2017/05/01

東海道を走る その16(赤坂~岡崎)

御油からわずか2キロ弱で赤坂宿に到着。吉田、御油、赤坂はいずれも遊女を多く抱える宿場として知られ、参勤交代随行の武士が「御油に赤坂、吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」と詠んだそうである。

宿場の中心付近に旅籠大橋屋(慶安2年創業)の建物が現存する。東海道筋で唯一、今世紀まで営業を続けた旅籠だったが、残念ながら平成27年3月に営業を終えた。しかし、内部は往時の旅籠の造りのまま残り、一般公開に向けた準備が進められているとのこと。大変意義のあることだ。

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広重の「赤坂」は、この旅籠の内部の様子を、巧みな構図で描いている。湯上りの男、お膳を運ぶ女中、化粧に余念のない遊女などが見え、当時の旅籠の実情が分かる貴重な資料だそうだ。

Akasaka

ところで、これまで広重の絵となるべく近い構図の、現在の風景を撮るべく努力してきたが、大橋屋に立ち入れない現在、これはさすがに如何ともしがたい。しかしながら、この絵に描かれた蘇鉄が、近くの浄泉寺に移植されているので見てきた。推定樹齢約270年。広重の絵に描かれた実物を見るのは、「戸塚」の道標に続いて2件目である。

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赤坂宿を出てしばらくすると国道1号に合流する。谷間の狭隘な地形で、名鉄名古屋本線と東名高速道路がすぐ横を並行して走っている。次の藤川宿までの中間付近に、間の宿である本宿があり、その入り口に冠木門(かぶきもん)が復元されている。その先で旧道に分岐する。

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昼時をかなり過ぎていたので、名鉄本宿駅前の食堂でスタミナと塩分を補給する。ちなみに、名鉄本宿駅のプラットホームは高架になっていて、並行して走る東名高速から見上げる形となり、何度か目にして印象に残っていた駅だ。

国道1号と合流、分岐を繰り返しながら進むと、まもなく藤川宿の江戸方口に到着する。宿の端(はな)にあることから「棒鼻」と呼ばれる棒杭が復元されている。

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広重の「藤川」はこの棒鼻の風景を描く。幕府から朝廷に奉納する馬の行列だそうだ。よく見ると、土下座して控える人々の左端に、小さな犬(?)まで畏まっている。(笑)

Fujikawa

宿場の本陣跡は小さな公園になっていて、裏手には当時の石垣が残る。

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宿場を出るとすぐ、吉良道追分がある。吉良道は、三河湾吉良の塩や海産物を運んだことから「塩の道」とも呼ばれる。文化11年の道標が建っている。

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名鉄の踏切を渡った先に、これも立派な松並木が現れた。

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この先でまた国道1号と合流、分岐を繰り返すが、岡崎インターチェンジの手前に、久々にちゃんとした一里塚が残されていた。江戸から80里である。間もなく、岡崎宿に入る。

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江戸方口に冠木門が復元されている。

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ここから、岡崎二十七曲がりとなる。全体はこんな感じで、現状では二十曲がりになっている。曲がり角には、金の草鞋を乗せた案内表示が設置されている。

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迷わないよう、歩いたり走ったりを繰り返しながら、宿場の京方口に当たる松葉惣門跡に17時過ぎに到着。今回の行程を無事に終えた。

ところで、この記事をもって、当ブログの記事総数がちょうど2,000件となった。だからどうということはないけれど、我ながらよく書いてきたものだと、少しばかりの感慨はある。

4月27、29日 ジョグ10キロ
月間走行距離 235キロ
5月1日     ジョグ10キロ

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2017/04/28

東海道を走る その15(二川~赤坂)

2日目は、JRで豊橋から二川まで戻ってから再開である。いきなり火打坂というかなり急な登りが出迎えてくれるが、街道らしい風景はまったく残っていない。

国道1号に合流して暫く進むと豊橋の市街地に入る。旧吉田宿である。以前、中日豊橋マラソンで何度か来たことがあるが、こういう目的で再び来ることになるとは思わなかった。宿場の江戸方口に当たる東八町交差点に東惣門が復元されている。

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ここから、掛川でもあったような、わざと何度も曲がる城下町特有の道筋となる。掛川は「七曲がり」、ここ吉田は特に名前はないようだが実際に9回曲がり、今回の目的地の岡崎は実に「二十七曲がり」である。ただ、街道には「←東海道→」という大きな標識が設置されているので分かりやすい。

宿場を抜けると、やがて豊橋(とよばし)で豊川を渡る。

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かつては豊川を利用した水運が盛んだったようで、河岸には昔の船着場らしき跡が残っている。

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広重の「吉田」は、この橋(当時は吉田大橋)と、修理中の吉田城を鳥瞰するように描いている。

Yoshida

この構図に近い風景を求めて、豊橋市役所の13階展望ロビーに登ってみたが、左に見える橋は往時はなかった新しい吉田大橋で、城は高い木に隠れてほとんど見えない(赤丸内)。

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豊川を渡り、北西に伸びる県道をひたすら走ると、豊川放水路を渡ったところに「子だが橋」の跡がある。かつて、近くの菟足(うたり)神社の大祭の初日、最初にその橋を渡る女性を人身御供とする風習があり、ある時、それが里帰りした我が娘であったけれども、「子だが止むを得ん」と、生贄にしたことからその名がある。今の感覚からすればとても信じ難いが、人々の信仰心が篤かった往時にはあり得た話なのだろう。

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やがて一旦国道1号に合流したあと、名鉄国府(こう)駅付近で再び旧道に分岐すると、間もなく姫街道との分岐点の追分に至る。大きな道標は明治期のものである。

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やがて、御油(ごゆ)宿に入る。広重の「御油」は、旅人の首を締めるほど強引に引き止める留め女を描く。次の赤坂宿がすぐ近くなので必死なのだ。右手の旅籠からそれを見下ろす女中の呆れたような表情が面白い。ちなみに、その背後には「摺師平兵衛」など、広重の仕事仲間の名前が記されている。

Goyu

現在の御油の様子。何となく往時の風情を残している。

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宿場を出ると、国の天然記念物に指定されている見事な松並木がある。樹皮が亀甲状に割れるのが特徴の三河黒松とのことである。

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約600メートルの松並木を抜けると、そこがもう次の赤坂宿である。

4月27日 ジョグ10キロ

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2017/04/25

東海道を走る その14(舞坂~二川)

弁天島から新居町まで、電車では僅か3分ほどである。往時は舟でのんびりと渡る間、骨休めしていたようで、広重の「荒井」は、渡し舟の中で手を突き上げて欠伸をする男(左端)を描いている。

Arai

一方、「膝栗毛」では、誰かが舟の中に持ち込んだ蛇が行方不明となって大騒ぎとなる。同乗者によっては、のんびり骨休めとはいかなかったようである。

渡し舟などない現在、広重と同じ構図は無理だが、右奥に見える新居の関所が現存する(安政2年築)。入り口まで行ってみたが、入場料を取るというので、箱根に続いて関所破りを敢行することにした。(笑)

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往時は、舟から上陸すると関所の敷地内、という仕掛けになっていて、関所破りなど物理的に不可能だったようだ。

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新居宿を出て、浜名旧街道を行く。鄙びた街道の風景を見ながら走っていたら、この音楽が頭に浮かんできた。これも日本の原風景のひとつに違いない。

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ところで、この前の舞坂辺りからだろうか、家々の敷地の角に可愛らしい祠があるのに気付いた。大きくても50センチほどだが、何かの信仰と関係があるのだろうか。

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やがて、街道は右折して潮見坂に差し掛かる。その分岐点に小さな道標が立っていた。「右旧道、左新道」とあり、大正13年に皇太子(後の昭和天皇)のご成婚を記念して、地元の元町青年会が建立したものだ。

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「元町」というのは、次の白須賀(しらすか)宿が、元はこの海岸近くにあったということで、宝永4年(1707)の大津波で壊滅的被害を受け、現在の潮見坂上に移転したものである。

その潮見坂を駆け上がっていると、白須賀中学の生徒たちが下校してくるところだった。宿場と同様、中学校も高台に移転して、生徒たちは毎日そこまで通うことになったのだ。

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中学校横の展望台から遠州灘を望む。

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広重の「白須賀」もこの風景を描いている。海のグラデーションは、見事に逆になっているが。

Shirasuka

白須賀宿を抜け、境川を渡る。文字どおり、ここが遠江と三河(現在は静岡県と愛知県)の境に当たる。そう言えば、箱根峠からここまでずっと静岡県だったのだ。静岡県、広すぎ!

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国道1号に合流し、キャベツ畑や工場しかない単調な景色が続く。往時も「夜道慎しむべし」と言われた区間である。おまけに強烈な向かい風に悩まされ、かなり辛いものがあった。

やっとのことで二川(ふたがわ)宿に到着。商家の駒屋が復元、公開されている。

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さらに進むと、本陣と旅籠清明屋が復元されている。旅籠女中の微妙な表情がとてもリアルだ。

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広重の「二川」は名物かしわ餅を商う茶店を描いているが、副題には先ほどの境川辺りにあった「猿ケ馬場」とあり、描かれた場所ははっきりしない。

Futagawa

JR二川駅近くから眺めた風景がこれに近いという感じもする。遠景と茶屋を適当に合成したものかもしれない。

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今日の行程はここまで。現在はホテル・旅館が1軒もないので、隣の豊橋まで電車で移動し、駅前のホテルに投宿した。

4月24、25日 ジョグ10キロ

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2017/04/22

東海道を走る その13(見付~舞坂)

「東海道を走る」第4回目は、見付から岡崎まで走った。江戸から京までの長い道中も、ようやく半分を過ぎ、また遠江から三河(現在の静岡県から愛知県)に入って、京がだいぶ近づいてきたことを実感する。

快晴に恵まれた4月19日午前8時半、JR磐田駅前をスタート。西北西に進んで県道に合流する手前に、くろん坊様がある。物盗りに殺されたインド人僧侶を祀っているそうだ。

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少し先に江戸から63里の一里塚跡がある。昭和になって復元されたもののようだ。これ以降、かなり先までの一里塚は既に失われ、案内標識がその位置を示すだけになっている。

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県道から分かれて暫く西進すると、天竜川の堤防が見えてきた。広重の「見附」はこの辺りの渡し舟の風景を描いている。

Mitsuke

現在は旧国道1号と浜松バイパスの鉄橋が天竜川を越えている。

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浜松バイパス新天竜川橋を渡り、再び旧道に戻る。この辺りを中野町といい、江戸と京の中間点に当たるのがその名の由来である。『東海道中膝栗毛』にも、「此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」とある。

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県道をひたすら直進すると、やがてゆるやかな右カーブとなり、浜松駅前アクトシティの巨大なビルが見えてきた。浜松東警察署の先、馬込橋を渡ると浜松宿に入る。広重の「濱松」は街道で焚き火に当たる人々の姿を描く。右遠方に浜松城が見えるが、描かれた場所は不明である。

Hamamatsu

現在ではかなり近づかないと城を望むことは出来ない。一旦街道から外れて浜松市役所付近から城を望んだところ。

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街道に戻り、連尺交差点から南進すると、東海道線、新幹線の高架を潜るが、その手前に「堀留ポッポ道」という小さな公園があった。明らかに廃線跡と知れる(後で調べると、旧国鉄浜松工場への引込み線跡と判明した)。東海道とは無関係だが、当然現地踏査を行なう。(笑)

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同工場に保存されていた「ケ91」という可愛らしい軽便タンク機関車が静態保存されている。

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新幹線高架を潜ってしばらくすると、東若林交差点で右折、西進することになるが、その地点の街道の両側に「二ツ御堂」が対面して建っている。藤原秀衡とその愛妾の悲しい伝説の舞台なのだそうだが、12世紀の話というから、街道の歴史の深さが窺える。

ここから実に10キロ弱、単調な県道をひたすら西進するのみとなり、少し辛い行程となったが、ちょうど昼時になったので途中で昼食休憩を取ることにした。普段は昼食を食べないが、街道走りではスタミナと塩分の補給が欠かせない。街道から少し南に入ったところにある、その名も「昔のうなぎ屋」でうな丼を頂いた。

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よく脂の乗ったうなぎが絶妙な具合に焼き上げられていて、まさに絶品である。お値段は2100円と決して安くないが、その値打ちは十分にある。さすがはうなぎの本場だけあるのだろうとご主人に尋ねてみたら、何と浜名湖産ではなく、愛知県産その他を吟味して問屋が仕入れているとのこと。浜名湖のうなぎは、実はそれほど美味くないのだそうだ。ふーん。

再び街道に戻り、県道をひたすら西進すると、JR舞阪駅付近で見事な松並木が現れた。

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左側の植え込みの中には、江戸から京までの広重の絵をレリーフにした55個のモニュメントが設置されている。なかなか粋な趣向である。宿場の名前を順々に思い出しながら走ってみたが、今回の目的地、岡崎までは何とか覚えていた。

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この先、新町交差点で国道1号を横断し、しばらくすると街道の両側に石垣がある。舞坂宿の江戸方口にあった見付石垣の跡である。

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宿場に入ると、脇本陣茗荷屋の建物(天保9年)が現存し、内部が公開されている。中庭の向こうにも座敷が続いていて、かなり奥行があるようだ。

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その先で浜名湖の水面が見えて来た。往時はここから次の新居(あらい)宿まで舟で渡っていた。さらに昔は新居まで地続きで、浜名湖は海と繋がっていなかったのが、明応7年(1498)の地震で分断されたことから、「今切(いまきれ)の渡し」と呼ばれていた。その乗り場である「雁木(がんげ)」の跡が残っている。

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広重の「舞坂」はこの今切の渡しを描いている。舞坂側にあったという波除杭が手前にあるので、舞坂から新居方向を望んだ風景と思われるが、なぜか白い富士山が奥に描かれている。地理的な正確さより、構図の面白さが優先されたのだろう。絵の副題は「今切真景」なのだが。(笑)

Maisaka

現在は新居まで国道1号が通じているので、走れないことはないのだが、往時の旅人が舟で行ったのであればと、自分もJR弁天島から1駅、新居町まで電車でワープすることにした。約3キロの足休めである。

4月19日 LSD42キロ
4月20日 LSD42キロ
4月22日 ジョグ10キロ

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2016/10/27

東海道を走る その12(日坂~見付)

道の駅を早々にお暇して旧道に戻り、一路掛川宿に向かう。国道1号掛川バイパスを越えたところに、寛保2年の銘がある「福天権現本(道)」の道標がある。骨太で特異な字体が面白い。

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県道に合流してさらに西進すると、JA支所の前に「大頭龍大権現」「福天大権現」の道標がある。先のものと字体等が類似しており、同じ頃に建立されたものらしい。

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逆川を越えたところに創業約200年の菓子処「もちや」があり、振袖餅というのが名物だというので立ち寄ってみた。午前中で売り切れることが多いそうだが、この日は幸いまだ残っていたので早速賞味した。1個120円。また食べてる。(笑)

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餅もさることながら、サービスの冷茶が驚くほどおいしい。さすがはお茶どころ掛川である。

掛川宿に入るところに「新町の七曲り」があり、街道をわざと何度も曲がるようにしてある。「真田丸」でもやっていたが、これは外敵を容易に進入させないための仕掛けなのである。

Nanamagari

ここは少し不安だったので事前に Google のストリートビューで確認しておいた。おかげで道に迷うことはなかったが、一方で既視感というのか、もう何度か来たことがあるような感覚を味わい、初めての場所を探訪する新鮮さが少し殺がれた。便利なものも良し悪しである。

逆に、掛川宿を抜けたあと街道が斜め右に曲がる地点で、まだ地図に載っていない新しい道が出来ていて、一瞬迷ってしまった。川筋や寺の位置から判断して事なきを得たが、こういうハプニングが旅の面白さでもある。

この先、秋葉山への参詣道との分岐点となる大池橋を渡る。広重は風の強い日にここを通る人々を描いている。

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右斜め前方に描かれている秋葉山は、現在は全く見えない。

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橋を渡ってさらに西進し、天竜浜名湖線のガードを潜り、東名高速の高架を潜ると、見事な松並木が現れた。車もほとんど通らず、旧街道の雰囲気をよく残している。

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この先、一旦国道1号に合流して同心橋を渡ると袋井市に入る。再び旧街道に復すると、また見事な松並木が続いているが、国道の抜け道になっているのか、ここは結構交通量が多い。

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この先、約1キロの間で、こんな感じの道標が、確認できただけで7基もあった。まるで道標銀座(?)である。

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この辺りまではいい感じだったが、袋井宿に入ってすぐ、袋井市総合センターという役所の建物が街道の真上に建っていて、迂回を余儀なくされた。

旧道に復帰するところに、「どまん中茶屋」なる施設があった。袋井宿が江戸からも京からも27番目、ちょうど真ん中に位置することから名づけたようだが、もちろん最近になって作られたものだ。茶屋というより、観光案内所のようなものだ。

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少し覗いて写真を撮っていたら、係りの人がわざわざ出てきて、お茶を飲んでいけと盛んに勧める。当方としては、往時のものかそれを復元したものしか興味がないので、適当にお茶を濁そうとするが、かなりしつこい。平成の留め女か。(苦笑)

何とか振り切って街道を行くと、今度はこんな巨大な看板が掲げてある。

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旧東海道を観光の起爆剤にという意図は分かるけれども、市役所自身が旧街道を潰しておきながら、作り物めいた施設で観光客を呼ぼうという姿勢は頂けない。前述の島田市を見習ってほしいものだ。

広重は宿場の西外れの様子を描く。

Fukuroi

高札場を復元してあるが、今は住宅が建ち並んで、街道に往時の面影はない。

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県道をひたすら西進すると、今回の行程で初めて立派な一里塚跡があった。江戸から61里。それでもまだ全行程126里の半分に満たない。快適な木陰が子供の遊び場になっている。

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太田川を渡った先で、江戸、明治、大正各時代の道路に分岐する箇所があり、ここも道に迷う可能性があったが、ストビューのおかげで難なく通過。分岐点に「従是鎌田山薬師道」と刻む道標があった。

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間もなく見付宿(現在の磐田)に入る。「見付」とは、京から来た旅人がここで初めて富士山を目にするという意味で、実際、旧街道沿いに富士見町という町名がある。街道筋の今の風景。

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街道沿いに建つ旧見付学校。明治8年落成で、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎だそうだ。映画のロケとかに使えそうだ。

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文化2年に脇本陣となった、旅籠屋大三河屋の門の実物が、平成19年に移築復元されている。

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旧東海道のバイパスである姫街道との分岐点で左折し、JR磐田駅前まで一気に走って、今回の行程を無事に終えた。

10月26、27日 ジョグ10キロ

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2016/10/24

東海道を走る その11(藤枝~日坂)

2日目は六合駅前からスタート。駅付近の数百メートルほど旧道を走ったあとは、島田宿まで国道1号をひたすら西進する。この日も朝から快晴で早くも汗をかいたが、島田宿に入ってすぐ、甘露の井戸水を発見したので有難く頂戴した。少し金気の味がするのが、いかにも井戸水らしい。

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下本陣跡の一角は遊歩道になっていて、からくり時計塔が設置されている。ちょうど9時になるところで、どんな仕掛けが出てくるのか期待していたが、なんと10時から始まるのだった。残念。

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島田は小さな町ですぐに市街地を抜け、新東海製紙の工場を回りこむように走ると、まもなく「越すに越されぬ」大井川である。川会所、札場、番宿などからなる川越場が、タイムスリップしたように往時のまま残っている。一部は復元したものかもしれないが、なるべく当時のままに景観を維持しようという姿勢は好ましい。

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とある番宿に入ると、屈強そうな川越し人足が仁王立ちになって、「何か用けぃ?」とばかりにこちらを睨んでいた。奥に見えるハシゴのようなものは連台といって、その上に旅人を乗せ、人足たちがそれを担いで川を渡るのである。

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川越しの手続きをする川会所(かわかいしょ)は現存し、今も近所のおばあさんたちの会所になっているようだ。(笑)

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また、浄瑠璃「生写朝顔話」で有名な「朝顔の松」がこの辺りにあって、昭和10年代に枯死してしまったが、二代目の松が植えられている。

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広重は川越えの様子を鳥瞰図のように高い視点から描いている。手前に見えるのは「朝顔の松」か?

Shimada

堤防から見るとせいぜいこのぐらいで、広重の着想は見事というしかない。

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現在は大井川橋を渡っても島田市のままだが、旧国名では大井川を境に駿河から遠江に変わる。

広重の「金谷」は宿場に入る前、川越しを終えたばかりの様子を描いている。大井川はそれほどの難所だったということだろう。人足の背中から降りたばかりの旅人とか、本当に細かいところまでよく描いている。

Kanaya

今は当然ながら川原は無人である。

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旧街道に復帰してすぐ、SLで有名な大井川鐵道の新金谷駅横を通過。 間もなく金谷宿に入り、緩やかな登り坂が続く。

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金谷駅手前の一里塚跡で東海道線のガードを潜り、間もなく金谷坂に取り掛かる。最近になって地元の努力で復元された石畳道が続く。

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これを登り切ると、今度は菊川坂の下りとなる。周囲は一面に茶畑が広がり、秋の陽光を浴びている。

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坂を下りたところは菊川という小さな集落で、その先の難所、小夜の中山を控えた間の宿となっていた。近くの川から出た菊花紋のこの菊石が、その名の由来だという。

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菊川を出るとすぐ、青木坂という滅茶苦茶急な坂道となり、思わず歩きが入る。これを登り切った辺りが小夜の中山で、古くから歌に詠まれた名所である。あちこちに歌碑があったが、嗜みがない自分には値打ちが分からない。

また、この付近には夜泣石伝説というのがあって、山賊に殺された妊婦の霊が石に宿り、夜になると石が泣いたという。一方、助かった子は近くの寺の住職に水飴で育てられ、長じて親の仇を討ったそうである。

その寺の近くに宝永年間創業の扇屋があり、週末のみ営業している。子育飴というのを売っていたので味見してみた。1本100円。写真がピンボケになってしまったが、その昔、紙芝居のおじさんが売っていたような水飴で懐かしい味がした。

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広重の「日坂(にっさか)」は小夜の中山を描いている。当時は夜泣石が街道の真ん中に鎮座していたのだ。

Nissaka

明治天皇の東幸に当たってこの石は移動されたが、それだと伝えられる石が付近の2箇所にあり、いずれが本物か判別できないのだという。

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この先、転げ落ちそうに急な沓掛坂を下り、国道1号バイパスを越えると日坂宿に入る。往時の佇まいが比較的よく残っている。

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旅籠の川坂屋が資料館として公開されている。中年男女のツアー客が中に入り切れないほど大勢いて、ガイドの説明を熱心に聞いていた。

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この先で一旦国道1号バイパスまで出て、現代の茶屋道の駅で塩分補給兼昼食とする。信じられないくらい大勢の客でごった返していて、人気の少ない旧街道を走ってきた人間には、とても落ち着ける場所ではない。

10月24日 ジョグ10キロ

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2016/10/22

東海道を走る その10(府中~藤枝)

安倍川を渡り、手越(てごし)、佐渡(さわたり)と由緒ありげな地名が続く。やがて県道が急に狭くなるところが丸子宿の入り口、江戸方見附である。

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のどかな宿場町を予想していたが、狭い県道を対向してくる車が数珠繋ぎになっていて、ドアミラーをよけながら慎重に走る。車との接触はもうゴメンだ。やがて慶長元年創業、自然薯のとろろ汁が名物の丁子屋が見えてきた。

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広重はこの店で休憩する弥次さん喜多さんらしき二人連れを描いている。実は「膝栗毛」での彼らは、茶屋の夫婦の喧嘩のせいで食べ損ねているのだが。

Mariko

ちょうど昼時だったので、とろろ汁定食「丸子」を頂くことにした。お代は1,440円。珍しく麦飯を茶碗に3杯も食べてしまった。店内はほぼ満席、駐車場も何箇所かあって、洗練されたウェブサイトまで開設している。おそらく旧東海道で一番はやっている店に違いない。

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この後、丸子川に沿って次第に山中に入っていく。いよいよ宇津ノ谷峠越えである。峠の手前の宇津ノ谷集落は往時の雰囲気を残す。

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宇津ノ谷峠は天正17年、秀吉が小田原攻めの際に大軍を通すため開削したものだが、こんなに急で狭い山道を兵や馬が行軍したとは信じられない。この先は箱根越えもあるし、小田原に着いた頃には戦どころではなかっただろう。たぶん、重い鎧兜や刀は宅配便にして、小田原営業所留めで事前に送っていたのだろう。(笑)

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峠を降りると、それ以前の蔦の細道との分岐を経て、国道1号に合流する。その付近から次の岡部宿方向を眺めたところ。

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広重の「岡部」は宇津ノ谷峠から岡部宿を望んでいるが、場所はよく分からない。

Okabe

やがて岡部宿に到着。大旅籠柏屋(かしばや)が当時の佇まいを残し、歴史資料館となっている。

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岡部宿を出て、国道1号を斜めに横切る辺りには松並木が残り、旧街道の風情が残る。

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この先に「従是西田中領」という表示があり、田中城へ通じる御成道との分岐点があった。城はもうないが、同心円状の堀の跡が今も地図に残っている。その先の水守というところで旧街道の一部が通行止めになり、雑草が生い茂っていた。しかし、少し先には付近の旧街道の位置を説明した案内板があり、それならちゃんと整備して残すべきだろう。

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藤枝宿に入ると、お寺の看板にまさ.かのDAI語が…。うぃっしゅ!

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広重は人馬の継立てを行なう問屋場の様子を描く。

Fujieda

その付近は現在、交番になっている。

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交番の向かいに慶長年間創業の菓子商紅家(べにや)がある。折角だからとここにも入り、名物の長寿柿を頂いた。食べてばっかりだ(苦笑)。1個292円。干し柿の中に白餡を詰めてある。徳川家康に献上していたそうで、「家康公にあやかり元気に長生きしますよう」名付けたそうだ。大阪人の自分としては、狸親父にあやかろうなど露ほども思わないが、できるだけ長く元気に走り続けたいという願いをこめて頂いた。

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勝草橋を渡り、西南方向にひたすら進む。国道1号を斜めに横切り、県道と合流する辺りを瀬戸といい、古東海道との追分がある。その昔、この付近は池や湿地が多かったため、それを避けて南に回り込むルートを通っていたそうだ。写真で奥へ通じているのが古東海道である。

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この付近には洪水に備えるために千貫堤が築かれ、今もその一部が残っている。また、染飯(そめいい)といって、クチナシの実で黄色く染めた強飯(こわいい)をすりつぶして干したものを供する茶屋があったそうである。千貫堤・瀬戸染飯伝承館という資料館があったが、ちょうど閉館時間で入場は出来なかったが、係りの女性がせめてパンフレットをと、取りに戻ってくれた。

この先のJR六合駅で1日目の行程を終え、電車で1駅の藤枝まで戻った。夕食は駅前の喜久屋に予約しておいた染飯弁当である。700円。さすがにすりつぶしたり干したりはしていない普通の握り飯だったが、当時の旅人の気分を少しは味わうことが出来たし、クチナシの実には疲労回復の効果があるらしい。

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10月22日 ジョグ10キロ

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2016/10/20

東海道を走る その9(興津~府中)

「東海道を走る」第3回目は、興津から見附まで走った。前回の箱根越えに続き、今回は大井川の川越えがあり、これで昔の東海道の二大難所をクリアしたことになる。

快晴に恵まれた10月15日午前8時半、興津駅前をスタート。本陣跡の標石はあるが、宿場の名残りはもう何もない。

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国道1号をしばらく西進すると清見ケ関跡がある。大和朝廷が東北の蝦夷に備えて設けたものだそうだ。

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その先に西園寺公望の別荘「坐漁荘」がある。愛知県の明治村に移築されていたが、地元有志の運動によって平成16年に元の場所に復元したものだそうだ。

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足利尊氏が戦の際、旗を打ち立てたことに由来するという波多打川を渡り、一旦国道1号から旧道に入る。東海道線の踏切を越え、再び国道1号に合流する。辻町で旧道へ分岐する地点に細井の松原跡がある。かつてこの付近には約200本の松並木があったが、戦時中に油を取るため伐採され、その際人骨が多数出土したため、無縁さんの碑が設置されている。

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清水駅前のランドマーク「えじりあ」が見えてきて、まもなく江尻宿に入る。広重は少し高い視点から、清水湊と三保の松原を描いている。

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今日では街道から海を望むことができないので、前日に自転車で清水港の岸壁まで行ってみた。コンクリートの護岸になっても、三保の景色だけは今も変わらない。

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江尻宿の中心付近は現在商店街になっている。土曜の早朝とあって人通りは少ない。

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巴川を渡る稚児橋。渡り初めをしようという直前に、河童の子供がさっさと渡ってしまったのが名前の由来だそうだ。

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橋を渡ってしばらく西進すると、清水湊への追分(分岐点)に、「是より志三づ道」と刻まれた道標があり、その横に元禄8年創業の追分羊かん本店が今も営業している。

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日持ちがして昔の旅人が道中食にしたという追分羊かんを頂くことにした。1個240円。写真は小さく切った試食品である。竹皮に包んだ蒸し羊羹で、ほのかな甘さがどこか懐かしい。

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東海道線の踏切を渡ってしばらく行くと、「久能寺観音道」の道標がある。安永7年の銘があり、自分と同じ戊戌の年生まれということで親近感を覚える。(笑)

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その先で県道に合流し、やがて草薙にさしかかる。日本武尊が賊に火を放たれたが、剣で草を薙いで難を逃れたという伝説が地名の由来だ。草薙総合運動公園の横を通過し、その後東海道線を北へ南へ都合3度越えるが、旧街道が分断され、消滅している箇所がある。致し方ないけれど、やはり残念だ。

伝馬町通りを進むと、いよいよ府中宿(現在の静岡。「府中」が「不忠」に通じるのを嫌い、賤機山(しずはたやま)から取って改名された)に到着である。目抜き通りの呉服町は商店、飲食店が軒を連ね、大勢の人々で賑わっている。

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繁華街を抜け、新通りを進むと、間もなく安倍川を渡るが、その手前に文化元年創業の元祖安倍川餅「石部屋(せきべや)」がある。折角なので、ここでも安倍川餅を頂くことにした。1人前600円。黄な粉の方はまだ餅が温かく、とても美味だった。

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広重は安倍川越えの風景を描いている。

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これは対岸から府中方向を眺めた構図で、背景の山は賤機山としている資料が多いが、そんなに高い山ではないし、ご覧のように真正面に見える富士山を外すわけがないと思う。

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ある資料では、これは府中側から西の対岸を眺めた構図で、背景は徳願寺の山であろうとしている。おそらくそれが正解ではないか。

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安倍川を渡り、次の丸子(まりこ)宿に向かう。

10月20日 ジョグ10キロ

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2016/05/16

東海道を走る その8(吉原~興津)

富士川を渡ったところにある光栄寺の前に享保16年の道標があり、「身延山道 身延江三里」などとある。「身延山」は山梨県身延町にある日蓮宗総本山久遠寺のことだとすれば、とてもここから「三里」などという距離ではないのだが。

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岩淵村を抜けて東名高速と新幹線の下を潜り、さらに東名高速を今度は橋で越え、新坂をだらだらと下っていくと蒲原宿に至る。街道をカラー舗装にして、由緒ある建物には案内板を立てるなど、旧宿場町の風景を保存しようという意気込みを感じる。

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広重は夜の雪景色を描いているが、温暖な土地なので実際は雪が降ることも滅多にないそうだ。

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ところで、この絵を図柄にした国際文通週間シリーズの記念切手が、昭和35年に発行されている。子供の頃に切手を集めていて、「蒲原」はかなり値打ちがあったのを記憶している。

蒲原宿の西の外れに古い街道の痕跡が残っている。写真右側の細い路地がそれで、この先が旧蒲原宿であったが、元禄12年の大津波で壊滅したため、現在の山側に移転した。そのため、街道も迂回ルートを辿っている。

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再び単調な県道をひたすら西進。並行する東海道本線の駅名は、宿場町の最寄りが「新蒲原」、由比との中間の辺鄙な場所が「蒲原」となっている。これは、東側の富士川駅との駅間が短かいため、当初は新蒲原駅がなかったからだそうだ。

やがて由比宿に到着。本陣跡は公園として整備されている。東海道廣重美術館も併設されているが、基本的に入場料、拝観料を取る施設には入らない主義(どんな主義や)の上、この日は先を急いでいたのでパス。

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本陣前の馬の水呑場は、馬ならぬ亀たちが占領して甲羅干ししていた。本陣向かいにある正雪紺屋は、慶安の変の首謀者由比正雪の生家とのことである。

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さて、宿場を抜けてしばらくすると、由比漁港付近を通る。名物桜えびがちょうど春の漁獲期を迎えたところで、折角なので東海道線と国道バイパスを潜って漁港に出る。写真左の「浜のかきあげや」で桜えびのかきあげを食するのを、この日2番目の楽しみにしていたのだ。ただ、営業時間が15時までなので、道中を急いでいたというわけだ。(笑)

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その甲斐あって、漁港に到着したのは14時前だった。念願のかきあげ蕎麦にありつくことが出来たが、一部売り切れのメニューもあったから、もう少し遅かったらどうなっていたか分からない。大きなかきあげが2枚入っていて、口の中が香ばしさで一杯になった。

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えびの香りが残るダシまで完食して塩分補給を済ませ、再び街道筋に戻る。JR由比駅付近を通過した辺りから次第に登りがきつくなる。写真は、分岐点にある一里塚跡を由比方向に眺めたところ。江戸からついに40里となった。右手の建物は望嶽亭といい、官軍に追われた山岡鉄舟が逃げ込み、清水次郎長の手引きで脱出した逸話があるそうだ。

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いよいよここからがこの日一番の楽しみにしていた薩埵(さった)峠である。広重の「由井」も、あえて宿場から離れたこの場所から富士山を望む絶景を描いている。

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しかし、この日は残念ながら肝心の富士山は裾野しか望むことが出来なかった。近くで道路工事をしていたお兄さんに、「昨日はよく見えていたよ」と声をかけられたが、それに合わせて奈良から来られるわけはないので致し方ない。

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それでも、広重の構図が決して誇張ではないと思えるほどの急斜面で、下を走る東名高速が奈落の底のように見える。広重の絵の左上で、山の中腹の細い道を恐々と進む旅人の気持ちがよく分かった。

しばらく待っても富士山を隠す雲は霽れないので、文字通り後ろ髪を引かれる思いで峠を下り、次の宿場である興津(おきつ)に到着した。広重は興津川を渡る力士の姿を描いている。

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実はこの絵は、街道から少し離れた山側から河口方向を眺めている。同じ構図を求めて、自分も少し寄り道してみた。

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興津宿は今では古い旅館が1軒あるのみで、興津川河口近くの温泉施設に泊まることにした。駿河湾を見下ろす広々とした天然温泉の大浴場で2日間の疲れを癒した。

5月14、15日 ジョグ10キロ

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2016/05/10

東海道を走る その7(沼津~吉原)

2日目は沼津を8時前に出発。蛇松線跡を少し覗いてみる予定だったが、前日に終えているのでスルー。この日は少々急いでいたので助かった。その理由は後ほど。

沼津の市街地を外れると、後はまっすぐ伸びる県道をひたすら西進するのみとなる。前日は石畳と藪道ばかり走ったが、この日は狭い歩道の側溝の蓋の上ばかり走った気がする。

次の宿場である原に到着。広重の当時は文字通り何もない原っぱの向こうに富士山を望む風光明媚な場所だったようだが、今日では住宅等が建ち並び眺望はあまり良くない。それでも、広重が画面からはみ出させた富士山の頂上が、雲の隙間から僅かに顔を出してくれた。

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街道沿いにある高嶋酒造が、酒の仕込みに使う「富士山の霊水」を無料で提供していて、近所の人がペットボトルに水を詰めていた。午前中から陽射しが強く、渇いていた喉にまろやかな名水が心地よかった。

ウエストポーチのボトルにも詰めておいたおかげで、午前中いっぱいは霊水パワーが持続したように感じたが、もしかすると水汲み場を案内してくれた高嶋酒造の女性が大変な美人だったせいかもしれない。(笑)

この先の海岸は万葉集にも歌われた田子の浦で、街道が海に近づいた辺りで防潮堤を登って海岸まで出てみた。

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間もなく次の宿場、吉原に到着する。吉原宿は当初は海岸沿い、現在のJR吉原駅付近の元吉原にあったが、寛永16年の津波で壊滅。再発防止のため内陸側の中吉原に移転したが、ここも延宝8年の津波で壊滅して、更に内陸の現在の吉原本町付近に再び移転したという歴史を持つ。

そのため、昔は海岸近くを通っていた東海道は、内陸側に大きく迂回するルートを辿ることになった。今も東日本大震災からの復興で、住宅地や鉄道の内陸移転が進められているが、まさに「歴史は繰り返す」のである。

広重は吉原名物の左富士を描いている。この辺りが中吉原に当たり、街道が内陸に迂回したおかげで、江戸から行くと通常右側に見える富士山が左に見えるのだが、残念ながら再び雲で隠れて全く見えなかった。

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吉原宿を抜けて間もなく、富士川を渡る手前で久々に道標を発見した。「左東海道」とあるが、実際の方角と一致しない。別の場所から移転したものだろう。

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富士川を渡る。富士山は雄大な裾野しか見えない。

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富士川を越えても静岡県、旧駿河国に変わりはないが、実は電気の周波数は富士川を境に50Hzから60Hzに変わる。従来の供給エリアで言えば、東京電力から中部電力に変わるわけだ。その意味では、東西の境界のひとつを越えたことになるだろう。まだまだ先は長いが。(笑)

5月8、10日 ジョグ10キロ

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