『恋』
星野源ではない。松山千春でもない(笑)。小池真理子の長篇小説で1996年の直木賞受賞作である。この作家はこれまで名前ぐらいしか知らなかったが、朝日新聞に連載している「月夜の森の梟」というエッセイの文章に毎回感銘を受けていて興味をもった。版元の紹介文。
1972年冬。全国を震撼させた浅間山荘事件の蔭で、一人の女が引き起こした発砲事件。当時学生だった布美子は、大学助教授・片瀬と妻の雛子との奔放な結びつきに惹かれ、倒錯した関係に陥っていく。が、一人の青年の出現によって生じた軋みが三人の微妙な均衡に悲劇をもたらした……。全編を覆う官能と虚無感。その奥底に漂う静謐な熱情を綴り、小池文学の頂点を極めた直木賞受賞作。(引用終わり)
作品はいきなり主人公矢野布美子の葬儀の描写から始まる。享年45。殺人罪で10年間服役したことのある彼女の葬儀に参列したのは僅か12名。その様子を離れた席から見守っていたのがノンフィクション作家鳥飼三津彦で、この小説は死を目前にした布美子が、殺人事件の真相とそれに至る経緯を鳥飼に語った内容の記録という構成になっている。
学生運動に明け暮れる平凡な女子大生だった布美子は、生活費を稼ぐ必要から大学助教授片瀬信太郎の自宅で翻訳を手伝うアルバイトを始めるが、ルックスが魅力的な信太郎と、元子爵令嬢の妻雛子の夫妻に次第に惹きつけられていく。女中を雇い、軽井沢に別荘を持つ裕福な暮らしのみならず、性的にも開放的な夫妻のライフスタイルは、貧乏アパート暮らしの布美子にはまさに別世界であった。
夫妻と布美子の倒錯しながらも幸福な関係は、しかし長続きしなかった。彼らの前に突然現れた電機店の従業員大久保勝也に雛子が「恋」してしまったことで、夫婦の間に決定的な亀裂が生じ、そのことが引き金になって悲劇的な事件に至ってしまうのだ。
では、世間常識からはともかく、当人同士至って円満な関係に見えた夫婦の間に「恋」はなかったのかという疑問が湧く。その答は文庫本400頁になって初めて明かされる衝撃の事実にある。当初は夫妻二人だけの秘密であったのが、信太郎が布美子に告白し、布美子が鳥飼に語り、一方では雛子が大久保に語りと、夫妻以外の三人が知るところとなる。しかし、この秘密は裁判の過程でも一切秘匿され、この小説の結末時点では夫妻と鳥飼だけが知るところとなる。
その鳥飼は生前の布美子に、秘密は自分が引き受け、本にもせず、誰にも言わないと約束しているが、「にもかかわらず、この本は書かれ、公開され直木賞まで受けた」ことを、当時の直木賞選考委員で、文庫解説を担当した阿刀田高氏は「そりゃあんまりな」と書いている。
阿刀田氏は続けて「願わくは布美子の最後の言葉として『いつか、それがよろしいと思われたら、書いてください。美しく伝えてください』とあったほうがずっとよかったのではあるまいか」としている。フィクションの世界と現実の出版物は別物だということは当然踏まえた上での指摘だろうが、読者の素直な気持ちとしては全く同感である。
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