昨年走った高砂線と同じく、加古川線の支線であった鍛冶屋線(野村(現西脇市)-鍛冶屋間、13.2キロ)の廃線跡を走った。「支線」と書いたが、沿革からすればむしろ鍛冶屋線の方が本線というべきかもしれない。
旧播州鉄道が大正2年に開通させた加古川-西脇間が、現在の加古川線の前身に当たり、大正12年には西脇から鍛冶屋まで延伸している。しかし、播州鉄道から事業継承した播丹鉄道が、その翌年に野村から谷川まで延伸して福知山線と接続、現在の加古川線が全通したため、野村-鍛冶屋間の方が支線となってしまった。
鍛冶屋線は地場産業である原糸、木材、酒米などの輸送を担ってきたが、戦後のモータリゼーションの進展により輸送需要が低迷。沿線では「カナソ・ハイニノ国」(鍛冶屋から順に駅名の頭文字を繋げたもの)の独立宣言を発するなど利用促進を図ったが、平成2年3月末をもって廃止となったものである。
快晴に恵まれた22日午後、野村(現西脇市)駅前からスタート。加古川線との分岐点となっていた駅であるが、現駅名にもかかわらず西脇市街中心部から離れており、駅舎も比較的小さい。ちなみに駅伝の名門、西脇工業高校はここからすぐ近くである。
野村駅を出ると間もなく、加古川線(右)と分岐する。直進する鍛冶屋線の方が本来の路線であったことがハッキリ分かる。
踏切跡には線路の痕跡が今も残る。
間もなく、西脇駅に到着。駅跡にはアピカという商業ビルやホテルが建っている。ここから先は道路転用され、鉄道の痕跡は全くないが、西脇市と姉妹都市関係にある米国レントン市にちなんで「レントン通り」と称されている。
加古川の支流、杉原川に沿ってしばらく行くと、市原駅の跡が記念館として整備され、キハ30形気動車2両が展示されている。管理人室に中年男性が2人いたが、案内してくれるでもなく、どこかのラーメン屋の評判話をしていた。
館内には当時使用されていた鉄道用品が多数展示されている。
これはタブレット閉塞機といい、単線の行き違いの際に使うタブレットを管理する装置だ。
この先で道路転用部分は一旦終わり、廃線跡を利用した遊歩道が田んぼの中をまっすぐ伸びている。一部に線路や枕木を模した舗装がなされている。
途中、文化財発掘工事が行われていて、回り道を余儀なくされた。大正年間の鉄道敷設時はともかく、平成に入った廃線時にも見つからず、今頃になって掘り返すとはちょっと妙な話だが。
羽安(はやす)駅跡にはおそらく当時のままの駅舎が残る。羽安という駅名は、この付近の羽山と安田の両集落がともに駅名にするよう主張して折り合わず、仕方なく両方から一文字ずつ取ったという。
この先で再び道路転用部分に入る。西脇市から多可町に入ってすぐ、曽我井という駅があったはずだが、その痕跡は残っていなかった。ただ、付近の歩道の柵には電車のイラストが入っている。鍛冶屋線は非電化だったが。(苦笑)
さらに進むと、中村町(なかむらまち)駅の跡が「あかね坂公園」として整備されている。この付近は町役場やベルディホールなどもある、多可町の中心部だ。
この先で再び遊歩道になり、多可赤十字病院手前で杉原川を渡る。鍛冶屋線最大の橋梁である。
終点の鍛冶屋駅手前には信号用器具箱が残されている。
鍛冶屋駅舎は鍛冶屋線記念館になっているが、施錠されていて中に入ることは出来なかった。覗いてみたけれど、展示物はあまりないようだった。
裏にはホームが残され、キハ30形気動車1両が保存されている。
鍛冶屋線は廃止されたのが平成2年と比較的最近で、廃線跡がよく残っている方ではないかと思う。西脇から鍛冶屋までの延伸に当たっては、地元の人々が用地や資金を提供したという経緯があるようで、そうした事情も反映しているのだろう。
5月24日 ジョグ10キロ
最近のコメント