含まれない2台ピアノと3台ピアノのための2曲を除く全25曲を通して聴いてみた。

「二刀流」などと器用さを持て囃すレベルを超えて、ピアニストとしても指揮者としても超一流のバレンボイムだけがなし得た、歴史的な名盤と言って過言ではない。ピアノソロのダイナミクスや音色、タッチは千変万化しながら、しかも本来そうあるべしという自然さで聴こえてくる。ピアニシモでの微細なニュアンスは息を呑むほど美しい。

最初期の第1番から第4番までは他の作曲家の作品を編曲した、いわゆる「パスティーシュ」であって、モーツァルト自身の作品としては第5番ニ長調K175が実質的な第1番ということになるが、まだザルツブルク時代の17歳の若書きにもかかわらず、既にモーツァルトの特質が明確に現れている。

ここから始まった彼のピアノ協奏曲は、ウィーンに移り住んだのちの第11番からはさらに円熟味を増し、その創作は晩年まで連綿と続けられていった。急緩急3楽章からなる古典協奏曲の形式を踏まえながら随所に革新的な試みを交え、それでいて全体としては「どこを切ってもモーツァルト」という奇跡のような音楽ばかりである。

とりわけ第20番ニ短調K466と第27番変ロ長調K595の2曲は芸術性が高く、特に最期の年に作曲された後者は、同じ時期のクラリネット協奏曲などと同様、メロディ、リズム、和声いずれも必要最小限の簡明な構成ながら、聴こえてくる音楽は清澄にして深遠であり、枯淡とも言える境地に達している。バレンボイムの演奏を聴いていると、もし「神の音楽」というものがあるとするなら、こういう音楽かもしれないと思うのである。

冒頭のインタビューはこう続いている。

「全ての音が当たり前のようにそこにある。いつ演奏しても、すべてのフレーズが、その瞬間に生まれたかのように響く」

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2019/08/19

歌劇「タンホイザー」

長年クラシックファンの自分であるが、ことオペラに関してはこれまで敬遠がちというか、あまり馴染めないまま過ごしてきた。ひとつには長大な作品が多いため、まとまった時間と心の準備が必要なこと。さらに、主にイタリア語やドイツ語など原語で上演されるため、歌詞対訳や字幕を追いかける必要があるのが煩わしい。約25年前のアメリカ滞在時にはメトロポリタンオペラ(MET)にかなりの回数通ったものだが、当時は現在のような字幕装置もなく、歌詞も分からないままオペラの雰囲気だけを味わう程度だった。

ただ、当時METの売店で買い求めたオペラのVHSビデオだとか、最近WOWOWで放映されたMETライブビューイングなどを録画したオペラのDVD・BDがうちに相当数ある。これまで観る機会はほとんどなく、老後になって時間が十分できたときの愉しみというか、死ぬまでにはいずれ鑑賞する機会が訪れるだろうと考えていた。

ところが、今回の病気が最悪の経過を辿った場合、近い将来それが現実のものとなる可能性が出てきた。自宅で一応普通に過ごせている今のうちから、順次観ておくに越したことはないと思い立ち、とりあえず序曲などで多少馴染みのある「タンホイザー」から手を付けることにした。手元にはシノーポリ指揮による1989年バイロイト音楽祭公演を収録したVHSビデオ(英語字幕)と、レヴァイン指揮による2015年MET公演のBDの2種類があり、順番に観てみた。

前者はいかにも「本家」バイロイトらしく、必要最小限の装置だけにとどめた、ほとんどモノトーンのシンプルな舞台は、ワーグナーの音楽を聴かせるためという目的を明確に示している。オーケストラや合唱の力量の高さも相俟って、音楽作品としての完成度は極めて高い。ただ、英語字幕には見慣れない単語や古語(?)が頻出し、たびたび一時停止して辞書で確認するなど苦労した。

それに比べて、後者はいかにもMETらしい絢爛豪華な舞台で、カメラワークも変化に富み、娯楽作品といって悪ければ、総合芸術としての完成度は高い。独唱者はもちろん、オケや合唱も四半世紀前に比べれば格段の進歩が窺え、何よりも日本語字幕付きなので筋書きを追うのがラクだ。

作品は異教の女神ヴェーヌスに魅入られ、愛欲の日々を送っていた主人公タンホイザー(劇中ではハインリッヒ)が改悛し、カトリック信仰に救いを求めようと巡礼に旅立つも、ローマ法王から拒絶されて絶望の淵に陥るが、恋人エリーザベトの命がけの祈りによって死後の救いを得るという物語。ワーグナーお得意の聖女の自己犠牲ものではあるが、愛欲を謳歌する異教神と厳格なカトリック信仰との二項対立といった、一筋縄ではいかないところがミソだろう。

せっかく邪宗から目覚め、長い巡礼の旅をしたタンホイザーが救われなかったというのは、カトリック信仰の力をもってしても異教神を排除できなかったということだし、一方のエリーザベトにしたところで、神の言葉を代弁する天使という設定でありながら、第3幕では次のような衝撃の告白をしているのだ。

かつて罪深い欲望が芽生えた時 
私はもだえ苦しみました
心の中の欲望を押し殺すために

信仰に救いを求めようとする心も、また愛欲に支配される人間の業の深さも、どちらも紛う方なき人間の真実であることを、このオペラは示しているのではないか。

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2019/08/16

CDプレーヤーを買い替え

闘病ネタ続きになったので、少し目先を変えて音楽ネタをひとつ。

退院してから専らの楽しみは、食べることと音楽を聴くこと(笑)。とりわけ、1か月以上ちゃんとした環境で音楽を聴いてなかった反動と、最悪の場合あと何年聴けるか分からないという状況から、大袈裟に言えば一期一会のような覚悟で音楽を聴く日々を送っている。

皮肉なもので、そういうときに限って不具合が生じるもので、前にアンプを修理したときに書いた「タイマー」がついに作動したのか、ソニーのCDプレーヤーがとうとう故障してしまった。再生音に特に異常はないのだが、70分を超えるようなディスクの最後の方になると、アナログディスクの「針とび」のような現象が発生するのだ。別のCDコンポでは起きないので、CDソフトの不良ではなくプレーヤー側のトラッキングサーボ不良が原因なのは間違いない。

中島平太郎著『CDオーディオ談義』によれば、CDの音溝をトレースするというのは、スケールを10万倍した直径12キロメートルのディスクで言えば、「両脇にガードレールなしの幅5メートルの道路を、秒速1万2千キロで突っ走ることになる。全行程は5千万キロ。地球から月まで65往復を1時間余のドライブでこなす。しかも、道は左右に幅700メートルぐらいで揺れていて、これを毎秒十数回ハンドルを切り続けながら走るのである」とある(一部表記を修正)。そういう制御を30年近くこなしていれば、どこかにガタがきてもおかしくないし、ディスクのどこかでエラーが出るということは、それがない箇所でも再生音に何らかの影響を及ぼしている可能性がある。

ということで、この際思い切って買い替えることにし、以前から決めていたアキュフェーズDP-430という機種を早速発注した。SACD非対応とか、ハイレゾ音源再生可能とか、そういうことは自分にはどうでもいい。手持ちのCDがきちんと再生されれば十分であり、それに足る性能は備えていると評価される製品である。

Dp430

デザイン的にも大変美しい。何より、トレイ開閉のスムーズさからしてクォリティの高さを物語る。前のソニーで時々気になったシュルシュルというディスクの回転音も皆無である。これは、音楽に集中する上でとても大事なことなのである。

肝心の再生音については、まだエージングが十分でないため確たることは言えないが、第一印象としてとても密度の濃い、緻密な音であることは疑いない。それは空間と時間、両方の意味においてであり、左右のスピーカーの間に形成される音場が隙間なく埋め尽くされ、かつ、音が減衰する過程が忠実に表現されている。とくにピアノが打鍵され減衰していく音が、完全に一体のものとして再現される。管弦楽のトゥッティでも、個々の楽器の音の足し算ではなく、音場全体が一体のものとして聴き手に迫ってくる印象で、これまでとは明らかに次元の異なる再生音である。

「あと何年聴けるか」などと言いながら、思い切った買い物をしてしまったが、十分にモトは取って見せるつもりだ。(笑)

 

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2019/06/11

バレンボイムのベートーヴェン交響曲全集

Barenboim_1 ベートーヴェン演奏史上に残るであろう画期的な全集盤であると思う。既に全曲を2回通して聴いたが、それがどう画期的なのか、まだうまく表現する言葉が思い浮かばない。ともかく、これまでの演奏とは全く異なるアプローチによって、ベートーヴェン本来の音楽を蘇らせることを志向した演奏であると思う。

バレンボイムが初めてのベートーヴェン交響曲全集を録音するのに起用したのは、シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)であるが、この楽団について彼は自伝の中で以下のように述べている。

「ベルリン国立歌劇場で私が出会ったオーケストラは、非常にすばらしいアンティーク家具に、けれどもいく層もの埃に本来の美しさを覆い隠された家具に似ていた。オーケストラのレベルがたいへん高いことは分かっていたので、私はその埃を取り除く作業に着手した。純粋に音楽的観点に立って、イントネーション、アタックの統一、統一のとれた全体演奏、などの本来の美しさを覆っていたものを取り除いた。少しずつではあるが、このオーケストラが高いレベルを持っているという私の判断が正しかったことが実感され、あっという間にすべてがうまく整った。」

実はこれと同じことが、ベートーヴェンの演奏解釈についても言えるのではないか。手垢のついた伝統的解釈を一旦ご破算にし、「純粋に音楽的観点に立って」ベートーヴェンが本来意図した音楽を再現することを彼は目指したのではないか。サイードと対談した『音楽と社会』という本の中でも、彼はワーグナーが古典派音楽の演奏に対して与えた影響の大きさについて述べていた。

ひとつの例として、偶数番の交響曲は小規模で優美な楽曲と捉える見方が伝統的にある。しかし、それは本当に正しいのか。第7番と第8番を1枚に収めたバレンボイムの演奏を聴くと、それはただの偏見だという気がしてくるから不思議である。おそらく意図してであろうが、第7番が(もちろん立派だけれど)意外に「軽快な」演奏であるのに対し、第8番は冒頭からバスを思い切り響かせた、堂々として重厚な演奏が繰り広げられる。第1楽章展開部144小節目以下の熱のこもった演奏は圧巻である。作品番号が連続するこの2曲は、ともに甲乙つけがたい傑作なのである。

それに限らず、従来の演奏が響きの美しさや全体的な調和を目指した演奏であるとするなら、バレンボイムの方向性は真逆であるようにすら思える。全体にゴツゴツ、ザラザラとした肌触りの音づくりで、フォルテのアタック(音の出だし)はぶつけることも辞さず、クレシェンドやスフォルツァンドなどダイナミクスの変化は強烈である。旧ラジオ局スタジオでの優秀な録音のせいもあるかもしれないが、対旋律や伴奏音型も含めた各声部の音が、溶け合うことなく際立って聴こえる。突飛な譬えかもしれないが、従来の演奏が小奇麗な容器に収まった幕の内弁当だとすれば、バレンボイムのそれは色々な料理がそのまま大皿にざっくり盛られた様子を連想させる。

しかし、それこそが実はベートーヴェン本来の音楽なのではないか。それまでの古典派の音楽がいわば貴族の娯楽音楽でしかなかったのに対し、ベートーヴェンは広く一般市民に向けた芸術作品としての音楽を追求し、様々な試みを実行していった音楽家なのである。第9番第2楽章のティンパニに聴衆が大喜びしたという逸話があるが、意表をつくような楽想や展開で聴衆を飽きさせないのも彼の音楽の特質のひとつとすれば、予定調和的にまとまった演奏は古典派の呪縛から脱していないのだ。

ベートーヴェン時代のピリオド楽器や奏法、自筆譜に基づく新校訂版の使用といった試みは、実は些末的・技術的なことでしかない。モダンの楽器や従前の楽譜でも、ベートーヴェンの音楽の本質を追求することは十分可能だというのが、バレンボイムの主張なのではないか。彼が信奉するフルトヴェングラーの精神を受け継いだ、「魂のこもった」ベートーヴェンと言うことも出来るかもしれない。ただし、演奏様式は全然違っていて、バレンボイムはほとんどインテンポで通していて、アンサンブルは完璧、むろんアインザッツの乱れなど無縁である。

ただ、前の記事でも書いたように、我が国におけるバレンボイムという音楽家の評価が低い、というよりほぼ無視されているのは嘆かわしい。しかし、そのせいなのかどうか、この画期的なCD6枚組が何と990円という値段で入手できたのはとても有難かった。(笑)

6月9日 ジョグ10キロ

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