2019/09/17

奈良街道を歩く その1(奈良~棚倉)

記事カテゴリーは便宜上「街道走り」としたが、今は「歩く」しかない。体力的にはまだ十分走れるけれども、長時間ストーマに衝撃を与え続けるのが不安だからだ。

今回は奈良から京都に至る奈良街道(大和街道)約40キロを3日間に分けて歩く。往時は途中に木津、玉水、長池、伏見の4宿が置かれていた。ルートは複数ある。かつて京都盆地南部にあった巨椋池が交通の大きな支障となり、古くは六地蔵、宇治方面に迂回していたが(現在のJR奈良線ルート)、秀吉時代に巨椋池を渡る太閤堤が築かれて最短ルートが整備された(現在の近鉄京都線ルート)。今回行くのは後者である。

また、木津川に沿った区間は江戸時代中後期には木津川右岸の土手を行くことが多かったようで、いつも参照している明治末期の地形図でも土手道を奈良街道としている。しかし、あまりに単調で面白味に欠ける上、トイレやコンビニ等もないことから、今回は古くからの集落を抜ける山背(やましろ)古道を通ることにした。

まだ残暑の残る15日午前、近鉄奈良駅前を出発。東向商店街を抜け、三条通に突き当たると以前走った伊勢本街道に一旦合流する。猿沢池から興福寺境内を抜けて大宮通に出て県庁前を東に進むと、今年4月に約45億円をかけて整備されたバスターミナルがある。観光バスによる渋滞の緩和が目的であるが、使い勝手が悪くて利用は想定の半分以下にとどまっているという。この日も3連休初日というのに、広い構内は人気もなく閑散としていた。

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ここを左折して一路北上し、転害門前を経て今在家交差点で旧道に分岐する。佐保川に架かるこの橋の土台は慶安3年(1650)のものだそうだ。

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ここから奈良坂の登りとなり、途中で振り返ると東大寺など奈良市内の風景が望める。

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坂を登り切り、般若寺の先の植村牧場で名物ソフトクリームを食べながら牛たちを眺めて一息入れる。ラン仲間と何度か来たことがあるが、牛舎の屋根の上に牛がいることに、これまで気づいていなかった。フランスの作曲家ダリウス・ミヨーも多分これを見たのだろう。(謎爆)

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この先、奈良豆比古(つひこ)神社の先の辻に弘化4年の道標が建ち、「すぐ京うぢ道 右いがいせ道」などと刻む。

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やがて県道に合流したのち京都府木津川市に入り、州見台(くにみだい)住宅地の中を進む。JR奈良線と国道24号を越えて木津宿エリアに入ると、街道らしい風情が残っている。

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木津川に突き当たる手前のとある寺の境内に和泉式部の墓がある。彼女は木津の生まれで、余生もここで過ごしたという伝承があるものの、それを裏付ける資料はなく、和泉式部の墓と称するものは全国各地にあるそうだ。

 

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かつてはこの付近に木津川を渡る泉橋が架かっていたが、現在は少し上流側にある国道24号の泉大橋を渡る。

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対岸の旧泉橋の袂と思しき付近に「西京都街道 東笠置山伊賀上野街道」などと刻む道標が残っている。裏面に「□□年春稟京都三宅安兵衛遺志建之」とあり、幕末から明治期の商人三宅安兵衛の遺志を稟けて、その子息が京都各地に建立した多数の道標のひとつと知れる。

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この先は茶問屋が並ぶ地区であるが、土曜で休みなのか茶の香りが漂うという風情はなく、通りも閑散としていた。国道24号を渡ったJR上狛(かみこま)駅付近に環濠集落が残る。濠を渡る橋が危なげな駐車スペースになっている。

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この先は集落の中を縫うように狭い道が蛇行しながら進み、いかにも古道の風情が感じられる。

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この日はJR棚倉駅前までの約12キロで終了。奈良まで電車で戻ると僅か18分だった。

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2019/05/06

京街道を走る その5(守口~高麗橋)

守口宿に入る直前に一里塚の跡がある。痕跡をとどめる一里塚は山科大宅以来である。江戸日本橋から135里のものと思われる。

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守口宿本陣跡近くの難宗寺前の辻に、年代不明の古い道標(左端)が佇む。「左京(みち?)右大(坂?)」などと刻むが、半分ほど地中に埋まってしまっている。

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この先、八島交差点から京阪守口市駅付近にかけて、秀吉の文禄堤跡が今も道路として利用されている。その下を抜ける現代の道路と立体交差している様子に、まるでエッシャーの騙し絵のような不思議さを覚える。

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ここより少し手前になるが、奈良街道に分岐して来迎坂を下っていく箇所に、見逃してしまいそうな小さな道標が残り、「右ならのざきみち」と刻む。「のざき」とは野崎観音のことである。

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守口宿を抜けると、大阪市旭区に入る。千林商店街を突っ切る格好の府道161号が旧京街道で、今も近隣住民の生活道路として現役である。

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城東区、さらに都島区へと市街地を走ると、京橋駅前に続く商店街のアーケードに入る。京橋側の入口になぜかローマの「真実の口」を模したモニュメントが飾られているが、あんな高い所に手を突っ込むのは無理だ。(笑)

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京橋駅前に建つ文政9年の道標。「左京み(ち)」「右大和な(ら)の(ざき)」などと刻む。繁華街のど真ん中にあるこの道標に、これまで気づいてなかったように思う。

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京阪電車の線路沿いを西進すると、「のだばし跡」の碑があった。この付近を流れていた鯰江川に架かる橋だったという。

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その先の京橋を渡ったところが大坂城京橋口で、慶長年間の三の丸石垣がドーンセンター敷地内に復元されている。

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土佐堀通りを進み、天満橋、天神橋それぞれの南詰を過ぎ、東横堀川に沿って少し南に入ると高麗橋東詰に至る。東海道五十七次の終点であり、起点の江戸日本橋同様、道路元標が置かれている。高速道路の高架下となり、視界を遮られる今の残念な風景まで同じである。

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京都大阪間は、学生時代から何度も電車で行き来してきたが、実際に自分の足で走ってみると結構な距離であること、それに意外にも旧街道の風情が今も残っていることを実感した。さて、次はどこを走ろうか。

5月4、6日 ジョグ10キロ

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2019/05/03

京街道を走る その4(牧野~枚方)

4月28日、京街道の後半、京阪牧野駅から大坂高麗橋までの28キロ弱を走った。午前10時過ぎに牧野駅前を出発。住宅街の狭い道路を進んで京阪電車の踏切を渡り、三栗(めぐり)交差点で一旦横断した府道13号にすぐ合流する。京阪御殿山駅を過ぎ、磯島交差点で府道から分かれて旧道を進むと天野川に突き当たる。往時は川越え人足が常駐していたが、現在は下流側の府道に架かる鵲橋(かささぎばし)を渡り、再び街道筋に戻ったところが枚方宿の東見附に当たる(写真奥の堤防下)。近くの旧家からご当主夫妻と思しき男女がちょうど外出されるところだった。

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ここからが枚方宿エリアとなり、京阪枚方市駅近くの「宗佐(そうざ)の辻」に文政9年の道標が残る。「右大坂ミち」「右くらじたき(倉治滝) 左京やわた」などと刻むが、裏側の願主4名の名前の上に、一般には明治以降の表記である「大阪」とあるのは珍しい。

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賑やかな駅前を過ぎると、旧街道の雰囲気が多少残っている。写真では分かりにくいが、沿道の家よりも街道が数センチ高くなっているのは、大名行列が通るたびに砂を撒いて道を整備した名残だという。大名が泊まった本陣の跡は、今は何の変哲もない公園になってしまっている。

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さらに進むと、船宿「鍵屋」の建物が現存し、資料館として公開されている。入館料を取るので当然パスしたが(笑)、外観からでも「鍵屋浦には錨が要らぬ 三味や太鼓で船止める」と謳われた当時の賑わいを窺うことが出来た。

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この先が枚方宿西見附で、遠方にひらかたパークの観覧車を望みながら西に向かうと、街道から少し外れたところに「水面廻廊(みなもかいろう」と称する河川公園が整備され、三十石船のミニチュアが浮かんでいた。

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この先、京阪の駅名にもなっている光善寺の門前を通り、やがて淀川左岸の堤防に上がる。この下に秀吉の文禄堤が埋まっているのだろうか。右下の河川敷の道路は、その昔に出場した「ひらかたハーフマラソン」のコースになっていた。

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この後は単調な堤防道が続き、レースでなくとも結構辛いものがある。寝屋川市に入って淀川新橋、さらに鳥飼仁和寺大橋を潜った後、一旦京阪国道に出てラーメン屋で塩分補給する。再び堤防道に戻り、守口市に入って鳥飼大橋を潜った先でようやく堤防から降りて市街地に入ると、間もなく守口宿エリアとなる。

その5に続く。

5月2日 ジョグ10キロ

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2019/04/27

京街道を走る その3(八幡~牧野)

木津川を渡り京阪八幡市駅手前で右折、旧京阪国道沿いに進んでいくと、やがて旧街道との合流点となる。その付近には樹齢千年と言われる楠の巨木があったが、堤防強化工事に伴い昨年3月に背割堤の先端に移植されたそうである。その先、大谷川を渡ると文政2年の道標が建ち、「右 八まん宮山道これより十六丁」「左 津の国そうじ寺(摂津国総持寺)大坂下ㇼ船乗場道」などと刻む。

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この先の京阪橋本駅近くに、八幡宮を案内するもう一つの道標があったはずだが、残念ながら既に撤去されていた。しかし、その先、対岸山崎への渡し場跡付近に明治期の道標が残っている。「柳谷わたし場 山ざきあたごわたし場」などと刻む。

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橋本は遊郭として栄えた場所で、玄関に透かし彫りの彫刻が施された古い建物が残るが、取り壊されて空き地になった区画も目立つ。

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この先で枚方市に入り、淀川左岸堤防に上がると、対岸の高槻が意外なほど近くに見える。歩道がなかったが、旧国道だけあって幅員は十分あり、さほど危険は感じなかった。

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河川敷を降りて旧街道を進むと、やがて京阪樟葉(くずは)駅前に出る。町名は「楠葉」と表記するが、古事記や日本書紀にも登場する古い地名で、戦に敗れた兵の「屎袴(くそばかま)」に由来するそうである。再び河川敷に出て堤防上の単調な道を進むが、今度は歩道があるので助かる。樋ノ上交差点で府道と別れてしばらく進み、船橋川を渡ったところに安政3年の道標が建ち、「八幡宮 参詣道 橋本へ一里」などと刻む。

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その先、京阪線沿いの道を進み、穂谷川を渡ってすぐの京阪牧野駅で当日の行程を終了。追分からここまで6時間を要したが、京阪電車で三条まで戻るのは約30分だった。(笑)

4月25、26日 ジョグ10キロ

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2019/04/24

京街道を走る その2(伏見~八幡)

昼食後の腹ごなしを兼ねて、伏見宿内は歩いて見て回る。油掛通に「電気鉄道事業発祥の地」という碑が建つ。銘文によれば、「明治廿八年二月一日京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我国において初めて開業した」とある。

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ここから少し南下すると京橋だが、その手前を東に入ったところで寺田屋旅館が今も営業中である。京三条通の金蔵寺で内祝言を挙げた龍馬とお龍は、ここで大変な災難に見舞われたわけだ。

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京橋の袂には船着き場を復元した小公園があり、伏見観光の目玉となっているようだが、なぜか野良猫が数匹たむろしていた。

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ここから川べりの遊歩道を西に進むと、三方からの歩道が川の上で出会う珍しい形の橋が架かっている。その名も「伏見であい橋」といい、映画『君の膵臓をたべたい』でロケに使われた場所である。映画では桜が満開だったが、すでにほとんど散っていた。

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この下を流れる濠川(ほりかわ)に沿って下流に向かうと、宇治川との合流地点手前、伏見港公園付近で屋形船に遭遇した。観光客向けに定期運航している十石船と思われる。

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まもなく、宇治川の広い河川敷に突き当たり、ここから淀までは土手上の単調な道のりが続く。

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この先、現在の宇治川は京都競馬場の南側を流れるが、明治期の付け替え以前はその北側を流れ、納所(のうそ)交差点の先で桂川に合流していた。今の京阪電車、府道124号はその右岸に相当する。地図は宇治市歴史資料館編『巨椋池』による。

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府道と並行して小高くなった別の道が残るのはその名残か。付近には「淀小橋跡」や「唐人雁木旧跡」といった、ここを旧宇治川が流れていたことを示す遺跡が残る。この付近からが淀宿のエリアとなるが、その風情を窺わせるものは何も残っていない。ただ、旧街道と競馬場という取り合わせは、東海道品川宿付近の大井競馬場、鳴海宿付近の中京競馬場でもあった。街道と馬というのは、やはり何かしらご縁があるのだろう。(笑)

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淀宿を出ると府道15号を横断するが、これは付け替え前の旧木津川の右岸にあたり、川はこれに沿って北西に流れて桂川に合流していた。少し進んで、もと左岸の辺りから振り返ってみると、確かにそれらしき高低差がある。前方の住宅街は明治以前は河川敷だったわけだ。この付近は現在でも市区境界が変則的に入り組み、八幡市飛地があったりするのはその名残だろう。

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この先で八幡市に入る。往時の街道は旧木津川を渡ったあと、今の京阪橋本駅付近までまっすぐ続いていたと思われるが、現在は付け替え後の宇治川、木津川にかかる御幸橋を続けて渡る。その合流地点にある背割堤は見事な桜並木が有名で、そこに平成29年春、「淀川三川合流域さくらであい館」が完成した。

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地上25メートルの展望塔があり、背割堤を眼下に一望することが出来る。お花見の時期は有料だが、この日はもう無料になっていたので上がってみた。木津川(左)と宇治川(中央)の間にあるのが背割堤で、右奥に見えるのが桂川の左岸堤防である。窓ガラスに内部が映り込んでいるけれど、一部は吹き抜けになっていて、ランニングの格好では長く居られなかった。

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その3に続く。

4月23日 ジョグ10キロ

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2019/04/21

京街道を走る その1(追分~伏見)

19日、東海道から分岐して大坂に向かう京街道の走り旅前半、髭茶屋追分から京阪牧野駅付近までの28キロ強を走った。京街道は元々、大坂と伏見に城を構えた豊臣秀吉が、両者を最短距離で結ぶため、文禄3年に毛利一族に命じて作らせた淀川左岸の堤防(文禄堤)が起源で、その後、徳川家康が五街道の整備に続いて、東海道に京街道を取り込んで天下の台所大坂まで延伸し、途中の伏見、淀、枚方、守口の4か所に宿駅を設けたものである。これにより東海道は五十七次にまで拡大したわけである。京を経由しないルートにしたのは、大名が公家と接触しないようにしたからとされる。

午前10時、髭茶屋追分を出発。東海道のときは右、今回は左を行くが、どちらも下り坂となっている。

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間もなく、民家の庭先に由緒ありげな道標を発見。「右伏見 左宇治」と刻み、この先の奈良街道との分岐点から移設したものと思われる。一体どういうお宅なのだろう。

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名神高速京都東ICの高架を潜り、国道1号を渡った先に「牛尾山道」と刻む道標があったが、文字がほとんど潰れている。道標の横では不動産屋らしい女が、老人相手に土地を売ってくれとしつこく食い下がっている。「土地買うオンナ」か(笑)。山科大塚で再び国道1号を越えた先に、「みぎうじみち ひだりおゝつみち」と刻む道標がある。路線バスを含め頻繁に通る車両から守るためとはいえ、トラ柄のポールはいかにも殺風景だ。

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大塚から大宅(おおやけ)に入り、名神高速の高架手前に大宅一里塚跡がある。京都市内に現存する貴重な遺構として市史跡に指定されている。説明板には何も記載がないが、位置から考えて江戸から124里の一里塚と思われる。

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山科警察署を右に見ながら下っていくと、先にふれた奈良街道との分岐点があり、そこを右折すると地下鉄小野駅に付近に出る。小野氏が栄えた土地とされ、小野小町ゆかりの場所らしい(諸説あり)。その先の勧修寺入り口に文化元年の道標が建ち、「南 右大津 左京道」「北 すぐふしみ道」などと刻む。

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この先は名神高速に沿う単調な道のりになり、その途中で京都市山科区から伏見区に入る。JR藤森駅付近、京阪墨染駅付近を通り、伏見宿のエリアに入っていく。宿場の北外れ撞木町(しゅもくちょう)には遊郭があり、その入り口を示す石柱一対が残っている。赤穂浪士大石内蔵助が敵の目を欺くため遊興したのは、仮名手本忠臣蔵にある祇園一力茶屋ではなく、実際はこちらの遊郭だったと言われる。

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ちょうど昼時になったので、塩分補給を主目的に、伏見区役所南の「玄屋」で「酒粕らーめん」なるものを頂いた。伏見名物清酒の副産物を生かした、粕汁のような味わいの一品だった。

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その2に続く。

4月19日 LSD28キロ
4月21日 ジョグ10キロ

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2018/10/30

伊勢街道を走る その4(松坂~伊勢)

阪内川を松阪大橋で渡ってすぐ、江戸期の紙問屋小津家住宅が「松阪商人の館」として公開されている。松坂御三家のひとつで、かつて大橋の東側一角は小津家で占められていたという。

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その先に、松坂商人の代表格である三井家発祥の地がある。

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松阪市街中心部に入ると、和歌山街道との交差点に「右わかやま道 左さんぐう道」と刻む大きな道標が立っている。

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市街地の外れに「小津安二郎青春館」なる建物があった。日本映画界を代表する名監督は先述の小津家の傍系に当たり、幼少期を当地で過ごしたそうだ。

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その先のコンビニのイートインで昼食を取り、その後は単調な旧道をひたすら前進する。JR徳和駅の踏切を渡って間もなく、沖玉の夫婦石というのがあった。禁酒の神様ということで、この石に酒をかけて酒を預かってくれるよう祈ると、酒を飲まなくなるのだという。

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間もなく、「従是外宮四里」と刻む弘化3年の道標が立つ。西面は「玉造講」と読め、大坂玉造の有志が建立したものと思われる。まだ16キロか。ふう。

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櫛田川を渡る手前にある文政2年の道標。「左さんくうみち 右けかうみち」と刻む。各種文献、ブログ等を検索しても確たる説明がないが、「けかうみち」とは「還向道(下向道とも)」のことで、伊勢神宮参拝後の帰路という意味であろう。

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近鉄漕代駅近くを流れるこの川は祓川といい、斎王群行の際にここでお祓いをしてから斎宮に入ったという。話が前後してしまったが、斎王とは天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれ、都から伊勢に派遣さた女性のことである。斎王一行が都から伊勢に向かう旅程を斎王群行、伊勢での斎王の住まいを斎宮(さいくう、いつきのみや)という。

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次の斎宮駅近くには斎宮に関する博物館、歴史体験館などがあり、屋外には斎宮を1/10サイズで再現した模型が展示されている。

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さらにその先には「斎宮旧蹟蛭澤之花園」「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」と刻む、いずれも斎宮関連の道標が並んで立つ。

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ずっと近鉄山田線に沿って進んできた単調な街道は、しいの辻で右折して南に向きを変える。その先にへんば餅で有名なへんばやがある。創業安永4年。旅人がここで馬を返して休憩したのがその名の由来だ。自分も店内で餅を頂いてひと休み。地元の人がひっきりなしに来店しては買っていく。伊勢はもうすぐだ。

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間もなく最後の宿場、小俣(おばた)宿に入る。ここも宿場の風情は残らないが、東外れに参宮人見附があったことを示す石碑が立っている。しかし、工事の都合なのか厚さが半分に截断されていて見るも哀れだ。

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やがて宮川に突き当たる。往時はここから「桜の渡し」で対岸に渡っていた。渡しの跡が復元されている。

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宮川橋を渡ってしばらく、文政5年の道標がある。「すぐ外宮江十三丁半 内宮江壱里三十三丁半」などと刻む。本来の位置から移設されたものらしく、「すぐ」(=直進)の方向が180度逆になっている。

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やがて大坂からの伊勢本街道との合流点である筋向(すじかい)橋に到着。正面奥が伊勢街道、左が伊勢本街道、手前方向が外宮である。ここから先、内宮宇治橋までは既に平成25年遷宮の年に走った(歩いた)ので、今回の街道走りはここで終了。すぐ近くに郵便局と銭湯があって、街道走りのゴール地点として言うことなしだ。

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10月29日 ジョグ10キロ

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2018/10/27

伊勢街道を走る その3(津~松坂)

3日目はJRで松阪駅から高茶屋駅まで戻ってから街道走りを再開。いつも思うことだが、電車で移動していると10キロほどの距離がとんでもなく遠く感じられ、これからその3倍の距離を走るのかと思うと少し気持が萎える。

JRの踏切を渡るといきなり田畑の中の一本道である。雲出(くもず)川を渡る手前が雲出宿のエリアであるが、ここも宿場の痕跡はほとんどない。僅かに「神明道」と刻まれた古い道標が打ち捨てられたように佇んでいる。

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雲出川を渡ってしばらく進むと、「北海道」の名付け親である松浦武四郎の生家が保存、公開されている。入場料を取るので当然パスだけれど(笑)、玄関先から少しだけ中を覗いてみた。

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さらに南下すると、「右からすみち」などと刻む文政4年の道標がある。海岸近くにある香良洲神社への参詣道を案内している。この先にも香良洲道道標はいくつかあり、伊勢街道からの分岐点が複数あったようだ。

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すぐ先の月本追分には、「右いかこ江なら道」「右さんくうみち」などと骨太の書体で刻む、天保13年建立の大きな道標が立つ。伊賀越え奈良街道との分岐点に当たる。

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中道公会所の前にある道標は、上部に丸い穴が開けられた珍しい形状をしている。

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JR六軒駅前を通過して、三渡川を渡る。ここも橋の架け替え工事をしていて、南詰めにあるはずの初瀬街道との分岐点を示す道標は見当たらなかった。どこかに移設されているのだろう。この辺りにも趣のある旧家が並ぶ。

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市場庄にある宝暦元年の古い道標。「忘井之道」とあり、天永元年の斎王群行に同行した官女甲斐が詠んだ和歌

  別れゆく 都の方の恋しきに いざ結びみむ忘井の水

に詠まれた井戸への道を示す。ただし、この井戸はもう埋まったようである。

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かと思うと、こんなひどい仕打ちに遭っている道標も。行政当局がこんなことをするとは…。お天道様に罰せられますぞ。(怒)

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南北朝時代から続く名家、舟木家の長屋門。海鼠壁が特徴的だ。平成も終わろうかという現在まで残り、今なお末裔が住まわれているらしい。

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その先の曲がり角にある「山神(やまのかみ)」。伊勢地方特有のもので、春になると山から里に下りてきて田の神となって農作物の実りをもたらし、秋になると山に戻るのだという。

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まもなく街道は松坂宿エリアに入る。その手前、阪内川手前にある須川屋金物店。相当年季が入っているが、今なお現役で営業中だ。

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10月25、27日 ジョグ10キロ

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2018/10/24

伊勢街道を走る その2(白子~津)

白子宿を出ると堀切川に突き当たる。付近では釣り人が何人も釣り糸を垂れていた。平日の昼間から結構なご身分だ。って、自分もやん(笑)。

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道標のとおり街道は橋の手前を右折する。堀切川に沿って内陸側に移り、川を渡った先に磯山の街並みがまっすぐ伸びている。またもや新日本紀行のテーマ音楽が頭の中に流れる。

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次の千里(ちさと)駅の先で上野宿に入る。昼時になったので、国道沿いのラーメン店で昼食をとる。普段昼は食べないが、終日走る日はエネルギーと塩分の補給が欠かせない。

この先が上野宿のエリアになるが、ところどころ道がカギの手に曲がる「桝形」がある以外、宿場の風情は全く残っていない。宿場を出てしばらく、こんな案内が出ていたが、自分は今のところ痔には無縁なのでスルー。(笑)

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三重大学キャンパスの近く、栗真(くりま)という所に、別街道の巡礼道との追分(分岐点)がある。左が伊勢街道四日市方面、右が巡礼道、手前が津の方向だ。名残りの松もあって、久々に見る街道らしい風景だ。

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この先、旧街道は志登茂川を江戸橋で渡るはずだが、現在は橋の架け替え工事中で、国道の新江戸橋に迂回せざるを得ない。新しい江戸橋は以前よりも若干上流側に移されるようだ。

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江戸橋追分の様子。左奥が前日に走った伊勢別街道、右が江戸橋、手前が津宿である。

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街道沿いにある阿部喜兵衛商店。醤油や味噌の醸造業を営み、現当主阿部喜兵衛は10代目に当たるとか。

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この先、津駅前にかけては最近再開発されたようで、道幅が広がって新しい家が建ち並んでいた。安濃川を塔世橋で渡ったところで地図を読み間違い、これを次の岩田川と勘違いしてしまった。数百メートル行き過ぎてから気が付き、引き返す破目になった。やれやれ。

街道に戻って観音寺近くの商店街を通る。確かアーケードが架かっているはずだが、全く見当たらない。また道を間違えたかと不安になり、通りかかった人に尋ねてみたら、アーケードは老朽化のため今年6月に撤去されたとのこと。商店街の角には「右さんぐう道 左こうのあみだ」などと刻む明治25年建立の道標が立つ。

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今度は間違いなく岩田川を渡って国道から分岐、閻魔堂という怖そうな別名のある真教寺の前を通る。

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この付近には風情のある旧家が残っている。庇の下にあるのは雨除けのための「幕板」といい、街道沿いの古い民家の多くで見かけた。

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さらに進んで街道近くのJR高茶屋駅でこの日の行程を終了、松阪駅まで移動して駅前のホテルに投宿した。松阪と言えば、夕食はもちろんコレ。絶品の味わいだった。

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10月23日 ジョグ10キロ

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2018/10/21

伊勢街道を走る その1(日永追分~白子)

2日目はまず四日市からあすなろう鉄道に乗って日永追分まで移動する。この路線はもとは近鉄の支線だったため、プラットホームには9番線10番線と、本線からの続き番号が振られている。軌間762ミリ、軽便規格の可愛い電車だ。

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追分駅で下車してすぐの日永追分。東海道のときは右へ行ったが、今回は鳥居を潜って直進、弥次さん喜多さんと同じく一路伊勢を目指す。

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県道を南下し始めて間もなく、道路左側に4基の道標が並んでいる。「子安地蔵密蔵院」などとあり、近くにある蟹築山密蔵院を案内している。

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やがて県道から旧道に分岐し、内部(うつべ)川に続いて鈴鹿川を渡ったところに、文化4年に建立された階段付の常夜燈がある。

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田畑の中の縄手道(縄を張ったようなまっすぐな道)を進んだ先に、神戸(かんべ)宿の北端にあった見附の跡が残っている。旅人を監視する番所が置かれ、夜間は木戸を閉じて通行を禁じたそうだ。木戸の柵を支えた溝が石垣に残っているという解説があったが、目を凝らして見てもよく分からなかった。

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近鉄鈴鹿線の踏切を渡った先、油伊旅館の前が札の辻で、この辺りが神戸宿の中心だろう。

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神戸宿を抜けて伊勢鉄道線の高架を潜ると、やがて国道23号に突き当たる。現在の伊勢街道は交通量の多い国道で、11月の全日本大学駅伝のコースにもなっている。この先、旧街道は国道と並行するように進んでいくが、あちこちで右左折するのが旧街道の常で、旅人が迷わないよう随所に「さんぐう道」を示す道標が置かれている。

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伊勢湾の海岸線が近くなってきて、近鉄名古屋線の踏切を渡ると、左手に大きな地蔵堂があり、道路を挟んだ南東側には役行者神変大菩薩が祀られている。小角さん、随分あちこちで手広く活躍されていたんだ。(笑)

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近鉄白子(しろこ)駅付近を通過、白子宿に入った辺りに、昭和12年の比較的新しい指差し道標がある。背後の家の主人が建立したものだとか。

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次の鼓ケ浦駅近く、子安観音寺前を通過したところに道標が2基残っている。ひとつは金属板で補修され、もうひとつは頭部が摩耗して哀れを止める。後者はこの地の型紙彫刻職人が砥石をならすのに使ったためだという。ひどいことをするものだ。「くわんおん」とは子安観音寺を指す。

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10月19、21日 ジョグ10キロ

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