2019/10/17

奈良街道を歩く その5(小野~墨染)

地下鉄小野駅の東、京街道との分岐点から街道歩きを再開。右奥が東海道髭茶屋追分方面、左が伏見・大坂方面、手前が六地蔵方面への奈良街道、通称醍醐道である。

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府道36号新奈良街道を横断して進むと、醍醐寺の広大な敷地が左手に広がっている。こういう風景を見るといつも思うのだが、宗教法人は非課税の固定資産税がまともに課税されたら、一体いくらになるのだろうか。

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この先で府道36号と合流、市街地の中を真っ直ぐ伸びる道をひたすら歩く。小野から休憩込みで約1時間、ようやく六地蔵まで戻ってきた。電車だとものの数分で着くのだけれど。

「札ノ辻」を今度は東から西へ直進し、六地蔵小橋(歩行者専用)で山科川を渡った西詰に比較的新しい道標が建ち、「☞だいご一言寺是より十七丁」「左おくりす(小栗栖)道 岡本尺角建之」と刻む。岡本某とは、俳句も嗜んだ石材商の名前のようである。

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この先の住宅街の狭い路地の奥に、クリーム色をした3階建ての建物が見える。窓枠やベランダには黒く焦げた跡が残っている。今年7月に痛ましい放火殺人事件の現場となった、京都アニメーション第1スタジオである。発生から3か月近く経過したが、未だ犯人の取調べには至っておらず、事件の全容解明はこれからという状態である。建物の前で犠牲者の冥福を祈って黙祷を捧げた。

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まもなく六地蔵交差点で府道7号に突き当たる。交差点北西に建立年不詳の道標が建ち、「みき京みち 法名末徹」「ひだりふしみみち」などと刻む。

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街道はここで右折して通称墨染道となり、八科峠の急な登りが始まる。行程終盤の脚には堪えたが、振り返ると六地蔵付近の市街地と、背後に連なる山々が望めた。

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やっとの思いで頂上に到達。「八科峠」の標石が建ち、「右京みち」「左六ぢぞう」「松井市右衛門建之」と刻む。傍らには東海道の日ノ岡峠で見かけたような車石が置かれている。ここの峠とは特に関係ないように思うのだが。

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ここから伏見までひたすら下りとなり、JR藤森駅付近を通過して、京阪墨染駅前で伏見街道と合流する。折角なので駅前の椿堂茶舗でまた煎茶を買ってから帰路に就いた。今回の街道歩きで本場宇治の煎茶を都合400gも買ったので、この先当分の間は買わなくて済みそうだ。(笑)

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2019/10/14

奈良街道を歩く その4(大久保~六地蔵)

その3までで一旦終えた奈良街道だが、やはり宇治、六地蔵を回る古い街道の方も行ってみたくなり、快晴に恵まれた9日に歩いてきた。ついでに、東海道から分岐して大坂に向かう京街道の途中、小野付近から分岐して六地蔵に向かう奈良街道も歩いてみた。

ちょっとややこしいが、アルファベットの に例えると、下端が近鉄大久保駅付近の宇治屋の辻で、そこからスタートして宇治を経由、真ん中の交点が六地蔵、一旦地下鉄で右上の小野駅まで移動、そこから六地蔵まで歩いて戻り、今度は左上、京阪墨染駅付近の伏見街道との分岐点まで歩くという行程である。

午前9時過ぎ、宇治屋の辻をスタート。前回は右奥へ太閤堤を通るルートを行ったが、今回は右手前の「うぢミち」、なだらかな登りとなる古い街道を行く。

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宇治まで約1時間。メインの宇治橋通りは観光客相手の商店が連なり、一部に旧街道の風情も残る。折角なので老舗上林春松本店で煎茶を買い求めた。

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この先、宇治橋の西詰には紫式部像が佇み、ここが源氏物語宇治十帖の地であることを示す。

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橋の東詰めには文政年間の道標が建ち、「すぐ京大津」「右ゑしん院(恵心院)こうしやう寺(興聖寺)」「左みむろ わうばく(黄檗)」などと刻む。

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平安時代から続く茶屋「通圓」で抹茶ソフトを買い求め、ちょっとお行儀が悪いが食べながら街道歩きを再開。街道ランでは出来ない楽しみもあるのだ。(笑)

京阪宇治駅の東で旧道に分岐するところに東屋観音が安置され、その近くに「右ミむろみち」「左京大津道」と刻む可愛らしい道標があった。

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この先はJR奈良線、京阪宇治線と並行しながらなだらかに蛇行する街道を進むが、往時を忍ばせるような建物等はほとんどない。左手には京都大学宇治キャンパスの広大な敷地が広がっている。

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その先の辻を右に入り、JR黄檗駅に向かう途中、許波多(こはた)神社の昔の一ノ鳥居の礎石が立っている。もとはここから東の山手へ伸びる参道を行った先に神社があったが、神社は明治初期にここから北西方向に移築されたそうだ。

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京阪宇治線の踏切を渡った先に、地蔵と並んで仏の透かし彫りのある古い道標が建つ。残念ながら文字はほとんど解読不能で、ネットで調べても情報がなかった。ここから先、街道沿いにはやたらと地蔵さんが目についた。

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JR木幡駅付近を過ぎたところで、街道を越える高架橋跡があった。右手方向からゆるやかにカーブしており、明らかに鉄道廃線跡と知れる。木幡駅から分岐していた旧陸軍宇治火薬製造所への引込線跡で、駅付近は遊歩道になっているが、この辺りは野草の生い茂るまま放置されているようだ。

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六地蔵の手前、街道右手に天保年間と思われる道標が建ち、「左長阪地蔵尊みち」などと刻む。

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まもなく六地蔵札ノ辻に突き当たる。手前が宇治、左が伏見・京、右は醍醐・小野方面である。

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南西角には天保3年の道標が建ち、「左長阪地蔵うち(宇治)みち」「すぐ伏見舟乗場みち」などと刻む。

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すぐ近くの地下鉄東西線の終点六地蔵駅から小野駅まで電車で移動する。

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2019/09/23

奈良街道を歩く その3(小倉~三条)

18日は近鉄小倉駅前から京阪三条駅前まで14キロ強を歩いた。今回はほとんど都市部のため、至るところにコンビニ、商店、鉄道駅があり、全く不自由することはなかった。

スタートして間もなく、街道に面してお茶の小山園のディスプレーがあり、本社はこの奥というので思わず誘われて行ってみた。本社併設の売店で煎茶を購入したが、試飲させてもらったお茶がいまいちだったので、あまり期待しない方がいいかも。

古い街並みを行くと、右手に巨椋(おぐら)神社がいかにも由緒ありげな佇まいを見せている。

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この先、街道は大きく左に曲がり、府道69号を越えたところから登りとなる。登り切ると両側より数メートル高くなった道筋が続き、太閤堤(小倉堤)の南端部分に当たっているようだ。堤防道はこの先で削平されて一旦途切れるが、近鉄向島駅手前にも当時の堤防跡を残す場所がある。写真中央が堤防上の街道で、脇には樹齢250年以上というムクノキの大木が聳える。

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向島駅を越えて宇治川に近づくと、風情のある街道筋が残っている。写真では表現できないが、ここでも街道は周囲より数メートル高くなっている。中二階の民家は梯子型のむしこ窓が特徴らしい。

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観月橋を渡ると、伏見宿エリアに入る。

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京阪伏見桃山駅手前の団地内に伏見奉行所跡がある。江戸時代、幕府直轄領だった伏見の奉行職は、遠国奉行としては上席に位置し、旗本よりも大名が任じられることが多かったという。また、この地は慶応4年の鳥羽伏見の戦いの舞台ともなった。

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この先は伏見街道京町通となって、ほぼ平坦な道路が延々と続く。近鉄京都線を越え国道24号を横断する辺りから、以前走った京街道のルートと重複する。右折して京阪墨染駅東側で左折、その先から直違橋(すじかいばし)通となって、これまた真っ直ぐな道が延々と続く。

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京から数えて4番目の橋「四ノ橋」を渡る。親柱に「伏水街道第四橋」とあるが、伏見は古くは「伏水」とも表記されていた。良質な地下水に恵まれ、酒造りに適した土地であることが地名からも分かる。

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名神高速の高架を潜ると、右手に京都聖母学院のレンガ造りの校舎が見える。元陸軍第16師団司令本部だった建物で、疎水を挟んでひとつ西側の大通りは師団街道と呼ばれている。

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JR奈良線の踏切を渡ると稲荷駅で、旧東海道本線時代の最後の遺構である明治13年築のランプ小屋が残る。伏見稲荷は外国人旅行客の人気スポットで、周辺は外国人で溢れ返っていた。

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駅から離れるにつれ、街道は静けさを取り戻し、伏見人形の名店「丹嘉」を訪れる人も今は少ないようだが、そのうち外国人が押し寄せるときが来るかもしれない。

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この辺りから街道は本町通となり、五条通まで続いている。資料によっては伏見街道起点の五条通をもって奈良街道の起点としているが、折角の機会なのでさらに大和大路通を北上して三条まで歩き、旧東海道の終点と接続させて3日間の行程を終えた。

街道「歩き」は今回初めての経験だった。「かったるい」と感じることもあったが、走っていては気づかない遺物や風景もあり、これはこれで面白いことが分かった。また機会があれば出かけてみたい。

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2019/09/20

奈良街道を歩く その2(棚倉~小倉)

16日はJR棚倉駅前から近鉄小倉駅前までの約15キロを歩いた。途中、かつての玉水宿、長池宿を通過するが、長池までは長閑な田園地帯を行く単調な道が続き、名所旧跡などほとんどない区間である。図書館で借りたガイドブックでは、玉水-長池間はJRで移動というコース設定がなされている。

棚倉駅前をスタート。いかにも旧街道という、うねるように蛇行する道を進む。

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間もなく不動川を渡るが、橋で越えるのではなく、トンネルで潜る。この辺りに多い天井川のひとつで、トンネルの高さは1.6メートルと表示されている。身長167センチの自分でも頭を打つと思ったが、何とか屈まずに歩き通すことが出来た。実際は1.7メートル近くあるのを、余裕をみて切捨てて表示してあるのだろう。

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JR玉水駅付近では、線路が川の下を通っている。

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かつて玉水宿の中心部だったと思われる辻に、天保年間創業という料亭「八百忠」が現在も営業中である(左側の板塀の建物)。また、右手の電柱の左には、付近の史蹟名勝などを案内した道標が建つ。これも三宅安兵衛氏の遺志で建立されたものである。

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この先、長池までの間も歩き通したが、わずかにコンビニが1軒あるだけで、民家と田畑、学校以外本当に何もなかった。ようやく辿り着いた長池宿の中心部にある元旅籠の和菓子店「松屋」でひと休み。店内には旅籠当時の宿帳や引き札(今日の宣伝チラシ)などが展示してあった。

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集落の西端には「是北京都街道 南奈良街道」などと刻む道標が建つ。これまた三宅安兵衛氏である。なお、「京都五里 奈良四里半」とあるように、長池宿は奈良と京都のほぼ中間点に位置しており、「五里五里の里」と呼ばれていた。

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ここで一旦国道24号に合流し、城陽新池の先でまた旧道に分岐する。久津川付近、街道のすぐ東側に車塚古墳、丸塚古墳が往時の姿をとどめている。

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近鉄大久保駅を過ぎた広野町辺りに「宇治屋の辻」があり、これは宇治、六地蔵を経由する古い奈良街道との分岐点に当たる。「右うぢミち 左なら道」などと刻む道標は、平成9年交通災害で破損したものを、翌年に近隣町内会が再建したとの説明がある。

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近鉄小倉駅前で2日目の行程を終了。折角宇治まで来たので、駅前の吉田銘茶園で少し値の張る煎茶を土産に買い、帰路に就いた。

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2019/09/17

奈良街道を歩く その1(奈良~棚倉)

記事カテゴリーは便宜上「街道走り」としたが、今は「歩く」しかない。体力的にはまだ十分走れるけれども、長時間ストーマに衝撃を与え続けるのが不安だからだ。

今回は奈良から京都に至る奈良街道(大和街道)約40キロを3日間に分けて歩く。往時は途中に木津、玉水、長池、伏見の4宿が置かれていた。ルートは複数ある。かつて京都盆地南部にあった巨椋池が交通の大きな支障となり、古くは六地蔵、宇治方面に迂回していたが(現在のJR奈良線ルート)、秀吉時代に巨椋池を渡る太閤堤が築かれて最短ルートが整備された(現在の近鉄京都線ルート)。今回行くのは後者である。

また、木津川に沿った区間は江戸時代中後期には木津川右岸の土手を行くことが多かったようで、いつも参照している明治末期の地形図でも土手道を奈良街道としている。しかし、あまりに単調で面白味に欠ける上、トイレやコンビニ等もないことから、今回は古くからの集落を抜ける山背(やましろ)古道を通ることにした。

まだ残暑の残る14日午前、近鉄奈良駅前を出発。東向商店街を抜け、三条通に突き当たると以前走った伊勢本街道に一旦合流する。猿沢池から興福寺境内を抜けて大宮通に出て県庁前を東に進むと、今年4月に約45億円をかけて整備されたバスターミナルがある。観光バスによる渋滞の緩和が目的であるが、使い勝手が悪くて利用は想定の半分以下にとどまっているという。この日も3連休初日というのに、広い構内は人気もなく閑散としていた。

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ここを左折して一路北上し、転害門前を経て今在家交差点で旧道に分岐する。佐保川に架かるこの橋の土台は慶安3年(1650)のものだそうだ。

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ここから奈良坂の登りとなり、途中で振り返ると東大寺など奈良市内の風景が望める。

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坂を登り切り、般若寺の先の植村牧場で名物ソフトクリームを食べながら牛たちを眺めて一息入れる。ラン仲間と何度か来たことがあるが、牛舎の屋根の上に牛がいることに、これまで気づいていなかった。フランスの作曲家ダリウス・ミヨーも多分これを見たのだろう。(謎爆)

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この先、奈良豆比古(つひこ)神社の先の辻に弘化4年の道標が建ち、「すぐ京うぢ道 右いがいせ道」などと刻む。

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やがて県道に合流したのち京都府木津川市に入り、州見台(くにみだい)住宅地の中を進む。JR奈良線と国道24号を越えて木津宿エリアに入ると、街道らしい風情が残っている。

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木津川に突き当たる手前のとある寺の境内に和泉式部の墓がある。彼女は木津の生まれで、余生もここで過ごしたという伝承があるものの、それを裏付ける資料はなく、和泉式部の墓と称するものは全国各地にあるそうだ。

 

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かつてはこの付近に木津川を渡る泉橋が架かっていたが、現在は少し上流側にある国道24号の泉大橋を渡る。

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対岸の旧泉橋の袂と思しき付近に「西京都街道 東笠置山伊賀上野街道」などと刻む道標が残っている。裏面に「□□年春稟京都三宅安兵衛遺志建之」とあり、幕末から明治期の商人三宅安兵衛の遺志を稟けて、その子息が京都各地に建立した多数の道標のひとつと知れる。

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この先は茶問屋が並ぶ地区であるが、土曜で休みなのか茶の香りが漂うという風情はなく、通りも閑散としていた。国道24号を渡ったJR上狛(かみこま)駅付近に環濠集落が残る。濠を渡る橋が危なげな駐車スペースになっている。

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この先は集落の中を縫うように狭い道が蛇行しながら進み、いかにも古道の風情が感じられる。

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この日はJR棚倉駅前までの約12キロで終了。奈良まで電車で戻ると僅か18分だった。

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2019/05/06

京街道を走る その5(守口~高麗橋)

守口宿に入る直前に一里塚の跡がある。痕跡をとどめる一里塚は山科大宅以来である。江戸日本橋から135里のものと思われる。

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守口宿本陣跡近くの難宗寺前の辻に、年代不明の古い道標(左端)が佇む。「左京(みち?)右大(坂?)」などと刻むが、半分ほど地中に埋まってしまっている。

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この先、八島交差点から京阪守口市駅付近にかけて、秀吉の文禄堤跡が今も道路として利用されている。その下を抜ける現代の道路と立体交差している様子に、まるでエッシャーの騙し絵のような不思議さを覚える。

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ここより少し手前になるが、奈良街道に分岐して来迎坂を下っていく箇所に、見逃してしまいそうな小さな道標が残り、「右ならのざきみち」と刻む。「のざき」とは野崎観音のことである。

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守口宿を抜けると、大阪市旭区に入る。千林商店街を突っ切る格好の府道161号が旧京街道で、今も近隣住民の生活道路として現役である。

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城東区、さらに都島区へと市街地を走ると、京橋駅前に続く商店街のアーケードに入る。京橋側の入口になぜかローマの「真実の口」を模したモニュメントが飾られているが、あんな高い所に手を突っ込むのは無理だ。(笑)

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京橋駅前に建つ文政9年の道標。「左京み(ち)」「右大和な(ら)の(ざき)」などと刻む。繁華街のど真ん中にあるこの道標に、これまで気づいてなかったように思う。

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京阪電車の線路沿いを西進すると、「のだばし跡」の碑があった。この付近を流れていた鯰江川に架かる橋だったという。

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その先の京橋を渡ったところが大坂城京橋口で、慶長年間の三の丸石垣がドーンセンター敷地内に復元されている。

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土佐堀通りを進み、天満橋、天神橋それぞれの南詰を過ぎ、東横堀川に沿って少し南に入ると高麗橋東詰に至る。東海道五十七次の終点であり、起点の江戸日本橋同様、道路元標が置かれている。高速道路の高架下となり、視界を遮られる今の残念な風景まで同じである。

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京都大阪間は、学生時代から何度も電車で行き来してきたが、実際に自分の足で走ってみると結構な距離であること、それに意外にも旧街道の風情が今も残っていることを実感した。さて、次はどこを走ろうか。

5月4、6日 ジョグ10キロ

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2019/05/03

京街道を走る その4(牧野~枚方)

4月28日、京街道の後半、京阪牧野駅から大坂高麗橋までの28キロ弱を走った。午前10時過ぎに牧野駅前を出発。住宅街の狭い道路を進んで京阪電車の踏切を渡り、三栗(めぐり)交差点で一旦横断した府道13号にすぐ合流する。京阪御殿山駅を過ぎ、磯島交差点で府道から分かれて旧道を進むと天野川に突き当たる。往時は川越え人足が常駐していたが、現在は下流側の府道に架かる鵲橋(かささぎばし)を渡り、再び街道筋に戻ったところが枚方宿の東見附に当たる(写真奥の堤防下)。近くの旧家からご当主夫妻と思しき男女がちょうど外出されるところだった。

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ここからが枚方宿エリアとなり、京阪枚方市駅近くの「宗佐(そうざ)の辻」に文政9年の道標が残る。「右大坂ミち」「右くらじたき(倉治滝) 左京やわた」などと刻むが、裏側の願主4名の名前の上に、一般には明治以降の表記である「大阪」とあるのは珍しい。

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賑やかな駅前を過ぎると、旧街道の雰囲気が多少残っている。写真では分かりにくいが、沿道の家よりも街道が数センチ高くなっているのは、大名行列が通るたびに砂を撒いて道を整備した名残だという。大名が泊まった本陣の跡は、今は何の変哲もない公園になってしまっている。

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さらに進むと、船宿「鍵屋」の建物が現存し、資料館として公開されている。入館料を取るので当然パスしたが(笑)、外観からでも「鍵屋浦には錨が要らぬ 三味や太鼓で船止める」と謳われた当時の賑わいを窺うことが出来た。

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この先が枚方宿西見附で、遠方にひらかたパークの観覧車を望みながら西に向かうと、街道から少し外れたところに「水面廻廊(みなもかいろう」と称する河川公園が整備され、三十石船のミニチュアが浮かんでいた。

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この先、京阪の駅名にもなっている光善寺の門前を通り、やがて淀川左岸の堤防に上がる。この下に秀吉の文禄堤が埋まっているのだろうか。右下の河川敷の道路は、その昔に出場した「ひらかたハーフマラソン」のコースになっていた。

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この後は単調な堤防道が続き、レースでなくとも結構辛いものがある。寝屋川市に入って淀川新橋、さらに鳥飼仁和寺大橋を潜った後、一旦京阪国道に出てラーメン屋で塩分補給する。再び堤防道に戻り、守口市に入って鳥飼大橋を潜った先でようやく堤防から降りて市街地に入ると、間もなく守口宿エリアとなる。

その5に続く。

5月2日 ジョグ10キロ

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2019/04/27

京街道を走る その3(八幡~牧野)

木津川を渡り京阪八幡市駅手前で右折、旧京阪国道沿いに進んでいくと、やがて旧街道との合流点となる。その付近には樹齢千年と言われる楠の巨木があったが、堤防強化工事に伴い昨年3月に背割堤の先端に移植されたそうである。その先、大谷川を渡ると文政2年の道標が建ち、「右 八まん宮山道これより十六丁」「左 津の国そうじ寺(摂津国総持寺)大坂下ㇼ船乗場道」などと刻む。

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この先の京阪橋本駅近くに、八幡宮を案内するもう一つの道標があったはずだが、残念ながら既に撤去されていた。しかし、その先、対岸山崎への渡し場跡付近に明治期の道標が残っている。「柳谷わたし場 山ざきあたごわたし場」などと刻む。

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橋本は遊郭として栄えた場所で、玄関に透かし彫りの彫刻が施された古い建物が残るが、取り壊されて空き地になった区画も目立つ。

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この先で枚方市に入り、淀川左岸堤防に上がると、対岸の高槻が意外なほど近くに見える。歩道がなかったが、旧国道だけあって幅員は十分あり、さほど危険は感じなかった。

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河川敷を降りて旧街道を進むと、やがて京阪樟葉(くずは)駅前に出る。町名は「楠葉」と表記するが、古事記や日本書紀にも登場する古い地名で、戦に敗れた兵の「屎袴(くそばかま)」に由来するそうである。再び河川敷に出て堤防上の単調な道を進むが、今度は歩道があるので助かる。樋ノ上交差点で府道と別れてしばらく進み、船橋川を渡ったところに安政3年の道標が建ち、「八幡宮 参詣道 橋本へ一里」などと刻む。

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その先、京阪線沿いの道を進み、穂谷川を渡ってすぐの京阪牧野駅で当日の行程を終了。追分からここまで6時間を要したが、京阪電車で三条まで戻るのは約30分だった。(笑)

4月25、26日 ジョグ10キロ

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2019/04/24

京街道を走る その2(伏見~八幡)

昼食後の腹ごなしを兼ねて、伏見宿内は歩いて見て回る。油掛通に「電気鉄道事業発祥の地」という碑が建つ。銘文によれば、「明治廿八年二月一日京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我国において初めて開業した」とある。

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ここから少し南下すると京橋だが、その手前を東に入ったところで寺田屋旅館が今も営業中である。京三条通の金蔵寺で内祝言を挙げた龍馬とお龍は、ここで大変な災難に見舞われたわけだ。

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京橋の袂には船着き場を復元した小公園があり、伏見観光の目玉となっているようだが、なぜか野良猫が数匹たむろしていた。

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ここから川べりの遊歩道を西に進むと、三方からの歩道が川の上で出会う珍しい形の橋が架かっている。その名も「伏見であい橋」といい、映画『君の膵臓をたべたい』でロケに使われた場所である。映画では桜が満開だったが、すでにほとんど散っていた。

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この下を流れる濠川(ほりかわ)に沿って下流に向かうと、宇治川との合流地点手前、伏見港公園付近で屋形船に遭遇した。観光客向けに定期運航している十石船と思われる。

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まもなく、宇治川の広い河川敷に突き当たり、ここから淀までは土手上の単調な道のりが続く。

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この先、現在の宇治川は京都競馬場の南側を流れるが、明治期の付け替え以前はその北側を流れ、納所(のうそ)交差点の先で桂川に合流していた。今の京阪電車、府道124号はその右岸に相当する。地図は宇治市歴史資料館編『巨椋池』による。

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府道と並行して小高くなった別の道が残るのはその名残か。付近には「淀小橋跡」や「唐人雁木旧跡」といった、ここを旧宇治川が流れていたことを示す遺跡が残る。この付近からが淀宿のエリアとなるが、その風情を窺わせるものは何も残っていない。ただ、旧街道と競馬場という取り合わせは、東海道品川宿付近の大井競馬場、鳴海宿付近の中京競馬場でもあった。街道と馬というのは、やはり何かしらご縁があるのだろう。(笑)

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淀宿を出ると府道15号を横断するが、これは付け替え前の旧木津川の右岸にあたり、川はこれに沿って北西に流れて桂川に合流していた。少し進んで、もと左岸の辺りから振り返ってみると、確かにそれらしき高低差がある。前方の住宅街は明治以前は河川敷だったわけだ。この付近は現在でも市区境界が変則的に入り組み、八幡市飛地があったりするのはその名残だろう。

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この先で八幡市に入る。往時の街道は旧木津川を渡ったあと、今の京阪橋本駅付近までまっすぐ続いていたと思われるが、現在は付け替え後の宇治川、木津川にかかる御幸橋を続けて渡る。その合流地点にある背割堤は見事な桜並木が有名で、そこに平成29年春、「淀川三川合流域さくらであい館」が完成した。

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地上25メートルの展望塔があり、背割堤を眼下に一望することが出来る。お花見の時期は有料だが、この日はもう無料になっていたので上がってみた。木津川(左)と宇治川(中央)の間にあるのが背割堤で、右奥に見えるのが桂川の左岸堤防である。窓ガラスに内部が映り込んでいるけれど、一部は吹き抜けになっていて、ランニングの格好では長く居られなかった。

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その3に続く。

4月23日 ジョグ10キロ

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2019/04/21

京街道を走る その1(追分~伏見)

19日、東海道から分岐して大坂に向かう京街道の走り旅前半、髭茶屋追分から京阪牧野駅付近までの28キロ強を走った。京街道は元々、大坂と伏見に城を構えた豊臣秀吉が、両者を最短距離で結ぶため、文禄3年に毛利一族に命じて作らせた淀川左岸の堤防(文禄堤)が起源で、その後、徳川家康が五街道の整備に続いて、東海道に京街道を取り込んで天下の台所大坂まで延伸し、途中の伏見、淀、枚方、守口の4か所に宿駅を設けたものである。これにより東海道は五十七次にまで拡大したわけである。京を経由しないルートにしたのは、大名が公家と接触しないようにしたからとされる。

午前10時、髭茶屋追分を出発。東海道のときは右、今回は左を行くが、どちらも下り坂となっている。

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間もなく、民家の庭先に由緒ありげな道標を発見。「右伏見 左宇治」と刻み、この先の奈良街道との分岐点から移設したものと思われる。一体どういうお宅なのだろう。

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名神高速京都東ICの高架を潜り、国道1号を渡った先に「牛尾山道」と刻む道標があったが、文字がほとんど潰れている。道標の横では不動産屋らしい女が、老人相手に土地を売ってくれとしつこく食い下がっている。「土地買うオンナ」か(笑)。山科大塚で再び国道1号を越えた先に、「みぎうじみち ひだりおゝつみち」と刻む道標がある。路線バスを含め頻繁に通る車両から守るためとはいえ、トラ柄のポールはいかにも殺風景だ。

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大塚から大宅(おおやけ)に入り、名神高速の高架手前に大宅一里塚跡がある。京都市内に現存する貴重な遺構として市史跡に指定されている。説明板には何も記載がないが、位置から考えて江戸から124里の一里塚と思われる。

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山科警察署を右に見ながら下っていくと、先にふれた奈良街道との分岐点があり、そこを右折すると地下鉄小野駅に付近に出る。小野氏が栄えた土地とされ、小野小町ゆかりの場所らしい(諸説あり)。その先の勧修寺入り口に文化元年の道標が建ち、「南 右大津 左京道」「北 すぐふしみ道」などと刻む。

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この先は名神高速に沿う単調な道のりになり、その途中で京都市山科区から伏見区に入る。JR藤森駅付近、京阪墨染駅付近を通り、伏見宿のエリアに入っていく。宿場の北外れ撞木町(しゅもくちょう)には遊郭があり、その入り口を示す石柱一対が残っている。赤穂浪士大石内蔵助が敵の目を欺くため遊興したのは、仮名手本忠臣蔵にある祇園一力茶屋ではなく、実際はこちらの遊郭だったと言われる。

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ちょうど昼時になったので、塩分補給を主目的に、伏見区役所南の「玄屋」で「酒粕らーめん」なるものを頂いた。伏見名物清酒の副産物を生かした、粕汁のような味わいの一品だった。

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その2に続く。

4月19日 LSD28キロ
4月21日 ジョグ10キロ

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