2016/10/27

東海道を走る その12(日坂~見付)

道の駅を早々にお暇して旧道に戻り、一路掛川宿に向かう。国道1号掛川バイパスを越えたところに、寛保2年の銘がある「福天権現本(道)」の道標がある。骨太で特異な字体が面白い。

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県道に合流してさらに西進すると、JA支所の前に「大頭龍大権現」「福天大権現」の道標がある。先のものと字体等が類似しており、同じ頃に建立されたものらしい。

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逆川を越えたところに創業約200年の菓子処「もちや」があり、振袖餅というのが名物だというので立ち寄ってみた。午前中で売り切れることが多いそうだが、この日は幸いまだ残っていたので早速賞味した。1個120円。また食べてる。(笑)

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餅もさることながら、サービスの冷茶が驚くほどおいしい。さすがはお茶どころ掛川である。

掛川宿に入るところに「新町の七曲り」があり、街道をわざと何度も曲がるようにしてある。「真田丸」でもやっていたが、これは外敵を容易に進入させないための仕掛けなのである。

Nanamagari

ここは少し不安だったので事前に Google のストリートビューで確認しておいた。おかげで道に迷うことはなかったが、一方で既視感というのか、もう何度か来たことがあるような感覚を味わい、初めての場所を探訪する新鮮さが少し殺がれた。便利なものも良し悪しである。

逆に、掛川宿を抜けたあと街道が斜め右に曲がる地点で、まだ地図に載っていない新しい道が出来ていて、一瞬迷ってしまった。川筋や寺の位置から判断して事なきを得たが、こういうハプニングが旅の面白さでもある。

この先、秋葉山への参詣道との分岐点となる大池橋を渡る。広重は風の強い日にここを通る人々を描いている。

Kakegawa

右斜め前方に描かれている秋葉山は、現在は全く見えない。

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橋を渡ってさらに西進し、天竜浜名湖線のガードを潜り、東名高速の高架を潜ると、見事な松並木が現れた。車もほとんど通らず、旧街道の雰囲気をよく残している。

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この先、一旦国道1号に合流して同心橋を渡ると袋井市に入る。再び旧街道に復すると、また見事な松並木が続いているが、国道の抜け道になっているのか、ここは結構交通量が多い。

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この先、約1キロの間で、こんな感じの道標が、確認できただけで7基もあった。まるで道標銀座(?)である。

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この辺りまではいい感じだったが、袋井宿に入ってすぐ、袋井市総合センターという役所の建物が街道の真上に建っていて、迂回を余儀なくされた。

旧道に復帰するところに、「どまん中茶屋」なる施設があった。袋井宿が江戸からも京からも27番目、ちょうど真ん中に位置することから名づけたようだが、もちろん最近になって作られたものだ。茶屋というより、観光案内所のようなものだ。

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少し覗いて写真を撮っていたら、係りの人がわざわざ出てきて、お茶を飲んでいけと盛んに勧める。当方としては、往時のものかそれを復元したものしか興味がないので、適当にお茶を濁そうとするが、かなりしつこい。平成の留め女か。(苦笑)

何とか振り切って街道を行くと、今度はこんな巨大な看板が掲げてある。

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旧東海道を観光の起爆剤にという意図は分かるけれども、市役所自身が旧街道を潰しておきながら、作り物めいた施設で観光客を呼ぼうという姿勢は頂けない。前述の島田市を見習ってほしいものだ。

広重は宿場の西外れの様子を描く。

Fukuroi

高札場を復元してあるが、今は住宅が建ち並んで、街道に往時の面影はない。

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県道をひたすら西進すると、今回の行程で初めて立派な一里塚跡があった。江戸から61里。それでもまだ全行程126里の半分に満たない。快適な木陰が子供の遊び場になっている。

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太田川を渡った先で、江戸、明治、大正各時代の道路に分岐する箇所があり、ここも道に迷う可能性があったが、ストビューのおかげで難なく通過。分岐点に「従是鎌田山薬師道」と刻む道標があった。

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間もなく見付宿(現在の磐田)に入る。「見付」とは、京から来た旅人がここで初めて富士山を目にするという意味で、実際、旧街道沿いに富士見町という町名がある。街道筋の今の風景。

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街道沿いに建つ旧見付学校。明治8年落成で、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎だそうだ。映画のロケとかに使えそうだ。

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文化2年に脇本陣となった、旅籠屋大三河屋の門の実物が、平成19年に移築復元されている。

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旧東海道のバイパスである姫街道との分岐点で左折し、JR磐田駅前まで一気に走って、今回の行程を無事に終えた。

10月26、27日 ジョグ10キロ

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2016/10/24

東海道を走る その11(藤枝~日坂)

2日目は六合駅前からスタート。駅付近の数百メートルほど旧道を走ったあとは、島田宿まで国道1号をひたすら西進する。この日も朝から快晴で早くも汗をかいたが、島田宿に入ってすぐ、甘露の井戸水を発見したので有難く頂戴した。少し金気の味がするのが、いかにも井戸水らしい。

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下本陣跡の一角は遊歩道になっていて、からくり時計塔が設置されている。ちょうど9時になるところで、どんな仕掛けが出てくるのか期待していたが、なんと10時から始まるのだった。残念。

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島田は小さな町ですぐに市街地を抜け、新東海製紙の工場を回りこむように走ると、まもなく「越すに越されぬ」大井川である。川会所、札場、番宿などからなる川越場が、タイムスリップしたように往時のまま残っている。一部は復元したものかもしれないが、なるべく当時のままに景観を維持しようという姿勢は好ましい。

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とある番宿に入ると、屈強そうな川越し人足が仁王立ちになって、「何か用けぃ?」とばかりにこちらを睨んでいた。奥に見えるハシゴのようなものは連台といって、その上に旅人を乗せ、人足たちがそれを担いで川を渡るのである。

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川越しの手続きをする川会所(かわかいしょ)は現存し、今も近所のおばあさんたちの会所になっているようだ。(笑)

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また、浄瑠璃「生写朝顔話」で有名な「朝顔の松」がこの辺りにあって、昭和10年代に枯死してしまったが、二代目の松が植えられている。

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広重は川越えの様子を鳥瞰図のように高い視点から描いている。手前に見えるのは「朝顔の松」か?

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堤防から見るとせいぜいこのぐらいで、広重の着想は見事というしかない。

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現在は大井川橋を渡っても島田市のままだが、旧国名では大井川を境に駿河から遠江に変わる。

広重の「金谷」は宿場に入る前、川越しを終えたばかりの様子を描いている。大井川はそれほどの難所だったということだろう。人足の背中から降りたばかりの旅人とか、本当に細かいところまでよく描いている。

Kanaya

今は当然ながら川原は無人である。

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旧街道に復帰してすぐ、SLで有名な大井川鐵道の新金谷駅横を通過。 間もなく金谷宿に入り、緩やかな登り坂が続く。

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金谷駅手前の一里塚跡で東海道線のガードを潜り、間もなく金谷坂に取り掛かる。最近になって地元の努力で復元された石畳道が続く。

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これを登り切ると、今度は菊川坂の下りとなる。周囲は一面に茶畑が広がり、秋の陽光を浴びている。

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坂を下りたところは菊川という小さな集落で、その先の難所、小夜の中山を控えた間の宿となっていた。近くの川から出た菊花紋のこの菊石が、その名の由来だという。

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菊川を出るとすぐ、青木坂という滅茶苦茶急な坂道となり、思わず歩きが入る。これを登り切った辺りが小夜の中山で、古くから歌に詠まれた名所である。あちこちに歌碑があったが、嗜みがない自分には値打ちが分からない。

また、この付近には夜泣石伝説というのがあって、山賊に殺された妊婦の霊が石に宿り、夜になると石が泣いたという。一方、助かった子は近くの寺の住職に水飴で育てられ、長じて親の仇を討ったそうである。

その寺の近くに宝永年間創業の扇屋があり、週末のみ営業している。子育飴というのを売っていたので味見してみた。1本100円。写真がピンボケになってしまったが、その昔、紙芝居のおじさんが売っていたような水飴で懐かしい味がした。

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広重の「日坂(にっさか)」は小夜の中山を描いている。当時は夜泣石が街道の真ん中に鎮座していたのだ。

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明治天皇の東幸に当たってこの石は移動されたが、それだと伝えられる石が付近の2箇所にあり、いずれが本物か判別できないのだという。

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この先、転げ落ちそうに急な沓掛坂を下り、国道1号バイパスを越えると日坂宿に入る。往時の佇まいが比較的よく残っている。

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旅籠の川坂屋が資料館として公開されている。中年男女のツアー客が中に入り切れないほど大勢いて、ガイドの説明を熱心に聞いていた。

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この先で一旦国道1号バイパスまで出て、現代の茶屋道の駅で塩分補給兼昼食とする。信じられないくらい大勢の客でごった返していて、人気の少ない旧街道を走ってきた人間には、とても落ち着ける場所ではない。

10月24日 ジョグ10キロ

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2016/10/22

東海道を走る その10(府中~藤枝)

安倍川を渡り、手越(てごし)、佐渡(さわたり)と由緒ありげな地名が続く。やがて県道が急に狭くなるところが丸子宿の入り口、江戸方見附である。

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のどかな宿場町を予想していたが、狭い県道を対向してくる車が数珠繋ぎになっていて、ドアミラーをよけながら慎重に走る。車との接触はもうゴメンだ。やがて慶長元年創業、自然薯のとろろ汁が名物の丁子屋が見えてきた。

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広重はこの店で休憩する弥次さん喜多さんらしき二人連れを描いている。実は「膝栗毛」での彼らは、茶屋の夫婦の喧嘩のせいで食べ損ねているのだが。

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ちょうど昼時だったので、とろろ汁定食「丸子」を頂くことにした。お代は1,440円。珍しく麦飯を茶碗に3杯も食べてしまった。店内はほぼ満席、駐車場も何箇所かあって、洗練されたウェブサイトまで開設している。おそらく旧東海道で一番はやっている店に違いない。

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この後、丸子川に沿って次第に山中に入っていく。いよいよ宇津ノ谷峠越えである。峠の手前の宇津ノ谷集落は往時の雰囲気を残す。

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宇津ノ谷峠は天正17年、秀吉が小田原攻めの際に大軍を通すため開削したものだが、こんなに急で狭い山道を兵や馬が行軍したとは信じられない。この先は箱根越えもあるし、小田原に着いた頃には戦どころではなかっただろう。たぶん、重い鎧兜や刀は宅配便にして、小田原営業所留めで事前に送っていたのだろう。(笑)

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峠を降りると、それ以前の蔦の細道との分岐を経て、国道1号に合流する。その付近から次の岡部宿方向を眺めたところ。

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広重の「岡部」は宇津ノ谷峠から岡部宿を望んでいるが、場所はよく分からない。

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やがて岡部宿に到着。大旅籠柏屋(かしばや)が当時の佇まいを残し、歴史資料館となっている。

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岡部宿を出て、国道1号を斜めに横切る辺りには松並木が残り、旧街道の風情が残る。

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この先に「従是西田中領」という表示があり、田中城へ通じる御成道との分岐点があった。城はもうないが、同心円状の堀の跡が今も地図に残っている。その先の水守というところで旧街道の一部が通行止めになり、雑草が生い茂っていた。しかし、少し先には付近の旧街道の位置を説明した案内板があり、それならちゃんと整備して残すべきだろう。

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藤枝宿に入ると、お寺の看板にまさ.かのDAI語が…。うぃっしゅ!

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広重は人馬の継立てを行なう問屋場の様子を描く。

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その付近は現在、交番になっている。

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交番の向かいに慶長年間創業の菓子商紅家(べにや)がある。折角だからとここにも入り、名物の長寿柿を頂いた。食べてばっかりだ(苦笑)。1個292円。干し柿の中に白餡を詰めてある。徳川家康に献上していたそうで、「家康公にあやかり元気に長生きしますよう」名付けたそうだ。大阪人の自分としては、狸親父にあやかろうなど露ほども思わないが、できるだけ長く元気に走り続けたいという願いをこめて頂いた。

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勝草橋を渡り、西南方向にひたすら進む。国道1号を斜めに横切り、県道と合流する辺りを瀬戸といい、古東海道との追分がある。その昔、この付近は池や湿地が多かったため、それを避けて南に回り込むルートを通っていたそうだ。写真で奥へ通じているのが古東海道である。

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この付近には洪水に備えるために千貫堤が築かれ、今もその一部が残っている。また、染飯(そめいい)といって、クチナシの実で黄色く染めた強飯(こわいい)をすりつぶして干したものを供する茶屋があったそうである。千貫堤・瀬戸染飯伝承館という資料館があったが、ちょうど閉館時間で入場は出来なかったが、係りの女性がせめてパンフレットをと、取りに戻ってくれた。

この先のJR六合駅で1日目の行程を終え、電車で1駅の藤枝まで戻った。夕食は駅前の喜久屋に予約しておいた染飯弁当である。700円。さすがにすりつぶしたり干したりはしていない普通の握り飯だったが、当時の旅人の気分を少しは味わうことが出来たし、クチナシの実には疲労回復の効果があるらしい。

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10月22日 ジョグ10キロ

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2016/10/20

東海道を走る その9(興津~府中)

「東海道を走る」第3回目は、興津から見附まで走った。前回の箱根越えに続き、今回は大井川の川越えがあり、これで昔の東海道の二大難所をクリアしたことになる。

快晴に恵まれた10月15日午前8時半、興津駅前をスタート。本陣跡の標石はあるが、宿場の名残りはもう何もない。

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国道1号をしばらく西進すると清見ケ関跡がある。大和朝廷が東北の蝦夷に備えて設けたものだそうだ。

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その先に西園寺公望の別荘「坐漁荘」がある。愛知県の明治村に移築されていたが、地元有志の運動によって平成16年に元の場所に復元したものだそうだ。

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足利尊氏が戦の際、旗を打ち立てたことに由来するという波多打川を渡り、一旦国道1号から旧道に入る。東海道線の踏切を越え、再び国道1号に合流する。辻町で旧道へ分岐する地点に細井の松原跡がある。かつてこの付近には約200本の松並木があったが、戦時中に油を取るため伐採され、その際人骨が多数出土したため、無縁さんの碑が設置されている。

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清水駅前のランドマーク「えじりあ」が見えてきて、まもなく江尻宿に入る。広重は少し高い視点から、清水湊と三保の松原を描いている。

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今日では街道から海を望むことができないので、前日に自転車で清水港の岸壁まで行ってみた。コンクリートの護岸になっても、三保の景色だけは今も変わらない。

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江尻宿の中心付近は現在商店街になっている。土曜の早朝とあって人通りは少ない。

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巴川を渡る稚児橋。渡り初めをしようという直前に、河童の子供がさっさと渡ってしまったのが名前の由来だそうだ。

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橋を渡ってしばらく西進すると、清水湊への追分(分岐点)に、「是より志三づ道」と刻まれた道標があり、その横に元禄8年創業の追分羊かん本店が今も営業している。

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日持ちがして昔の旅人が道中食にしたという追分羊かんを頂くことにした。1個240円。写真は小さく切った試食品である。竹皮に包んだ蒸し羊羹で、ほのかな甘さがどこか懐かしい。

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東海道線の踏切を渡ってしばらく行くと、「久能寺観音道」の道標がある。安永7年の銘があり、自分と同じ戊戌の年生まれということで親近感を覚える。(笑)

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その先で県道に合流し、やがて草薙にさしかかる。日本武尊が賊に火を放たれたが、剣で草を薙いで難を逃れたという伝説が地名の由来だ。草薙総合運動公園の横を通過し、その後東海道線を北へ南へ都合3度越えるが、旧街道が分断され、消滅している箇所がある。致し方ないけれど、やはり残念だ。

伝馬町通りを進むと、いよいよ府中宿(現在の静岡。「府中」が「不忠」に通じるのを嫌い、賤機山(しずはたやま)から取って改名された)に到着である。目抜き通りの呉服町は商店、飲食店が軒を連ね、大勢の人々で賑わっている。

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繁華街を抜け、新通りを進むと、間もなく安倍川を渡るが、その手前に文化元年創業の元祖安倍川餅「石部屋(せきべや)」がある。折角なので、ここでも安倍川餅を頂くことにした。1人前600円。黄な粉の方はまだ餅が温かく、とても美味だった。

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広重は安倍川越えの風景を描いている。

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これは対岸から府中方向を眺めた構図で、背景の山は賤機山としている資料が多いが、そんなに高い山ではないし、ご覧のように真正面に見える富士山を外すわけがないと思う。

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ある資料では、これは府中側から西の対岸を眺めた構図で、背景は徳願寺の山であろうとしている。おそらくそれが正解ではないか。

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安倍川を渡り、次の丸子(まりこ)宿に向かう。

10月20日 ジョグ10キロ

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2016/05/16

東海道を走る その8(吉原~興津)

富士川を渡ったところにある光栄寺の前に享保16年の道標があり、「身延山道 身延江三里」などとある。「身延山」は山梨県身延町にある日蓮宗総本山久遠寺のことだとすれば、とてもここから「三里」などという距離ではないのだが。

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岩淵村を抜けて東名高速と新幹線の下を潜り、さらに東名高速を今度は橋で越え、新坂をだらだらと下っていくと蒲原宿に至る。街道をカラー舗装にして、由緒ある建物には案内板を立てるなど、旧宿場町の風景を保存しようという意気込みを感じる。

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広重は夜の雪景色を描いているが、温暖な土地なので実際は雪が降ることも滅多にないそうだ。

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ところで、この絵を図柄にした国際文通週間シリーズの記念切手が、昭和35年に発行されている。子供の頃に切手を集めていて、「蒲原」はかなり値打ちがあったのを記憶している。

蒲原宿の西の外れに古い街道の痕跡が残っている。写真右側の細い路地がそれで、この先が旧蒲原宿であったが、元禄12年の大津波で壊滅したため、現在の山側に移転した。そのため、街道も迂回ルートを辿っている。

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再び単調な県道をひたすら西進。並行する東海道本線の駅名は、宿場町の最寄りが「新蒲原」、由比との中間の辺鄙な場所が「蒲原」となっている。これは、東側の富士川駅との駅間が短かいため、当初は新蒲原駅がなかったからだそうだ。

やがて由比宿に到着。本陣跡は公園として整備されている。東海道廣重美術館も併設されているが、基本的に入場料、拝観料を取る施設には入らない主義(どんな主義や)の上、この日は先を急いでいたのでパス。

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本陣前の馬の水呑場は、馬ならぬ亀たちが占領して甲羅干ししていた。本陣向かいにある正雪紺屋は、慶安の変の首謀者由比正雪の生家とのことである。

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さて、宿場を抜けてしばらくすると、由比漁港付近を通る。名物桜えびがちょうど春の漁獲期を迎えたところで、折角なので東海道線と国道バイパスを潜って漁港に出る。写真左の「浜のかきあげや」で桜えびのかきあげを食するのを、この日2番目の楽しみにしていたのだ。ただ、営業時間が15時までなので、道中を急いでいたというわけだ。(笑)

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その甲斐あって、漁港に到着したのは14時前だった。念願のかきあげ蕎麦にありつくことが出来たが、一部売り切れのメニューもあったから、もう少し遅かったらどうなっていたか分からない。大きなかきあげが2枚入っていて、口の中が香ばしさで一杯になった。

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えびの香りが残るダシまで完食して塩分補給を済ませ、再び街道筋に戻る。JR由比駅付近を通過した辺りから次第に登りがきつくなる。写真は、分岐点にある一里塚跡を由比方向に眺めたところ。江戸からついに40里となった。右手の建物は望嶽亭といい、官軍に追われた山岡鉄舟が逃げ込み、清水次郎長の手引きで脱出した逸話があるそうだ。

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いよいよここからがこの日一番の楽しみにしていた薩埵(さった)峠である。広重の「由井」も、あえて宿場から離れたこの場所から富士山を望む絶景を描いている。

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しかし、この日は残念ながら肝心の富士山は裾野しか望むことが出来なかった。近くで道路工事をしていたお兄さんに、「昨日はよく見えていたよ」と声をかけられたが、それに合わせて奈良から来られるわけはないので致し方ない。

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それでも、広重の構図が決して誇張ではないと思えるほどの急斜面で、下を走る東名高速が奈落の底のように見える。広重の絵の左上で、山の中腹の細い道を恐々と進む旅人の気持ちがよく分かった。

しばらく待っても富士山を隠す雲は霽れないので、文字通り後ろ髪を引かれる思いで峠を下り、次の宿場である興津(おきつ)に到着した。広重は興津川を渡る力士の姿を描いている。

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実はこの絵は、街道から少し離れた山側から河口方向を眺めている。同じ構図を求めて、自分も少し寄り道してみた。

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興津宿は今では古い旅館が1軒あるのみで、興津川河口近くの温泉施設に泊まることにした。駿河湾を見下ろす広々とした天然温泉の大浴場で2日間の疲れを癒した。

5月14、15日 ジョグ10キロ

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2016/05/10

東海道を走る その7(沼津~吉原)

2日目は沼津を8時前に出発。蛇松線跡を少し覗いてみる予定だったが、前日に終えているのでスルー。この日は少々急いでいたので助かった。その理由は後ほど。

沼津の市街地を外れると、後はまっすぐ伸びる県道をひたすら西進するのみとなる。前日は石畳と藪道ばかり走ったが、この日は狭い歩道の側溝の蓋の上ばかり走った気がする。

次の宿場である原に到着。広重の当時は文字通り何もない原っぱの向こうに富士山を望む風光明媚な場所だったようだが、今日では住宅等が建ち並び眺望はあまり良くない。それでも、広重が画面からはみ出させた富士山の頂上が、雲の隙間から僅かに顔を出してくれた。

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街道沿いにある高嶋酒造が、酒の仕込みに使う「富士山の霊水」を無料で提供していて、近所の人がペットボトルに水を詰めていた。午前中から陽射しが強く、渇いていた喉にまろやかな名水が心地よかった。

ウエストポーチのボトルにも詰めておいたおかげで、午前中いっぱいは霊水パワーが持続したように感じたが、もしかすると水汲み場を案内してくれた高嶋酒造の女性が大変な美人だったせいかもしれない。(笑)

この先の海岸は万葉集にも歌われた田子の浦で、街道が海に近づいた辺りで防潮堤を登って海岸まで出てみた。

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間もなく次の宿場、吉原に到着する。吉原宿は当初は海岸沿い、現在のJR吉原駅付近の元吉原にあったが、寛永16年の津波で壊滅。再発防止のため内陸側の中吉原に移転したが、ここも延宝8年の津波で壊滅して、更に内陸の現在の吉原本町付近に再び移転したという歴史を持つ。

そのため、昔は海岸近くを通っていた東海道は、内陸側に大きく迂回するルートを辿ることになった。今も東日本大震災からの復興で、住宅地や鉄道の内陸移転が進められているが、まさに「歴史は繰り返す」のである。

広重は吉原名物の左富士を描いている。この辺りが中吉原に当たり、街道が内陸に迂回したおかげで、江戸から行くと通常右側に見える富士山が左に見えるのだが、残念ながら再び雲で隠れて全く見えなかった。

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吉原宿を抜けて間もなく、富士川を渡る手前で久々に道標を発見した。「左東海道」とあるが、実際の方角と一致しない。別の場所から移転したものだろう。

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富士川を渡る。富士山は雄大な裾野しか見えない。

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富士川を越えても静岡県、旧駿河国に変わりはないが、実は電気の周波数は富士川を境に50Hzから60Hzに変わる。従来の供給エリアで言えば、東京電力から中部電力に変わるわけだ。その意味では、東西の境界のひとつを越えたことになるだろう。まだまだ先は長いが。(笑)

5月8、10日 ジョグ10キロ

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2016/05/04

東海道を走る その6(箱根~沼津)

箱根峠から先は人っ子一人通らない藪道となった。おそらく江戸時代そのままの風景に違いないが、かつてこれが東西を結ぶ幹線道路であったとは信じがたい。また、ここまで石畳道が走りにくくて閉口していたが、石畳のない地道は所々ぬかるんでいて、それを改善するための工夫だったのかと得心がいった。

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さて、ここまでは道に迷うこともなく順調に進んできたが、山中城跡の先で何と工事のため旧道が通行止めになっていた。新道開通などにより旧道の一部が破壊されるのは珍しいことではないけれども、「キング・オブ・街道」の東海道でさえ例外ではないことを思い知る。

仕方なく指示どおり国道1号に迂回したが、おかげで駿河湾と伊豆半島を望む絶景を楽しむことが出来た。

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さらに、これまで雲に隠れていた富士山の頂上付近が見えるようになってきた。この辺りを富士見平と言い、その名に偽りなしというわけだ。

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付近には日本最長という観光吊り橋が出来ていて、平日というのに結構な人出であるが、それを尻目に旧道に復帰し、しばらくすると人里に降りてきた。「○○新田」という地名が続くのは、東海道の整備とともに農地開発が進んだ地域なのだろう。

新幹線と東海道本線を越える辺りを愛宕坂といい、ここでも旧道が復元されているが、石畳というよりは足裏マッサージみたいな丸石が敷かれている。思わず裸足になって3往復しなければと思ってしまった(笑)。近くのコンビニでコーヒー休憩を取る。

まもなく三島宿に入る。三島大社の大鳥居は広重時代とは違うのかもしれないが、構図としては大体この辺りと思われる。

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三島の市街地を抜けると、駿河との国境の境川を越えるが、その付近に千貫樋(せんがんどい)という史跡が残っている。街道と平行に伸びる水路が境川の上を横断している。

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近くまで寄って水路上を見たところ。カモがのんびり泳いでいた。

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この先に伏見の一里塚がある。日本橋から数えて二十九里。これまで見てきたうちでは最も立派な部類に入る。

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三島-沼津間は5.5キロと短く、現在では市街地が続いてしまっているので、次の宿場に入ったという実感がないまま、1日目の目的地沼津に到着した。富士山がさらにはっきりと見えている。

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広重の絵では、狩野川に注ぐ小川に架かる三枚橋が画面中央奥に描かれている。小川は今でも暗渠として流れ、三枚橋の遺構が残っていた。

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予定より早めに着いたので、ホテルで一息ついてから廃線探訪に出かけた。それについては稿を改める。

5月3日 ジョグ10キロ

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2016/04/28

東海道を走る その5(小田原~箱根)

昨年秋に続き、「東海道を走る」第2弾として、小田原から箱根を越えて興津まで走ってきた。快晴に恵まれた4月19日午前8時過ぎ、前回終点の小田原ういろう本店前を出発。箱根駅伝往路5区のスタート地点でもある。

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しばらくすると早川の流れが見えてきて、その水を小田原城下に導く早川上水の取水口があった。ブラタモリでも紹介されていたが、天下の名城を支える重要な都市インフラだったのだ。

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箱根登山鉄道と並行しながら進み、箱根湯本駅手前で左折。三枚橋を渡って湯本の温泉街に入る。駅伝コースはこのまま駅方向に直進である。

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ホテル、旅館が建ち並ぶ県道から分岐し、往時のままの石畳道に入る。日本橋をスタートしてから東海道で初めての未舗装路である。最初こそ物珍しかったが、その後は石畳道の連続となり、走りにくくて難儀することになる。

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女転ばし坂、坐頭転ばし坂と、恐ろしそうな名前の坂を登り続けると、間の宿として栄えた畑宿村に至る。そこから先は、箱根新道と県道を何度も横切る九十九折の急坂となる。どんぐりほどの涙をこぼすという橿木坂の急な階段を登ると、小田原市街と相模湾を望む見晴茶屋に出る。

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石畳の猿滑坂を登った先では、茅葺屋根の甘酒茶屋が今も営業中である。中を覗いてみたら足元は土間で、裏には薪が積み上げてあった。

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さらに登りが続く。マラソン用のシューズなので足裏が突き上げられる。まさか東海道でトレイルシューズが必要とは思いもしなかった。

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やがて道が下り始めると、急に前方の視界が開けて芦ノ湖が見えてきた。ようやく箱根宿に到着である。広重の絵は、この権現坂辺りの風景を大胆にデフォルメしているらしい。

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芦ノ湖畔でまた一旦駅伝コースと合流するが、すぐに杉並木の旧道に分岐する。

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箱根関所が復元されているが、入り口まで行ったら入場料500円とある。観光客向けの強気な商売に呆れてしまった。外から覗けば大体様子が分かるので、「関所破り」を敢行することにして(笑)、国道へと迂回した。

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箱根駅伝の往路ゴール地点。国道を右折してからここまで、TV中継やこの写真でも結構距離があるように見えるが、実際には50メートルほどしかないのに驚いた。

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芦ノ湖を一望する道の駅「箱根路」でかけそばを食べた。例によって、昼食というより塩分補給が目的である。

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その先、箱根峠で静岡県に入る。相模と伊豆の国境である。小田原から800メートル以上も登っていたのだ。

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4月27日 ジョグ10キロ

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2015/10/23

東海道を走る その4(平塚~小田原)

平塚市に入ってすぐ、国道1号から分岐するところに十五里の一里塚を発見。昨日に続き、予定の半分まで来て正午近くになったので、その先のコンビニのカップラーメンで塩分補給する。

JR平塚駅付近はアーケードのある商店街になっていて賑わっているが、昔の平塚宿はさらに西へ進んだ市民プラザ近くにある江戸方見附跡辺りからである。

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再び国道1号に合流する地点が平塚宿の西端に当たる上方見附跡で、この先は大磯町に入る。背後に見えるこんもりとした山は高麗(こま)山で、名前のとおり高句麗からの渡来人が住み着いた場所らしい。

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とても印象的な形の山を、広重もやはり外せなかったと見える。

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花水橋を渡って高麗山の麓を進み、また一旦国道1号から分岐して化粧(けわい)坂を行く。両側に高い樹木が茂って人や車の往来も少なく、旧街道の雰囲気がよく残っている。東海道線を潜った先に大きな松が街道に覆い被さっている。支えもなしでよく倒れないものだ。この辺りから大磯宿に入る。

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広重の絵はここで雨を降らせている。曽我物語のヒロイン虎御前が十郎の命日に流す涙雨なのだとか。

Oiso

国道1号に合流し、大磯の街中に入る。町役場を過ぎた辺りに、日本三大俳諧道場の一つ鴫立庵がある。俳句の趣味はないけれども、さすがに風流な建物である。

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大磯宿を抜けて伊藤博文旧邸跡がある付近に、ひと際見事な松並木がある。舗装を剥がせば今でも旧東海道の風景が甦りそうだ。

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やがて二宮町を経ていよいよ小田原市に入る。車坂という坂を下り始めたら、目の前にいきなり相模湾の眺望が開けてきた。昔の旅人も思わず足を止めたに違いない。

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JR国府津駅近くで海岸に降りる階段があったので、波打ち際まで行ってみた。前方右手に次回最大の難所となる箱根連山が見えている。

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酒匂川を渡る。箱根連山の右奥に富士山がうっすらと見えている。

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広重の時代は橋はなく渡しである。箱根はかなり誇張しているが、富士山の見え方はそのままなので感心する。

Odawara

小田原市内に入り、二十里の一里塚跡のある辺りからが宿場となる。箱根駅伝の小田原中継所となる「ういろう本店」前で今日の行程を終える。夏の間故障で全く走れなかったので最後まで不安だったが、何とか完走できて良かった。しかし、自分が丸二日かけて走った行程を、駅伝ランナーは4人のリレーとはいえ僅か4時間少しで走り切ってしまうのだから、改めて恐れ入る。

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ホテルまで歩く途中で小田原城の横を通ったが、現在耐震改修工事中のため天守閣を望むことは出来ない。まあ、神社仏閣同様、城にもほとんど興味はないが。

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次回、小田原以降は来春の予定である。この調子で年2回のペースでいくと、京三条大橋まで3年かかり、自分は還暦を迎える計算になる。早期退職して良かったとつくづく思う、今日この頃なのである。(笑)

10月22日 ジョグ10キロ

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2015/10/21

東海道を走る その3(戸塚~平塚)

戸塚駅西方を午前8時過ぎにスタート。この日も終日晴天に恵まれた。いきなり大坂というかなり急な坂が出迎えてくれる。それを登り切ると国道1号バイパス、通称ワンマン道路に合流する。戸塚駅の開かずの踏切に業を煮やした宰相吉田茂が作らせたという逸話がある道路で、エライ人の近くに住んでいると何かと便利なのだ。(笑)

合流点の歩道橋上からワンマン道路の東京方向を見たところ。少し分かりにくいが、正面の黄色い看板の釣具店付近が箱根駅伝の戸塚中継所となる。右から合流してくるのが旧東海道である。

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しばらく国道1号をひたすら直進する。途中、お軽勘平の碑がある。仮名手本忠臣蔵の「戸塚山中道行の場」の舞台がこの辺りだという。

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藤沢バイパスに入る国道1号と別れて県道30号に入ると、間もなく藤沢市である。右手に遊行寺を見て下る。箱根駅伝もここを走るが、相当な急坂だ。この辺りからが藤沢宿になる。

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県道から鉤の手に右折、左折して(枡形というらしい)、遊行寺橋で境川を渡って振り返ったところ。

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広重の絵は背景の遊行寺を誇張して描いている。手前の鳥居は江ノ島弁財天への鳥居で現存しない。

Fujisawa

ここから西へ一本道だが、名称は国道467号、県道43号、県道44号とめまぐるしく変わる。四ツ谷でようやく国道1号に突き当たって合流する。大山道(右奥)との分岐点にあたり、四谷不動(大山道標)が祠の中に収められている。当時は大山参詣が大変盛んだったようで、その案内標識である。

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祠の中の道標は正面に「大山道」、側面に「これより大山みち」とあり、延宝四年建立。初代のものは万治四年建立だが既に失われ、堂外に復元されたものが置かれている。「是与里右大山みち」とある。

国道1号を進むと、次第に見事な松並木が現れてきた。レスピーギが見たら、アッピア街道に続いて「東海道の松」を作曲したに違いない(笑)。よく見るとそれぞれの木には管理番号が付され、松枯れ予防の注射をした記録が貼られている。ちゃんと管理されているからこその美観なのだ。

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茅ヶ崎市に入るすぐ手前にも大山参詣道との分岐点があり、民家の庭先に道標らしきものを発見した。一部は表面が剥がれて痛々しい姿であるが、後で調べてみると道標ではなく、西国三十三箇所巡礼を達成した記念に建てられた供養塔だそうだ。和歌らしきものが刻まれているが、さっぱり読めないのが悔しい。辛うじて享和三年の銘だけ確認できた。

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茅ヶ崎高校前の見事な松並木。ここでも全ての木がきちんと管理されている。さすがは湘南、文化度が高い。

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茅ヶ崎駅付近を通過、十間坂という緩い坂を登った辺りに「南湖の左富士」の碑があった。街道が北西に向かっているため、東海道では普通は右に見える富士山が左に見えるという名所である。左富士はここと吉原の2箇所しかないそうだが、残念ながら薄曇りで拝むことは出来なかった。

更に進んで相模川を渡る手前に、旧相模川橋脚跡がある。長らく水田に埋もれていたのが、関東大震災による液状化現象で地表に姿を現したという。その際の様子を再現したものであるが、本物は元通り地下に保存されていて、水面上に見えているのは複製である。

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馬入橋で相模川を渡ると平塚市。間もなく平塚宿である。

次回に続く。

10月20日 ジョグ10キロ

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