2017/03/22

『大人は判ってくれない』

Lesquatre1959年、仏。フランソワ・トリュフォー監督。ジャン=ピエール・レオ主演。allcinema の紹介文。

フランソワ・トリュフォーの長編第一作。アントワーヌ・ドワネルはパリの下町に住む13歳の少年。学校ではいつもいたずらばかりして先生に目をつけられている。共稼ぎの両親は、夫婦仲が余りよくなく何かと口論ばかりしていた。そんなある日、遊ぶ金に困った彼は父の会社のタイプライターを盗んで質に入れようとしたが、すぐにバレてしまい、両親は彼を少年鑑別所に入れてしまう……。(引用終わり)

原題は Les Quatre Cents Coups 。直訳すれば「400回の殴打」ということになる。その意味するところは諸説あるようだが、映画の解釈を押し付けるに等しい邦題が、果たして正鵠を射ているのかどうか。

それはともかく、途中まではアントワーヌの度が過ぎた悪戯と、その結末である鑑別所送りまでの顛末が、客観的かつ少々コミカルなタッチで描かれる。町中をランニングさせられる少年たちが、教師の目を盗んで次々と隊列を離れる連続映像は秀逸だ。

ところが、ほとんど最後になって、鑑別所の中で女性医師の質問に対して、アントワーヌが自らの身の上を語る場面がある。多分ここがクライマックスであり、これによって彼の行動の理由が明らかになると同時に、それまでのどのシーンも大変な重みを持ち始めるのである。トリュフォー自身の体験に加え、新聞の三面記事などから集めた、全て実話に基づくエピソードが、まさに小説より奇なる迫力を生んでいる。

その後、彼が鑑別所から脱走し、田舎道を駈け抜ける有名な長回しのシーンがあって、海辺に到着した彼がこちらを振り向いたところでストップモーションとなって、映画は唐突に終わっている。その後の彼はどうなったか。それは観る者の想像次第だ。そう言わんばかりのこの結末は見事である。

3月20日 ジョグ10キロ
3月22日 LSD40キロ

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2017/03/16

『我が道を往く』

Goingmyway_21944年、米。レオ・マッケリー監督。ビング・クロスビー主演。ウィキペディアの紹介文。

ニューヨークの下町にある古びた教会、セント・ドミニク。老神父フィッツギボン(バリー・フィッツジェラルド)は、廃屋寸前の建物と周囲の劣悪な環境に、最近はあきらめ顔である。そこへ副神父として派遣された若いオマリー(ビング・クロスビー)がやってきた。口うるさい老婆と家主の喧嘩をなだめ、街のギャングたちには芝居の券を配り楽しみ方を教え、不良少年たちには合唱を教え込み合唱隊を作る。ついでに、幼友達のオペラ歌手リンデン(リーゼ・スティーヴンス)が教会の財政難を救ってくれて、フィッツギボンとオマリーは大喜び。しかし、その夜、教会は全焼してしまう。そして、間もなくオマリーは、別の教区へ移ることが決まった。(引用終わり)

ビング・クロスビー主演で、随所に歌が登場することから、「ミュージカル映画」という分類も可能だが、ストーリー上も歌になる場面で歌うので、通常のミュージカルのような「登場人物が突然歌い出す」違和感は全くない。

笑って泣いての人情コメディとも言うべき内容で、同様に下町を舞台にした「フーテンの寅さん」シリーズを連想させる(第21作は「寅次郎わが道をゆく」というタイトルだが、本作との関連は特にないようだ)。ただ、こうした作品が戦時下の1944年に制作され、終戦後間もない1946年に公開されたというのは驚きである。

なお、オマリーの幼なじみでオペラ歌手という設定のジュヌビエーブを演じたリーゼ・スティーヴンスは、本作中と同様、メトロポリタン・オペラで「カルメン」のタイトルロールを演じて好評を博したメゾ・ソプラノだそうである。道理で上手いはずだわ。

3月15日 ジョグ10キロ

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2017/03/10

『太陽がいっぱい』

Pleinsoleil1960年、仏伊。ルネ・クレマン監督。アラン・ドロン主演。アマゾンの紹介文。

アメリカ人青年トム・リプリー(アラン・ドロン)は、イタリアに滞在中の裕福な友人フィリップ・グリンリーフ(モーリス・ロネ)のもとを訪れていた。フィリップの父親の依頼で、合衆国に戻るようフィリップを説得するのが目的である。だがフィリップはトムの説得に応じる気はなく、元来貧乏なトムの方もフィリップとの贅沢なイタリア生活を楽しんでいた。トムはフィリップとその恋人マルジュ(マリー・ラフォレ)の関係を羨み、自らの貧困生活を捨てて富裕な人生を歩むことを切望している。一方、甘やかされて育ち、傲慢なフィリップは、トムの卑屈さに次第にうんざりし始め、彼を邪険に扱ったり罵倒したりするようになる。やがてトムの心に、フィリップに対する殺意が芽生え始める……。 (引用終わり)

あまりにも有名な、アラン・ドロンの出世作である。鬱屈した青年の野望と内面を終始クールに演じ切った、彼独特の存在感なくして、この作品は成り立たなかったと思える。

詐欺つながりという訳ではないが、どこか憎めない『キャッチ・ミー…』と比べると、さすがはヨーロッパというべきか、その犯行の一部始終はとても陰惨でやるせない。しかも、それがイタリアの明るい陽光の下で繰り広げられるという皮肉も見事だ。

一旦は完全犯罪が成功したかに見え、トムは「太陽がいっぱいだ。今までで最高の気分だよ」と嘯くが、その直後に悲惨な現実が彼をどん底に突き落とす。この有名なラストシーンだけは記憶に残っていたが、分かっていてもなお打ちのめされてしまった。

ところで、これまた有名なテーマ音楽の作曲者ニーノ・ロータの名前が、オープニングのクレジットでは Musique de Nino Rotta  となっている。 t  がひとつ多いのは単なる間違いだろうか。

3月9日 LSD20キロ

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2017/03/07

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』

Catchme2002年、米。スティーブン・スピルバーグ監督。レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス他。allcinema の紹介文。

高校生のフランク・W・アバグネイルは尊敬する父が母と離婚すると聞き、ショックで衝動的に家を飛び出してしまう。そして、生活のため偽造小切手の詐欺を始めるようになる。最初はなかなかうまくいかなかったが、大手航空会社のパイロットに成りすますと誰もがもののみごとに騙された。これに味をしめたフランクは小切手の偽造を繰り返し巨額の資金を手に入れるのだった。一方、巨額小切手偽造詐欺事件を捜査していたFBI捜査官カール・ハンラティは、徐々に犯人に迫っていくのだったが…。(引用終わり)

タイトルは日本で言う「鬼さんこちら」に当たる言葉だそうだ。子供の遊びとまではいかないにしても、希代の天才詐欺師とFBI捜査官との駆け引きが、さほど深刻にならず軽妙洒脱に描かれていて、一級の娯楽作品に仕上がっている。さすがはスピルバーグである。

パンナムやTWAといった今はもうない航空会社、馬鹿でかいアメ車がひしめく街の風景など、60年代当時を見事に再現した映像を観るだけでも楽しい。どのカットもよく考えられているが、父親役クリストファー・ウォーケンのアップを半逆光で撮り、彫りの深い表情に親としての情感が窺える映像は特に印象的だった。

以下、結末に関連する感想を…

3月5、7日 ジョグ10キロ

続きを読む "『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』"

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2017/03/01

『エデンの東』

Eastofeden_21955年、米。エリア・カザン監督。アマゾンの紹介文。

第一次世界大戦下のカリフォルニア州サーリナス。 24歳のキャルは農場を営む父アダムが、兄のアーロンばかりを可愛がっていると感じ、反抗的な問題児扱いされていた。落ちこぼれで愛に飢えたキャルを、(アーロンの)恋人のアブラは何かと気にかけていた。 ある日、キャルは死んだと聞かされていた母ケートが実は生きていて、モントレーで酒場を経営していることを知る。アダムが野菜の輸送中の事故で無一文になった時、キャルは父親を助けようと、ケートに資金を借りに行くが・・・。孤独を抱えたナイーブな青年の青春と家族との確執を描き、ジェームズ・ディーンを一躍伝説のスターにした名作。(引用終わり)

ジェームズ・ディーンの代表作で、有名なテーマ音楽をバックに展開される青春ラブロマンス。…という先入観はまたしても見事に覆された。親子や兄弟の間の愛憎半ばする複雑な人間関係を描いた心理劇であるし、そもそもこの映画の主人公はキャルではなく、映画冒頭で流れる配役のトップにあるように、アーロンとキャル両方の良き理解者となるアブラなのである。ラスト近くで彼女が病床のアダムに語りかける場面は、この映画のクライマックスであり、大変に感動的だ。

旧約聖書のカインとアベルの物語が下敷きとなっている(父親はまさにアダム)ことから、このアブラという人物は、ケートの身代わりのイブなのか、あるいは他の誰かの象徴なのかとも考えられるが、聖書をまともに読んだことがない私にはよく分からない。死ぬまでには聖書のことも一応は勉強しておかなければと、改めて思った。

2月28日 ジョグ10キロ
月間走行 180キロ
3月 1日 ジョグ10キロ

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2017/02/26

『第三の男』

Thirdman1949年、英。キャロル・リード監督。ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ他。allcinema の紹介文。

第二次大戦後のウィーン。親友のハリー・ライムの招きでこの街を訪れた作家のマーチンは、到着早々、ハリーが死亡したことを知らされる。ハリーの死には三人の男が立ち会っていたと言うのだが、その三番目の男の正体を追って、マーチンは独自の調査を開始する。陰影や構図を凝らした、サスペンス・スリラーの傑作。(引用終わり)

アントン・カラスによる軽快なツィターのメロディ。花の都ウィーンを舞台にしたハラハラドキドキのサスペンス。男女の擦れ違いを象徴するラストシーン。

そうした先入観をもっていたのだけれども、それはこの映画の表面をなぞっただけのもので、内容的にはとても陰惨で、冷酷極まりない現実を描いた作品だった。テンポの良い展開や巧みな構図などから、「映画の教科書」とも言われるけれど、カラスのあの音楽がなければ、これほど親しまれたかどうかは疑わしい。

冒頭からただちに、第二次大戦で破壊され、米英ソ仏4カ国による分割統治の下、闇市が栄えるウィーンの殺伐たる風景が映し出され、いきなり頭をガツンと殴られる思いだ。そこに乗り込んできたアメリカ人作家のマーチンが、親友のハリーの死の真相を探る物語が展開する。

マーチンはいかにもアメリカ的価値観を体現したような男で、ハリーが手を染めていた不正を絶対に許せないのだが、ヨーロッパ社会の複雑な現実は、到底そんな一筋縄ではいかないのである。それを象徴するのが、有名な観覧車のシーンでのハリーのセリフである。

ボルジア家の下で陰謀やテロが横行した。だが、多くの芸術家が誕生した。スイスは愛の国だが、500年の民主主義と平和は何を生んだ? 鳩時計が精一杯だ。

祖国チェコから偽パスポートでウィーンに逃れてきたアンナもまた、こうしたヨーロッパ社会の現実の中で生き、これからも生き延びなければならない女性である。マーチンの思いに気づいてはいるはずだけれど、それほど現実は甘くないというのが、ラストシーンの意味合いなのだろう。

2月24日 LSD40キロ
2月26日 ジョグ10キロ

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2017/02/20

『道』

Lastrada1954年、伊。フェデリコ・フェリーニ監督。アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ他。アマゾンの紹介文。

野卑な旅芸人ザンパノに引き取られ、芸を学びながら旅を共にするジェルソミーナ。自分勝手な振る舞いに明け暮れるザンパノにジェルソミーナは苦労が絶えない。
ある日、優しい綱渡り芸人と心を通わせるようになるのだが、その芸人はかつてザンパノと因縁のある男だった……。(引用終わり)

ご存じ、不朽の名作。純真だが少し知能が低いジェルソミーナは、野卑な芸人ザンパノに1万リラで売られる。助手として口上や太鼓など芸を仕込まれるが、彼はジェルソミーナをほとんど人間扱いしない。

逃走を図っても連れ戻され、自暴自棄になりかけていた彼女はある日、綱渡り芸人(今日的には少し問題のある名前がついているが、DVD字幕では出てこない)になぜ逃げないのかと問われ、逃げても同じこと、私は何の役にも立たない女、と泣きながら言う。

それに対して綱渡りが諭すように話した内容がとても深い。

この世の中にあるものは何かの役に立つんだ。例えばこの石だ。こんな小石でも何か役に立ってる。これが無益ならすべて無益だ。空の星だって同じだとおれは思う。お前だって、何かの役に立ってる。

これが正しかったことを証明するのがラストシーンで、彼女を捨てて逃げたことを後悔するザンパノが柄にもなく流す涙は、いくら鋼鉄の肉体を持っていても、人間は一人では生きていけない、か弱い存在なのだということを思い知らせる。

ここで重要なカギとなるのが、ニーノ・ロータによる哀愁に満ちた有名なテーマ曲である。最初は子供用の小さいヴァイオリンで奏され、のちにジェルソミーナがトランペットで演奏する。楽器法的にも、これは天使のメロディなのである。最近も髙橋大輔だったか、フィギュアスケートの音楽に使われたらしい。

(追記)
「小石でも何か役に立ってる」というセリフの引用を、どこかで見聞きした気がすると思っていたが、以前読んだ関川夏央の『石ころだって役に立つ』だった。読んでから10年近く経ってようやく腑に落ちたわけだ。(笑)

2月18、20日 ジョグ10キロ

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2017/02/14

『ショコラ』

Chocolat2000年、米。ジュリエット・ビノシュ、ジョニー・デップ他。MovieWalker の紹介文。

フランスの小さな村。レノ伯爵(アルフレッド・モリーナ)の猛威で因習に凝り固まったこの村に、ある日、不思議な女ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と娘アヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル)が越してきてチョコレート店を開く。次々と村の掟を吹き飛ばす二人の美しい新参者に、訝しげな視線を注ぐ人々。しかし、チョコレートのおいしさに魅了された村人たちは、心を開き、それまで秘めていた情熱を目覚めさせていく。そして、夫の暴力を恐れ店に逃げ込んだジョゼフィーヌ(レナ・オリン)がヴィアンヌ母娘の生活に加わってまもなく、河辺にジプシーの一団が停泊する。ヴィアンヌは、そのリーダーであるルー(ジョニー・デップ)という美しい男性に心を奪われ、彼を店に招き入れる。だがよそ者であるジプシーたちを快く思わない村人たちの、ヴィアンヌに対する風当たりは強くなった。やがて老女アルマンド(ジュディ・デンチ)の誕生日パーティー中、ルーの船は放火され、ジプシーの一行は村を出ていく。そして疲れて眠ったまま息を引き取ったアルマンドの葬式が続く中、ヴィアンヌは荷造りをして、次の土地に移るべく、嫌がる娘を引っ張って出ていこうとするのだった。(引用終わり)

主人公の母と娘が村にやってきたのは、四旬節の断食期間という最悪のタイミングだった。日曜のミサにも出ず、平気でチョコレート店を開いた彼女は完全に村の異端者である。さらに、ジプシー船団のリーダーとも仲良くなるに及んで、村全体が彼らを排斥しようと動き出す。

それでも、ジョセフィーヌやアルマンドなど、「わけあり」の女性たちとの交流が生まれ、ヴィアンヌが作る不思議な美味しさのチョコレートに.惹かれる村人が次第に増えていく。その禁断の甘さが、伝統に囚われていた村人の心を開いていくのである。

ついにはレノ伯爵までもがその虜になってしまうが、その姿を目撃した教会の若い神父が、以前は伯爵に手直しされていた説教の内容を自分で考え、自らの言葉で村人に語りかけるシーンが印象的である。

人間の価値とは、何を禁じるかでは決まらない。何を否定し、拒み、排除するかでもありません。むしろ何を受け入れるかで決まるのでは? 何を創造し、誰を歓迎するかで…

最近その言動が毎日ニュースになっているあの方に聞かせてやりたい。翻って、いじめ問題をはじめ、様々な場面で排除の論理が強まり、世間の同調圧力が高まっている我が国とて、このテーマは決して他人事ではないだろう。

それはともかく、映像、音声ともに大変洗練されていて、『青の愛』のビノシュは相変わらず美しいし、店のチョコレートはどれも本当に美味しそうた。バレンタインデーにはぴったりの映画だ。

2月12、14日 ジョグ10キロ

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2017/02/11

『駅馬車』

Stagecoach_21939年、米。ジョン・ウェイン他。シネマトゥデイの紹介文。

1885年、アリゾナからニューメキシコへ向かう駅馬車に、騎兵隊の夫を訪ねる妊娠中の妻ルーシー(ルイーズ・プラット)、酒に目がない医者ブーン(トーマス・ミッチェル)、町を追放された酒場女ダラス(クレア・トレヴァー)などそれぞれに事情を抱えた男女8人が乗り合わせる。途中、お尋ね者のリンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)も乗り込んだ駅馬車は次の町にたどり着くが、ルーシーの夫はインディアンに襲われたことにより負傷してしまい、遠くの町へ運ばれており……。(引用終わり)

名匠ジョン・フォード監督の西部劇だが、迫力あるアパッチ襲撃シーン(落馬したあと、馬車がその上を通過する決死のスタント!)だけでなく、それぞれの背景と立場を持つ乗客たちが描く人間ドラマも興味深い。ロマンスあり、サスペンスありと、映画の面白さがテンコ盛りになっていて、不朽の名作と言われるのも頷ける。

ところで、乗客のひとりの銀行家が、途中で護衛の騎兵隊がいなくなったことに腹を立て、ついには政府への不満をぶちまけるシーンがある。人生幸朗みたいなボヤキが続いた挙句、「実業家を大統領にしろ」というセリフが飛び出したので笑ってしまった。まさか、78年後の現在を予見していた? それより、映画俳優が大統領になったと聞いた方が驚いただろうな。(笑)

2月10日 ジョグ10キロ

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2017/02/08

『破門 ふたりのヤクビョーガミ』

Ts3r0002_22017年、製作委員会。松竹配給。佐々木蔵之介、横山裕、北川景子他。公式サイトの紹介文。

主人公は、イケイケやくざの桑原とヘタレで貧乏な建設コンサルタントの二宮。映画製作出資金を持ち逃げされた二人は、失踪した映画プロデューサー、小清水を追って関西、マカオを奔走。何とか居場所を突き止めるも寸前で逃げられてしまう。キレた桑原によるハチャメチャな追走劇はまさかの大トラブルへ発展! 追っている筈が何者かに追われるハメに! 進退窮まった二人は生き残りをかけた大勝負に出るが…。(引用終わり)

前に観たドラマ版とつい比較してしまうが、足して二で割るとちょうど良いという感じか。全体的なストーリー展開やテンポ感、ヤマ場の作り方などは、さすがに2時間の枠がある映画の方がまとまりが良い。

一方で、主役二人のキャストは、ドラマ版の方に軍配が上がる。ホンモノの極道にしか見えない北村一輝に比べると、佐々木蔵之介はやはりどこから見てもカタギの人間である。二宮役の横山もいかにも真面目で、肝心の「ヘタレ」具合は濱田岳に及ばない。

逆に、脇役陣は映画の方が数段素晴らしい。特に、小清水役の橋爪功の「食えないジジイ」ぶりは、ほとんど原作から抜け出してきたかのようである。ドラマでこの役を演じていた木下ほうかは、映画では桑原らと対立する滝沢組の初見を演じているが、ドスの利いた大阪弁が板についていて、明らかにこちらがハマリ役だ。

お目当ての北川景子は、期待どおり気の強い大阪のお姐ちゃんを好演している。神戸弁と大阪弁の違いにまで気を配ったという、彼女らしいひたむきさが報われている。原作やドラマでは「太腿を露わに昼寝している」というシーンがあって、ちょっとドキドキしていたが、映画ではカットされていたのでホッとした。(笑)

2月6、8日 ジョグ10キロ

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