2018/05/07

「地続き」その2

もうひとつは、時間的・歴史的な意味においての「地続き」である。東海道、中山道などいわゆる五街道は、慶長年間に入って徳川家康によって整備されたもので、それまで自然発生的に形成された古道をベースに、宿場や一里塚、松並木などを設け、いわば当時の幹線国道として再整備したものだ。

それ以降だけでも400年の歴史をもつ街道は、今もかなりの部分が国道や府県道として現役であり、道路自体が慶長の昔から「地続き」で現代に至っている。部分的に失われた箇所はあるものの、基本的に当時の旅人と全く同じルートを辿って、江戸から京まで歩く体験を共有できるのである。街道の脇に立つ道標は建立当時の姿を今にとどめる。鉄板に青や白のペンキを塗った現代の道路標識が果たして100年もつだろうか。

歴史小説や時代劇などでは、登場人物が東海道を行き来する場面がよく登場する。しかし、例えば「江戸から10日の強行軍で上京した」とあったとしても、途中の経過は省かれるのが普通だが、実際にその行程をたどった人間なら、その人物がその過程でどういう体験をしているか、おおよその想像がつく。

つまり、前回書いた空間的な「地続き」と合わせて、当時の人々と距離感覚、時間感覚を共有することができるわけで、大袈裟に言えば自分の中の一部に江戸時代の感覚が生まれることになり、江戸時代が現代まで「地続き」の存在であることを、自身の感覚として理解することが出来る。

一般的に江戸時代は文明開化前の暗黒の時代と言われ、またその反動か「当時の江戸は世界に冠たる先進都市だった」と言われることもあるが、そんな一面的な見方ではない、いわば等身大の江戸時代像を理解することが重要だろう。「歴史に学ぶ」とは、つまりはそういうことではないか。

5月5、6日 ジョグ10キロ

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2018/05/04

「地続き」その1

旧東海道の走り旅を終えての感想めいたことを少し書いておきたい。それは別に東海道に限らず、伊勢本街道や紀州街道など、他の街道を走ったときにも感じたことだが、「キング・オブ・街道」である東海道を完踏して、その思いはより一層強まった。

それは、旧街道が2つの意味において「地続き」だということだ。そのひとつは、空間的・地理的な意味において。もちろん、江戸(東京)と京(京都)が地続きであることは当たり前で、それは新幹線で行こうが車で行こうが変わらないのだが、ここで言いたいのは、人間の身体による距離感覚においての「地続き」ということだ。

人間の身体感覚、即ち歩く、走るときの距離感覚と、電車や自動車でのそれとは全く別物だ。電車や車に乗り込んで動き出した瞬間から、その距離感覚は人間の身体性を離れ、目的地まで地続きという体感はなくなってしまう。文明開化の頃、汽車の乗客が脱いだ履物がホームに残されていたという逸話は、ただの笑い話以上の含蓄があるように思う。

しかし、近代人にとってはその別物の感覚の方が日常となった。都市以上にクルマ社会である地方において、それはより顕著と言えるだろう。某地方都市郊外のコンビニの若い店員に、目的地までの大体の距離を尋ねたところ、とんでもない距離を言われた経験がある。車で何分ぐらいとは分かっていても、それが何キロの距離に相当するのか見当がつかないのである。

まして、朝から晩まで歩くとどのぐらいの距離を進めるのかなど、現代人の感覚からは既に失われてしまった。昔の旅人は1日に10里(40キロ)近く歩いたが、その距離を身体で実感する機会はほぼ皆無である。だから、江戸から平均14日間歩き通してようやく到達できる場所が京だということを、頭では分かっても身体で理解することは不可能である。

今回の街道走りは、まさにそれを自分自身の身体で理解する旅であったとも言える。江戸から京までを実際に走って(歩いて)、その距離を身体で実感する。言い換えれば、江戸と京が間違いなく地続きであることを、身体感覚において理解したということだ。

長くなりそうなので、もう一つの「地続き」については稿を改める。

5月3日 ジョグ10キロ

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2018/05/01

東海道を走る その24(草津~京三条大橋)

国道1号を横断した先に、江戸から119里の一里塚跡がある。ここから暫く、街道特有のうねるような道が続くが、南笠東に入って弁天池に突き当たるところは、左にカクンと折れる。池の中の弁天島には弁財天神社があり、橋で渡れるようになっている。

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江戸から120里の一里塚があった一里山付近を過ぎて旧大江村に入り、街道から左に少し入ったところに野神社舊跡がある。大江千里の住居跡と言われ、大江村の地名の由来となっている。平安時代の歌人「おおえのちさと」であって、「おおえせんり」ではないので念のため。(笑)

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次第に賑やかな市街地に入り、いよいよ瀬田の唐橋を渡るが、その手前に寛政12年建立の「太神山(たなかみやま)不動寺 是より二里半」と刻む道標がある。

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唐橋東詰には文化14年建立の道標があり、「跋難陀龍王宮 是より」「俵藤太秀郷社 川ばた半丁」と刻む。瀬田川の龍神の依頼により三上山の大ムカデを退治した、俵藤太こと藤原秀郷の伝説に基づき、龍神と秀郷を祀ってあるそうだ。

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瀬田の唐橋。古代より「唐橋を制するものは天下を制す」と称された名勝で、以前はびわ湖毎日マラソンのコースになっていた(現在は唐橋は渡らず、下流の南郷洗堰を渡るコースに変更されている)。

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大小2つの橋を渡り切って、京阪石山坂本線(以下「石坂線」)の踏切を越え(1回目)、街道は右折して北方向に転じる。国道1号、石坂線(2回目)、JR東海道線を越えた先は、かつて近江八景粟津の晴嵐と呼ばれた景勝地で、その松並木の一部が今も残る。

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この先は膳所城の城下町に入り、何度も折れ曲がる城下町特有の道筋を進む。古い民家の軒先には「ばったん」と呼ばれる折り畳み式の床几がある。

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石坂線踏切をさらに2回渡りながら琵琶湖岸に近づくと、今度は大きく西に向きを変えて、石坂線石場駅付近で5度目の踏切を渡る。その先が大津宿江戸方口である。滋賀県庁を左に見ながら進むと、「此附近露國皇太子遭難之地」の碑がある。明治24年、巡査津田三蔵がロシア皇太子ニコライに切りつけた「大津事件」が起きた場所である。

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この先、高札場があった札の辻(京町1丁目交差点)で左折すると大津宿の中心部になる。現在ではその面影は全くないが、僅かに延享3年建立の道標が残る。「蓮如上人近松御舊跡 是より半町 京大坂 江戸大津 講中」とあり、近松別院顕証寺への道筋を示している。

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この先は緩やかな上りとなり逢坂越えとなる。国道1号に合流する手前で京阪京津線の踏切(京阪線通算6度目)を渡るが、その手前左手の駐車場の基礎の一部が、何かの橋梁の跡のようである。これは事前にAさんに教えてもらっていたので気がついたが、実は東海道線旧線の橋台痕跡なのである。街道走りの途中で、ちょこっと廃線探訪。(笑)

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この先にある旧逢坂山隧道を出た線路は、国道を跨ぐ橋梁を渡って旧大津駅(現膳所駅)に向かっていたのだ。トンネル出口を背にして眺めると、その延長線上に先の橋台跡があることが分かる。

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隧道の坑門上部には太政大臣三条実美の揮毫になる「楽成頼功」の扁額がある。「落成」は落盤に通じるとして、あえて「楽成」としたそうだ。

逢坂越えの国道1号は事故のせいで大渋滞していた。昔も今も交通の難所なのだ。逢坂山関址の碑を目印に旧大谷村に入ると、国道の喧騒がウソのような静けさである。

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再び国道1号の歩道に戻り、だらだらと下っていくと、左手に月心寺がある。境内に走井と呼ばれる掘り抜き井戸があるそうだ。

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広重「大津」は左下に走井を配し、名物走井餅を商う走井茶屋の前を行く牛車を描いている。茶屋の痕跡はさすがにないが、昔も今も物流の大動脈であることに変わりはない。

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この先、名神高速京都東IC付近にある売店で、本家走り井餅を試食させてもらった。黄粉をまぶしていないのがオリジナルだそうだが、あいにく品切れだった。

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相前後するが、街道は名神高速の高架を潜った先で伏見道との分岐点、髭茶屋追分に至る。「みきハ京ミち ひたりハふしミみち」と刻む道標(昭和29年再建)があるが、左の蓮如上人御塚道標(明和3年)とともに、鉄板か何かで補修してあるのが痛々しい。

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だらだらと坂を下って、国道1号を歩道橋で越えた先に、大津宿札の辻からの別ルートである小関越えとの分岐点がある。逢坂越えを相撲の大関に見立て、それに対して小関と称した脇街道である。「三井寺観音道」「小關越」と刻んだ文政5年の道標が立つ。

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この先で、ついに近江(滋賀県)から山城(京都府)に入る。京津線四宮駅の先に「伏見六ぢざう(以下不明)」「南無地蔵菩(薩)」と刻む元禄16年の道標がある。ここにある山科六地蔵から伏見六地蔵への道を示す。

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山科駅前の繁華街を通り過ぎると間もなく、宝永4年に沢村道範なる人物が建立した五条別れ道標がある。「右ハ 三条通り」「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水 道」とある。「ひがしにし六条」は東西本願寺、「大佛」は方広寺、「今ぐま」は今熊野観音、「きよ水」は清水寺である。

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道標どおり右の道を進むと、間もなく府道143号、通称三条通りに突き当たるので右折。東海道本線ガードを潜った先に冠木門があり、てっきりここが旧東海道と思いきや、これは地下鉄東西線開通で廃止された京阪京津線の廃線跡なのである。ここでもちょこっと廃線ラン。

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この先で三条通りを左折、東海道最後の難所、日ノ岡峠越えとなる。結構な急坂で、2日間で80キロ以上走ってきた脚には堪える。昔の人も難儀したようで、多数の地蔵尊が安置され、旅人の道中安全を見守っている。

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峠越えを終えて再び三条通りに合流するところに、広重「大津」から抜け出たかのような大八車を復元したモニュメントがある。敷石には轍に合わせた溝が刻まれ、「車石」と呼ばれる。

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蹴上浄水場を経て都ホテルが見えてくると、街道走りもいよいよ最後の直線に入る。というか、もうかつての生活圏なので、「とうとう帰って来たなあ」という感覚が込み上げるが、当時は知らなかった史跡もいくつかある。

平安神宮に通じる神宮道交差点の先に、坂本龍馬お龍「結婚式場」跡という標石がある。神奈川宿で働いていたお龍と知り合った龍馬は、ここで内祝言を挙げ、新婚旅行で高千穂峰に登ったというわけだ。もう他人という気がしない。(笑)

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その先、白川に架かる白川橋東詰に、三条通白川橋道標があり、「是よりひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち」「京都為無案内旅人立之」と刻む。「京都に不案内な旅人のために立てた」もので、建立は延宝6年(1678)、京都に現存する最古の道標とのことである。

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また、ここから白川を少し下ったところに、弘化2年建立の「東梅宮並明智光秀墳」「あけちみつひて」と刻む道標がある。山崎の戦いで秀吉に敗れた光秀の首を埋めた場所らしい。

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東大路を越えて間もなく、京阪三条駅前にある高山彦九郎像に挨拶。「土下座像」と言われることもあるがそうではなく、勤皇の士である彼は御所を向いて望拝しているのである。京阪本線が地上を走っていた頃は、この像は確か三条大橋東詰にあった。

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16時半前、その三条大橋の擬宝珠にタッチして、旧東海道約489キロ、12日間の走り旅を完踏した。橋を渡ったところで、日永追分で別れて伊勢参りに行っていた弥次さん喜多さんと再会。二人とも何だかホッとした表情だ。

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広重「京師」も当然、この三条大橋を描くが、奥に見える高い山は比叡山と言われている。

Keisi

そうだとすると、この構図はおかしい。絵では鴨川が右から左に流れているが、比叡山は左岸側にあるからだ。本当は下のような絵柄になるべきところ、写真を裏焼きしたようになっているのだ。ブログもインスタもない時代、既存の名所図会と記憶を頼りに描く以上、こういう誤りは仕方ないだろうが。

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広重の絵で、橋の中ほどで菅笠を被って川面を眺めている男は、広重自身の姿だとも言われている。それに倣って、私も缶ビールを片手に川面を眺め、しばし旅の思い出に浸ったのだった。(完)

4月29日 LSD20キロ
月間走行 190キロ
5月 1日 ジョグ10キロ

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2018/04/28

東海道を走る その23(水口~草津)

2日目の20日午前8時半頃、甲西駅前をスタート。今日もよく晴れている。昨日以上に気温が上昇して、夏日になるとの予報が出ている。

次の石部宿に入る手前に、八嶋寺地蔵堂の道標がある。ここは道標だけだが、近江に入って以降だろうか、街道に沿って小さな地蔵堂を見かけることが多くなった気がする。

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石部宿に入ったところに、菜飯田楽(なめしでんがく)を供していた往時の田楽茶屋を模した休憩所がある。前述の滋賀LSDで何度か立ち寄ったことがあるが、この日はまだ開いていなかった。

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広重「石部」は、石部宿というより次の草津宿に近い、旧目川村にあった田楽茶屋「いせや」を描いている。ここはそれをモデルに作ったものらしい。屋根の感じなどそっくりだ。

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それ以外に宿場の痕跡はほとんど残っていない。西見附跡から少し行ったところに小さな公園があり、東海道や石部宿の歴史を説明した掲示があるが、ここは目見改場(めみえあらためば)の跡で、京方面からの大名行列は、ここで一旦衣服を整えてから石部宿に入ったそうだ。

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この先に小高い山があり、かつて銅を産出したため「金山」と呼ばれていた。融通の利かない堅物のことを「石部金吉」と言うのは、ここから来ているという説がある。石部宿が飯盛り女を置かない「お堅い」宿場だったことも関係しているとか。

それはともかく、この先の街道は、金山を左に見て野洲川沿いを行く下道と、金山の手前を左に回り込む上道に分かれる。初期の東海道は下道だったが、たびたび洪水に見舞われたため、天和3年に上道が作られた。下道はLSDで走ったことがあり、今回は上道を選択。国道1号バイパス、名神高速の高架を潜ると、前方に近江富士の三上山が見えてきた。

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この先で左折して下道と合流、しばらく進むと「新善光寺道 是より一町餘」と刻む道標がある。平重盛末裔の小松宗定が夢のお告げに従い、建長5年に善光寺如来の分身を安置したものだそうだ。

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旧六地蔵村に入ると、和中散本舗大角家住宅の立派な屋敷がある。和中散は腹痛や暑気あたりに効くと評判になった街道薬で、この薬を飲んで腹痛が快癒した家康が命名したのだとか。

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JR手原駅に近づいた辺りに、「肩かえの松」がある。旅人がこの松の下で休憩し、荷物を担ぐ肩を替えたという。

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この先にある行者堂は、里内九兵衛という人がお告げにより、文政3年に大和国から役行者像を持ち帰ったのが始まりという。役行者こと役小角(えんのおづぬ)は吉野や芋ケ峠でお馴染みだが、近江国にまで勢力を伸ばしていたとは知らなかった。

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旧目川村に入る。広重が「石部」で描いた元伊勢屋跡に「田楽発祥の地」の碑が立つが、街道の雰囲気は全く残っていない。

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この先で街道は旧草津川(天井川)の堤防に突き当たり、右折して草津の市街地を目指す。新幹線のガードを潜り、国道1号線を横断した先で堤防に上がり、旧草津川を渡ったところが草津宿江戸方口で、文化13年建立の火袋付道標がある。「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」とある。

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堤防を下りてだらだらと坂を下りて行くと、中山道との追分に至る。ここにも文化13年の追分道標があり、「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と刻んでいる。建立年や形状、字体から、先の道標とセットで建立されたものではなかろうか。

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T字路を左折した先に木屋本陣遺構(国指定史跡)が現存し、一般公開されているが、入場料を取るので門から少し覗くだけである。(笑)

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宿場の今の様子。今も車や人が頻繁に行き交い、賑わい続けている。

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宿場京方口の黒門近くに立木神社があり、その境内に元の中山道追分道標が移設されている。現在立っている文化13年の道標の先代に当たり、延宝8年(1680)と滋賀県下では最も古いものである。「みぎハたうかいとういせミち」「ひだりハ中せんたうをた加みち」と刻む。

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新たに開削された新草津川を渡ってしばらく進むと、瓢泉堂前の三叉路の角に「右 やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻む寛政10年の道標がある。琵琶湖矢橋湊に通じる矢橋道との追分(分岐点)である。

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往時はここに名物姥ケ餅を商う姥ケ茶屋があり、広重「草津」はその風景を描く。店先の道標は今と同じ位置にあり、おそらく現存のものと同一であろう。広重の五十三次のうち、「戸塚」に描かれた道標も移設されて現存するが、元の場所に今も立つのはここだけではないだろうか。

Kusatsu

この追分で、旅人は「瀬田へ廻ろか矢橋へ出よか ここが思案の姥ケ餅」と迷ったそうで、また、「武士(もののふ)の 矢橋の舟は速くとも 急がば廻れ瀬田の長橋」という歌から「急がば回れ」という言葉が生まれた。

名物「うばがもち」は、近江源氏佐々木義賢が信長に滅ぼされ、その曽孫の後事を託された乳母が街道で餅を売って養育費に充てたのが発祥で、姥(乳母)の乳をかたどった小さなあんころ餅である。素朴な味わいが何だか懐かしい。

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昼時になったので、国道沿いのラーメン店で昼食休憩を取る。(続く)

4月27日 ジョグ10キロ

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2018/04/25

東海道を走る その22(坂下~水口)

鈴鹿峠を越え近江に入って間もなく、巨大な常夜燈が見えてくる。江戸中期に金毘羅参りの万人講が道中安全を祈願して建立したもので、高さ5.5メートル、重量38トンと言われる。これほどの石造物が300年近くもの間、地震や台風に耐えて立ち続けているのに驚く。

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国道1号に合流して緩やかな下り坂を進み、旧山中村に入ると、前方に新名神高速の巨大な高架橋が見えて来た。滋賀県下の新名神高速はこの地で起工されたという記念碑がある。

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もとの名神高速は米原回り(旧中山道)の比較的平坦なルートを通っているが、当時はこんな巨大橋梁を作る技術や資金がなかったのだろう。時代が下ってそれが可能になると、旧東海道に近い最短ルートを通るようになったのだ。そう言えば、これも名神・東名高速をバイパスする伊勢湾岸道は、旧東海道・七里の渡しのルートに近く、リニア中央新幹線も鈴鹿峠付近を通るルートが検討されているようだ。

また、偶然かもしれないが、ここは江戸から109里の一里塚があった場所に近い。起工記念碑向かいは一里塚緑地として整備され、櫟野観音道の道標が立っている。「いちゐのくわんおん道」とあり、櫟野村の櫟野寺(らくやじ)への参詣道を示している。

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この先、旧街道はコンクリート会社の敷地内に取り込まれてほぼ消失している。国道に迂回して猪鼻村で一旦旧道に戻り、さらに先に進むと「蟹が坂」に至る。

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平安時代、この付近に巨大な蟹が出没し、村人や旅人を苦しめたが、京の恵心僧都が説法を施したところ、蟹は自らの悪行を悟るが如く甲羅を八つに裂いてしまった。蟹の血は固まって八つの飴となり、厄除けの効があったということから、蟹の甲羅を模した「蟹が坂飴」が作られ今日に伝わっている。この先の道の駅で買い求めて旅の友にしたが、ちとばかり重かったな。(苦笑)

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この先の蟹坂古戦場跡を経て、街道は田村神社の手前で田村川を渡る。安永4年に架けられた旧田村橋は昭和初期に台風で流され、その後は架橋されないままになっていたが、平成17年に海道橋として再び架橋されたものだ。

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広重「土山」は、馬子唄のとおり「あいの土山雨が降る」中、田村橋を渡る大名行列を描く。

Tsuchiyama

坂上田村麻呂を祀る田村神社の境内を抜け、道の駅「あいの土山」で昼食休憩(塩分補給)してから街道走りを再開。間もなく土山宿に入る。ところで、「あいの」とはどういう意味なのか? 実は諸説あって、いまだに定説がないようである。詳細はこちら

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本陣跡は往時の雰囲気をとどめる。

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この先、国道1号に突き当たる地点が宿場西口で、脇往還御代参街道との分岐点に当たる。古い道標2基が立っていて、奥側は文化4年建立で「右 北国たが街道 ひの八まんみち」とあり、手前側は天明8年建立で「高埜世継観音道」とある。

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この先の旧道をしばらく進むと、野洲川(松尾川)の渡し場跡に出る。今は橋もないので国道に迂回せざるを得ない。対岸には渡し場へ下りる道の痕跡も残るが、柵が2箇所に設けられていて立ち入ることは出来ない。旧道痕跡を探索しようという街道ファン(誰のこと?)が出没するので、田んぼの所有者が業を煮やしたのだろうか。

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この先、国道1号を縫うように進む単調な区間となる。4月とは思えないほど気温が上昇して徐々にペースが落ちてくるが、茶畑の鮮やかな緑が心身をリフレッシュしてくれる。そう言えば、もうすぐ新茶の季節である。土山は茶の名産地なのだ。

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大日川を渡ると、今回の区間でほとんど唯一の松並木(僅か2、3本だが)があった。反野畷というところらしい。

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さらに進むと、間の宿があった旧大野村、旧今宿村を経て甲賀市水口に入る。上り坂をしばらく行くと、今在家の一里塚跡(江戸から112里)がある。

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前方に水口岡山城があった古城山が見えてくると、ようやく水口宿に到着である。広重「水口」は古城山を背景に、名物干瓢作りの様子を描く。

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広重が描いた場所はよく分からないが、古城山を背景にした現在の街道の風景。この日に宵宮を迎える「水口曳山まつり」の山車が、庫から半分だけ顔を覗かせている。

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宿場の痕跡はほとんどないが、三筋に分かれた独特の宿並みが今も残る。その西端、近江鉄道石橋駅近くの三筋の合流点には、曳山の模型に乗ったからくり時計が設置されている。

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その先には水口城があり、城下町特有の何度も曲がる(ここは六曲がり)道筋を通って水口宿を出ると、また北脇縄手という単調な直線区間となる。さらに気温が上昇してかなり辛かったが、やがて再び野洲川を渡る横田の渡し跡が見えてきた。

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明治24年に同じ場所に横田橋が架けられたが、現在は下流側に移転していて、そちらに迂回せざるを得ない。野洲川を渡ってすぐのJR三雲駅近くに、かつての渡し場(西側)にあった常夜燈が移設されている。

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三雲と言えば、かつて草津在住のランナーAさん主催のLSDで何度か来たことがある。ここでフィニッシュして、駅近くの酒屋でビールを買って飲んだりしたものだが、その酒屋の前の道が旧東海道だとは、当時は全く知るよしもなかった。

三雲駅前からしばらく行くと、3基の道標が並んでいて、真ん中は寛政9年の銘があり、「万里小路藤房卿古跡」「雲照山妙感寺 従是十四丁」と刻まれている。万里小路(までのこうじ)藤房は後醍醐天皇側近だった人で、後に出家して妙感寺を開いたそうだ。

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さらに西に進むと、大沙川(おおすながわ)隧道(明治17年築)を潜る。この辺りの川は天井川となっていて、街道は川の下をトンネルで潜るわけだ。往時は一旦河原まで上がって下りていたのだろう。左の杉の大木は弘法杉といって樹齢750年。弘法大師空海がここで昼飯を食べ、その時に使った杉箸が根付いたという話だが、空海が没したのは9世紀前半。ちと勘定が合わぬようだが。(笑)

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この先、夏美の一里塚跡(江戸から115里)を過ぎて、今度は由良谷川隧道(明治19年築)を潜る。こちらは河川の付け替え工事が行われていて、片側交互通行となっている隧道は近く姿を消してしまうだろう。

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この先のJR甲西駅付近で1日目の行程を終了。草津線で草津まで移動して、駅前ホテルに投宿。ひと風呂浴びた後は、Aさんと落ち合って久々に一献傾けたのだった。(続く)

4月23、25日 ジョグ10キロ

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2018/04/22

東海道を走る その21(亀山~坂下)

「東海道を走る」シリーズもいよいよ最後の第6回、亀山から京三条大橋まで走った。伊勢から近江、そして山城へ。どんどん地元に近づいて、土地勘が働くようになってきたのは心強い。

快晴に恵まれた4月19日午前8時過ぎ、亀山宿西町問屋場跡を出立。

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亀山城京口門跡からだらだらと坂を下ると、まもなく野村の一里塚がある。江戸から105里。巨大な椋の木は樹齢400年という。

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JR関西本線を跨線橋で越えると、鈴鹿川に沿った大岡寺畷という単調な区間になる。途中、名阪国道の関JCT-亀山IC間の高架橋を潜る。車で名古屋方面に行くときいつも通る道路の真下を走っているわけだ。

再び関西本線を踏切で越えると、間もなく次の関宿に入る。東口がこの東追分で、鳥居の先の伊勢別街道との分岐点に当たる。江戸から106里の一里塚もここにあった。

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関宿の街並み。重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが残され、往時の宿場町にタイムスリップしたかのようだ。宿並みはたいそう狭く、伝統の祭り「関の曳山」の山車が道幅以上に大きくできなかったところから、「関の山」という言葉が生まれたという。

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広重「関」は川北本陣前の早朝の風景を描く。

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川北本陣跡の現在の風景。

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関宿銘菓「志ら玉」を味わってみたいと思っていたが、あいにく店は閉まっていた。まだ開店時間前だったようだ。残念。

宿場西口の西追分は、伊賀から奈良へ向かう大和街道との分岐点である。元禄14年の道標に「南無妙法蓮華経 ひだりハいか(伊賀)やまとみち」とある。左折すれば奈良への近道になるが、まさかそちらを行くわけにはいかない。(笑)

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ここから次の坂下(さかのした)宿までは国道1号と合流、分岐を繰り返しながら、鈴鹿峠に向かってどんどん上っていく。途中、右手に聳える筆捨山を望む場所に藤の茶屋があったそうで、広重「阪之下」はその光景を描く。

Sakanoshita

筆捨山の名は、昔狩野元信がこの山を描こうとして筆をとり、翌日描き残し分を続けようとしたところ、雲や霞で景色が全く変わってしまい、ついには諦めて筆を投げ捨てたという故事に由来する。

現在の風景。岩が露出していたらしい筆捨山も山容が変化している。

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107里の一里塚跡の先で旧道に分岐、緩やかな上り坂の旧道を上っていくと、かなたに三子山(みつごやま)が見えてきた。東海道峠越えの二大難所、東の箱根に二子山、西の鈴鹿に三子山と称された。

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この先、鈴鹿馬子唄会館の駐車場に鈴鹿馬子唄発祥之地の碑がある。「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と、峠を挟んで天候が大きく異なることを唄っている。「正調鈴鹿馬子唄」はこちらを。

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間もなく坂下宿に入る。かつてはこの先の鈴鹿峠の麓にあったのが、慶安3年の大洪水で流され下流側に移転したものだ。津波で内陸に移転した吉原や白須賀とは逆のパターンである。

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関宿で食べそびれた「志ら玉」の製造元はここにあり、訪ねてみるとご主人が出てきて、今日作った分はついさっき全て関宿の店に運んでしまったという。残念がっていたら、申し訳ないからと言って、「栗小萬」という別のお菓子をひとつ下さった。親に代わって仇を討った烈女小萬にちなんだ、渋皮付の栗が入った饅頭はとても美味しかった。前田製菓さん、ありがとうございました。いずれ志ら玉の仇を討ちに参上仕りまする。(笑)

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間もなく元の宿場があった片山神社下を通り、鈴鹿峠に入る。東の箱根に並び称されるが、標高は378メートルで、同846メートルの箱根に比べれば楽勝だった。

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峠の頂上から脇道を入ると「鏡岩」がある。断層が生じる際の摩擦力で研磨された「鏡肌(スリッケンサイド)」というものらしい。タモリさんならご存じかも(笑)。昔、山賊がこの岩を磨き、身を隠して岩に映った旅人を襲ったという伝説から、「鬼の姿見」とも呼ばれたそうだ。残念ながら明治元年の山火事で岩の輝きは失われてしまっている。

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街道に戻ると急に視界が開け、平坦な道になる。木立を抜けたところに三重と滋賀の県境を示す石碑があり、いよいよ近江国に入る。(続く)

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4月19日 LSD44キロ
4月20日 LSD40キロ
4月22日 ジョグ10キロ

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2017/11/06

東海道を走る その20(四日市~亀山)

日永追分を右へ進む。江戸から伊勢参りの旅人はここを通らず、また京大坂からの伊勢参りも別の道を使ったので、この先の区間は東海道中でも通行量が少なく、次の石薬師、庄野宿は甚だ振るわない宿場だったそうだ。そのせいか、街道は心なしか鄙びた風情に変わり、やがて内部(うつべ)川を渡ると、杖衝(つえつき)坂に差しかかる。

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日本武尊が東征の帰途、あまりに疲れて杖を突いて越えたというのがその名の由来である。また、坂を越えた日本武尊が「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」と言ったことから、三重という地名が生まれたという。

再び国道1号と合流、分岐を繰り返すと、やがて石薬師宿に入る。街道の原風景のような光景に、また思わず新日本紀行のテーマ曲が頭の中に流れる。

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広重の「石薬師」は鈴鹿山系を背景に、石薬師寺門前の街並みを描く。

Ishiyakushi

寺の山門前三叉路の現在の風景。

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宿場を出たところに一里塚があり、その先に旧街道の痕跡と思われる地道(左前方)が残っていた。峠道や石畳を除き、未舗装のまま残る街道痕跡は初めて見たような気がする。

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ただし、この先はJR関西本線と国道1号で分断され、迂回しながら進むと、やがて庄野宿に入る。その手前、JR加佐登駅付近の光景。

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なんでもない景色にしか見えないが、この辺りが広重の五十三次中屈指の名作「庄野」が描かれた場所と言われている。急な雨に慌てて走り出す旅人と籠屋が、今にも動き出しそうだ。

Shouno

前の石薬師同様の鄙びた街道筋に、油問屋だった小林家住宅(嘉永7年)を利用した庄野宿資料館があった。古文書などに混じって、天和2年などの高札の現物5点が展示されていた。写真はNGだったが、今も文字の痕跡が残る高札の現物は初めて見た気がする。

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この付近は複数の川が合流し、度々水害に見舞われた場所だったそうで、「川俣神社」が3箇所もあり、宿場の外れには「女人堤防」の痕跡が残る。勝手に堤防を作るのは許されなかった世に、女ならまだ罪が軽いだろうと、重罪覚悟で堤防を築いた女性たちがいたのだ。一旦捕えられたものの許しが出て、褒美を与えられたという。

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安楽川を渡った先に道標が2基ある。「右のゝぼり」とあり、庶民には「ののぼりさん」と呼ばれた野登寺(やとうじ)への道標であるが、左の古い道標の下半分は地中に埋まっている。

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椋川を渡ると、今度は元禄3年の道標が建つ。「従是神戸 白子 若松道」とある。亀山城下から若松港に至る重要な分岐点だったのだ。

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ちなみに、この付近で下校中の小学生の男の子から「こんにちは。今日は暑いなあ」と声をかけられた。「暑い」の「あ」が高いアクセントで、ようやく関西の圏内に入ったことを実感した。亀山宿に入る手前に和田一里塚が復元されている。江戸から104里である。

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亀山の市街地にも宿場町の風情が残る。

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広重「亀山」は、夜明けのグラデーションを背景に、雪景色の中を亀山城に入る大名行列を大胆な構図で描く。

Kameyama

この日は秋晴れの下、亀山城跡に向かう坂道を高校生たちが自転車を押していた。

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今回の行程はこれにて終了。予定どおり、亀山駅前の郵便局で荷物を受け取り、コミュニティバスに乗って亀山市総合保健福祉センター「白鳥の湯」に向かう。市役所職員たちが働くすぐ横に温泉の受付があり、まるで不条理劇の舞台セットのようだ。(笑)

駅前に戻って夕食を取り、2時間強で自宅まで戻って来られた。さて、次回はいよいよ鈴鹿の峠越え、そして京三条大橋のゴールが待っている。

11月4日 ジョグ10キロ
11月6日 LSD20キロ

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2017/11/03

東海道を走る その19(桑名~四日市)

桑名駅から東に1キロ強走って、渡し場跡に到着。昭和34年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたため、渡し場の前には頑丈な堤防が築かれている。

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広重の「桑名」は、桑名城を背景に、渡し場に着いて帆を下した船を描く。

Kuwana

この画にもある桑名城の物見櫓、播龍櫓(ばんりゅうろ)が復元されている。実際の用途は水門管理所とのことである。

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ここから南に進むと、桑名城の石垣が残り、一帯は「歴史を語る公園」となっている。

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桑名市博物館前に古い道標が移設されていて、「右 京いせ道」「左 江戸道」とある。案内板には元位置不詳とあるが、方角から考えると江戸方面からの進路が南から西に曲がる角以外になく、桑名宿内では3箇所のうちのいずれかと思われる。

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市街地を進むと街道特有の枡形があり、右へ左へ何度も曲がる。その先の八幡神社の前に天保13年の道標がある。「右 きゃういせみち」「左 ふなばみち」とあり、後者は渡し場のことだろうから、これも前の道標と同じ位置関係にある。

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宿場の京方口(西口)に当たる矢田立場跡には、火の見櫓が復元されている。

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員弁(いなべ)川を渡ると、江戸から97里の一里塚跡がある。宮で89里だったので、七里の渡しを通算しているのだ。その先、近鉄伊勢朝日駅付近で1日目の行程を終え、電車で桑名まで戻って駅前のホテルに宿泊する。泉鏡花の同名の小説に登場した「歌行燈」で、桑名名物の焼き蛤をアテに地酒を頂いた。

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ところで、「その手は桑名の焼き蛤」と言うが、桑名名物は本当は時雨蛤(佃煮)で、焼き蛤は西隣の富田辺りの名物とのこと。西から来た旅人がもうそこで焼き蛤を食べてきて、桑名でまた蛤を勧められても、「その手は食わない」ということのようだ。

翌朝、再び伊勢朝日駅前からスタート。単調な一本道をひたすら進み、朝明(あさけ)川を渡る。JR、近鉄、三岐の3線が集まる所が富田である。「その手」はもう食ったので、ここは何も食べずに通過する。(笑)

さらに進んで海蔵川、三滝川を渡ると、四日市宿に入る。広重の「四日市」は、三滝川の河原で菅笠を風に飛ばされて慌てる旅人をユーモラスに描く。

Yokkaichi

現在の三滝川の様子。広重の画で左遠方に見えている船の帆柱に代わって、コンビナートの煙突が聳えている。

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宿場の真ん中辺りに文化7年の道標が残されている。しかし、残念ながらこの先の街道は既に失われ、迂回を余儀なくされる。

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四日市宿を出た辺りで、愛らしい道標が大切に保存されていた。「猿丸太夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」とある。百人一首の歌に詠まれた「奥山」とは、この近くの水沢だというのだが、確たる根拠はないようだ。

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この先に日永一里塚の跡がある。江戸からちょうど100里。往時の旅人も、ある種の感慨を催したに違いない。かつての松並木の名残りの松を仰ぎ見たあと、とあるラーメン店で昼食休憩する。

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間もなく、日永追分に到着。左が伊勢、右が京の重要な分岐点だ。弥次さん喜多さんなど、お伊勢参りの旅人とはここでお別れである。

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嘉永2年の立派な道標があり、独特の書体で「右 京大坂道」「左 いせ参宮道」などとある。また、「追分鳥居の水」が相当な水量で湧き出ていたので、ボトルに詰めさせてもらった。鈴鹿山系の伏流水とのことで、とてもまろやかな味だった。

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11月2日 ジョグ10キロ

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2017/10/31

東海道を走る その18(知立~宮)

尾張に入って間もなく、阿野一里塚がある。江戸から86里。この辺りでようやく雨が上がった。この先のコンビニで昼食休憩を取る。

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中京競馬場前駅を過ぎると、左手に桶狭間古戦場跡があり、今川義元の墓などがある。

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間もなく、絞り染めで有名な間の宿、有松に入る。広重の「鳴海」はここを描いている。

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現在の風景もほとんど同じで、五十三次の画のうち、当時の姿が最もよく残っていると言えよう。

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やがて本来の鳴海宿に入るが、宿場らしいものといっても、復元された高札場ぐらいしか見当たらない。

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天白川を渡ると、笠寺一里塚(江戸から88里)が、往時そのままの堂々たる規模で残されている。

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この先の呼続(よびつぎ)という地名は、古来この付近が浜辺で、互いに名を呼び合いながら渡ったことによるそうだ。次第に名古屋の市街地に近づき、やがて宮宿に入る。

「宮」は熱田神宮のことで、地下鉄伝馬町駅付近が宿場の中心である。寛政2年の道標が残っていて、「北 南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社貮丁道」「西 東 江戸かいとう 北 なこやきそ道」などとある。

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この道標で左折、国道247号を越えると、まもなく七里の渡し跡に到着する。往時はここから桑名まで渡し船で渡っていた。むろん現在はそんなものはなく、電車を乗り継いでの電車渡しとなる。

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広重の「宮」は当初の副題を「熱田神事」といい、勇壮な馬追いの様子を描いているが、実際には熱田にそのような神事はないそうで、後摺では副題を「浜の旅舎」と改めている。

Miya

今の熱田神宮の様子。鳥居の形が広重の画と少し違っているのはなぜだろう。時節柄、七五三の参詣者も何組か見かけたが、ご多分にもれず、境内を大声で闊歩する中国人観光客が多かった。

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10月29、31日 ジョグ10キロ
月間走行距離  244キロ

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2017/10/28

東海道を走る その17(岡崎~知立)

「東海道を走る」第5回目は、岡崎から亀山まで走った。三河から尾張へ、さらには伊勢に入り、江戸から京までの長い道のりも、いよいよ終盤を迎えたことを実感した。

残念ながら雨となった10月25日午前8時半過ぎ、愛知環状鉄道中岡崎駅前をスタート。この付近は八帖といい、八丁味噌の郷として有名である。味噌の香りがかすかに漂い、街道から脇道を覗くと、味噌蔵が軒を連ねている。NHKの連続テレビ小説「純情きらり」のロケも行われたそうで、宮﨑あおいの手形が残されていた。

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すぐに矢作(やはぎ、「矢矧」とも)橋を渡る。東海道随一の長さを誇り、広重の「岡崎」もこの橋から岡崎城下に向かう大名行列を描いている。

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現在の国道1号矢作橋の様子。広重の絵では橋の左(上流)側に見えている岡崎城が、現在では橋の右(下流)側に見える。これは、往時の橋が現在より若干下流側にあったためと思われる。

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矢作橋を渡り、国道1号と分岐、合流を繰り返しながら進むと、尾崎の一里塚(江戸から83里)のあった熊野神社前を過ぎ、右手に見える永安寺には推定樹齢350年という「雲竜の松」がある。

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そう言えば、稀勢の里は次の九州場所はどうするのだろうと思っていたら、その先の神社の境内で力士の石像がこちらを睨んでいた。江戸末期から明治初めに活躍した地元出身の力士、清見潟又市の像だという。どすこい。

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猿渡川を渡ると、元禄9年の無量寿寺道標がある。街道を右に入った八橋の無量寿寺には在原業平作の観音像があり、伊勢物語の中で「かきつばた」の五文字を織り込んだ歌を詠んだ庭園があるそうだ。

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その先に来迎寺一里塚(江戸から84里)を残す。

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間もなく知立(ちりゅう、「池鯉鮒」とも)宿に入る。見事な松並木が保存され、その西端に馬市跡の碑が立っている。往時、ここでは毎年初夏に馬市が立ち、広重の「池鯉鮒」はその模様を描いている。

Chiriu

草を靡かせて吹き渡る風の心地よさを感じさせる傑作に、少しでも近づきたかったが…。(苦笑)

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知立の市街地に入る。往時の風情は全くないが、明治時代創業の小松屋の名物「あん巻き」を食べてひと息つく。

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知立神社境内にある御手洗池の鯉と鮒。ここから「池鯉鮒」という地名が生まれたそうだ。

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再び国道1号と合流、分岐しながら進むと、とある寺の墓地に中津藩士二人の墓が並んでいる。遊女を巡って斬り合い、命を落としたそうで、何度直しても墓石が傾くそうだ。「もう、ええ加減に成仏しなはれ」と手を合わせてきた。

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間もなく、三河と尾張の国境の境橋を渡る。往時は三河側の土橋と尾張側の板橋を継いだ橋で、質素な三河と派手な尾張、それぞれの国柄が表れていたそうだ。「これやにかわの継目なるらん」という歌碑がある。

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10月25日 LSD37キロ
10月26日 LSD36キロ
10月27日 ジョグ10キロ

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