2020/05/27

御所街道を歩く

少し前に奈良県内の道標や街道の情報が詳細に記されたサイトを発見した。最近の「身近にある道標」もそのおかげであるが、今回橿原から御所に至る「御所街道」の存在が新たに分かったので、早速探索してみることにした。

行程の都合で御所側からスタート。御所駅付近は前回下街道を歩いたときのルートより一本東側のこちらが本来の街道のようだ。確かに街道特有のクランクや高札場跡が残っている。

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近くにある文久3年の指差道標は「むろ大師道是ヨリ十八丁」とあり、御所市室にある寳國寺(室大師)への道順を示す。

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御所旧市街地(御所まち)には往時そのままの狭い道路と古い建物が残る。空き地のおかげでよく分かるが、写真奥から手前にクランク状に進むのが御所街道である。

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御所市街を出て東進、京奈和自動車道御所インターチェンジを越えて一旦橿原市に入るとすぐの観音寺集落内に、文化11年の地蔵像と明治7年の道標が建っていた。

お地蔵さんの前掛けの下辺りの右に「右 金剛山」、左に「左り よしの つ本さ可(つぼさか)」と刻まれている。側面には「左北 ならはせ道」とあるが、いずれの文字も風化が激しい。

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道標の方は比較的新しいので文字は明瞭である。「左 はせいせ/今井なら」「右 御せ金剛山/左 よしの山上」などと刻む。

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南面には「右 神武天皇道」とあるが、神武天皇陵なら「右」ではなく「すぐ」(直進)とあるはずだ。神武東征伝承で吉野から宇陀に入ったという話が出てくるので、もしかするとそれを踏まえたものかもしれない。

京奈和道の高架を潜ってしばらく北進すると大和高田市に入る。「根成柿」(ねなりがき)という珍しい地名の集落を抜け、普段車でよく通る道路に突き当たる。東にしばらく進んだ大きな交差点に側道のような細い道が合流していて、以前から不思議に思っていたが、これが御所街道であることが今回初めて判明した。

そこから橿原市となり、東坊城の集落に入った三叉路に天保4年の道標が建っていた。ここも車で何度も通った道だが、狭い道の交互通行に気を取られて道標の存在自体気づいていなかった。

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「北 京い勢は川(つ)瀬寺/立田法里うじ奈ら道」「西 金かう山御所/すぐ 大峯山与し野道」「南 高野山五条上市/北 初瀬寺ミ王(わ)今井道」「于時天保四癸巳年八月建之」などと刻む。なお、年号の前の「于時」は「ときに」と読む。年号「令和」の出典である万葉集にも「于時初春月気淑風」とあるそうだ。

石の写真ばかりで相済まないが(笑)、東坊城町の外れにも1基、嘉永5年の道標が建つが、下部は埋没している。「右 金かう山高野ミ(「ち」が埋没?)」「左 初瀬奈良(「道」が埋没?」などと刻む。

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ここを右折して葛城川に沿って進み、大和高田バイパスの高架を潜ると雲梯の集落に入る。これまた難読地名で「うなて」と読む。葛城川を渡って東進、五井交差点で国道を横断すると今井町に入っていく。コロナの影響か古い街並みは一層静まり返っていて、アテにしていた蕎麦屋が営業していたのが奇跡に思えた。

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5月25日 ジョグ4キロ

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2020/04/27

中街道(高野街道)を歩く

前回下街道を歩いたとき、JR北宇智駅付近で中街道との分岐点を通過した。今回はそこから橿原市見瀬町までの約16キロを歩いた。この街道は別名「高野街道」とも呼ばれていたようで、さらに遡れば古代官道の「紀路」(きじ)または「巨勢路」(こせじ)に相当するらしい。

街道歩きに先立ち、北宇智駅に2007年まであった関西唯一のスイッチバックの痕跡を確認した。詳細はこちら。現ホーム南端から五条方の西側に、旧1番2番ホームと線路の痕跡が窺える。

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踏切から吉野口方を見ると、9.0パーミルの勾配標の先に引上線の線路が今も残っている。

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駅近くにある今回の行程で唯一のコンビニに立ち寄ってからスタート。間もなく県道120号に合流し、五條工業団地テクノパークと木材団地の間を登っていくと、坂の頂上からお隣の御所市に入る。

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まもなく左手からJR和歌山線の線路が接近してきて、この先は何度も踏切を渡りながら線路と並行して進む。難読地名「重阪」(へいさか)集落内の風景。

 

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やがて大淀町のエリアに入り、薬水(くすりみず)の集落内を通過する。薬水という地名は、付近にある弘法大師ゆかりの「薬水の井戸」に由来する。行く先々で井戸掘りをした御仁だったようだ。

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右手から今度は近鉄吉野線が近づいてきて、小高い場所にある薬水駅の下を通過する。城の石垣のように見えるのは、旧吉野鉄道の変電所があった場所だそうである。

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御所市に入り、JRと近鉄の間を進んでいくと、またまた難読地名に出くわす。古くは「ぶぜん」だったといい、九州の豊前に由来すると推定されている。この先にも「薩摩」「吉備」「土佐」といった旧国名地名が残り、藤原京造営に徴用された彼の地の人々が定着したものと考えられている。

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奉膳は古くから交通の要衝であり、集落内の交差点には「右かうや」「左大峯」「右大坂」などと刻む道標が立っている。左が吉野、大峯山方面、右奥が五條、高野山方面である。

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国道309号の高架を潜った先、JRと近鉄が共用している吉野口駅の付近は「古瀬」という地名であるが、「古瀬」「巨勢」「御所」はいずれも元々「川瀬」という同じ地名の別表記と考えられるそうである。

近鉄の次の葛(くず)駅近くには息子が通っていた幼稚園があり、行ってみると今も当時と変わらぬ様子であった。その隣の中華料理店で昼食を予定していたが、新型コロナの影響で臨時休業中だったため、街道沿いの食料品店で巻き寿司などを買って昼食休憩する。

その先で高取町に入り、近鉄吉野線と並行して進んでいくと、龍神伝説のある楠の巨木が天満神社参道脇に聳え、正面の小高い丘の上には宮塚古墳があるらしいが、神社仏閣と同様、古墳にもさして興味はないのでパス。

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高取町役場の西、吉備集落外れの曲がり角にある可愛らしい道標は田んぼの畔の中に埋没している。「右 はせいセミち」とあるようだが、「は」の字は削れて消えかけている。

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小高い丘を越えていくと、やがてうちの前を流れる高取川に突き当たる。もう地元みたいなものでひと安心だ。その手前には壷阪寺に通じる土佐街道との分岐点がある。左が壷阪寺方面、右が五條方面である。

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明日香村に入る。何度も通っている蕎麦屋の前の川沿いの道は実は旧街道だったのだ。飛鳥駅近くにある2基の道標は以前にチェック済である。

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橿原市に入って岡寺駅前を通過、見瀬町の三叉路で今回の行程は無事終了である。そこから北の八木、奈良方面の中街道は、既に2014年に踏査済みである。今回も一緒に歩いた家内が、裏道を含めた近辺の地理に関して自分よりずっと明るいことを再認識した。

4月26日 ジョグ6キロ

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2020/04/06

下街道を歩く その3(御所~五條)

3日目は御所から五條までの約14キロプラスαである。近鉄御所駅前をスタートしてまもなくJR和歌山線の踏切を越えると、線路に沿った桜並木がほぼ満開となっていた。

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このあとは基本的に国道24号に沿って進み、所々で残っている旧道に分岐、合流を繰り返すという行程になる。途中こんな難読地名も。知らなければ絶対に読めない。

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小殿(おどの)から五條市との境界辺りまではずっと旧道を進む。少し高い所を通る国道は何度も通ったことがあるが、そのすぐ横に鄙びた旧道があることは今回初めて知った。小殿集落の真ん中辺りにある洋館。おそらく元旅籠だった隣の建物と並んだ取り合わせが何とも言えない。

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ここからは風の森峠に向かう緩やかな登りとなる。

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風の森峠。右は国道24号、左が旧道である。まるでジブリのアニメ映画に出てきそうな名前だけど、古くからある由緒ある地名だそうで、付近には風の神である志那都比古神を祀った風の森神社がある。写真がピンボケなのは強風のせいではなく、降り続く小雨で携帯カメラのレンズが曇っていたためである。

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この先から再び国道と合流、分岐を繰り返す。京奈和自動車道の高架を潜るところに道標が2基、時代に取り残されたように佇んでいる。左側は天保9年の建立で「右御所八幡/左五条かうや道」、右側の愛らしい指差道標には「志こく道」とあるようだ。

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峠を迂回してきたJR和歌山線を再び越えてさらに下っていくと、JR北宇智駅近くに中街道(下ツ道)との追分がある。左奥の御所方面から来た下街道は手前五條方面へ伸び、中街道はここから右奥に進んで八木を経由して奈良に至る。近いうちにこの中街道も歩いてみるつもりである。

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さらに進んで、三在(さんざい)交差点の近くで今度は伊勢街道と分岐する。先と同じ構図で右が伊勢街道である。

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この先で一旦国道と合流するが、かつて吉野川ハーフマラソンの会場となっていた五條東中学前の今井交差点から再び旧道に入り、JR五条駅前を通過して本陣交差点に至る。下街道はここまでで、この先は紀州街道(大和街道)となる。

交差点には安政2年の道標が建ち、「右いせ/はせなら/大峯山上/よしの道 左かうや/わか山/四國/くまの道」と刻むが、後になって灯火用に穴を貫通させたようで、欠落した元の「左」に代えてその下にごく小さな「左」の文字を付け加えている。

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ブロック塀側は読みにくいが、携帯カメラを差し入れてみると「□□□平 国土安穏/□□□明 五穀成就」と読める。□の部分は穴のため欠落しているが、前者は「天下泰平」だろうか。

下街道歩きとしてはここで終了だが、折角の機会なのでもう少し足を延ばし、新町の古い街並みと五新線跡を見て来た。新町口交差点から一歩足を踏み入れると、突然江戸時代の紀州街道にタイムスリップする。

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旧家を改造した「まちなみ伝承館」という施設があって、入場無料というので入ってみた(笑)。いろいろと説明してもらったが、先ほどの道標はここで聞かなければ危うく見逃すところだった。

JR二見駅に向かってさらに進むと、五新線の高架線路跡が街道上を通っている。五新鉄道は正確には廃線ではなく、一度も鉄道として使われなかった未成線である。吉野川を渡った先の路盤跡は7年前に散策したことがあるが、五条駅側の遺構をじっくり見たのは初めてだ。

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なお、申し遅れたが今回の下街道は全行程を家内と一緒に歩いた。病気をしていなければ当然走り旅となり、こういうこともなかったわけで、一種のケガの功名と言えるかもしれない。偶然ながら家内が勤めていた職場の近くを通る、土地勘のある行程だったとはいえ、マニアックな街道歩きに3日間も付き合わせてちょっと申し訳なかった。

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2020/04/03

下街道を歩く その2(箸尾~御所)

2日目は箸尾から御所までの約13キロ。葛城川を渡ってしばらく西進した街道が、箸尾の集落内で左折し再び南進する地点。その角に建つ古い建物は、2階の外観からして多分昔は旅籠だったと思われる。

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ひたすら南進して広陵町役場前を通過すると、南郷の環濠集落に入る。中世に防御を目的とした濠を周囲に巡らせて作られた集落である。濠は近世以降は農業用水にも利用されているが、生活排水の滞留による環境悪化が問題となっていた。最近では公共下水道が整備されて水質が改善し、一部は公園として開放されお花見などが出来るようになっている。

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まもなく大和高田市に入り中和幹線を横断すると、昨年6月に手術入院したD病院の横を通過する。病院から国道に出る交差点にもう1本斜めの道があって、入院した頃からこれは旧街道に違いないと睨んでいた。とにかくまだ生きていて、街道歩きが出来る状態にあることの幸せを感じながら歩いた。

大和高田の市街地に入り、JR高田駅近くの踏切を渡ると商店街のアーケードに入る。県道を横切り、アーケードが途切れたところで左折すると本町通りである。これが本来のメインストリートであって、並行して不自然に蛇行する県道はのちの時代に、おそらくは用地買収に苦労しながら作られた新道なのである。

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まもなく竹内街道との交差点に差し掛かる。竹内街道を走ったときにはこれが下街道だとは知らなかった。右手前から左奥方向が下街道、左右に交差する道が竹内街道である。

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国道166号に合流して近鉄高田市駅前を通過すると一旦国道から西に逸れ、再び国道に合流する地点からは大和高田市と葛城市の境界線上を行くことになる。大和高田バイパスとの交差点付近は、普段から車で食事や買い物に来ることが多く、そこを歩いて通過するのは不思議な気分である。その先で国道から分岐して旧道に入ると葛城市のエリアとなり、旧街道の風情がよく残されている。

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忍海辻堂。石梯子付の常夜燈の礎石には「邨内安寧」の文字が刻まれている。なお、忍海は「おしみ」と読む。その南は薑(はじかみ)、そして御所市(ごせし)と、難読地名が続く。

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御所駅付近にはお地蔵さんが8体、ひとつは双子だったので9体というべきか、並んで祀られていた。京都伏見に六地蔵というのがあったが、これはちょっと字余り?

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その3に続く。

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2020/03/31

下街道を歩く その1(大和郡山~箸尾)

ようやく暖かくなってきたので街道歩きを再開。新型コロナが猛威を振るっているけれど、ほとんど人気のない旧街道を黙々と歩く分には特に問題はないだろう。今回は大和郡山から大和高田を経て五條に至る下街道、約38キロを3日間に分けて歩いた。

1日目は大和郡山から箸尾(はしお)までの約11キロである。午前10時前に近鉄郡山駅前をスタート。JR郡山駅に至る東西の道は何度も通ったことがあるが、その途中で右折して柳町商店街をしばらく南下すると、竜田越え奈良街道との分岐点に至る。写真右側から来た奈良街道はここで手前側に左折、下街道はここを起点に左奥に南進する。地図では正面に旅館花内屋があるはずだったが、最近取り壊された模様で空き地になっていた。

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街道沿いには郡山名産の金魚を飼育する池を多数見かけたが、今はオフシーズンのようで水を張っていなかったり、何か保守作業のような工事をしている所もあった。ひたすら直進すると筒井の集落に入り、筒井順慶の居城だった筒井城跡近くを通過する。筒井順慶顕彰会による案内板があり、それによれば下街道は別名「吉野街道」とも呼ばれていたようだ。

国道25号を横断する交差点に道路元標があり、ここが旧筒井村の中心だったことが分かる。国道は何度も車で通っているけれど、それを横断する旧道を歩いていると、江戸時代にタイムスリップしたような感覚に包まれる。電車からも見える駅近くの大きな池を回り込んで高架線路を潜り、パナソニックの工場の横を通ってまたひたすら南進する。

西名阪の高架を潜ると街道は南西に向きを変えて蛇行を始め、いかにも旧道という雰囲気が濃くなる。やがて大和川の堤防に出て大和中央道を横断する。

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安堵町に入って間もなく、17世紀に創建された国指定重要文化財の中家住宅がある。二重の濠に囲まれた広大な屋敷で、もとは筒井一族の武家屋敷だったそうだ。今も中氏の末裔が住まわれ、事前に予約すれば内部を見せてもらうことも出来るが、有料なので外から眺めるだけで済ませる。

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大和川、寺川を渡って川西町に入ったところに、2基の常夜燈と安政2年建立の道標が並んで建ち、その側を通る細い道が旧街道のようである。道標の正面には「右郡山奈ら京 左法里うじ立田大坂道」、側面には「左たか多吉野道」と刻む。「立田」は竜田、「たか多」は高田である。位置関係から考えて、元は法隆寺から奈良に通じる東西方向の道に、正面を南に向けて建っていたと思われる。

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この先のコンビニで昼食休憩を取る。付近には飲食店も少なく、多くの来店客でごった返していた。現代の茶屋は街道を行く旅人以外にも重宝されているのだ。ここから一旦県道36号を通るが、すぐに外れて唐院の旧集落の中を進む。

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飛鳥川を渡ってしばらく南進すると三宅町に入る。曽我川の堤防下に「すぐ郡山奈良道」と刻む道標があるが、建立年代は不明である。何の目的なのか、上部に細い穴が貫通している。

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曽我川を渡ると今度は広陵町と、めまぐるしく行政区域が入れ替わる。平成の大合併をものともせず独立を貫いたのはそれだけ財政力がある、つまりは高額納税者が多いということなのだろう。

葛城川に沿って南進、近鉄田原本線の踏切を越え、枯木橋で葛城川を西に渡ると箸尾の旧集落に入る。この日の行程はここで終了である。集落外れの近鉄箸尾駅から帰途に就いたが、単線のワンマンカーが昼間は1時間に2本しか来ない無人駅である。奈良盆地のど真ん中にありながら、地方ローカル線のような風情が味わえた。

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その2に続く。

月間走行 27キロ(笑)

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2019/10/17

奈良街道を歩く その5(小野~墨染)

地下鉄小野駅の東、京街道との分岐点から街道歩きを再開。右奥が東海道髭茶屋追分方面、左が伏見・大坂方面、手前が六地蔵方面への奈良街道、通称醍醐道である。

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府道36号新奈良街道を横断して進むと、醍醐寺の広大な敷地が左手に広がっている。こういう風景を見るといつも思うのだが、宗教法人は非課税の固定資産税がまともに課税されたら、一体いくらになるのだろうか。

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この先で府道36号と合流、市街地の中を真っ直ぐ伸びる道をひたすら歩く。小野から休憩込みで約1時間、ようやく六地蔵まで戻ってきた。電車だとものの数分で着くのだけれど。

「札ノ辻」を今度は東から西へ直進し、六地蔵小橋(歩行者専用)で山科川を渡った西詰に比較的新しい道標が建ち、「☞だいご一言寺是より十七丁」「左おくりす(小栗栖)道 岡本尺角建之」と刻む。岡本某とは、俳句も嗜んだ石材商の名前のようである。

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この先の住宅街の狭い路地の奥に、クリーム色をした3階建ての建物が見える。窓枠やベランダには黒く焦げた跡が残っている。今年7月に痛ましい放火殺人事件の現場となった、京都アニメーション第1スタジオである。発生から3か月近く経過したが、未だ犯人の取調べには至っておらず、事件の全容解明はこれからという状態である。建物の前で犠牲者の冥福を祈って黙祷を捧げた。

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まもなく六地蔵交差点で府道7号に突き当たる。交差点北西に建立年不詳の道標が建ち、「みき京みち 法名末徹」「ひだりふしみみち」などと刻む。

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街道はここで右折して通称墨染道となり、八科峠の急な登りが始まる。行程終盤の脚には堪えたが、振り返ると六地蔵付近の市街地と、背後に連なる山々が望めた。

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やっとの思いで頂上に到達。「八科峠」の標石が建ち、「右京みち」「左六ぢぞう」「松井市右衛門建之」と刻む。傍らには東海道の日ノ岡峠で見かけたような車石が置かれている。ここの峠とは特に関係ないように思うのだが。

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ここから伏見までひたすら下りとなり、JR藤森駅付近を通過して、京阪墨染駅前で伏見街道と合流する。折角なので駅前の椿堂茶舗でまた煎茶を買ってから帰路に就いた。今回の街道歩きで本場宇治の煎茶を都合400gも買ったので、この先当分の間は買わなくて済みそうだ。(笑)

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2019/10/14

奈良街道を歩く その4(大久保~六地蔵)

その3までで一旦終えた奈良街道だが、やはり宇治、六地蔵を回る古い街道の方も行ってみたくなり、快晴に恵まれた9日に歩いてきた。ついでに、東海道から分岐して大坂に向かう京街道の途中、小野付近から分岐して六地蔵に向かう奈良街道も歩いてみた。

ちょっとややこしいが、アルファベットの に例えると、下端が近鉄大久保駅付近の宇治屋の辻で、そこからスタートして宇治を経由、真ん中の交点が六地蔵、一旦地下鉄で右上の小野駅まで移動、そこから六地蔵まで歩いて戻り、今度は左上、京阪墨染駅付近の伏見街道との分岐点まで歩くという行程である。

午前9時過ぎ、宇治屋の辻をスタート。前回は右奥へ太閤堤を通るルートを行ったが、今回は右手前の「うぢミち」、なだらかな登りとなる古い街道を行く。

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宇治まで約1時間。メインの宇治橋通りは観光客相手の商店が連なり、一部に旧街道の風情も残る。折角なので老舗上林春松本店で煎茶を買い求めた。

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この先、宇治橋の西詰には紫式部像が佇み、ここが源氏物語宇治十帖の地であることを示す。

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橋の東詰めには文政年間の道標が建ち、「すぐ京大津」「右ゑしん院(恵心院)こうしやう寺(興聖寺)」「左みむろ わうばく(黄檗)」などと刻む。

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平安時代から続く茶屋「通圓」で抹茶ソフトを買い求め、ちょっとお行儀が悪いが食べながら街道歩きを再開。街道ランでは出来ない楽しみもあるのだ。(笑)

京阪宇治駅の東で旧道に分岐するところに東屋観音が安置され、その近くに「右ミむろみち」「左京大津道」と刻む可愛らしい道標があった。

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この先はJR奈良線、京阪宇治線と並行しながらなだらかに蛇行する街道を進むが、往時を忍ばせるような建物等はほとんどない。左手には京都大学宇治キャンパスの広大な敷地が広がっている。

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その先の辻を右に入り、JR黄檗駅に向かう途中、許波多(こはた)神社の昔の一ノ鳥居の礎石が立っている。もとはここから東の山手へ伸びる参道を行った先に神社があったが、神社は明治初期にここから北西方向に移築されたそうだ。

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京阪宇治線の踏切を渡った先に、地蔵と並んで仏の透かし彫りのある古い道標が建つ。残念ながら文字はほとんど解読不能で、ネットで調べても情報がなかった。ここから先、街道沿いにはやたらと地蔵さんが目についた。

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JR木幡駅付近を過ぎたところで、街道を越える高架橋跡があった。右手方向からゆるやかにカーブしており、明らかに鉄道廃線跡と知れる。木幡駅から分岐していた旧陸軍宇治火薬製造所への引込線跡で、駅付近は遊歩道になっているが、この辺りは野草の生い茂るまま放置されているようだ。

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六地蔵の手前、街道右手に天保年間と思われる道標が建ち、「左長阪地蔵尊みち」などと刻む。

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まもなく六地蔵札ノ辻に突き当たる。手前が宇治、左が伏見・京、右は醍醐・小野方面である。

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南西角には天保3年の道標が建ち、「左長阪地蔵うち(宇治)みち」「すぐ伏見舟乗場みち」などと刻む。

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すぐ近くの地下鉄東西線の終点六地蔵駅から小野駅まで電車で移動する。

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2019/09/23

奈良街道を歩く その3(小倉~三条)

18日は近鉄小倉駅前から京阪三条駅前まで14キロ強を歩いた。今回はほとんど都市部のため、至るところにコンビニ、商店、鉄道駅があり、全く不自由することはなかった。

スタートして間もなく、街道に面してお茶の小山園のディスプレーがあり、本社はこの奥というので思わず誘われて行ってみた。本社併設の売店で煎茶を購入したが、試飲させてもらったお茶がいまいちだったので、あまり期待しない方がいいかも。

古い街並みを行くと、右手に巨椋(おぐら)神社がいかにも由緒ありげな佇まいを見せている。

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この先、街道は大きく左に曲がり、府道69号を越えたところから登りとなる。登り切ると両側より数メートル高くなった道筋が続き、太閤堤(小倉堤)の南端部分に当たっているようだ。堤防道はこの先で削平されて一旦途切れるが、近鉄向島駅手前にも当時の堤防跡を残す場所がある。写真中央が堤防上の街道で、脇には樹齢250年以上というムクノキの大木が聳える。

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向島駅を越えて宇治川に近づくと、風情のある街道筋が残っている。写真では表現できないが、ここでも街道は周囲より数メートル高くなっている。中二階の民家は梯子型のむしこ窓が特徴らしい。

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観月橋を渡ると、伏見宿エリアに入る。

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京阪伏見桃山駅手前の団地内に伏見奉行所跡がある。江戸時代、幕府直轄領だった伏見の奉行職は、遠国奉行としては上席に位置し、旗本よりも大名が任じられることが多かったという。また、この地は慶応4年の鳥羽伏見の戦いの舞台ともなった。

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この先は伏見街道京町通となって、ほぼ平坦な道路が延々と続く。近鉄京都線を越え国道24号を横断する辺りから、以前走った京街道のルートと重複する。右折して京阪墨染駅東側で左折、その先から直違橋(すじかいばし)通となって、これまた真っ直ぐな道が延々と続く。

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京から数えて4番目の橋「四ノ橋」を渡る。親柱に「伏水街道第四橋」とあるが、伏見は古くは「伏水」とも表記されていた。良質な地下水に恵まれ、酒造りに適した土地であることが地名からも分かる。

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名神高速の高架を潜ると、右手に京都聖母学院のレンガ造りの校舎が見える。元陸軍第16師団司令本部だった建物で、疎水を挟んでひとつ西側の大通りは師団街道と呼ばれている。

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JR奈良線の踏切を渡ると稲荷駅で、旧東海道本線時代の最後の遺構である明治13年築のランプ小屋が残る。伏見稲荷は外国人旅行客の人気スポットで、周辺は外国人で溢れ返っていた。

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駅から離れるにつれ、街道は静けさを取り戻し、伏見人形の名店「丹嘉」を訪れる人も今は少ないようだが、そのうち外国人が押し寄せるときが来るかもしれない。

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この辺りから街道は本町通となり、五条通まで続いている。資料によっては伏見街道起点の五条通をもって奈良街道の起点としているが、折角の機会なのでさらに大和大路通を北上して三条まで歩き、旧東海道の終点と接続させて3日間の行程を終えた。

街道「歩き」は今回初めての経験だった。「かったるい」と感じることもあったが、走っていては気づかない遺物や風景もあり、これはこれで面白いことが分かった。また機会があれば出かけてみたい。

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2019/09/20

奈良街道を歩く その2(棚倉~小倉)

16日はJR棚倉駅前から近鉄小倉駅前までの約15キロを歩いた。途中、かつての玉水宿、長池宿を通過するが、長池までは長閑な田園地帯を行く単調な道が続き、名所旧跡などほとんどない区間である。図書館で借りたガイドブックでは、玉水-長池間はJRで移動というコース設定がなされている。

棚倉駅前をスタート。いかにも旧街道という、うねるように蛇行する道を進む。

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間もなく不動川を渡るが、橋で越えるのではなく、トンネルで潜る。この辺りに多い天井川のひとつで、トンネルの高さは1.6メートルと表示されている。身長167センチの自分でも頭を打つと思ったが、何とか屈まずに歩き通すことが出来た。実際は1.7メートル近くあるのを、余裕をみて切捨てて表示してあるのだろう。

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JR玉水駅付近では、線路が川の下を通っている。

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かつて玉水宿の中心部だったと思われる辻に、天保年間創業という料亭「八百忠」が現在も営業中である(左側の板塀の建物)。また、右手の電柱の左には、付近の史蹟名勝などを案内した道標が建つ。これも三宅安兵衛氏の遺志で建立されたものである。

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この先、長池までの間も歩き通したが、わずかにコンビニが1軒あるだけで、民家と田畑、学校以外本当に何もなかった。ようやく辿り着いた長池宿の中心部にある元旅籠の和菓子店「松屋」でひと休み。店内には旅籠当時の宿帳や引き札(今日の宣伝チラシ)などが展示してあった。

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集落の西端には「是北京都街道 南奈良街道」などと刻む道標が建つ。これまた三宅安兵衛氏である。なお、「京都五里 奈良四里半」とあるように、長池宿は奈良と京都のほぼ中間点に位置しており、「五里五里の里」と呼ばれていた。

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ここで一旦国道24号に合流し、城陽新池の先でまた旧道に分岐する。久津川付近、街道のすぐ東側に車塚古墳、丸塚古墳が往時の姿をとどめている。

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近鉄大久保駅を過ぎた広野町辺りに「宇治屋の辻」があり、これは宇治、六地蔵を経由する古い奈良街道との分岐点に当たる。「右うぢミち 左なら道」などと刻む道標は、平成9年交通災害で破損したものを、翌年に近隣町内会が再建したとの説明がある。

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近鉄小倉駅前で2日目の行程を終了。折角宇治まで来たので、駅前の吉田銘茶園で少し値の張る煎茶を土産に買い、帰路に就いた。

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2019/09/17

奈良街道を歩く その1(奈良~棚倉)

記事カテゴリーは便宜上「街道走り」としたが、今は「歩く」しかない。体力的にはまだ十分走れるけれども、長時間ストーマに衝撃を与え続けるのが不安だからだ。

今回は奈良から京都に至る奈良街道(大和街道)約40キロを3日間に分けて歩く。往時は途中に木津、玉水、長池、伏見の4宿が置かれていた。ルートは複数ある。かつて京都盆地南部にあった巨椋池が交通の大きな支障となり、古くは六地蔵、宇治方面に迂回していたが(現在のJR奈良線ルート)、秀吉時代に巨椋池を渡る太閤堤が築かれて最短ルートが整備された(現在の近鉄京都線ルート)。今回行くのは後者である。

また、木津川に沿った区間は江戸時代中後期には木津川右岸の土手を行くことが多かったようで、いつも参照している明治末期の地形図でも土手道を奈良街道としている。しかし、あまりに単調で面白味に欠ける上、トイレやコンビニ等もないことから、今回は古くからの集落を抜ける山背(やましろ)古道を通ることにした。

まだ残暑の残る14日午前、近鉄奈良駅前を出発。東向商店街を抜け、三条通に突き当たると以前走った伊勢本街道に一旦合流する。猿沢池から興福寺境内を抜けて大宮通に出て県庁前を東に進むと、今年4月に約45億円をかけて整備されたバスターミナルがある。観光バスによる渋滞の緩和が目的であるが、使い勝手が悪くて利用は想定の半分以下にとどまっているという。この日も3連休初日というのに、広い構内は人気もなく閑散としていた。

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ここを左折して一路北上し、転害門前を経て今在家交差点で旧道に分岐する。佐保川に架かるこの橋の土台は慶安3年(1650)のものだそうだ。

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ここから奈良坂の登りとなり、途中で振り返ると東大寺など奈良市内の風景が望める。

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坂を登り切り、般若寺の先の植村牧場で名物ソフトクリームを食べながら牛たちを眺めて一息入れる。ラン仲間と何度か来たことがあるが、牛舎の屋根の上に牛がいることに、これまで気づいていなかった。フランスの作曲家ダリウス・ミヨーも多分これを見たのだろう。(謎爆)

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この先、奈良豆比古(つひこ)神社の先の辻に弘化4年の道標が建ち、「すぐ京うぢ道 右いがいせ道」などと刻む。

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やがて県道に合流したのち京都府木津川市に入り、州見台(くにみだい)住宅地の中を進む。JR奈良線と国道24号を越えて木津宿エリアに入ると、街道らしい風情が残っている。

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木津川に突き当たる手前のとある寺の境内に和泉式部の墓がある。彼女は木津の生まれで、余生もここで過ごしたという伝承があるものの、それを裏付ける資料はなく、和泉式部の墓と称するものは全国各地にあるそうだ。

 

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かつてはこの付近に木津川を渡る泉橋が架かっていたが、現在は少し上流側にある国道24号の泉大橋を渡る。

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対岸の旧泉橋の袂と思しき付近に「西京都街道 東笠置山伊賀上野街道」などと刻む道標が残っている。裏面に「□□年春稟京都三宅安兵衛遺志建之」とあり、幕末から明治期の商人三宅安兵衛の遺志を稟けて、その子息が京都各地に建立した多数の道標のひとつと知れる。

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この先は茶問屋が並ぶ地区であるが、土曜で休みなのか茶の香りが漂うという風情はなく、通りも閑散としていた。国道24号を渡ったJR上狛(かみこま)駅付近に環濠集落が残る。濠を渡る橋が危なげな駐車スペースになっている。

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この先は集落の中を縫うように狭い道が蛇行しながら進み、いかにも古道の風情が感じられる。

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この日はJR棚倉駅前までの約12キロで終了。奈良まで電車で戻ると僅か18分だった。

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