2017/11/06

東海道を走る その20(四日市~亀山)

日永追分を右へ進む。江戸から伊勢参りの旅人はここを通らず、また京大坂からの伊勢参りも別の道を使ったので、この先の区間は東海道中でも通行量が少なく、次の石薬師、庄野宿は甚だ振るわない宿場だったそうだ。そのせいか、街道は心なしか鄙びた風情に変わり、やがて内部(うつべ)川を渡ると、杖衝(つえつき)坂に差しかかる。

Ts3r0124

日本武尊が東征の帰途、あまりに疲れて杖を突いて越えたというのがその名の由来である。また、坂を越えた日本武尊が「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」と言ったことから、三重という地名が生まれたという。

再び国道1号と合流、分岐を繰り返すと、やがて石薬師宿に入る。街道の原風景のような光景に、また思わず新日本紀行のテーマ曲が頭の中に流れる。

Ts3r0126

広重の「石薬師」は鈴鹿山系を背景に、石薬師寺門前の街並みを描く。

Ishiyakushi

寺の山門前三叉路の現在の風景。

Ts3r0130

宿場を出たところに一里塚があり、その先に旧街道の痕跡と思われる地道(左前方)が残っていた。峠道や石畳を除き、未舗装のまま残る街道痕跡は初めて見たような気がする。

Ts3r0134

ただし、この先はJR関西本線と国道1号で分断され、迂回しながら進むと、やがて庄野宿に入る。その手前、JR加佐登駅付近の光景。

Ts3r0137

なんでもない景色にしか見えないが、この辺りが広重の五十三次中屈指の名作「庄野」が描かれた場所と言われている。急な雨に慌てて走り出す旅人と籠屋が、今にも動き出しそうだ。

Shouno

前の石薬師同様の鄙びた街道筋に、油問屋だった小林家住宅(嘉永7年)を利用した庄野宿資料館があった。古文書などに混じって、天和2年などの高札の現物5点が展示されていた。写真はNGだったが、今も文字の痕跡が残る高札の現物は初めて見た気がする。

Ts3r0140

この付近は複数の川が合流し、度々水害に見舞われた場所だったそうで、「川俣神社」が3箇所もあり、宿場の外れには「女人堤防」の痕跡が残る。勝手に堤防を作るのは許されなかった世に、女ならまだ罪が軽いだろうと、重罪覚悟で堤防を築いた女性たちがいたのだ。一旦捕えられたものの許しが出て、褒美を与えられたという。

Ts3r0144

安楽川を渡った先に道標が2基ある。「右のゝぼり」とあり、庶民には「ののぼりさん」と呼ばれた野登寺(やとうじ)への道標であるが、左の古い道標の下半分は地中に埋まっている。

Ts3r0148_2

椋川を渡ると、今度は元禄3年の道標が建つ。「従是神戸 白子 若松道」とある。亀山城下から若松港に至る重要な分岐点だったのだ。

Ts3r0149

ちなみに、この付近で下校中の小学生の男の子から「こんにちは。今日は暑いなあ」と声をかけられた。「暑い」の「あ」が高いアクセントで、ようやく関西の圏内に入ったことを実感した。亀山宿に入る手前に和田一里塚が復元されている。江戸から104里である。

Ts3r0151

亀山の市街地にも宿場町の風情が残る。

Ts3r0152

広重「亀山」は、夜明けのグラデーションを背景に、雪景色の中を亀山城に入る大名行列を大胆な構図で描く。

Kameyama

この日は秋晴れの下、亀山城跡に向かう坂道を高校生たちが自転車を押していた。

Ts3r0156

今回の行程はこれにて終了。予定どおり、亀山駅前の郵便局で荷物を受け取り、コミュニティバスに乗って亀山市総合保健福祉センター「白鳥の湯」に向かう。市役所職員たちが働くすぐ横に温泉の受付があり、まるで不条理劇の舞台セットのようだ。(笑)

駅前に戻って夕食を取り、2時間強で自宅まで戻って来られた。さて、次回はいよいよ鈴鹿の峠越え、そして京三条大橋のゴールが待っている。

11月4日 ジョグ10キロ
11月6日 LSD20キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/03

東海道を走る その19(桑名~四日市)

桑名駅から東に1キロ強走って、渡し場跡に到着。昭和34年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたため、渡し場の前には頑丈な堤防が築かれている。

Ts3r0071

広重の「桑名」は、桑名城を背景に、渡し場に着いて帆を下した船を描く。

Kuwana

この画にもある桑名城の物見櫓、播龍櫓(ばんりゅうろ)が復元されている。実際の用途は水門管理所とのことである。

Ts3r0073

ここから南に進むと、桑名城の石垣が残り、一帯は「歴史を語る公園」となっている。

Ts3r0077

桑名市博物館前に古い道標が移設されていて、「右 京いせ道」「左 江戸道」とある。案内板には元位置不詳とあるが、方角から考えると江戸方面からの進路が南から西に曲がる角以外になく、桑名宿内では3箇所のうちのいずれかと思われる。

Ts3r0078

市街地を進むと街道特有の枡形があり、右へ左へ何度も曲がる。その先の八幡神社の前に天保13年の道標がある。「右 きゃういせみち」「左 ふなばみち」とあり、後者は渡し場のことだろうから、これも前の道標と同じ位置関係にある。

Ts3r0080

宿場の京方口(西口)に当たる矢田立場跡には、火の見櫓が復元されている。

Ts3r0083

員弁(いなべ)川を渡ると、江戸から97里の一里塚跡がある。宮で89里だったので、七里の渡しを通算しているのだ。その先、近鉄伊勢朝日駅付近で1日目の行程を終え、電車で桑名まで戻って駅前のホテルに宿泊する。泉鏡花の同名の小説に登場した「歌行燈」で、桑名名物の焼き蛤をアテに地酒を頂いた。

Ts3r0090

ところで、「その手は桑名の焼き蛤」と言うが、桑名名物は本当は時雨蛤(佃煮)で、焼き蛤は西隣の富田辺りの名物とのこと。西から来た旅人がもうそこで焼き蛤を食べてきて、桑名でまた蛤を勧められても、「その手は食わない」ということのようだ。

翌朝、再び伊勢朝日駅前からスタート。単調な一本道をひたすら進み、朝明(あさけ)川を渡る。JR、近鉄、三岐の3線が集まる所が富田である。「その手」はもう食ったので、ここは何も食べずに通過する。(笑)

さらに進んで海蔵川、三滝川を渡ると、四日市宿に入る。広重の「四日市」は、三滝川の河原で菅笠を風に飛ばされて慌てる旅人をユーモラスに描く。

Yokkaichi

現在の三滝川の様子。広重の画で左遠方に見えている船の帆柱に代わって、コンビナートの煙突が聳えている。

Ts3r0101

宿場の真ん中辺りに文化7年の道標が残されている。しかし、残念ながらこの先の街道は既に失われ、迂回を余儀なくされる。

Ts3r0104

四日市宿を出た辺りで、愛らしい道標が大切に保存されていた。「猿丸太夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」とある。百人一首の歌に詠まれた「奥山」とは、この近くの水沢だというのだが、確たる根拠はないようだ。

Ts3r0105

この先に日永一里塚の跡がある。江戸からちょうど100里。往時の旅人も、ある種の感慨を催したに違いない。かつての松並木の名残りの松を仰ぎ見たあと、とあるラーメン店で昼食休憩する。

Ts3r0111

間もなく、日永追分に到着。左が伊勢、右が京の重要な分岐点だ。弥次さん喜多さんなど、お伊勢参りの旅人とはここでお別れである。

Ts3r0117

嘉永2年の立派な道標があり、独特の書体で「右 京大坂道」「左 いせ参宮道」などとある。また、「追分鳥居の水」が相当な水量で湧き出ていたので、ボトルに詰めさせてもらった。鈴鹿山系の伏流水とのことで、とてもまろやかな味だった。

Ts3r0115

11月2日 ジョグ10キロ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017/10/31

東海道を走る その18(知立~宮)

尾張に入って間もなく、阿野一里塚がある。江戸から86里。この辺りでようやく雨が上がった。この先のコンビニで昼食休憩を取る。

Ts3r0041

中京競馬場前駅を過ぎると、左手に桶狭間古戦場跡があり、今川義元の墓などがある。

Ts3r0046

間もなく、絞り染めで有名な間の宿、有松に入る。広重の「鳴海」はここを描いている。

Narumi

現在の風景もほとんど同じで、五十三次の画のうち、当時の姿が最もよく残っていると言えよう。

Ts3r0051

やがて本来の鳴海宿に入るが、宿場らしいものといっても、復元された高札場ぐらいしか見当たらない。

Ts3r0053

天白川を渡ると、笠寺一里塚(江戸から88里)が、往時そのままの堂々たる規模で残されている。

Ts3r0054

この先の呼続(よびつぎ)という地名は、古来この付近が浜辺で、互いに名を呼び合いながら渡ったことによるそうだ。次第に名古屋の市街地に近づき、やがて宮宿に入る。

「宮」は熱田神宮のことで、地下鉄伝馬町駅付近が宿場の中心である。寛政2年の道標が残っていて、「北 南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社貮丁道」「西 東 江戸かいとう 北 なこやきそ道」などとある。

Ts3r0061

この道標で左折、国道247号を越えると、まもなく七里の渡し跡に到着する。往時はここから桑名まで渡し船で渡っていた。むろん現在はそんなものはなく、電車を乗り継いでの電車渡しとなる。

Ts3r0065

広重の「宮」は当初の副題を「熱田神事」といい、勇壮な馬追いの様子を描いているが、実際には熱田にそのような神事はないそうで、後摺では副題を「浜の旅舎」と改めている。

Miya

今の熱田神宮の様子。鳥居の形が広重の画と少し違っているのはなぜだろう。時節柄、七五三の参詣者も何組か見かけたが、ご多分にもれず、境内を大声で闊歩する中国人観光客が多かった。

Ts3r0067

10月29、31日 ジョグ10キロ
月間走行距離  244キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/28

東海道を走る その17(岡崎~知立)

「東海道を走る」第5回目は、岡崎から亀山まで走った。三河から尾張へ、さらには伊勢に入り、江戸から京までの長い道のりも、いよいよ終盤を迎えたことを実感した。

残念ながら雨となった10月25日午前8時半過ぎ、愛知環状鉄道中岡崎駅前をスタート。この付近は八帖といい、八丁味噌の郷として有名である。味噌の香りがかすかに漂い、街道から脇道を覗くと、味噌蔵が軒を連ねている。NHKの連続テレビ小説「純情きらり」のロケも行われたそうで、宮﨑あおいの手形が残されていた。

Ts3r0002

すぐに矢作(やはぎ、「矢矧」とも)橋を渡る。東海道随一の長さを誇り、広重の「岡崎」もこの橋から岡崎城下に向かう大名行列を描いている。

Okazaki

現在の国道1号矢作橋の様子。広重の絵では橋の左(上流)側に見えている岡崎城が、現在では橋の右(下流)側に見える。これは、往時の橋が現在より若干下流側にあったためと思われる。

Yahagi_3

矢作橋を渡り、国道1号と分岐、合流を繰り返しながら進むと、尾崎の一里塚(江戸から83里)のあった熊野神社前を過ぎ、右手に見える永安寺には推定樹齢350年という「雲竜の松」がある。

Ts3r0011

そう言えば、稀勢の里は次の九州場所はどうするのだろうと思っていたら、その先の神社の境内で力士の石像がこちらを睨んでいた。江戸末期から明治初めに活躍した地元出身の力士、清見潟又市の像だという。どすこい。

Ts3r0014

猿渡川を渡ると、元禄9年の無量寿寺道標がある。街道を右に入った八橋の無量寿寺には在原業平作の観音像があり、伊勢物語の中で「かきつばた」の五文字を織り込んだ歌を詠んだ庭園があるそうだ。

Ts3r0015

その先に来迎寺一里塚(江戸から84里)を残す。

Ts3r0018

間もなく知立(ちりゅう、「池鯉鮒」とも)宿に入る。見事な松並木が保存され、その西端に馬市跡の碑が立っている。往時、ここでは毎年初夏に馬市が立ち、広重の「池鯉鮒」はその模様を描いている。

Chiriu

草を靡かせて吹き渡る風の心地よさを感じさせる傑作に、少しでも近づきたかったが…。(苦笑)

Ts3r0030

知立の市街地に入る。往時の風情は全くないが、明治時代創業の小松屋の名物「あん巻き」を食べてひと息つく。

Ts3r0031

知立神社境内にある御手洗池の鯉と鮒。ここから「池鯉鮒」という地名が生まれたそうだ。

Ts3r0034

再び国道1号と合流、分岐しながら進むと、とある寺の墓地に中津藩士二人の墓が並んでいる。遊女を巡って斬り合い、命を落としたそうで、何度直しても墓石が傾くそうだ。「もう、ええ加減に成仏しなはれ」と手を合わせてきた。

Ts3r0035

間もなく、三河と尾張の国境の境橋を渡る。往時は三河側の土橋と尾張側の板橋を継いだ橋で、質素な三河と派手な尾張、それぞれの国柄が表れていたそうだ。「これやにかわの継目なるらん」という歌碑がある。

Ts3r0039

10月25日 LSD37キロ
10月26日 LSD36キロ
10月27日 ジョグ10キロ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017/05/01

東海道を走る その16(赤坂~岡崎)

御油からわずか2キロ弱で赤坂宿に到着。吉田、御油、赤坂はいずれも遊女を多く抱える宿場として知られ、参勤交代随行の武士が「御油に赤坂、吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」と詠んだそうである。

宿場の中心付近に旅籠大橋屋(慶安2年創業)の建物が現存する。東海道筋で唯一、今世紀まで営業を続けた旅籠だったが、残念ながら平成27年3月に営業を終えた。しかし、内部は往時の旅籠の造りのまま残り、一般公開に向けた準備が進められているとのこと。大変意義のあることだ。

Ts3r0123

広重の「赤坂」は、この旅籠の内部の様子を、巧みな構図で描いている。湯上りの男、お膳を運ぶ女中、化粧に余念のない遊女などが見え、当時の旅籠の実情が分かる貴重な資料だそうだ。

Akasaka

ところで、これまで広重の絵となるべく近い構図の、現在の風景を撮るべく努力してきたが、大橋屋に立ち入れない現在、これはさすがに如何ともしがたい。しかしながら、この絵に描かれた蘇鉄が、近くの浄泉寺に移植されているので見てきた。推定樹齢約270年。広重の絵に描かれた実物を見るのは、「戸塚」の道標に続いて2件目である。

Ts3r0121

赤坂宿を出てしばらくすると国道1号に合流する。谷間の狭隘な地形で、名鉄名古屋本線と東名高速道路がすぐ横を並行して走っている。次の藤川宿までの中間付近に、間の宿である本宿があり、その入り口に冠木門(かぶきもん)が復元されている。その先で旧道に分岐する。

Ts3r0126

昼時をかなり過ぎていたので、名鉄本宿駅前の食堂でスタミナと塩分を補給する。ちなみに、名鉄本宿駅のプラットホームは高架になっていて、並行して走る東名高速から見上げる形となり、何度か目にして印象に残っていた駅だ。

国道1号と合流、分岐を繰り返しながら進むと、まもなく藤川宿の江戸方口に到着する。宿の端(はな)にあることから「棒鼻」と呼ばれる棒杭が復元されている。

Ts3r0130

広重の「藤川」はこの棒鼻の風景を描く。幕府から朝廷に奉納する馬の行列だそうだ。よく見ると、土下座して控える人々の左端に、小さな犬(?)まで畏まっている。(笑)

Fujikawa

宿場の本陣跡は小さな公園になっていて、裏手には当時の石垣が残る。

Ts3r0134

宿場を出るとすぐ、吉良道追分がある。吉良道は、三河湾吉良の塩や海産物を運んだことから「塩の道」とも呼ばれる。文化11年の道標が建っている。

Ts3r0137

名鉄の踏切を渡った先に、これも立派な松並木が現れた。

Ts3r0142

この先でまた国道1号と合流、分岐を繰り返すが、岡崎インターチェンジの手前に、久々にちゃんとした一里塚が残されていた。江戸から80里である。間もなく、岡崎宿に入る。

Ts3r0146

江戸方口に冠木門が復元されている。

Ts3r0147

ここから、岡崎二十七曲がりとなる。全体はこんな感じで、現状では二十曲がりになっている。曲がり角には、金の草鞋を乗せた案内表示が設置されている。

Ts3r0149

迷わないよう、歩いたり走ったりを繰り返しながら、宿場の京方口に当たる松葉惣門跡に17時過ぎに到着。今回の行程を無事に終えた。

ところで、この記事をもって、当ブログの記事総数がちょうど2,000件となった。だからどうということはないけれど、我ながらよく書いてきたものだと、少しばかりの感慨はある。

4月27、29日 ジョグ10キロ
月間走行距離 235キロ
5月1日     ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/04/28

東海道を走る その15(二川~赤坂)

2日目は、JRで豊橋から二川まで戻ってから再開である。いきなり火打坂というかなり急な登りが出迎えてくれるが、街道らしい風景はまったく残っていない。

国道1号に合流して暫く進むと豊橋の市街地に入る。旧吉田宿である。以前、中日豊橋マラソンで何度か来たことがあるが、こういう目的で再び来ることになるとは思わなかった。宿場の江戸方口に当たる東八町交差点に東惣門が復元されている。

Ts3r0094

ここから、掛川でもあったような、わざと何度も曲がる城下町特有の道筋となる。掛川は「七曲がり」、ここ吉田は特に名前はないようだが実際に9回曲がり、今回の目的地の岡崎は実に「二十七曲がり」である。ただ、街道には「←東海道→」という大きな標識が設置されているので分かりやすい。

宿場を抜けると、やがて豊橋(とよばし)で豊川を渡る。

Ts3r0099

かつては豊川を利用した水運が盛んだったようで、河岸には昔の船着場らしき跡が残っている。

Ts3r0098

広重の「吉田」は、この橋(当時は吉田大橋)と、修理中の吉田城を鳥瞰するように描いている。

Yoshida

この構図に近い風景を求めて、豊橋市役所の13階展望ロビーに登ってみたが、左に見える橋は往時はなかった新しい吉田大橋で、城は高い木に隠れてほとんど見えない(赤丸内)。

Ts3r00861

豊川を渡り、北西に伸びる県道をひたすら走ると、豊川放水路を渡ったところに「子だが橋」の跡がある。かつて、近くの菟足(うたり)神社の大祭の初日、最初にその橋を渡る女性を人身御供とする風習があり、ある時、それが里帰りした我が娘であったけれども、「子だが止むを得ん」と、生贄にしたことからその名がある。今の感覚からすればとても信じ難いが、人々の信仰心が篤かった往時にはあり得た話なのだろう。

Ts3r0102

やがて一旦国道1号に合流したあと、名鉄国府(こう)駅付近で再び旧道に分岐すると、間もなく姫街道との分岐点の追分に至る。大きな道標は明治期のものである。

Ts3r0105

やがて、御油(ごゆ)宿に入る。広重の「御油」は、旅人の首を締めるほど強引に引き止める留め女を描く。次の赤坂宿がすぐ近くなので必死なのだ。右手の旅籠からそれを見下ろす女中の呆れたような表情が面白い。ちなみに、その背後には「摺師平兵衛」など、広重の仕事仲間の名前が記されている。

Goyu

現在の御油の様子。何となく往時の風情を残している。

Ts3r0109

宿場を出ると、国の天然記念物に指定されている見事な松並木がある。樹皮が亀甲状に割れるのが特徴の三河黒松とのことである。

Ts3r0115

約600メートルの松並木を抜けると、そこがもう次の赤坂宿である。

4月27日 ジョグ10キロ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017/04/25

東海道を走る その14(舞坂~二川)

弁天島から新居町まで、電車では僅か3分ほどである。往時は舟でのんびりと渡る間、骨休めしていたようで、広重の「荒井」は、渡し舟の中で手を突き上げて欠伸をする男(左端)を描いている。

Arai

一方、「膝栗毛」では、誰かが舟の中に持ち込んだ蛇が行方不明となって大騒ぎとなる。同乗者によっては、のんびり骨休めとはいかなかったようである。

渡し舟などない現在、広重と同じ構図は無理だが、右奥に見える新居の関所が現存する(安政2年築)。入り口まで行ってみたが、入場料を取るというので、箱根に続いて関所破りを敢行することにした。(笑)

Ts3r0051

往時は、舟から上陸すると関所の敷地内、という仕掛けになっていて、関所破りなど物理的に不可能だったようだ。

Ts3r0052

新居宿を出て、浜名旧街道を行く。鄙びた街道の風景を見ながら走っていたら、この音楽が頭に浮かんできた。これも日本の原風景のひとつに違いない。

Ts3r0057

ところで、この前の舞坂辺りからだろうか、家々の敷地の角に可愛らしい祠があるのに気付いた。大きくても50センチほどだが、何かの信仰と関係があるのだろうか。

Ts3r0055

やがて、街道は右折して潮見坂に差し掛かる。その分岐点に小さな道標が立っていた。「右旧道、左新道」とあり、大正13年に皇太子(後の昭和天皇)のご成婚を記念して、地元の元町青年会が建立したものだ。

Ts3r0058

「元町」というのは、次の白須賀(しらすか)宿が、元はこの海岸近くにあったということで、宝永4年(1707)の大津波で壊滅的被害を受け、現在の潮見坂上に移転したものである。

その潮見坂を駆け上がっていると、白須賀中学の生徒たちが下校してくるところだった。宿場と同様、中学校も高台に移転して、生徒たちは毎日そこまで通うことになったのだ。

Ts3r0061

中学校横の展望台から遠州灘を望む。

Ts3r0066

広重の「白須賀」もこの風景を描いている。海のグラデーションは、見事に逆になっているが。

Shirasuka

白須賀宿を抜け、境川を渡る。文字どおり、ここが遠江と三河(現在は静岡県と愛知県)の境に当たる。そう言えば、箱根峠からここまでずっと静岡県だったのだ。静岡県、広すぎ!

Ts3r0073

国道1号に合流し、キャベツ畑や工場しかない単調な景色が続く。往時も「夜道慎しむべし」と言われた区間である。おまけに強烈な向かい風に悩まされ、かなり辛いものがあった。

やっとのことで二川(ふたがわ)宿に到着。商家の駒屋が復元、公開されている。

Ts3r0074

さらに進むと、本陣と旅籠清明屋が復元されている。旅籠女中の微妙な表情がとてもリアルだ。

Ts3r0076

広重の「二川」は名物かしわ餅を商う茶店を描いているが、副題には先ほどの境川辺りにあった「猿ケ馬場」とあり、描かれた場所ははっきりしない。

Futagawa

JR二川駅近くから眺めた風景がこれに近いという感じもする。遠景と茶屋を適当に合成したものかもしれない。

Ts3r0084

今日の行程はここまで。現在はホテル・旅館が1軒もないので、隣の豊橋まで電車で移動し、駅前のホテルに投宿した。

4月24、25日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/04/22

東海道を走る その13(見付~舞坂)

「東海道を走る」第4回目は、見付から岡崎まで走った。江戸から京までの長い道中も、ようやく半分を過ぎ、また遠江から三河(現在の静岡県から愛知県)に入って、京がだいぶ近づいてきたことを実感する。

快晴に恵まれた4月19日午前8時半、JR磐田駅前をスタート。西北西に進んで県道に合流する手前に、くろん坊様がある。物盗りに殺されたインド人僧侶を祀っているそうだ。

Ts3r0002

少し先に江戸から63里の一里塚跡がある。昭和になって復元されたもののようだ。これ以降、かなり先までの一里塚は既に失われ、案内標識がその位置を示すだけになっている。

Ts3r0004

県道から分かれて暫く西進すると、天竜川の堤防が見えてきた。広重の「見附」はこの辺りの渡し舟の風景を描いている。

Mitsuke

現在は旧国道1号と浜松バイパスの鉄橋が天竜川を越えている。

Ts3r0009

浜松バイパス新天竜川橋を渡り、再び旧道に戻る。この辺りを中野町といい、江戸と京の中間点に当たるのがその名の由来である。『東海道中膝栗毛』にも、「此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」とある。

Ts3r0011

県道をひたすら直進すると、やがてゆるやかな右カーブとなり、浜松駅前アクトシティの巨大なビルが見えてきた。浜松東警察署の先、馬込橋を渡ると浜松宿に入る。広重の「濱松」は街道で焚き火に当たる人々の姿を描く。右遠方に浜松城が見えるが、描かれた場所は不明である。

Hamamatsu

現在ではかなり近づかないと城を望むことは出来ない。一旦街道から外れて浜松市役所付近から城を望んだところ。

Ts3r0016

街道に戻り、連尺交差点から南進すると、東海道線、新幹線の高架を潜るが、その手前に「堀留ポッポ道」という小さな公園があった。明らかに廃線跡と知れる(後で調べると、旧国鉄浜松工場への引込み線跡と判明した)。東海道とは無関係だが、当然現地踏査を行なう。(笑)

Ts3r0021

同工場に保存されていた「ケ91」という可愛らしい軽便タンク機関車が静態保存されている。

Ts3r0020

新幹線高架を潜ってしばらくすると、東若林交差点で右折、西進することになるが、その地点の街道の両側に「二ツ御堂」が対面して建っている。藤原秀衡とその愛妾の悲しい伝説の舞台なのだそうだが、12世紀の話というから、街道の歴史の深さが窺える。

ここから実に10キロ弱、単調な県道をひたすら西進するのみとなり、少し辛い行程となったが、ちょうど昼時になったので途中で昼食休憩を取ることにした。普段は昼食を食べないが、街道走りではスタミナと塩分の補給が欠かせない。街道から少し南に入ったところにある、その名も「昔のうなぎ屋」でうな丼を頂いた。

Ts3r0028

Ts3r0027

よく脂の乗ったうなぎが絶妙な具合に焼き上げられていて、まさに絶品である。お値段は2100円と決して安くないが、その値打ちは十分にある。さすがはうなぎの本場だけあるのだろうとご主人に尋ねてみたら、何と浜名湖産ではなく、愛知県産その他を吟味して問屋が仕入れているとのこと。浜名湖のうなぎは、実はそれほど美味くないのだそうだ。ふーん。

再び街道に戻り、県道をひたすら西進すると、JR舞阪駅付近で見事な松並木が現れた。

Ts3r0030

左側の植え込みの中には、江戸から京までの広重の絵をレリーフにした55個のモニュメントが設置されている。なかなか粋な趣向である。宿場の名前を順々に思い出しながら走ってみたが、今回の目的地、岡崎までは何とか覚えていた。

Ts3r0032

この先、新町交差点で国道1号を横断し、しばらくすると街道の両側に石垣がある。舞坂宿の江戸方口にあった見付石垣の跡である。

Ts3r0034

宿場に入ると、脇本陣茗荷屋の建物(天保9年)が現存し、内部が公開されている。中庭の向こうにも座敷が続いていて、かなり奥行があるようだ。

Ts3r0036

その先で浜名湖の水面が見えて来た。往時はここから次の新居(あらい)宿まで舟で渡っていた。さらに昔は新居まで地続きで、浜名湖は海と繋がっていなかったのが、明応7年(1498)の地震で分断されたことから、「今切(いまきれ)の渡し」と呼ばれていた。その乗り場である「雁木(がんげ)」の跡が残っている。

Ts3r0042

広重の「舞坂」はこの今切の渡しを描いている。舞坂側にあったという波除杭が手前にあるので、舞坂から新居方向を望んだ風景と思われるが、なぜか白い富士山が奥に描かれている。地理的な正確さより、構図の面白さが優先されたのだろう。絵の副題は「今切真景」なのだが。(笑)

Maisaka

現在は新居まで国道1号が通じているので、走れないことはないのだが、往時の旅人が舟で行ったのであればと、自分もJR弁天島から1駅、新居町まで電車でワープすることにした。約3キロの足休めである。

4月19日 LSD42キロ
4月20日 LSD42キロ
4月22日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/27

東海道を走る その12(日坂~見付)

道の駅を早々にお暇して旧道に戻り、一路掛川宿に向かう。国道1号掛川バイパスを越えたところに、寛保2年の銘がある「福天権現本(道)」の道標がある。骨太で特異な字体が面白い。

Ts3r0143

県道に合流してさらに西進すると、JA支所の前に「大頭龍大権現」「福天大権現」の道標がある。先のものと字体等が類似しており、同じ頃に建立されたものらしい。

Ts3r0148

逆川を越えたところに創業約200年の菓子処「もちや」があり、振袖餅というのが名物だというので立ち寄ってみた。午前中で売り切れることが多いそうだが、この日は幸いまだ残っていたので早速賞味した。1個120円。また食べてる。(笑)

Ts3r0149

餅もさることながら、サービスの冷茶が驚くほどおいしい。さすがはお茶どころ掛川である。

掛川宿に入るところに「新町の七曲り」があり、街道をわざと何度も曲がるようにしてある。「真田丸」でもやっていたが、これは外敵を容易に進入させないための仕掛けなのである。

Nanamagari

ここは少し不安だったので事前に Google のストリートビューで確認しておいた。おかげで道に迷うことはなかったが、一方で既視感というのか、もう何度か来たことがあるような感覚を味わい、初めての場所を探訪する新鮮さが少し殺がれた。便利なものも良し悪しである。

逆に、掛川宿を抜けたあと街道が斜め右に曲がる地点で、まだ地図に載っていない新しい道が出来ていて、一瞬迷ってしまった。川筋や寺の位置から判断して事なきを得たが、こういうハプニングが旅の面白さでもある。

この先、秋葉山への参詣道との分岐点となる大池橋を渡る。広重は風の強い日にここを通る人々を描いている。

Kakegawa

右斜め前方に描かれている秋葉山は、現在は全く見えない。

Ts3r0154

橋を渡ってさらに西進し、天竜浜名湖線のガードを潜り、東名高速の高架を潜ると、見事な松並木が現れた。車もほとんど通らず、旧街道の雰囲気をよく残している。

Ts3r0157

この先、一旦国道1号に合流して同心橋を渡ると袋井市に入る。再び旧街道に復すると、また見事な松並木が続いているが、国道の抜け道になっているのか、ここは結構交通量が多い。

Ts3r0159

この先、約1キロの間で、こんな感じの道標が、確認できただけで7基もあった。まるで道標銀座(?)である。

Ts3r0162

この辺りまではいい感じだったが、袋井宿に入ってすぐ、袋井市総合センターという役所の建物が街道の真上に建っていて、迂回を余儀なくされた。

旧道に復帰するところに、「どまん中茶屋」なる施設があった。袋井宿が江戸からも京からも27番目、ちょうど真ん中に位置することから名づけたようだが、もちろん最近になって作られたものだ。茶屋というより、観光案内所のようなものだ。

Ts3r0169

少し覗いて写真を撮っていたら、係りの人がわざわざ出てきて、お茶を飲んでいけと盛んに勧める。当方としては、往時のものかそれを復元したものしか興味がないので、適当にお茶を濁そうとするが、かなりしつこい。平成の留め女か。(苦笑)

何とか振り切って街道を行くと、今度はこんな巨大な看板が掲げてある。

Ts3r0171

旧東海道を観光の起爆剤にという意図は分かるけれども、市役所自身が旧街道を潰しておきながら、作り物めいた施設で観光客を呼ぼうという姿勢は頂けない。前述の島田市を見習ってほしいものだ。

広重は宿場の西外れの様子を描く。

Fukuroi

高札場を復元してあるが、今は住宅が建ち並んで、街道に往時の面影はない。

Ts3r0172

県道をひたすら西進すると、今回の行程で初めて立派な一里塚跡があった。江戸から61里。それでもまだ全行程126里の半分に満たない。快適な木陰が子供の遊び場になっている。

Ts3r01751

太田川を渡った先で、江戸、明治、大正各時代の道路に分岐する箇所があり、ここも道に迷う可能性があったが、ストビューのおかげで難なく通過。分岐点に「従是鎌田山薬師道」と刻む道標があった。

Ts3r0176

間もなく見付宿(現在の磐田)に入る。「見付」とは、京から来た旅人がここで初めて富士山を目にするという意味で、実際、旧街道沿いに富士見町という町名がある。街道筋の今の風景。

Ts3r0177

街道沿いに建つ旧見付学校。明治8年落成で、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎だそうだ。映画のロケとかに使えそうだ。

Ts3r0178

文化2年に脇本陣となった、旅籠屋大三河屋の門の実物が、平成19年に移築復元されている。

Ts3r0179

旧東海道のバイパスである姫街道との分岐点で左折し、JR磐田駅前まで一気に走って、今回の行程を無事に終えた。

10月26、27日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/24

東海道を走る その11(藤枝~日坂)

2日目は六合駅前からスタート。駅付近の数百メートルほど旧道を走ったあとは、島田宿まで国道1号をひたすら西進する。この日も朝から快晴で早くも汗をかいたが、島田宿に入ってすぐ、甘露の井戸水を発見したので有難く頂戴した。少し金気の味がするのが、いかにも井戸水らしい。

Ts3r0096

下本陣跡の一角は遊歩道になっていて、からくり時計塔が設置されている。ちょうど9時になるところで、どんな仕掛けが出てくるのか期待していたが、なんと10時から始まるのだった。残念。

Ts3r0098

島田は小さな町ですぐに市街地を抜け、新東海製紙の工場を回りこむように走ると、まもなく「越すに越されぬ」大井川である。川会所、札場、番宿などからなる川越場が、タイムスリップしたように往時のまま残っている。一部は復元したものかもしれないが、なるべく当時のままに景観を維持しようという姿勢は好ましい。

Ts3r0099

とある番宿に入ると、屈強そうな川越し人足が仁王立ちになって、「何か用けぃ?」とばかりにこちらを睨んでいた。奥に見えるハシゴのようなものは連台といって、その上に旅人を乗せ、人足たちがそれを担いで川を渡るのである。

Ts3r0101

川越しの手続きをする川会所(かわかいしょ)は現存し、今も近所のおばあさんたちの会所になっているようだ。(笑)

Ts3r0105_2

また、浄瑠璃「生写朝顔話」で有名な「朝顔の松」がこの辺りにあって、昭和10年代に枯死してしまったが、二代目の松が植えられている。

Ts3r0108

広重は川越えの様子を鳥瞰図のように高い視点から描いている。手前に見えるのは「朝顔の松」か?

Shimada

堤防から見るとせいぜいこのぐらいで、広重の着想は見事というしかない。

Ts3r0111

現在は大井川橋を渡っても島田市のままだが、旧国名では大井川を境に駿河から遠江に変わる。

広重の「金谷」は宿場に入る前、川越しを終えたばかりの様子を描いている。大井川はそれほどの難所だったということだろう。人足の背中から降りたばかりの旅人とか、本当に細かいところまでよく描いている。

Kanaya

今は当然ながら川原は無人である。

Ts3r0116

旧街道に復帰してすぐ、SLで有名な大井川鐵道の新金谷駅横を通過。 間もなく金谷宿に入り、緩やかな登り坂が続く。

Ts3r0117

金谷駅手前の一里塚跡で東海道線のガードを潜り、間もなく金谷坂に取り掛かる。最近になって地元の努力で復元された石畳道が続く。

Ts3r0121

これを登り切ると、今度は菊川坂の下りとなる。周囲は一面に茶畑が広がり、秋の陽光を浴びている。

Ts3r0123_2

坂を下りたところは菊川という小さな集落で、その先の難所、小夜の中山を控えた間の宿となっていた。近くの川から出た菊花紋のこの菊石が、その名の由来だという。

Ts3r0126

菊川を出るとすぐ、青木坂という滅茶苦茶急な坂道となり、思わず歩きが入る。これを登り切った辺りが小夜の中山で、古くから歌に詠まれた名所である。あちこちに歌碑があったが、嗜みがない自分には値打ちが分からない。

また、この付近には夜泣石伝説というのがあって、山賊に殺された妊婦の霊が石に宿り、夜になると石が泣いたという。一方、助かった子は近くの寺の住職に水飴で育てられ、長じて親の仇を討ったそうである。

その寺の近くに宝永年間創業の扇屋があり、週末のみ営業している。子育飴というのを売っていたので味見してみた。1本100円。写真がピンボケになってしまったが、その昔、紙芝居のおじさんが売っていたような水飴で懐かしい味がした。

Ts3r0127

Ts3r0128_2

広重の「日坂(にっさか)」は小夜の中山を描いている。当時は夜泣石が街道の真ん中に鎮座していたのだ。

Nissaka

明治天皇の東幸に当たってこの石は移動されたが、それだと伝えられる石が付近の2箇所にあり、いずれが本物か判別できないのだという。

Ts3r0135

この先、転げ落ちそうに急な沓掛坂を下り、国道1号バイパスを越えると日坂宿に入る。往時の佇まいが比較的よく残っている。

Ts3r0138

旅籠の川坂屋が資料館として公開されている。中年男女のツアー客が中に入り切れないほど大勢いて、ガイドの説明を熱心に聞いていた。

Ts3r0140

この先で一旦国道1号バイパスまで出て、現代の茶屋道の駅で塩分補給兼昼食とする。信じられないくらい大勢の客でごった返していて、人気の少ない旧街道を走ってきた人間には、とても落ち着ける場所ではない。

10月24日 ジョグ10キロ

| | コメント (0) | トラックバック (0)