2020/01/09

歌劇「トゥーランドット」

Program_06_0202_imgプッチーニ最後にして遺作となったオペラ。2016年1月メトロポリタンオペラ公演の録画を鑑賞。METライブビューイングの紹介文。

伝説の時代の古代中国、北京。皇帝の姫君トゥーランドット(ニーナ・ステンメ)は絶世の美女として知られているが、求婚者に謎をかけ、解けないと殺してしまう残酷な姫君でもあった。国が滅んで流浪していたダッタン国の王子カラフ(マルコ・ベルティ)は、辿り着いた北京の町で、生き別れになっていた父ティムール(アレクサンダー・ツィムバリュク)と再会する。喜びもつかの間、トゥーランドットを一目見て恋に落ちたカラフは、ティムールとお付きの女奴隷リュー(アニータ・ハーティッグ)の制止もきかずに謎に挑戦するが・・・。(引用終わり)

荒川静香選手がトリノ五輪で用いて以来、第3幕のアリア「誰も寝てはならぬ」が有名になり、誰しも一度は耳にしたことがあるはずだけれど、なぜ「寝てはならぬ」のか、その理由を知る人は少ないだろう。自分自身、本作を今回初めて鑑賞して、カラフの運命を決することになる一夜のことと、ようやく合点がいった次第だ。

それまでヴェリズモ路線を深化させてきたプッチーニが、最後に(と自覚していたかどうかは分からないが)選んだ素材は、異国中国を舞台に繰り広げられる寓話劇で、しかもハッピーエンドの大団円で幕となる。それまでの作品が、いかにも人間臭いドラマの末に、主人公らが悲惨な死を迎えて終わりとなるのと大違いである。

なかでも見所は、氷のような姫君トゥーランドットが、過去の怨念に囚われてそれまで封印してきた人間性を取り戻すところである。タイトルロールを演じたニーナ・ステンメも、幕間のインタビューで「生身の人間としての姫君」の表現に最も苦心したと答えていた。初めのうちは情熱的に迫ってくるカラフを退けながらも、一瞬視線が彼の方を向いた直後、「あ、いけない」とばかり目を伏せるといった細かい演技が、ライブビューイングではハッキリ確認できる。

また、慕い続けて来たカラフの愛を実らせようと自刃を選ぶ、リューの辞世のアリア「氷に包まれた姫君も」が胸に迫った。純真な乙女の自己犠牲というテーマは、ワーグナーの楽劇にも通じるところがある。ステンメもインタビューの中で、「『トリスタンとイゾルデ』と重ねたくなる。プッチーニも第3幕のスケッチでそれに触れている」と語っている。

ゼフィレッリ演出によるスペクタクルな舞台はまさに息を呑む迫力で、特に第3幕の途中で僅かな時間に場面転換し、百名はいようかという群衆があっという間に宮殿前に揃っているのには驚かされた。衣装や小道具も一切手抜きなしの豪華絢爛さである。かつてのアメリカ滞在中に実演を見逃したのが、今さらながら悔やまれる。

さて、これでヴェルディ、プッチーニの手元にある録画は全て鑑賞した。続いて、僅かしかないけれど、他のイタリアオペラに移ることにしよう。

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2020/01/06

電源雑音軽減器

読んで字の如し。壁コンセントとオーディオ機器の間に接続し、AC電源を通じて混入してくる雑音を軽減する機器である。自分自身へのお年玉(何歳?笑)にと購入した。もうちょっと気の利いた商品名がありそうなものだが、おそらく製造販売元は根っからの技術屋が集まった会社なのだろう。

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取扱説明書によれば100時間程度のエージングが必要とあるので、まだ真価を発揮するには至っていないはずだが、それでも音質改善効果は予想を遥かに上回る。最も顕著なのは高音域、とりわけ倍音領域の歪の軽減であると思われる。電源を通じて混入する高周波ノイズには可聴帯域(20kHz以下)も含まれるので、それが各楽器の倍音を歪ませ、楽音全体を濁らせているのだろう。

その歪を除去することで、自然な再生音に戻してやることが可能となる。生々しい音は眼の前で演奏しているかのような臨場感に溢れ、ヴァイオリンやトランペットの高音のキンキンした感じがなくなり、抜けの良い音がどこまでも伸びていく感覚が心地よい。

また、音場の広がりはこれまでとは異次元のものである。映像に譬えて言えば、これまでが映画館で本篇が始まる直前にスクリーンがワイド化する程度だとすれば、今回の経験ではもはやスクリーンが存在せず、建物全体に投影するプロジェクションマッピングである。それも左右の広がりどころか、上下にも奥にも広がる精密な3D映像での投影なのだ。

改めて、CDにはこれだけの情報量が刻み込まれていたのかと驚くと同時に、これまでの再生音は何だったのかという思いを禁じ得ない。大袈裟に言えば、家にある全てのディスクを聴き直してみたい衝動に駆られている…とは、実は以前にも書いた感想だが、その時を遥かに上回る驚きに襲われている。

また、今回の購入に際して全く意外な事実を知ることが出来た。オーディオ機器にとって大地アースへの接続は有害だというのだ。というのも、この機器の出力コンセントが接地極付きの3P型であることから、カタログには写っていない入力側も当然同じで、壁コンセントにはアース端子が必要と思い(自室は未設置)、その点を確認すべく製造元にメールで質問したところ、何と同機のコンセントの接地極はどこにも接続していないという意外な回答が返って来たのだ。少し長くなるが回答を引用する。

「最近の大地アースは、大型の電気機器のノイズを含むアースが感電防止等の安全のために接続されていて、ノイズのごみ捨て場状態になっています。従いましてノイズに敏感な機器は接続しない方が正しいのです。ノイズはアースからも侵入してくるので、壁付けコンセントのアース(大地アース)は、オーディオ機器におきましては音質のためには接続しないのが一般的で正しいのです。また誤解されやすい話として『アースを取るとノイズが減る、アースを取らないと機器が不安定になる』という電子機器内のシールドやシャーシアースの場合と、電源のアースとは全く別の話です。電源アースを取れない宇宙船、飛行機、ノートパソコン等、いずれも問題なく動いています。繰り返しになりますが、一般的に壁付けコンセントの電源アースはノイズ防止には関係なく、感電防止が主な目的です 」(一部文言修正)

確かにCDプレーヤーの電源プラグにはアース用のコードが付けられているが、取扱説明書によればそれは「感電防止のため」とある。しかし、感電防止にはなっても雑音を拾うようでは何をしているのか分からない。もう少しでアースを接続するところだっただけに、この意外な回答は大変有益だった。同社サイトのQ&Aにも掲載するようお願いしたところである。

いずれにせよ、中級アンプぐらいの値段がする同機の購入を当初は躊躇っていたが、その価値は十分あったと感じている。なあに、これからも音楽を聴き倒して、元を取ってやればいいだけのことだ。(笑)

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2019/12/28

歌劇「蝶々夫人」

Butterfly日本が舞台ということで我が国でも絶大な人気を誇るプッチーニの傑作オペラ。2016年4月メトロポリタンオペラ(MET)公演の録画を鑑賞。METライブビューイングの紹介文。

19世紀末の長崎。アメリカ海軍士官ピンカートンは、女衒のゴローの仲介で芸者の蝶々さんと「結婚」するが、100円で買われたその「結婚」は、あくまで一時的なものだった。だがハンサムなピンカートンに夢中になった蝶々さんはキリスト教に改宗し、一族から絶縁されてしまう。ピンカートンが母国へ帰って3年が過ぎた。彼の子供を産み、信じて待ち続ける蝶々さん。だが蝶々さんの前に現れたピンカートンは、アメリカ人の妻を連れていた。絶望した蝶々さんは…。(引用終わり)

当時のヨーロッパではエキゾティシズム(異国趣味)が流行していて、プッチーニは本作のほかにも中国を舞台にした「トゥーランドット」を作曲している。プッチーニは日本の風習や音楽を知るため、イタリア駐在日本公使夫人から教えを受け、日本音楽のレコードや楽譜を借りたりしたそうである。

民謡など日本のメロディが随所に登場するのはその成果で、音楽的には面白く聴けるけれども、問題となるのは舞台装置や衣装、演出である。国内公演は観たことがないので分からないが、METなど海外の舞台を見ると、ほとんど中国と混同してしまっているようで(中国人から見るとそれも違うか?)、日本人の目には相当な違和感がある。

その点は差し引くとしても、音楽劇としての完成度は極めて高い。「トスカ」の項で書いたような「アリアが浮いてしまう」という次元を超え、もうどこからがアリアなのか分からないほど一体化し、最初から最後まで切れ目のない音楽が、ドラマと表裏一体となって進行するさまは見事と言うしかない。

まだ15歳という蝶々さんが、初めて本当の恋を知り、母になり、アメリカに帰国したピンカートンの帰りを待ち侘び、悲惨な最期を迎えるまでを、クリスティーヌ・オポライスが熱演。2014年の伝説の2役連続ロールデビューを経て、既に完全に十八番にしているのが分かる。

一方、ピンカートンを演じたロベルト・アラーニャは、「ひどい男の代名詞みたいに言われるピンカートンだけれど、彼だって20代前半ぐらいの世間知らずの若者で、異国日本に来て羽を伸ばしている中での “若気の至り” だったのではないか」という趣旨のことを、幕間のインタビューで答えていたのが印象的だった。これぞ人間の真実、ヴェリズモというべきだろう。

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2019/12/13

歌劇「トスカ」

このところ何かと多忙でまとまった時間が取れず、オペラ鑑賞はちょっと久しぶりとなった。

プッチーニの代表作のひとつ。主要登場人物がいずれも死んでしまい、さらには尾行や拷問、セクハラと、これでもかという陰惨な内容にもかかわらず、最後まで愛を貫いたトスカとカヴァラドッシの悲運が胸を打つ。悪役の警視総監スカルピアとの対決の構図は分かりやすく、そこにプッチーニの名旋律が絡んでとなれば、純粋な歌芝居の世界に浸り切ることが出来るというもの。

「ラ・ボエーム」の項で書いたような、音楽の流れとストーリーの一体感はさらに強まり、ほとんどワーグナーの楽劇に近いものがある。実際のところ、トスカとカヴァラドッシそれぞれの名アリア、「歌に生き、恋に生き」と「星は光りぬ」が、そこだけ浮いてしまっているような印象すらある。作曲者自身そのことに不満を持っていたというが、それでも、これらのアリアがあってこその「トスカ」であることは間違いない。

今回鑑賞したのは、2018年メトロポリタンオペラ公演のライブビューイング。トスカのソニア・ヨンチェヴァ、カヴァラドッシのヴィットーリオ・グリゴーロとも、今回がロール・デビューとは思えないほどのハマり方だ。スカルピアのジェリコ・ルチッチも、憎々しいながらどこか人間味を感じさせる演技が光った。

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2019/12/01

アモルメットコア

オーディオネタは久々である。標題の商品は、8月にCDプレーヤーを買い替えた際、上新電機がサービスでつけてくれたもので、オーディオケーブルに通すだけで音質改善に効果があるという触れ込みである。上新の推薦文。

“Amormet”は本来ノイズ防止用のチョークコイルのコアに使われ、オーディオ再生で特に有害な高周波ノイズを除去するための重要なパーツです。『アモルメットコア』は、オーディオ専用に特に音質を重視して設計された、副作用がなく安心して使えるトロイダル・フィルタで、ケーブルを通すことでコモンモード用チョークコイルとなります。その効果は抜群で、高周波ノイズを取り去ることで、これだけ音質が向上することと、本来耳には聞こえない高周波ノイズが、これ程再生音に“悪さ”をしていたことに改めて驚かされました。
『アモルメットコア』の最大のメリットは、従来からあるノイズフィルタでは、例えノイズは取れても本来持っている音楽のエネルギーまで削がれてしまい、痩せた面白くない音になってしまうのが常でしたが、それらを微塵も感じさせないところが“素晴らしい”そして“画期的”と感じました。「超高周波ノイズ」対策において、今後のオーディオ再生にとっての“ターニングポイント”になりそうな予感がします。それ程にインパクトの大きな『アモルメットコア』の登場です。(引用終わり)

文系人間の自分にはチンプンカンプンであるが、要するに周辺の各種電気機器から発生する高周波が、電源系統に乗ってか空気中を伝播してか知らないけれど、オーディオ機器の再生信号を伝送するケーブルに悪影響を及ぼしていて、その影響を安全に除去するという効果があるのだろう(たぶん・笑)。

しかし、何だかちょっと胡散臭い感じもするし、暑い時期に配線作業で汗を掻くのもイヤだったので先延ばしにしていたのだけれど、気がつくともう冬本番の寒さになっていて、頃合いは良しとようやく試しにつけてみようと思い立った。CDプレーヤーとアンプの接続は末端部分の大きなXLR端子で行っていて装着不能であるため、今回はアンプとスピーカーを繋ぐケーブルに装着することにした。

実際にスピーカーケーブルに装着したところ。

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合計8本の太い銅線を外して付け直す作業が必要で、使用前後の状態を簡単に切り替えて比較試聴することが出来ないため、あくまで記憶と印象に基づく判断になるけれど、音の透明感がより増して定位感も向上し、音場の自然な広がりが明瞭になったように感じる。特筆すべきは、ピアノの打鍵音やホールの残響音などの減衰音が、音本体と完全に連続したものとして再生されることで、音楽の再生にとって非常に大事なポイントが改善したことになるだろう。

自腹を切って購入したのではなく、それによる評価バイアスは考えられないので、おそらくかなりの効果があるのは間違いないと思われる。このコイルを内蔵したXLRケーブルも発売しているようなので、CDプレーヤーとアンプの接続に用いれば更なる音質向上が期待できるかもしれない。って、またもやオーディオ無間地獄に陥りかけているし、何より上新電機の作戦にまんまと嵌ることになるなあ。(苦笑)

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2019/11/25

歌劇「ラ・ボエーム」

Labohemeプッチーニの作品中、いや全てのオペラ作品中でも屈指の人気を誇る傑作。パリの屋根裏部屋で暮らす芸術家4人組のひとり、詩人のロドルフォとお針子ミミの悲恋を中心に描く。

今回鑑賞したのは、1965年にミラノ・スカラ座で収録された映画版(写真)と、2014年メトロポリタンオペラ公演のライブ映像。前者はミレッラ・フレーニ(ミミ)、ジャンニ・ライモンディ(ロドルフォ)、カラヤン(指揮)、後者はそれぞれ、クリスティーヌ・オポライス、ヴィットーリオ・グリゴーロ、ステファーノ・ランザーニといった面々、演出はともにフランコ・ゼフィレッリである。

オポライスは何と前日夜に「蝶々夫人」のタイトルロールを歌った翌朝、MET総裁のゲルブから急遽電話が入り、その日の昼公演の「ラ・ボエーム」のミミ役がキャンセルとなったので、代役で歌ってくれと依頼された。24時間に2つの役でMETにロール・デビューした歌手は、MET史上初めてという快挙だそうだ。

その事情を感じさせないほどの出来映えはさすがと言えるが、それでも歌に関してはフレーニの方がやはり一日の長がある。若干線が細いながらもよく通る声は、病弱という設定のミミにぴったりだし、最後のベッドでの場面など万感の思いを籠める箇所で、あえてソット・ヴォーチェというのか、「大事なことは小さな声で言うのよ」といった表現が素晴らしい効果を上げている。

ゼフィレッリの舞台の見事なことは言うまでもない。実はアメリカ滞在時にMETの舞台をナマで見たことがあり、第2幕冒頭のパリ街頭のシーンには心底驚愕した覚えがある。まるで巨大な印象派の絵画がそのまま動き出したかのような錯覚に襲われたものだ。幕が開いた瞬間、観客から思わず溜息が漏れ、拍手が起きるのはいつものことという。

もう一か所、印象に残る演出があった。第3幕で最初降っていた雪が一旦止み、その後ミミとロドルフォが別れる決意をする場面になる。「花の季節になったら別れよう」と二人は決心し、「ずっとこのまま冬だったらいいのに!」とミミが歌うと、また静かに雪が降り始めるという演出は心憎いばかりだ。

音楽の面では、それまでのオペラでは、筋書きはレチタティーヴォの部分で言わば散文調に淡々と進み、情感が高まったところで詩的な歌詞のアリアとなって一旦時間が止まるような構成だったのが、この作品ではレチタティーヴォとアリアの両方で筋書きが進められ、オペラ全体の一体感が高まっているように感じた。そんなところにも、メロディの美しさだけではない、プッチーニの音楽の魅力があるのかもしれない。

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2019/11/22

ハイティンク&ウィーンフィルのブルックナー交響曲集

Haitink最近やたらとブルックナーばかり聴いている(笑)。先日はバレンボイム&ベルリンフィルの全集を聴いたが、今度はハイティンクがウィーンフィルを指揮したCDをまとめて聴いた。ただ、「全集」とはなっていないのが残念な限りで、録音順に第4番、第5番、第3番、第8番まで終えたところで打ち切りとなってしまった。

ハイティンクは他にもベルリンフィルとマーラーの交響曲の録音をスタートさせたものの、これまた第8番、第9番を残したところで打ち切りの憂き目に遭っている。発売元のフィリップスや楽団等とどのような問題が生じたのかは不明であるが、ブルックナー、マーラーともに、ハイティンクはコンセルトヘボウとは既に全集盤を完成させていたことから、フィリップスとしては他国のオケと全集盤同士の競合になるのを避けたかったのかもしれない。

そんな邪推はともかく、ハイティンクは芸風自体が実直そのものであるし、人相容貌もどこかセントバーナード(Bernard はマエストロのファーストネームと同じ・笑)とかレトリーバーなど性格の温和な大型犬を連想させる(笑)。フィリップスや楽団を相手に、ハッタリや駆け引きも厭わず、上手く立ち回ることが出来なかったのだろうと推察される。

そうした経緯はさておき、残された4曲の演奏はいずれも中庸に徹したオーソドックスなもので、ブルックナー演奏のリファレンスとでも言うべき存在となっている。かつて「なにも足さない。なにも引かない。」というウイスキーのCMがあったが、ちょうどそんな感じだ。テンポ設定やダイナミクス、フレージング、全体のバランス、どれを取ってもびくともしない抜群の安定感を示し、安心してブルックナーの世界に浸ることが出来る。

ブルックナーの交響曲の多くを初演し、「本家」意識が強いに違いないウィーンフィルの自主性を尊重し、任せるべきところは任せた演奏なのだろう。ベルリンフィルの重厚な音と比べると、南欧的な明るさのある音が伸び伸びと広がり、とりわけスケルツォのトリオなどに出る舞曲風のメロディの歌わせ方は他の追随を許さない。

ウィーンフィルのブルックナーと言えば、古くはシューリヒト、クナッパーツブッシュ、時代が下ってベームやカラヤン、ジュリーニといった名指揮者の録音が数多く残されているが、録音が古かったり、解釈が個性的だったりと一長一短がある。そんな中にあって、まるでお手本のような演奏に加え、残響まで美しい優秀な録音のこれらCDは貴重な存在と言える。

なお、ハイティンクは90歳を超えた今年6月に引退を表明、9月のルツェルン音楽祭での公演が最後のコンサートとなった。ちなみにその演奏会で指揮したのは、コンセルトヘボウではなくウィーンフィル、プログラムの最後はブルックナーの交響曲第7番であった。

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2019/11/16

歌劇「マノン・レスコー」

自堕落な美少女マノンに振り回される青年デ・グリューの破滅的な恋を描いたプッチーニの出世作。今回鑑賞したのは、2016年3月メトロポリタンオペラ公演の録画で、タイトルロールはクリスティーヌ・オポライス。デ・グリューは当初ヨナス・カウフマンの予定だったが、例によって直前にキャンセルされ、急遽代役に指名されたロベルト・アラーニャが初めてこの役を歌った。演出リチャード・エア、指揮ファビオ・ルイージ。METライブビューイング公式サイトの紹介文。

18世紀(本演出では1940年代)のフランス、アミアンとパリ。修道院へ入るために旅していた美少女マノンは、アミアンの町で青年デ・グリューと恋に落ち、駆け落ちする。だが贅沢好きのマノンは、デ・グリューとの貧乏暮らしに耐えられなかった。裕福な貴族ジェロンテの庇護を得て豊かな生活を送るマノンのもとに現れたデ・グリューは、自分とともに来るようマノンを説得し、彼女も同意するが、そこへジェロンテが踏み込んで…。(引用終わり)

ポスト・ヴェルディのオペラの主流は、いわゆるヴェリズモ・オペラとなる。登場人物は王侯貴族や英雄ではなく、市井に生きる普通の人々であり、物語も神話や絵空事の世界ではなく、生々しい真実のドラマである。その傾向はプッチーニにも見られるところで、この出世作にもそれが色濃く現れている。登場人物はどこにでもいそうな普通の人々ばかり。物語も「カネで囲われた恋人を奪い返した青年が、恋人と一緒に逃亡を図るも…」という、今でも映画やドラマの題材になりそうな、まあよくあるメロドラマだ。

一方、音楽的な面では、より感覚的、直接的に聴衆に訴えかける力が強い。メロディは明快で親しみやすく、伴奏がそれをユニゾンで補強することで、いっそう訴求力を高めている。ヴェルディの音楽が20世紀音楽の到来の近いことを窺わせるとすれば、プッチーニのはさらにそれを飛び越え、現代のミュージカルにも通じる、分かりやすさと魅力を兼ね備えた音楽と言える。

主役以外の群衆の扱い方にもリアリティが感じられ、ヴェルディでは「その他大勢」に過ぎなかった群衆が、このオペラ冒頭の街頭シーンでは、一人一人にそれぞれの動作があり、互いに談笑したり口論したりしている。そこから抜け出てきたエドモントが最初のアリアを歌い始めてオペラはスタートするのだが、まさに「真実主義」に相応しい自然なオープニングである。

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2019/11/13

バレンボイムのブラームス交響曲全集

Brahmsブルックナー交響曲全集と同様、バレンボイムにとって2度目となるブラームス交響曲全集。オケは手兵シュターツカペレ・ベルリン、収録は2017年10月で、同年3月にオープンしたばかりのピエール・ブーレーズ・ザールにおいて行われたセッション録音である。ジャケット写真で聴衆が写っているのは、同時期に行われた一般公演時のものだろうか。

第1番第1楽章冒頭から、重心の低い、ズシンと腹にくる重厚なサウンドに引き込まれる。ベルリンの壁が崩壊してもう30年になるけれど、旧東ドイツ地域に残されていたドイツ伝統の響きが再現されたかのようだ。しかし、それでいて対旋律や伴奏音型など細部まで実に見通しの良い演奏であることに驚かされる。このような重厚な響きと見通しの良さを両立させた演奏、録音というのはかつて経験がなく、この全集の最大の成果として誇れるものだろう。

ピエール・ブーレーズ・ザールの音響がそれに寄与していることは間違いない。写真で見ると、楕円形の客席が中央のステージを取り囲む独特の配置となっているが、建物自体はかつての国立歌劇場の倉庫を改造したもので、全体の形状としては天井の高いシューボックス型のホールだそうだ。そのフロアの中央に音源を配置することで、理想的な音響を実現しようとしたのだろう。ちなみにホールの音響設計は日本の永田音響設計が担当した。

ただ、演奏解釈については全面的に賛成とは言いかねる。第1番、第2番は比較的オーソドックスで、じっくり音楽に浸ることが出来たが、第3番、第4番ではテンポをかなり伸び縮みさせた情緒纏綿たる演奏で、時には音楽が止まってしまいそうなほど遅くなる。特に第4番は、冒頭主題からして四分音符のアウフタクトのHを、次の二分音符のGより長くなるほど引っ張る。フルトヴェングラーがベルリンフィルを振った1948年の録音に似た、かなり時代がかったような演奏だ。

自分としては、この第4番は出来る限りインテンポで演奏してほしい。冒頭主題はしばらく演奏してきた音楽の続きででもあるかのように淡々と。第1楽章のコーダも必要以上に煽らず、最後から2小節目のティンパニの四分音符もリタルダンドしない。最低この2点を押さえていない演奏は、基本的に聴く気がしないのが正直なところだ。

ブラームスはこの交響曲を、フリギア旋法だのパッサカリアだの、あえて古色蒼然たる手法を用いて書いた。したがって、形の上ではバロック音楽のような正確なテンポ、地味な音色で演奏すべきである。しかし、そんな古典的な器の中に封じ込めても自ずから滲み出てしまう、作曲者の滾るような熱い思いが籠められている。そのことが分かるような演奏こそが理想であって、クライバーがウィーンフィルを指揮した1980年の録音がまさにそれである。

もうひとつ難点があって、バレンボイムが指揮台で足を踏ん張る「ドン」という音や、ヤマ場で力が入ったときの「シュッ」という呼吸音がかなり頻繁に入る。それだけ気合が入った演奏ということなのだろうが、まるでバレンボイムクジラが指揮台で暴れ回っているかのようである。(苦笑)

しかし、そうしたことを含めてもなお、今日あまり聴くことの出来なくなった重厚な音響によるブラームスは貴重な存在というしかなく、演奏解釈は別として、この音が恋しくなったらまた聴くことになるだろう。

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2019/11/07

歌劇「オテロ」

Otelloヴェルディ晩年の傑作オペラ。シェイクスピアの悲劇「オセロー」を原作とし、それまでのナンバーオペラ(番号が付されたアリアや重唱などを繋げていく)様式を脱して、一瞬の隙もない緊密な音楽が展開する新たな境地を切り拓いた作品である。ヴェルディと同じ年に生まれたワーグナーが、彼の「楽劇」において音楽の流れを切らさない「無限旋律」の手法を用いたのを意識しなかったはずはない。

文字通り「疑心暗鬼を生ず」の猜疑心から、破滅へと突き進む主人公を中心とした人間心理の揺れ動きを、残酷なまでのリアリティーで描き切った「音楽による心理ドラマ」である。とりわけ、主人公を破滅させようと画策する旗手イアーゴの奸計は憎たらしいほどに見事である。実は彼こそが全体の狂言回しを担っていて、実際ヴェルディはこの悪役に惹かれ、作曲中のこのオペラを「イアーゴ」と称していたそうだ。

刺激的なパッセージや不協和音をふんだんに使った音楽も、それまでのヴェルディ作品とは完全に一線を画し、20世紀音楽の到来が近いことをまざまざと実感させるが、そんな中にあってこそ、第1幕最後の愛の二重唱や第4幕「柳の歌」のメロディの美しさが一層際立って感じられ、ヴェルディの音楽技法の円熟ぶりを物語っている。

今回鑑賞したのは、2017年6月英国ロイヤルオペラ公演の録画。ヨナス・カウフマンがオテロデビューを果たし、マルコ・ヴラトーニャ(イアーゴ)、マリア・アグレスタ(デズデモナ)といった実力派とともに臨んだ新演出公演である。指揮アントニオ・パッパーノ、演出キース・ウォーナー。原作者シェイクスピアのお膝元での公演だけに、舞台と客席が一体となってお馴染みの古典を味わい尽くそうという雰囲気が感じ取れた。

さて、これで手許にない「運命の力」と「ファルスタッフ」を除き、ヴェルディの主要作品は一応鑑賞したことになる。続いては、ヴェルディ後のイタリアオペラから、まずはプッチーニを観ていこうと思う。

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