2016/08/15

ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集

Fitzwilliam_3交響曲全曲に続いて、彼の創作のもうひとつの重要な柱である弦楽四重奏曲全曲を聴いた。演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団。作曲者が死去した1975年から77年にかけて録音されたもので、これもCD6枚で3千円というお値段に惹かれた。(笑)

彼の交響曲第1番が作品10、最後の第15番が作品141であるのに対し、弦楽四重奏曲は第1番が作品49、最後の第15番が作品144であり、後者は作曲者の中期から後期に当たる時期に作曲されているのが特徴である。

CDのランナーノーツを書いた Alan George 氏によれば、このうち第11番までの11曲が中期、第12番以降の4曲が後期と、明確に2つのグループに分かれるとしている。しかし、第11番から第14番の4曲が、彼のほとんどの弦楽四重奏曲を初演したベートーヴェン弦楽四重奏団の各奏者に献呈されていることから、第11番以降の5曲とそれより前の楽曲で分けるのが自然という気がする。

そうした分析はともかく、交響曲の記事でも書いたような彼の音楽の特徴が、弦楽器4本というミニマルな編成によって、より明瞭に聴き取れるように感じられた。管弦楽法にも優れていた彼の交響曲に聴く多様な音色の変化を取り除いた、彼の音楽の言わば骨格というか本質的部分がそこにあるように思える。

交響曲同様、当時のソ連社会の状況を反映した悲惨、苦難、葛藤と、それに対する人間の戦いを描くかのような緊張感に溢れる一方、晩年には「人の生と死」といった哲学的領域にまで踏み込むなど、全15曲はそれぞれ限りない多様性を見せている。

ただし、晩年の作品で12音技法への接近が見られるものの、弦楽四重奏という伝統的様式の範囲をほとんど逸脱することなく書かれているのは驚嘆に値する。主題の提示があって、それが様々に展開された後、主題を再現して終わるというソナタ形式の基本の上に、フーガやパッサカリア、レチタティーヴォといった古典的技法まで含んでいる。先の Alan George 氏はこう書いている。

ベートーヴェンやバルトークとは違って、彼(ショスタコーヴィチ)が弦楽四重奏という媒体について、その既に存在する限界を超えた用法を試みなかったことに留意すべきである。実際、彼はそれを次第に精製し昇華させつつも、それをあるがままに受け入れたのである。この点で、彼が弦楽四重奏という技法を発展させたとはほとんど考えられない。しかし、彼がその表現領域を拡大させたか否かは、それとは全く別問題なのである。(まこてぃん訳)

8月14日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/07/22

『ショスタコーヴィチの証言』

Testimonyソロモン・ヴォルコフ編。1986年初版の中公文庫。現在は絶版となっている。アマゾンの紹介文。

レーニン賞など数々の栄誉に輝く世界的作曲家が、死後国外での発表を条件に、スターリン政治に翻弄された芸術家たちのしたたかな抵抗と過酷な状況を語る。晩年に音楽学者ヴォルコフが聞き書きして編んだ、真摯な回想録。(引用終わり)

スターリンを頂点とするソ連の政治体制への痛烈な批判を含む内容だけに、ソ連本国での出版は絶望的で、記録者のヴォルコフはショスタコーヴィチから、自分の死後にソ連国外で発表することを委託された。ショスタコーヴィチが死んだ翌年の1976年、ヴォルコフはアメリカに亡命、1979年に本書が英語で出版された。

当然ながらソ連当局は本書を「偽書」扱いして、ショスタコーヴィチの真意を伝えていないと反駁し、本書の真贋を巡る論争が繰り広げられたが、「訳者あとがき」によれば、本書のロシア語タイプ原稿には、各章ごとにショスタコーヴィチの署名があるそうだ。

スターリンが行なった恐怖政治の実態について、これほど生々しく「証言」した書物は、おそらく他にあるまいと思われる。たとえば、ある夜ラジオ放送でモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いたスターリンがそのレコードを欲したため、それが生演奏だったにもかかわらず「無い」とは答えられず、急遽楽員が集められて一夜のうちに録音が行なわれた。指揮者は恐怖のあまり思考が麻痺してしまって自宅に帰され、結局3人目の指揮者でどうにか最後まで録音できた。こうして、世界にたった1枚だけのレコードが作られた。文句なしに記録(レコード)、追従の記録であった。

そんな状況の中、ショスタコーヴィチの音楽は「形式主義的」だとされ、『プラウダ』紙上で厳しい批判を受けたが、その批判について「内省」した後は、「社会主義リアリズム」に沿って体制を賛美した内容とされる作品を生み続け、多数の称号や賞を受けて不動の地位を確立した。しかし、それは表面的なことで、真意は別のところにあったのだ。

例えば第7交響曲について、彼はこのように述べている。

戦争は多くの新しい悲しみと多くの新しい破壊をもたらしたが、それでも、戦前の恐怖にみちた歳月をわたしは忘れることができない。このようなことが、第四番にはじまり、第七番と第八番を含むわたしのすべての交響曲の主題であった。
結局、第七番が《レニングラード交響曲》と呼ばれるのにわたしは反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである。(318-319頁)

第7交響曲のいわゆる「戦争の主題」の軽薄な感じに違和感をもっていたが、「訳者あとがき」に紹介された柴田南雄氏の指摘によれば、これはレハールの「メリー・ウィドウ」からの引用であって、そこには「彼女たち(酒場の女たち)は親愛なる祖国を忘れさせてくれるのさ!」という、とんでもなく危険な言葉が隠されていたのだ。これを読んではじめて「そうだったのか」と合点がいった。

これ以外にも、ショスタコーヴィチの作品にはこのような仕掛けが随所に施されているようだ。一例を挙げると、第5交響曲終楽章コーダの「ソドレミ」というトランペットの輝かしいファンファーレは、実は「カルメン」の引用で、その歌詞は何と「信用しちゃだめよ!」なのだ。

スターリンには音楽を理解する能力がなく、その取り巻きもまた同様だから、こんな仕掛けには気がつくまいと考えたのだろうが、万が一にも当局に嗅ぎつけられていたら、彼はどうなっていたか分からない。粛清、自殺、亡命…。どんなこともあり得た時代だったのだ。

そんな危険を冒してまで、彼が文字通り命がけで音楽の中に埋め込んだメッセージを踏まえてこそ、ショスタコーヴィチの音楽の真価が理解できるのだろう。20世紀という人類史上特異な時代をしたたかに生き延び、その確たる証を五線紙に遺した作曲家。それがショスタコーヴィチなのである。

7月21日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/05/19

『拍手のルール』

Applause副題「秘伝クラシック鑑賞術」。「もぎぎ」こと茂木大輔著。アマゾンの紹介文。

クラシックの敷居は高い? ほかのお客さんは音楽がすごく解っているようだが? 正しい拍手のしかた、指揮者によって何が違う? 楽譜が読めないと音楽は解らないのか? など…。知りたかった疑問にお答えまします。(引用終わり)

ご存じ、N響首席オーボエ奏者にして、「のだめカンタービレ」の音楽監修を担当するなど、クラシック音楽の普及にも力を入れる茂木氏によるクラシック入門書である。ユーモアを交えた、軽妙で肩の凝らない文章ながら、書かれていることはかなり本格的である。

年季だけは入ったクラシックファンである自分としては今更の感もあるが、「フライング拍手」について書かれた部分に興味を抱いた。是正される兆しもないではないが、本当に何とかならないものか。それは演奏者側にとっても同じのようだ。

演奏者にとっても、1時間をこえるような大作交響曲を準備し、集中し、必死で演奏し、ついに最後の美しい瞬間に到達したその達成感、満足感は、この数人、一人の行為でみごとに破壊されてしまう。(112頁)

では、それをやめさせる手立てはないものか。もぎぎ先生が提唱するのは、次のような対策である。演奏会鑑賞免許制度、喝采安全信号機、指揮者の聴衆管理、場内アナウンス。実現性や効果はともかくとして、演奏家にそんなことまで考えさせるほどの迷惑行為ということだ。

ところで、フライング拍手に要注意の楽曲リストも添えられていて、その中で、ドヴォルザークの交響曲第8番ト長調の最後の1小節が、GP(ゲネラルパウゼ=全楽器休止)となっているとの指摘があった。知らなかったなあ。当時もフライング拍手する聴衆がいて、ドヴォルザークは業を煮やしていたとか。まさかね。

5月17日 LSD40キロ
5月19日 ジョグ10キロ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/05/13

ショスタコーヴィチ交響曲全集

Shostakovich_3だいぶ以前に、自分の音楽理解がようやく20世紀に入ったというを書いた。その後、さしたる進展はないけれど、最近ショスタコーヴィチの交響曲全集、CD11枚組を衝動買いした。ハイティンク指揮、コンセルトヘボウ管およびロイヤルフィル。1枚500円しないという値段に惹かれた。(笑)

何も知らずにただ聴いたのでは理解しづらい複雑な構成に加え、作曲者を取りまく時代背景や社会情勢と切り離せない作品ばかりで、音楽之友社刊『作曲家別名曲解説ライブラリー』を片手に、第1番から第15番まで順に聴いていった。

これまでよく聴いた第5番以外で特に印象に残ったのは、第1、第9、第10、第15番といった辺りだが、第4、第8番もまた聴いてみたいと思った。半音階を多用し調性と無調のはざまを行き来する独特のメロディライン、執拗に反復される同じリズム、多彩な打楽器の活用など、全ての曲に共通するいくつかの特徴は、一種の「ショスタコ節」と言えるかもしれない。

音友の解説本で諸井誠氏が書いているように、全体としてマーラーから強い影響を受けたことは明らかである。ただ、その活動の場がウィーンから遠く離れたソヴィエトだったことは、運命の皮肉というほかない。終始ソ連政府の統制を受け、公開の場で自作が討議されるなどという、芸術家にとってはタマラン状況にも耐えつつ、しぶとく生き抜いたショスタコはただの天才作曲家ではない。

さて、交響曲と並んで、彼の創作の大きな柱である弦楽四重奏曲も、近いうちに聴いてみようと思っている。きっと、そのうち耳に「タコ」が出来るに違いない。(笑)

5月12日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/03/17

やれば出来るじゃない

去る13日にEテレ「クラシック音楽館」で放送された、スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団のブルックナー交響曲第8番を視聴した。今年1月21日、東京芸術劇場で行なわれた特別演奏会である。演奏は大変立派なものだったが、今回書きたいのはそのことではない。

楽曲が終わったときの聴衆の反応である。以前にも書いたように、我が国のコンサートでよく見られる、残響が消えるまで待たずに飛び出す野蛮な「ブラボー」と拍手を苦々しく思っていたのだが、今回に限ってはそれがなく、指揮者がタクトを下ろすまでの数秒間、沈黙が保たれていた。やれば出来るじゃない。

思うに、あの「フライング・ブラボー」は、歌舞伎の「成駒屋!」といった掛け声と同じようなものなのかもしれない。曲が終わるや否や、間髪入れずに「ブラボー」と叫ぶのが、クラシックの「ツウ」だと勘違いしているのではないか。

楽団側もパンフレットに「拍手は指揮者がタクトを下ろしてからお願いします」などと注意書きを入れるようになったが、その成果がようやく現れてきたのかもしれない。ただ、今度はタクトを下ろした瞬間に、何人もの「ブラボー」が同時に飛び出す。「ツウ」の人たちが今か今かとタクトを必死で見つめているのが想像できて可笑しくなってしまう。本当は夢から醒めたみたいにパラパラと拍手が起こって、次第に大きな歓声に包まれるというのが良いのだが。

それでも、フライングされるよりはマシだ。日本人の中でも特に同調圧力が強いと思われる東京圏の人々の間に、この習慣が根付くのも案外あっという間かもしれない。

3月16日 LSD40キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/01

mp3 に宗旨替え

これまで、CDやFM放送を録音してウォークマンに転送する際は、ソニーの ATRAC3 というファイル形式を使ってきた。確かMDと同じ圧縮技術が使われていると記憶するが、音質の劣化もほとんどなく、家族もソニー製ウォークマンを使っているので、何ら不便はなかった。

ところが、今回購入したN-WGNのオーディオは ATRAC3 に対応しておらず、同形式のファイルは認識されない。現在主流となっている mp3 等のファイル形式でないとダメなのだが、随分以前、携帯音楽プレーヤーが出始めた頃に、この形式で圧縮した音楽のあまりにひどい音質に失望して以来、「mp3 は音が悪い」と思い込んでいた。

ところが、いろいろとやってみると、転送レートによって音質は異なり、レートをある程度上げてやると、ウォークマンやカーオーディオで聴く程度ならほとんど問題ないことが分かった。ひどい音だと思い込んでいたのは、実は転送レートが低いのが原因だったのだろう。

ということで、ネットワークコンポの設定を変えて、今後は mp3、256kbps で録音することにした。同時に新たな発見があって、FM放送を録音する際、DJの語りと音楽とを自動的に判別して、別トラックにする機能があることが分かった。曲の頭出し等が簡単に出来るようになり、大変便利になった。

11月30日 ジョグ10キロ
月間走行  150キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/10/04

『マエストロ!』

Maestro2015年、アスミック・エース。松竹配給。松坂桃李、miwa、西田敏行他。公式サイトの紹介文。

若きヴァイオリニスト香坂のもとに、解散した名門オーケストラ再結成の話が舞い込む。だが、練習場は廃工場、集まったメンバーは再就職先も決まらない「負け組」楽団員たちと、アマチュアフルート奏者のあまね。久しぶりに合わせた音はとてもプロとは言えないもので、不安が広がる。そこに現れた謎の指揮者、天道。再結成を企画した張本人だが、経歴も素性も不明、指揮棒の代わりに大工道具を振り回す。自分勝手な進め方に、楽団員たちは猛反発するが、次第に天道が導く音の深さに皆、引き込まれていく。だが、香坂は名ヴァイオリニストだった父親が死んだ裏には天道が関係していた事を知り、反発を強めてしまう。あまねのひた向きに音楽に取り組む姿勢を目の前にしながらも素直になれない香坂。そして、迎えた復活コンサート当日、楽団員たち全員が知らなかった、天道が仕掛けた“本当”の秘密が明らかになる――。(引用終わり)

ありきたりな結末は途中で大体想像がついてしまったが、それよりも練習や本番の演奏シーンをはじめ、オーケストラに関する諸々の描写がとてもリアルで、元オケマンとしてはそちらの方が面白かった。

起きている時間の90%はリードを削っているというオーボエ奏者の自虐ネタ。買ったリードをそのまま使えるクラリネット吹きにその苦労は分からないと、かつて実際に自分も言われた経験がある。

ただ、「運命」からいきなり「未完成」に変更と言われるシーンで、クラリネット奏者が全く慌てる素振りを見せないところは不自然だ。B管(変ロ調の楽器)からA管(イ調の楽器)に持ち替えないといけないからだ。予め用意してあったとしても、息を吹き込んで楽器を温めないと、冒頭のオーボエとのユニゾンに到底間に合わない。

それから、調子が出ないホルン奏者を連行して、楽器のベル(朝顔)を怪しげな職人にハンマーで叩かせるシーンがある。曰く、「金属原子はよぉ、放っておくと結晶がデカくなって響きが悪くなんだよ。だからよぉ、たまにはこうやって叩いて、バラバラにしてやんねえとよぉ」というのだが、「結晶がデカくな」るという表現からして俄かには信じがたいが、果たして本当だろうか?

10月3日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/07/31

映画『ガッチャマン』サウンドトラック

Gatchamanどういう風の吹き回しと思うなかれ(笑)。散々酷評されている映画本体ではなく、その劇伴音楽に興味があったのだ。作曲者は Nima Fakhrara (ニマ・ファクララ)。ロサンゼルス在住のイラン人作曲家で、他にもサスペンスやSFなどのハリウッド映画の音楽を担当しているようだ。

実は、7月からスタートしたドラマ「探偵の探偵」の彼の音楽がなかなかいいと思い、少し調べてみたら実写版『ガッチャマン』の音楽もそうだと分かり、サントラCDを借りて聴いてみたのだ。

文字通り同工異曲で、ドラマと同じような曲想の楽曲も多いが、全体的にとても迫力ある音作りである。無機的な感じのメロディもSF映画にはぴったり来るだろう。

ただ、車の中で音量を上げて聴くと、ちょっと神経が高ぶってよろしくない。まるで「廃墟となった近未来の東京に一人取り残されたヒロインを、命がけで救出に行くサイボーグの主人公」のような気持ちになってしまうのだ(どないや・苦笑)。

引き続き休養中
月間走行 28キロ(爆)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/03/30

読響定期

27日はサントリーホールで開催された読売日本交響楽団第546回定期演奏会を聴いた。曲目はモーツァルトの「劇場支配人」序曲と交響曲第41番「ジュピター」、それにR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」である。G.コルステンの指揮、コンサートマスターは長原幸太が務めた。

実はこのプログラムは2011年3月14日の定期演奏会で演奏される予定だったが、直前に東日本大震災が発生し、公演前日までリハーサルを進めたものの当日朝にキャンセルが決定した。そのときと同じ指揮者が再来日し、同じ曲目を4年越しで演奏する運びとなったものである。前日の卒業式に続いて、4年前の出来事に思いを致さずにはいられない機会となった。

読響をナマで聴いたのは初めてだが、1962年創設と比較的歴史が浅いにもかかわらず、常設では日本でベスト3に入るぐらいの実力がある楽団だと感じた。年俸ン億円という野球選手を何人も雇えるだけの資金力にモノを言わせれば、オケの1つや2つ抱えるぐらい何の造作もないことだろう。(笑)

さて、前半のモーツァルトは今や主流となったピリオド奏法によるものだが、それぞれの音をたっぷりと響かせ、またメロディをよく歌わせた流麗な演奏で、かつてのような速いテンポのキビキビした演奏とは対極的な行き方が面白かった。ジュピターを聴いていて、R.クーベリックがバイエルン放響を指揮した録音を思い出した。

後半の「英雄の生涯」は、4管編成の大管弦楽による音の洪水に圧倒された。冒頭の気宇壮大な「英雄」の主題と、独奏ヴァイオリンに現れる優美な「英雄の伴侶」の主題が、次第に気心通じ合うように展開し、「英雄の敵」と戦って最終的に勝利を収めるというストーリーが、音の絵巻物のように展開する。

…と通常は考えられ、大抵の解説にはそう書かれているのだが、実はそう単純な話でもないようなのだ。コンサートで配布された読響『月刊オーケストラ3月号』の広瀬大介氏による解説文によれば、この曲は同時期に作曲された交響詩「ドン・キホーテ」と対になる作品として構想され、「ドン・キホーテ」で描いた内容をさらに敷衍し、作曲者みずからの来し方行く末に重ね合わせた作品、と捉えるべきだとしている。大変に興味深い指摘である。

3月27日    休養
3月28日    LSD40キロ
3月29、30日 休養

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/12/26

N響第九演奏会

月曜夜はNHK交響楽団の第九演奏会を聴いた。第九をナマで聴くのは何年ぶりだろう。山手線を原宿で下りてNHKホールに向かおうとしたら、手前の代々木体育館で安室奈美恵のコンサートが行われていて、駅からの道が大勢の人で溢れ返っていた。

今年の指揮はフランスの新進気鋭フランソワ・グザヴィエ・ロト、独唱は安藤赴美子(S)、山下牧子(A)、福井敬(T)、甲斐栄次郎(Br)、合唱は国立音楽大学、当夜のコンサートマスターは「まろ」こと篠崎史紀である。

演奏は基本的にヴィブラートを排したピリオド奏法で、使用楽譜はベーレンライターの新版と思われる。第1楽章81小節、フルートとオーボエの2音目(八分音符)が、従来版のBではなく、三度高いDになっていたので分かった。詳細はこちら

全体に速めのテンポで、大変キビキビとした演奏である。もしかすると初演当時の演奏はこれに近かったのではないかという気がした。第3楽章アダージョの清澄で透明な響きは特筆すべきで、特に123、124小節の付点二分音符による何でもないパッセージが、途轍もなく深淵な音楽に聞こえたのには驚いた。

ところで、演奏が終わるや否や飛び出す「ブラボー」の野蛮な声は何とかならないものか。残響が消えていく瞬間も音楽の大事な一部なのだ。また、左前方には指揮マネをするオヤジがいて、視界から完全に締め出すことが出来ず閉口した。お隣のカップルは「『こくりつおんだい』って、どこにあるの?」なんて喋ってるし。(笑)

なお、当夜の演奏はFMで生中継され、大晦日にはEテレで放送される予定である。

12月24日 ジョグ10キロ
12月25日 休養
12月26日 ジョグ10キロ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧