レオン・フライシャーのこと
このところセルのCDを集中的に聴いていて、これまで耳にする機会がなかった協奏曲もいくつか聴いた。ロベール・カサドシュと録音したモーツァルトは、デリケートな美音で綴るピアノと、細かい音型まで気を配った「物言う」オーケストラとの対比が面白かった。
一方、ルドルフ・ゼルキンとのブラームスは立派な演奏ではあるけれど、音楽の進め方について独奏者と指揮者の間に微妙な齟齬が感じられた。この頃を境にセルとゼルキンの長年の友好関係が終わったとされるが、もしかするとそんな事情が演奏にも表れたのだろうか。
そうした中、最も感銘を受けたのがレオン・フライシャーである。彼については「昔々、アメリカにそんな新進気鋭のピアニストがいました」という程度の知識しかなく、その後の病気のことや、最近見事に復活して活躍を続けていることは全く知らなかった。簡単にその経歴を振り返る。
1928年にサンフランシスコに生まれたフライシャーは幼少期からピアノの才能を発揮、アルトゥール・シュナーベルに師事するなど研鑽を積み、1952年エリザベート王妃国際コンクールではアメリカ人初の優勝者となった。その後、国際的ピアニストとして華々しく活躍するも、1964年頃から突然右手薬指と小指が動かなくなる異変が彼を襲う。後に「局所性ジストニア」と診断される症状で、指の運動機能ではなく脳神経に異常があるというのだ。
弱冠37歳にしてピアニストとしての引退を余儀なくされたフライシャーは、その後は指導者と指揮者という新たなキャリアを歩み始める一方、左手ピアニストのためのレパートリーにも挑戦しながら、両手でピアノを演奏することを決して諦めなかった。
外科手術の結果、ある程度の回復を果たした彼は1982年、ボルチモアの新しいコンサートホールで、両手ピアニストとして18年ぶりとなる演奏を行ない、ニューヨークタイムズが1面記事で伝えるなど大きな注目を浴びたが、彼自身は弾きやすい曲に変更したことに不満があり、あれは pretend(偽り)だったと自省している。
その後も様々な治療法を試した結果、ロルフィングと呼ばれる手技療法で大きな改善が見られ、1990年代半ばから本格的な演奏活動を再開するに至る。2004年には Two Hands と題した復帰後初のアルバムが発売された。また、2006年には復帰までの経緯を纏めた Two Hands: The Leon Fleisher Story という短篇ドキュメンタリー映画が作られ、翌年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされた。
略歴が長くなってしまったが、1960年代にセルと録音したベートーヴェン、ブラームス、シューマン、グリークの協奏曲はどれも素晴らしい。卓越した技巧をひけらかすことのない純音楽的な演奏は、30歳台とは思えない熟達ぶりである。オーケストラとの息もピッタリで、流石にセルのお眼鏡にかなったピアニストだけのことはある。
シューマンの第1楽章カデンツァは、これまでリヒテルの演奏が最高と信じてきたが、フライシャーはそれに匹敵する。オケの質を考えると、楽曲全体としてはこちらを決定盤にしたいぐらいだ。
そんな実力あるピアニストが、これからという時期に故障で引退を余儀なくされる。その絶望たるや他人には想像すらできないが、指導者としての能力を自覚し、さらには指揮活動、左手ピアニストとしての活動にも乗り出すなど、新たな進路を自ら切り拓きつつ、両手ピアニストとしての復帰を諦めなかった姿勢には頭が下がる。
きっと神が見捨てなかったのだろう。奇蹟的な回復を果たした彼は、再度ステージに立ち、CDを出すまでになった。Two Hands の最初2曲はバッハのカンタータからで、静謐な音楽に籠められた深い思いが伝わってくる。また自分の病気を引き合いに出して恐縮だが、決して諦めなかった彼の生き方は、自分にとっても大いに励みになる。
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コメント
フライシャー氏が2日、ボルティモアの
ホスピスで死去された。92歳だった。
記事を書いた直後だけに大変驚いているが、
謹んでご冥福をお祈りしたい。
投稿: まこてぃん | 2020/08/04 20:17