2022/05/17

ネルソンス&VPOのベートーヴェン交響曲全集

Nelsons ベートーヴェン生誕250年を記念して、アンドリス・ネルソンスが2017年から19年にかけてウィーンフィルを指揮した交響曲全集を聴いた。最近までその存在を知らなかったCDだが、彼の誕生日が自分と同じことが分かってから何となく親近感が湧いていた。(笑)

一言で感想を言えば、大変メリハリの効いた、清新にして味わい深いベートーヴェンである。アレグロ楽章はまさに「コン・ブリオ」の快活この上ない音楽で、聴いていて爽快感が味わえる一方、緩徐楽章では一転してゆったりとしたテンポと穏やかな表情づけが印象的だ。

とりわけて第6番「田園」が素晴らしく、これぞウィーンフィルというローカル色豊かな響きを引き出していた。愛聴盤であるイッセルシュテット盤以来、ついぞ耳にする機会がなかった音である。

録音もライヴとは思えないほど優秀で、ウィーンフィルのベートーヴェンとして、イッセルシュテットによる全集盤、クライバーによる第5、7番以来の出色の出来ではないかと思う。

ネルソンスはゲヴァントハウス管と組んだブルックナーの交響曲全曲も録音していて、そちらにも食指が動きかけている。ああ、時間がいくらあっても足りない。

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2022/05/08

ハイティンク&LSOのブラームス交響曲全集

Lso ハイティンクが指揮したブラームスの交響曲全集は、1970年代にコンセルトヘボウ管と録音したもの、1990年代にボストン響(BSO)と録音したものがあるが、2003年から04年にかけてロンドン交響楽団(LSO)とライヴ録音したこの全集は、3度目にして最後のものである。

ただし、国内盤は第1番のみで、LSO自主レーベルによる英本国盤も現在ほとんど品切れか廃盤となっている。それと関係あるのかどうか、一般的な評価はBSO盤が最も高く、このLSO盤は「迫力と重厚感がない」「無気力」など散々な有様である。しかし、自分としてはこれが文句なしのベスト盤であり、他の指揮者のCDを含めても屈指の名演であると思う。

何よりも渋みを帯びたオケの響きが素晴らしく、いかにもブラームスという音響空間を作り出していて、その上に立って、ハイティンクらしく奇を衒うことのない正統派にして盤石の音楽が、まるで川が流れるように自然に進行していく。妥当極まるテンポ設定、楽器間のメロディの受け渡し、対旋律のさりげない強調など、これぞ職人技と唸らされる箇所は少なくない。

個人的な趣味を言えば、BSO盤は柔らかでまろやかな響きが魅力的ではあるものの、最後に録音された第1番を除き、第1クラリネットを担当した首席奏者ハロルド・ライトのヴィブラートがあまり好きではないのだ。それに対し、ヴィブラートの本場(?)ロンドンのクラリネットが、音色的にはいかにもイギリス的なのにノンヴィブラートなのが好ましい。

バービカンセンターは比較的デッドな音響ながら、DSDによる録音は各パートの分離が良く、極めて優秀である。ロンドンの聴衆は終始しわぶき一つ発せず、無論フライング拍手やブラヴォーなど皆無である。もしかしたらリハーサル時の録音ではないかと思うほどである。

ちなみに、ブックレットのデータから各演奏会のプログラムを再現すると次のとおり。

2003年5月17、18日 悲劇的序曲、二重協奏曲、交響曲第2番
2003年5月21、22日 セレナーデ第2番、交響曲第1番
2004年6月16、17日 交響曲第3番、交響曲第4番

なお、ブックレットでは交響曲第4番の演奏日付が同年5月16、17日となっているのは単純な誤植と思われる。5月17日はコリン・デイヴィス指揮による全く別の演奏会が行なわれているのだ。

二重協奏曲の独奏者は有名ソリストの招聘ではなく、LSOコンサートマスターのゴーダン・ニコリッチ、チェロ首席のティム・ヒューである。「独奏楽器付きの交響曲」と称されることが多いブラームスのコンチェルトには相応しく、何よりオーケストラの奏者を大切に考えるハイティンクらしい起用と言える。

ハイティンク&LSOのCDには、他にベートーヴェンの交響曲全集、ブルックナーの交響曲第4、9番があり、現在これらも取寄せているところだ。自分としては、知られざる名盤を発掘したような気でいるのだが、さてどうなるか。(笑)

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2022/04/27

クナッパーツブッシュ盤「パルジファル」全曲

Parsifal_20220427085001 先々月、このオペラを初めて鑑賞したときの記事で、「ほとんど動きのない映像はこの際抜きにして、様々な動機が複雑に絡み合う音楽だけを集中して聴けば、何とかとっかかりが得られるのかもしれないが、4時間半の長丁場に再挑戦する気力はすぐには出て来ないだろう」と書いたが、ようやくその気力が出てきたので、標記の全曲盤CDを聴いてみた。

1962年8月、バイロイト祝祭大劇場でのライヴ録音で、当時から名盤の誉れ高いものである。タイトルロールのジェス・トーマスをはじめ、グルネマンツのハンス・ホッター、アンフォルタスのジョージ・ロンドン、クンドリのアイリーン・ダリスなど、当時の名歌手を集めた声楽陣は豪華の一語に尽きる。

「音楽に集中して」と書いたけれども、やはりストーリーと歌詞が分からなければ、そこにワーグナーがつけた音楽の意味合いを本当に理解することは出来ないので、今回は図書館で借りた全曲対訳本を参照しながら聴いた。何度も聴き込めば「ああ、ここはこういう場面だ」と合点がいくようになるだろうが、さすがにその境地に達する時間はもう自分には残されていない。

1日1幕で3日がかりの鑑賞になったが、意外にそれほど間延びすることなく長丁場を乗り切ることが出来た。クナッパーツブッシュと言えば、これまで残響が極端に少ない貧弱な録音しか聴いたことがなかったが、ここでは独特な構造をしたバイロイト祝祭大劇場の音響を、フィリップスの技術陣が見事に捉えていて、客席のノイズを我慢しさえすれば十分に鑑賞に堪える。

ところで、このCDはタワーレコード限定盤として復刻発売されたもので、ブックレットの裏表紙(クリックで拡大表示)には初出時のLP盤の帯まで再現されている。昔懐かしい字体に加え、作品に冠された名称がただの「楽劇」だったり、指揮者名が「クナッペルツブッシュ」だったりするところに時代を感じる。

それより、LP5枚組で9千円という値段は、当時の物価を考えれば相当高価に違いなく、オペラ全曲盤というのはある種の贅沢品だったのだ。なにせ、ちょうど同じ頃に放送を開始したNHKFMの「オペラ・アワー」という番組は、「オペラのステレオ全曲録音」がタダで(笑)聴けるのがウリだったのだから(現在の「オペラ・ファンタスティカ」は海外放送局提供の最新ライヴ録音が中心である)。

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2022/04/20

ショルティ盤「ロ短調ミサ」

Hmollマタイ受難曲に続いて、ショルティが1990年に録音したCDを聴いた。

予想どおり、マタイ受難曲と同じく、楽譜に忠実で真摯な、正統派の演奏である。教会の中にいるような雰囲気に浸れるヘレヴェッヘ盤もいいけれど、楽曲の構成や各声部の動きが手に取るように分かるショルティの演奏は、この曲が宗教から離れても、純粋音楽として十分鑑賞に値する楽曲であることを示している。

ショルティならではの鋭い分析力と、高い統率力の賜物だろう。この曲の演奏に携わる人々や学習者にとって、打ってつけの模範的な演奏ではないかと思う。

名手揃いのオーケストラ(第11曲のホルンソロはクレヴェンジャーか?)、フォン・オッター(A)、ブロホヴィッツ(T)らの独唱陣もさることながら、マーガレット・ヒリス率いるシカゴ交響合唱団が、単なるオケ付属の合唱団とは思えない高度なレヴェルの合唱能力を発揮していて、とりわけppでの息を呑むような絶妙のアンサンブルは大変素晴らしい。

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2022/04/13

ハイレゾ音源を試してみた

ハイレゾリューション(高解像度)オーディオ、いわゆるハイレゾについて、正直これまであまり興味はなかった。今のCDプレーヤーに買い替えたときの記事にも、そんなことはどうでもいいと書いた。

その理由としては、いくら録音再生のデジタル処理が高度化しようと、人間の耳が聴くのはデジタルの「データ」ではなく、それをアナログに変換した「音」である以上、その音質はデジタル・アナログ変換回路(DAC)や、変換後のアナログアンプの性能に依存するからである。

ただ闇雲にサンプリング周波数や量子化ビット数を増やせば良いというものではないはずなのに、やれ何kHzだ何ビットだというスペックのみを強調して、小さなイヤホンで再生する音がさぞ素晴らしいかのように宣伝するのは、苦境にあるオーディオメーカーの起死回生策ではないかと疑ってしまう。かつての4チャンネルステレオがそうであったように。

しかし、実際に体験もせずにそんなことを言っていても始まらないし、自分に残された時間も限られている。新たに対応機器を購入するまでもなく、今のCDプレーヤーに内蔵されたDACでハイレゾ再生が可能であることは分かっていたので、配信サイトを通じていくつかの音源を購入して試してみた。

これまでに数種類の音源を聴いた感想としては、CDと雲泥の差があるというほどではないというのが正直なところだ。ただし、高音部の歪感の少なさはハッキリ感じることが出来る。

CDのフォーマットはサンプリング周波数が44.1kHzで、22.05kHzの音まで記録可能だというけれども、そのぐらいの音域では1つの波形を約2回サンプルしただけの直線的な波形にしかならないから、いかに優秀なDACでも歪が生じてしまうし、それより高い音域はカットされてしまう。

それが192kHzのハイレゾの場合、22kHzの音なら約9回サンプルするから、少しは滑らかな波形に近づく。人間の可聴音域を遥かに超えるとは言え、96kHzの高音まで一応記録することが可能だ。

そうした高音域の記録精度の向上が、聴感上の歪感の減少をもたらしていると思われる。実際、オーケストラの第1ヴァイオリンが高い音をフォルテで演奏する際、CDではキンキンとした刺激的な音が気になる場合があるが、ハイレゾではその点はかなり改善されている。

高音域の改善とおそらく無関係ではないだろう。音の定位感、音場の広がりもCDよりも相当良いことは確かだ。突飛な連想だけれど、人間の可聴音域を上回る超音波を使って自らの位置を認識し、暗闇でも飛び回ることができるコウモリの習性を思い出した。

しかし・・・。

メリットを感じるのはそれぐらいで、ダイナミックレンジに関しては普通の住宅の一室で聴く限りはCDで十分であるし、パソコンを持ち込んで接続したり、マウスで選曲や再生を指示したりするのが面倒だ。

何より、配信されているハイレゾ音源の数が限られているうえに、価格がCDの倍以上もするとあっては、おいそれとCDから移行するというわけにはいかない。アナログ時代の特別に思い入れのある音源(ブルーノ・ワルターやジョージ・セルの名盤など)をより良い音質で楽しむぐらいのことになるのではないかと思う。

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2022/04/05

「藤村実穂子さんがグラミー賞獲得」

以前、内田光子がピアノ伴奏を務めたドロテア・レシュマンのCDが、グラミー賞「最優秀クラシック・ヴォーカル・アルバム部門」を受賞した際のことについて書いたが、日本人の身内贔屓、島国根性ぶりは今年さらにエスカレートしている。

日本人メゾソプラノの藤村実穂子が独唱者の一人として参加したCDが、グラミー賞「最優秀合唱演奏賞」を獲得したことに関する報道である。「藤村実穂子さん参加のアルバムにグラミー賞」という見出しの讀賣新聞などはまだしも、共同通信中日新聞の見出しは明らかにミスリーディングだ。

事実関係を正確に書くとこうなる。

日本人メゾソプラノ歌手の藤村実穂子さんが<8人の独唱者の一人、第1アルト歌手として>参加した<グスターボ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック、ロサンゼルス・マスター・コラール(合唱指揮:グラント・ガーション)、パシフィック・コラーレ(合唱指揮:ロバート・イスタッド)、ロサンゼルス児童合唱団(合唱指揮:フェルナンド・マルヴァー=ルイス)、ナショナル児童合唱団(合唱指揮:ルーク・マッケンダー)による>アルバム「マーラー交響曲第8番『千人の交響曲』」が、今年のグラミー賞最優秀合唱演奏賞を獲得した。

ここから< >の中を省略した次のような記述が、日本メディアの記事となっているのだ。

「日本人メゾソプラノ歌手の藤村実穂子さんが参加したアルバム「マーラー交響曲第8番『千人の交響曲』」が、今年のグラミー賞最優秀合唱演奏賞を獲得した」 → 「藤村実穂子さんがグラミー賞を獲得した」

受賞対象となった「合唱」について全く記述がないこと自体がそもそも問題である。藤村実穂子が演奏者の一人として参加しているのは事実だが、それを言うならロサンゼルス・フィルハーモニックの楽員の中にも日本人奏者がいた可能性が大きいのだ。

楽団の名簿によれば、アキコ・タルモト(アシスタント・コンサートマスター)という日本人ないし日系人と思われる名前が見え、もし彼女も加わっていたとしたら、「日本人(日系人)ヴァイオリニストが参加したCDがグラミー賞を受賞!」という記事があっても不思議ではないことになる。

日本人アーティストの活躍は歓迎すべきことではあるけれども、それを過大に伝えがちなメディアの偏向ぶりには常に注意が必要だ。さもなければ、国営メディアの支配下にあるロシア国民を嗤うことなど出来はしないのだ。

(下線部いずれも筆者)

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2022/03/28

ヘレヴェッヘ盤「ロ短調ミサ」

H_mollヘレヴェッヘは同曲を三度録音しているが、これは二度目の1996年に録音されたCDである。録音の日付や場所はブックレットにも記載がなく不明であるが、とても長く豊かな残響音から判断すると、どこかの教会での録音ではないかと思われる。

そのことと全く無関係ではあるまい。信仰心などかけらもない自分でさえ、天井が高くステンドグラスの美しい教会の椅子に座って、しばし神の栄光を讃える音楽に浸っている。そんなひと時を過ごすことが出来るような演奏である。

全体的には、以前聴いた「マタイ受難曲」と同様、穏やかで安らぎに満ちた音楽である。リヒター盤が冒頭の「キリエ」からして聴く者の肺腑を抉る強烈なメッセージ性を帯びているのに対し、ヘレヴェッヘの音楽はどこまでも温かく、聴く者を包み込んでくれる。「北風と太陽」とでも言えばよいのだろうか。

カウンター・テノールのアンドレアス・ショル、テノールのクリストフ・プレガルディエンの二人の歌唱が出色で、特にショルが歌う第26曲「アニュス・デイ」のアリアが胸を打った。女声陣も健闘しているが、ソプラノのヨハネッテ・ゾマーの声が、一部で割れたように聴こえるのが残念だ。録音のせいかもしれないけれど。

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2022/03/22

リヒター盤「ロ短調ミサ」を再聴

年明けから聴き始めたバッハの宗教曲で一番最初に聴いたのが、「ロ短調ミサ」BWV232だった。解説書によれば「バッハの教会音楽家としての創作活動の総決算」であり、「中世以来の宗教音楽の発展が到達した1つの頂点を形成する傑作」ということで、「マタイ受難曲」と双璧をなすバッハの宗教音楽の二大傑作と言えるようだ。

キリストの受難の物語を音楽劇にした受難曲と違い、ミサ曲は神やキリストを賛美し、信仰を誓うといった定型的な典礼文に曲をつけただけのもので、テキストを読みながら聴いても、キリスト教や聖書に縁のない東洋人にとってはピンと来ない。

しかし、逆に言えば純粋に音楽だけを聴いていれば良いとも言え、本作はそういう鑑賞態度にも十分に応えてくれる。トランペットが活躍する華やかな曲があるかと思えば、アルトがしみじみとした独唱を聴かせるアリアもありといった具合に、曲想や編成は変化に富み、飽きることがない。

リヒターの演奏はここでも鋭角的で、生々しい迫力に満ちている。何度も繰り返し聴くには向いていないかもしれないが、一つの規範としての地位を有していることは間違いない。

ちなみに、手元にある10枚組BOXに収められているのは、1969年5月に東京文化会館で行われた伝説的な名演奏のライヴ録音で、その演奏に接した人々の体験談は枚挙に遑がないほどである。

今回改めて聴いてみて、さらに大きな感銘を受けた気がするのは、マタイ受難曲のCDを何種類か聴いて、バッハの宗教曲の音楽語法にある程度慣れたということもあるが、自分自身に残された時間がさらに少なくなってきたという自覚によるところも大きいという気がする。

同曲のCDを他に2種類入手したので、そちらも楽しみだ。

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2022/03/16

ショルティ盤「マタイ受難曲」

Solti_202203160908011987年3月、ゲオルク・ショルティが74歳にして初めて録音したバッハであるが、礒山雅氏が絶賛されていなければ、およそ聴いてみようという気にならなかっただろう。氏はCD解説書にこう書いている。

「ショルティの《マタイ》」はさぞ・・・・・・と思ってこの演奏に接する人は、苛烈なデュナーミクに代わる淡々たる運びに、むしろとまどいを覚えるであろう」

まさにその通りで、リヒター盤や(ブログには書かなかったが)クレンペラー盤など、指揮者の個性的な解釈が前面に押し出された往年の名演奏以上に、そのことが十分に予想されるショルティ晩年の録音が、その真逆の、楽譜に忠実で模範的とも言える演奏であるのに驚いた。

主観を排してこの巨大な作品と真摯に向き合い、シカゴ響の名手たちの力量に支えられた精確なアンサンブルで再現される音楽ドラマは、日本語で言えば楷書体とか教科書体で書かれた、由緒正しい「定本」を読んでいるかのようだ。

それでいて、無味乾燥に陥ることは決してなく、前半は淡々と進められた物語が、ペトロの3度の否認からイエスの死に至るヤマ場に向けて、じわじわと確実に緊迫度を増していく。

歌手陣では福音史家のハンス・ペーター・ブロッホヴィッツ、イエスのオラフ・ベーアもさることながら、キリ・テ・カナワとアンネ・ソフィー・フォン・オッターの女声二人が素晴らしく、全体に調和のとれた声楽アンサンブルを形成、唯一気がかりだったシカゴ交響合唱団のコーラスも、よく統率されていて大変迫力のある歌唱を聴かせている。

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2022/03/13

ブラームス交響曲第3番冒頭のティンパニ

が、ほとんどの場合楽譜どおりに演奏されていないとだいぶ以前に書いた。自分自身、ドホナーニがクリーヴランド管を振ったCDで初めて気づかされたことなのだが、今回それ以上に完璧に楽譜どおりの演奏に出くわした。

それは、今年1月下旬に開催されたNHK交響楽団第1949回定期公演で、先月13日に「クラシック音楽館」で放送されたものを視聴した。指揮はジョン・アクセルロッドという米国人である。

コロナの水際対策で外国人アーティストが来日不能になる中、それ以前から日本に滞在していた彼はそれを奇貨とし、ビザが切れるまでの間を活用して、5つの楽団の計21公演を指揮したとのことである。ちなみに「アクセルロッド」って、何だか自動車部品みたいな名前だなと思って検索してみたら、実際にそういう名前の部品があったので驚いた。

ちょっと話が逸れたが(笑)、その彼が指揮したブラームスの交響曲第3番第1楽章冒頭のティンパニが、完全に楽譜どおりの演奏だったのである。今回の演奏ではこれも楽譜どおり提示部が繰り返されていて、繰り返し後の映像においては3小節目から6小節目の頭にかけて、何とカメラがティンパニの久保晶一氏をアップで、それこそ「これ見よがし」に映しているのだ。

事情を知らないとなぜここでティンパニがアップになるのか理解に苦しむところだが、譜面ではトレモロとなっていない四分音符がきちんと叩き分けられているのが一目瞭然なのである。製作サイドとしてはそこに気づいて欲しかったという意図があったのかもしれないが、本稿執筆時点でネット検索しても何もヒットしなかった。

ドホナーニですら、4小節目と6小節目の四分音符は若干明瞭さを欠いているけれど、今回はそこも大変ハッキリしている。その結果として、トレモロで続けてしまう一般的な演奏では味わえない、6(3×2)拍子独特のリズミックな躍動感が生じて、音楽が一層生き生きとしたものに感じられるのだ。

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