ワーグナー最後の作品。2013年メトロポリタンオペラ公演のライブビューイングを録画で鑑賞。指揮ダニエレ・ガッティ、演出フランソワ・ジラール。出演はヨナス・カウフマン(パルジファル)、カタリーナ・ダライマン(クンドリ)、ペーター・マッテイ(アンフォルタス)、ルネ・パーペ(グルネマンツ)、エフゲニー・ニキティン(クリングゾル)など。ライブビューイングの紹介文。
伝説の中世スペイン。キリストを刺した聖槍とその血を受けた聖杯を守る騎士団を率いるアンフォルタス王は、魔法使いクリングゾルに操られた魔性の女クンドリに誘惑され、聖槍を奪われた上に怪我を負い苦しんでいた。王を救う「聖なる愚か者」が現れるのを待つ臣下のグルネマンツは、無垢な青年パルジファルと出会う。だがグルネマンツの期待に反し、聖杯の儀式にも王の苦しみにも無反応だったパルジファルに、クンドリの誘惑の手が伸びる・・・。(引用終わり)
「受難曲」「黙示録」と来て、今度は「聖杯伝説」である。しかも、所要時間は約3時間、3時間半、4時間半とどんどん長くなっている(苦笑)。前二者と同様、長大さに加えて内容的に大変に重いものがあり、これまでなかなか鑑賞に踏み切れずにいたものだ。
まさに「『パルジファル』のことはまだとても書けないけれど」で、映像と字幕のおかげでやっと何とか最後まで居眠りせずに鑑賞出来たというのが正直なところだ。
内容はとても難解で、これまで数え切れないほど多くの論文、評論が出されてきたらしいが、それらを読んでからでは一生かかっても鑑賞出来まい。以下は、熱心なワグネリアンではない人間が、先人の論考を読みもしないで書いた「愚か者」の感想であることをお断りしておく。
この作品の主要テーマは、基本的にはキリスト教に立脚しながらもその限界を踏まえ、新たな人類の救済を摸作しようとした点にあるように思える。それは当然、作曲当時の時代背景やニーチェなど思想界の潮流を色濃く反映したものであろう。
初期の「タンホイザー」でも、贖罪と救済を求めてわざわざローマまで巡礼に行った主人公は結局その目的を果たせず、最終的にはエリーザベトという純粋な乙女の自己犠牲によってそれを得ていた。そうした物語の究極の到達点が、この作品にあるように思えてならない。
聖杯、聖槍を守る使命を果たせず、キリストと同様脇腹を槍で刺された自らの傷も治すことができないアンフォルタスは、儀式や修行ばかりに囚われ、世の人々を救済するという本来の役目を果たせていないキリスト教の限界を象徴しているかのようだ。
一方、安易な快楽に溺れ堕落したクリングゾルの城(「タンホイザー」におけるヴェヌスベルクに相当)は、「聖なるもの」の対極に位置する邪悪な精神を表し、その両者の間を彷徨うクンドリは、聖俗いずれからも真の救済を得られない普通の人々の苦悩や誘惑を代弁しているのではないだろうか。これは現代に生きる我々も同様に直面する課題に他ならない。
それに対してワーグナーが出した回答は、「共に苦しみ知恵を得る、聖なる愚か者」が、キリスト教の限界を突破する新たな救済者として現れる、または現れるのを待望するというものである。
そこには晩年のワーグナーが強い関心を持った仏教など、キリスト教圏外の思想の影響も見て取れる。何より「パルジファル」という名前自体、彼の父が死ぬ間際に、息子をアラビア語の「ファル・パルジ」(聖なる愚か者)と名付けたというクンドリのセリフがあるのだ。
では、「愚か者」とは一体何者なのか。また、最後に合唱が歌う「救いをもたらす者に救いを!」とはどういうことなのか。その肝心のところが非常に分かりにくい。
この公演で演出を担当したジラールは、ライブビューイングのインタビューに答えて次のように言っている。
「演出家や歌手が台本で悩んだら、つまり言葉が曖昧で多彩な解釈ができるなど判断に迷った時は楽譜に戻ることです。答えは楽譜にはっきり書かれています」
まるで「答えは風の中」みたいであるが、音楽がカギを握るというのは大変示唆に富む。ほとんど動きのない映像はこの際抜きにして、様々な動機が複雑に絡み合う音楽だけを集中して聴けば、何とかとっかかりが得られるのかもしれないが、4時間半の長丁場に再挑戦する気力はすぐには出て来ないだろう。(苦笑)
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