弟子 Michael Charry によるジョージ・セル伝。Kindle版の英書を何とか読破した。セルの生涯とその音楽に対する興味に加え、抗癌剤点滴の長い待ち時間がなければ、到底読み終えることは出来なかっただろう。
ジョージ・セルの生い立ちと天才少年ぶりから始まり、若き日の音楽修業を経て楽壇に華々しくデビューした後、様々な経緯を経てアメリカ・クリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任し、この楽団を世界有数の名門オーケストラに育て上げた過程を詳細に記述している。
紙の本で452頁に及ぶ内容を要約して紹介するのはとても手に余るので、自分として意外に感じたいくつかの点をメモしておくに止めたい。クリーヴランド管と数々の優れたレコーディングを残したセルだが、それ以外にも録音には残らなかった(一部音楽祭のライヴ録音を除き)多面的な活動を展開していたのだ。
- セルはクリーヴランド管以外にも米国主要オーケストラとの関係を保ち続け、特にニューヨーク・フィルハーモニックには毎シーズンのように客演指揮に訪れていた
- 毎年夏は必ずヨーロッパに滞在し、ザルツブルク、ルツェルン等の音楽祭に出演したり、夫人とともにスイスで静養したりという生活を繰り返していた
- 古典派、ロマン派の作曲家の作品を主要レパートリーとしていたが、現代作品とりわけアメリカの作曲家の新作を積極的に取り上げ、その紹介に努めた
さて、セルと言えば、練習での厳しい指導ぶりや、楽員の大幅な入れ替えなどが取り沙汰されるが、それについてはさすがに「与党」である著者の立場から悪しざまなことは書けないようで、セルを擁護するような論調になっているのは致し方ないところか。
ただ、内輪の人間しか知らない裏話がいくつか披露されているので、そのうち2つを紹介することにしよう。
ひとつは、1969年9月にオイストラフ、ロストロポーヴィチ、リヒテル、カラヤン、ベルリン・フィルという組み合わせで実現したベートーヴェンの三重協奏曲の録音を巡る話である。実は同じ年の5月に、セルとクリーヴランド管はオイストラフ、ロストロポーヴィチとブラームスの二重協奏曲を録音していた。ベートーヴェンもセルが指揮して不思議はなかったのに、なぜカラヤンに話が行ったのか。
それは、ロシア人3人のソリストのスケジュールが厳しく、コンサートでの公開演奏を経ず僅か2回のセッションで録音するという条件を、たとえスケジュールが合ってもセルは承知しなかっただろうが、カラヤンはすぐに飛びついたからだというのだ。EMIのプロデューサー、ピーター・アンドリーがそのことについてセルに謝罪する一幕もあったようだ。
もうひとつは1970年の来日公演の際の札幌での逸話である。コンサート終了後、セルがホスト役となって、来日公演スポンサーを招待した宴席が札幌市内の高級料亭で開催された。出席者それぞれに着飾ったゲイシャがついていたが、セルについたのはその筆頭格だった。セルはもっと若くて魅力的なゲイシャに当たらなかったことで気分を害し、さらには宴席の請求額にショックを受けたそうである。(笑)
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