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2020/07/29

歌劇「ばらの騎士」

Rosenkavlierシュトラウスとホーフマンスタールのコンビによる最高傑作とされる作品。2017年のMET公演と、1994年のクライバー指揮ウィーン国立歌劇場の公演、それぞれの録画を鑑賞。METライブビューイングの紹介文。

ハプスブルク王朝下のウィーン。元帥夫人マリー・テレーズは、年下の青年貴族オクタヴィアンと情事を重ねていた。ある朝、逢引の余韻に浸っている夫人の部屋に、従兄のオックス男爵が訪ねてくる。成り上がり貴族の娘ソフィーと婚約したオックスは、婚約のしるしである「銀のばら」を婚約者に届ける青年貴族を紹介してほしいと頼みに来たのだった。ふと、いたずら心を起こした元帥夫人はオクタヴィアンを推薦するが、「銀のばら」の使者としてゾフィーのもとを訪れた彼はゾフィーと恋に落ちてしまい…。(引用終わり)

「サロメ」「エレクトラ」と来て、次はまたどんな凄絶なオペラだろうと思いきや、擬古典的な趣向を凝らした、まさかのメロドラマである。「モーツァルト風」を目指していたといい、実際「フィガロの結婚」を下敷きにしたようなストーリーである。

タイトルの「ばらの騎士」とは、紹介文にある「銀のばら」を届ける使者のことだが、実はこれは全くの作り話で実際にはそんな習慣はないそうである。また、作品中で奏でられるウィンナワルツが流行したのは19世紀に入ってからで、時代考証的にはおかしな話のはずである。

しかし、そうしたことを含めて、過ぎ去りつつある時代への惜別を籠めた、美しくも虚構の世界の中だけの大人のラブストーリーが綴られる。そして、この作品でもまた、否これまで以上にシュトラウスの巧みな音楽が全篇を彩っている。無調音楽に近づいた前衛的な前2作とは打って変わり、親しみやすく甘美な音楽が、絢爛豪華な管弦楽法によって万華鏡のように展開していく。

MET公演では、元帥夫人のルネ・フレミングとオクタヴィアンのエリーナ・ガランチャが、それぞれこの公演をもって役を引退することになり、両者の万感の思いがこもった歌唱と演技が見ものだった。「ものには終わりがあるのよ」という元帥夫人のセリフは、そのままフレミング自身の声でもあっただろう。

一方、ウィーン国立歌劇場に9年ぶりに登場したクライバー伝説の94年公演では、クライバーがピットに登場しただけで場内が盛り上がる。前奏曲を振るクライバーの指揮姿は躍動感に溢れ、まさに音楽を形にしたような動きをずっと見ていたいぐらいだった。

歌手陣では、元帥夫人のフェリシティ・ロットが品位ある歌唱と演技を見せる一方、オクタヴィアンのフォン・オッター、ゾフィーのバーバラ・ボニーのカップルがとても初々しく、オットー・シェンク演出のオーソドックスながらやや古臭い舞台を華やかにしていた。

ところで、メゾソプラノが男装で演じるオクタヴィアンと、ソプラノの元帥夫人やゾフィーとの二重唱、三重唱を見ながら、ふとこれは宝塚歌劇の世界に通じるものがあると思った(よう知らんけど・笑)。調べてみると、実際本作を元にした「愛のソナタ」というミュージカルが月組公演で上演されていて、新・東京宝塚劇場の杮落とし公演にもなったそうである。音楽はさすがにシュトラウスのオリジナルではないようだが。

7月29日 ジョグ4キロ
月間走行 19キロ

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2020/07/26

セルのウィンナワルツ

Strauss_20200724185801“冷徹な完璧主義者”とも称されるジョージ・セルがウィンナワルツ? 指揮者活動50周年を記念して作られたというけれど、ほとんど冗談のような取り合わせのCDを聴いてみたら、これが結構面白かったのだ。

1曲目からど真ん中直球勝負の「美しく青きドナウ」。冒頭の弦のトレモロと、これに乗っかるホルンのメロディは実に美しく、いきなり心を掴まれてしまった。これがアメリカのオケの音とは信じられない。

たっぷり歌う前奏に続いて、第1ワルツでは何とウィンナワルツ独特の2拍目3拍目の微妙なズレがちゃんと出来ている! 第2ワルツ以降はなぜか普通の3拍子になるけれど。(笑)

2曲目の「ピツィカート・ポルカ」はセルの面目躍如。どうやったらこれだけピツィカートがピタリと合うのだろう。以下、シュトラウスファミリーの名曲「うわごと」「春の声」「オーストリアの村燕」と続くが、いずれもよく歌う弦楽器を中心に、オーケストレーションの細部まで見通しの良い演奏である。

6曲目の「常動曲」では速いパッセージも何のその、クリーヴランド管の名人芸が冴え渡り、「参りました!」というところで、セル自身の声で “and so forth” (などなど)とユーモラスに締める。ラストは「こうもり」序曲で、これから本当にオペレッタが始まりそうな雰囲気を残して締め括る。

長年クリーヴランド管弦楽団に君臨したセルは、ハンガリー出身ではあるものの幼少期からウィーンで音楽を勉強し、16歳(!)での指揮者デビューもウィーン交響楽団とであったという。

セルの音楽的バックボーンはウィーンにあり、ウィーン流の音楽語法が血となり肉となっているのだろう。このアルバムでも、独特のリズム感や細かい歌い回しの部分ではさすがに「本場もの」には及ばないものの、そうしたセルの原点を十分に感じさせる演奏となっている。

一見妙な取り合わせのウィンナワルツ集を50周年記念にしたのは、実は意外でも何でもなかったのだ。

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2020/07/23

歌劇「エレクトラ」

Elektraリヒャルト・シュトラウス(作曲)とホーフマンスタール(台本)のコンビによるオペラ第1弾で、1909年に初演された。メトロポリタンオペラ2016年公演の録画と、「サロメ」と同じベーム指揮ウィーンフィルによる映画版の2種類を鑑賞した。METライブビューイングの紹介文。

神話の時代のミケーネ王国。父のミケーネ王アガメムノンを母のクリテムネストラとその愛人エギストに殺された王女エレクトラは、復讐を心に誓っているが、頼みの弟オレストは追放され、行方が知れない。罪の意識に怯えるクリテムネストラは、悩みを解決してほしいとエレクトラに訴えるが、突き放される。その時オレストの死が伝えられ、絶望したエレクトラは一人で復讐を果たそうと決意する。だが、オレストは生きていた。再会した姉弟はみごとに復讐を遂げるが・・・。(引用終わり)

父王を母とその愛人に殺された姉弟の壮絶な復讐を描いたギリシャ悲劇をオペラ化したもの。異常性愛の「サロメ」のあとは不倫殺人に対する復讐劇と、観る方にも覚悟が必要な重い作品が続く。ジャケット写真は何だか四谷怪談みたいだし。(笑)

しかし、「サロメ」でも書いたように、そんな内容にもかかわらず、あるいはだからこそか、リヒャルト・シュトラウスの音楽の力だけで見せてしまうオペラと言って過言ではない。本作では管弦楽の規模が更に拡大し、100名を超える大編成のオーケストラが繰り広げる音楽の迫力は大変なもので、通常のオペラが「音楽付きの芝居」としたら、これはもう「芝居付きの一大交響詩」とでも言うべきだろう。

その点、ベームが病気をおして指揮台に立ち、生涯最後の録音となったウィーンフィルとの演奏は他の追随を許さないものがある。ゲッツ・フリードリヒのオーソドックスな演出も相俟って、本作の決定盤とされるのも頷ける。

エレクトラを演じたレオニー・リザネクは音域、声量とも申し分なく、大編成のオケに負けない堂々とした歌唱、演技である。「サロメ」でヘロディアスを演じたアストリッド・ヴァルナイが、クリテムネストラを憎たらしいほどの上手さで演じている。オレスト役のF=ディースカウは若干線が細く、これから人を殺めるという鬼気に乏しい。

MET公演はタイトルロールのニーナ・ステンメが迫真の演技、歌唱を見せているが、パトリス・シェローの現代風の舞台には違和感があり、結末でエレクトラが気を失って倒れるのではなく、茫然と座したままカーテンが降りるのは消化不良な感じがした。

以下は余談になる。エレクトラ(Elektra)という名前はギリシャ語のエレクトロン(琥珀)に由来するそうで、彼女が琥珀色の目をしていたからだそうだ。琥珀は布で擦ると静電気を発することから、electricity(電気)の語源になっている。

また、オレスト(Orestes)という名前からは、黄金期の西武ライオンズを牽引した「カリブの怪人」こと、オレステス・デストラーデを思い出す。しかし、復讐のためとはいえ、母親とその愛人を殺したギリシャ悲劇中の人物の名を我が子につけた親の気持ちとは、一体どんなものだったのだろう。

7月21日 ジョグ2キロ

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2020/07/20

セルのブルックナー第8番

Sicc10250ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の録音を愛聴していることは何度か書いてきた。主としてモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を折に触れて鑑賞し、その都度新たな感銘を受けてきたが、ブルックナーについてはこれまでほぼノーマークだった。

第3交響曲の廉価盤LPを持っているけれど、昔のCBSにありがちな乾いた音と人工的な残響で、最後まで聴くに堪えなかったのだ。その第一印象が悪すぎたせいで、第8番も録音があることは知っていたが、更に長いシンフォニーを聴いてみようという気が起こらなかった。

しかし、最近ソニー・クラシカルとタワーレコードが共同で、アナログ録音の新たなデジタルリマスターに取り組んでいて、その一環としてセル指揮ブルックナー第3番、第8番のCDが2018年に発売されたことを知り、物は試しと聴いてみたのだ。

まずは第3番。一聴してLPとは次元の異なる音に驚いた。弦楽器の音の艶が感じられ、管楽器とのバランスもよく取れている。LPでは保てなかった集中力が最後まで途切れず、全体で約55分と比較的短めの演奏時間が更に短く感じられた。

そして、初めて聴く第8番は冒頭から異様なほどの緊迫感を孕んだ演奏に、思わず居住まいを正してしまった。何より驚いたのが第2楽章の濃密な表現である。ブルックナーのスケルツォ楽章がこれほど深い味わいをもって演奏された例を他に知らない。

この調子で後半に突入したらどうなるかと思いきや、第3楽章アダージョは意外にも突き放したというか客観性を取り戻した演奏で、いかにもセルらしい精緻で格調の高い表現は比類がない。

終楽章はそれまでの音楽を集大成した音の大伽藍で、とりわけ堂々としたコーダには圧倒された。そこまでの演奏が良くても、このコーダのテンポひとつで台無しになる演奏をいくつも聴いてきただけに、この録音全体の素晴らしさを象徴しているように感じられ、演奏が終わってもしばらく椅子から立ち上がれないほどの感銘を受けた。

あとで知ったのだが、この録音は1969年10月に行われ、セルとクリーヴランド管のコロンビアへの最後のセッションとなったものである。セルは翌年4月に生涯最後の録音となったドヴォルザーク第8番とシューベルト「グレイト」をEMIに録音したあと、5月にはクリーヴランド管と初来日して今も語り草の名演を聴かせたが、帰国後間もない7月30日に多発性骨髄腫のため急逝し世界中の音楽ファンを驚かせた。

来日公演にピエール・ブーレーズを同行させたのはセルの体調不良に備えたためとも考えられ、おそらくセルは自身の病状の進行について知っていたのだろう。このブルックナーの録音についても相当の覚悟をもって臨んだに違いない。普段はLP1枚分を1日で録り終えてしまうセルが、実に4日間もかけてじっくり取り組んだことがその証左であろう。

これまでこの録音を聴かなかったのが悔やまれるが、まだ元気なうちに聴けて本当に良かったと思う。と同時に、この驚異的な名演奏がその後1年経たずに死去した指揮者によって成し遂げられたことに思うと、憚りながら同じく癌との闘いの真っただ中にいる自分にとって、これ以上ない励ましに思える。この先、病状が悪化したとしても、この録音のことを思い出し、また実際に聴いて気持ちを奮い立たせたいと思う。

7月18日 ジョグ2キロ

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2020/07/17

楽劇「サロメ」

Salomeリヒャルト・シュトラウスのオペラでは最初の成功作となった作品。ベーム指揮ウィーンフィル他による映画版を鑑賞。

新約聖書の小さな挿話をもとにオスカー・ワイルドが創作した同名の戯曲を台本とする。もともと聖書では洗礼者ヨハナーン殺害のきっかけとなったものの、名前すら明示されていない「ヘロディアスの娘」を主人公に、ワイルドは世紀末の頽廃感濃厚な異常性愛の物語に変貌させ、それをシュトラウスの爛熟した極彩色の音楽が彩る。

あまりに官能的、不道徳であるとして、当初は各地で上演禁止となるほどのセンセーションを巻き起こした問題作で、特に後半でサロメが7枚のヴェールを順に脱ぎながら踊る場面と、その褒美として希望したヨハナーンの生首にサロメが接吻する場面は衝撃的である。

そのショッキングな内容にもかかわらず、いやだからこそか、シュトラウスの音楽の素晴らしさが本作最大の魅了だ。序曲、前奏曲もなくいきなり衛兵隊長ナラボートの歌から始まり、全1幕途切れることなく大河のように流れる音楽は極めて雄弁である。全体のストーリーはもちろん、場面場面の具体的な状況や、極端に言えば歌詞の単語ひとつに至るまで音で表現している。

たとえば第4場でヘロデが「大きな翼の羽ばたき」の幻聴に慄く場面では、本当に風のような音が聴こえる。交響詩「ドン・キホーテ」でも同じような表現があり、シュトラウス自家薬籠中の技なのだ。また、ヘロデがダンスの褒美としてサロメに提案する様々な宝物を表す音楽は、まるで万華鏡のように千変万化する。

タイトルロールはテレサ・ストラータス。細身で可憐な容姿はサロメに打ってつけで、ジャケット写真のようにカツラを被った前半の無邪気さから、後半では髪を下ろし、早くも一人の女として魔性を発揮するまでのドラマチックな変化を演じ切っている。問題のダンスは映画版なのでいかなる映像操作も可能で、一瞬だけ後ろから映る裸体は体格があまりに違うのでおそらくボディダブルだろう(笑)。ヨハナーンのベルント・ヴァイクル、ヘロディアスのアストリッド・ヴァルナイら脇役も素晴らしい。

7月15日 ジョグ3キロ

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2020/07/14

『ファーストラヴ』

Firstlove島本理生著。版元の紹介文。

夏の日の夕方、多摩川沿いを血まみれで歩いていた女子大生・聖山環菜が逮捕された。彼女は父親の勤務先である美術学校に立ち寄り、あらかじめ購入していた包丁で父親を刺殺した。環菜は就職活動の最中で、その面接の帰りに凶行に及んだのだった。環菜の美貌も相まって、この事件はマスコミで大きく取り上げられた。なぜ彼女は父親を殺さなければならなかったのか?
臨床心理士の真壁由紀は、この事件を題材としたノンフィクションの執筆を依頼され、環菜やその周辺の人々と面会を重ねることになる。そこから浮かび上がってくる、環菜の過去とは? 「家族」という名の迷宮を描く傑作長篇。第159回直木賞受賞作。(引用終わり)

この作家は初めて。タイトルから連想する青春恋愛ものでは全然ない。ひとことで言えば、DVなどで事件化するに至らない家庭内の性暴力やパワーハラスメントが、幼少期の女性に与える衝撃力の大きさと、その後の心身の成長過程に及ぼす悪影響といったことがメインテーマである。

父親殺しの事件はそうした背景のもとに起きた。その全体像が、環菜と由紀や弁護人との遣り取りの中で徐々に浮かび上がってくる。由紀もまた過去に父親のある行動に悩まされた経験を持つという複線的な構成になっているが、やや焦点が拡散してしまった感は否めない。

よく出来た由紀の夫の思いやりに救われる結末にもかかわらず、一人の男としてまた父親として考えさせられるテーマを提起され、読後感としては重いものが残った。

ところで、本作を読んだ動機は言うまでもなくこちらである。由紀役の北川景子が主演とあるけれど、複雑な過去を抱え多面性を有する環菜役の方も大変重要である。パブリシティ戦略のためかまだ主演以外のキャストは伏せられているが、環菜を一体誰が演じるのか気になって仕方ない。

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2020/07/11

病気の現状

闘病日記の更新は7か月ぶりとなるが、とりあえずの現状報告を。

昨年11月下旬に大学病院に転院し、抗癌剤治療を継続しながら、転移した肝臓癌に対する外科手術の可能性を探ってきたが、今年3月初旬、現状では手術は不可能という判断が下された。

今後は抗癌剤を使って癌の広がりを極力抑えながら経過観察する、有体に言えば可能な限り延命を図るということになったわけだ。それならばと、手術検討のため一旦抗癌剤治療が中断していた機会をとらえて、抗癌剤投与中は出来なかった人工肛門の解消手術を実施し、生活の質(QOL)を向上させたいと考え、主治医の賛同も得てその準備を進めていた。

その矢先、新型コロナ騒動のため、地域の拠点病院である大学病院では「不要不急の手術」は当面実施しない方針が打ち出され、人工肛門解消術もそれに含まれることから、他病院への転院を勧められた。もともと、人工肛門は直腸癌手術と同時にD病院で実施した経緯もあり、再び同病院に戻ることにした。

5月中旬、約半年ぶりに訪れたD病院でも、入口で検温、問診が行なわれるなど、コロナ対策が講じられていた。早速、当時の主治医Y医師と面談してこちらの希望を伝え、人工肛門解消に向けた検査や準備を行なうことになった。

しかし、検査の結果、残念ながら直腸摘出後の縫合不全がまだ残っていて、このまま便を通すのはリスクがある。それよりも、抗癌剤治療を中断していたため、肝臓の癌がかなり進行していて、早急に治療を再開しないと命にかかわるという説明を受けた。

大学病院に戻るという選択肢もあったけれど、外科手術の可能性が現状ではないという以上、今後はまたD病院にお世話になることにした。すぐに内科のO医師に連絡を取ってくれて診察を受け、翌々日から早速抗癌剤治療を再開することになった。この手回しの良さはこの規模の病院ならではで、大学病院だったらおそらく1か月はロスしていたと思う。

使用する抗癌剤は年末から大学病院で行っていたのと同じであるが、中断期間があったためか最初は副作用がきつく、食欲不振と倦怠感で終日床についていたこともあった。脱毛も発生し、一時は前頭部がだいぶスカスカになってしまったが、幸い今は何とか収まっている。

医療関係者の友人から、転移癌であっても5年以上経過している人や、中には完全寛解した人もいるという話を聞いた。新しい抗癌剤や免疫療法なども開発され、治癒の可能性は以前に比べれば高まっているかもしれない。副作用との闘いはまだまだ続くが、少しでも希望を持って前を向いていたいと思っている。

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2020/07/08

『プリティ・ウーマン』

Prettywoman1990年、米。リチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ。ご存じ、王道シンデレラ・ストーリーのロマンチックコメディ。映画ドットコムの紹介文。

ハリウッドの娼婦ビビアンは偶然知り合ったウォール街の実業家エドワードにひと晩買われる。ビビアンに興味を持ったエドワードは1週間の契約を結ぶ。エドワードにとってはほんの気まぐれ、ビビアンにとっては最高のお客。その2人がいつしか惹かれ合い……。(引用終わり)

今日的な観点からすると性差別として非難されかねない内容を含むが、これまで目立った批判は出ていないようだ。ビビアンが明確な個性を持つ自立した一人の女性として登場し、エドワードはまさにそこに惹かれるという設定と、何よりもこの二人の微笑ましい恋愛プロセスを描く軽妙なタッチが、そうした批判から免じさせているのだろう。

ついさっきまで街頭で客引きをしていた娼婦が、通行人も振り向くようなレディに見事に変身する。作品の中でも言及される「シンデ**レラ」や、『マイ・フェア・レディ』を下敷きにしたようなストーリーだが、1週間3000ドルの契約で同居を決めるあたりがいかにも現代風で、もともと脚本のタイトルは『$3000』だったそうだ。

ところで、エドワードからビビアンへのサプライズプレゼントとして、LAからサンフランシスコまで小型機で飛び、オペラを観に行くというシーンがある(LAにはオペラハウスがないため)。演目はヴェルディの名作「椿姫」である。パリの高級娼婦だった主人公ヴィオレッタが、青年貴族アルフレードとの真実の恋に目覚める物語は、まるで本作のストーリーと二重写しのようだ。これが伏線となって、エドワードがビビアンを迎えに来るラストシーンを、名アリア「ああ、そはかの人か」が盛り上げる。

7月8日 ジョグ4キロ

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2020/07/05

歌劇「ローエングリン」

Lohengrinワーグナー作の「3幕のロマン的歌劇」。1982年、バイロイト音楽祭の公演録画を鑑賞。

10世紀のブラバント公国(現アントワープ近郊)。公女エルザは行方不明になった弟ゴットフリートを殺めたとして、王位を狙う貴族テルラムントに告訴され窮地に立たされていたが、白鳥に曳かれた舟に乗って現れた騎士が神明裁判の決闘でテルラムントに勝利してエルザを救う。
騎士は決して自分の名前と素性を尋ねないことを条件に、彼女と結婚して公国を治めることになるが、テルラムントの妻の魔女オルトラートの奸計により、エルザは婚礼の夜ついに禁を破ってそれを尋ねてしまう。騎士は聖杯王パルジファルの息子ローエングリンだと明かし、再び現れた白鳥の舟で公国を去っていく。オルトルートの魔術で白鳥に姿を変えられていた弟ゴットフリートが元に戻り、公国の後継者となるところで幕となる。

白馬ならぬ白鳥の騎士がどこからともなく現れ、困っているお姫様を助ける。お伽噺のような粗筋を読んだ段階では全然ピンと来なかったが、精妙極まる第1幕前奏曲に始まるワーグナーの音楽に魅入られ、タイトルどおり独特のロマン的作品世界に最後まで引き込まれてしまった。

名前を明かさずともその佇まいだけでエルザをはじめ公国の人々を感服せしめる騎士をペーター・ホフマンが演じている。張りのあるヘルデンテノールの声に加え、立派な体格とハンサムな容貌に恵まれ、まるで本物の騎士が現れたかのようだ。

一方、カラン・アームストロング演じるエルザは、可哀そうだけれど主体性のないお姫様という以上のものはない。それよりも魔女オルトルートこそ、ローエングリンに対抗する強烈なキャラクターを持ち、本作の実質的な狂言回し役を担う。エリザベス・コネルの歌唱と演技は憎々しいばかりで、女イアーゴと言いたくなるほど。それに引き換え、言葉ばかり威勢の良い亭主テルラムントの情けないこと。(笑)

ところで、本作が芸術はもちろん文化、社会、政治など様々な分野にもたらした影響は計り知れない。本作にのめり込んだバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、その名も新白鳥城というノイシュヴァンシュタインを築いて国家財政を破綻させ、その経緯をルキノ・ヴィスコンティは映画「ルートヴィヒ」で克明に描いた。

アドルフ・ヒトラーもことのほか本作を愛し、第3幕第3場の「ドイツの国のためにドイツの剣を!」は、戦意発揚の音楽としてナチスに利用されるところとなった。おそらくそれを踏まえてだろう、チャップリンは「独裁者」の中で、ヒンケルが地球儀の風船で戯れるシーンで本作の前奏曲を流している。

ただのお伽噺と思ったら大間違いなのだ。

7月5日 ジョグ2キロ 

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2020/07/02

プリンストン大学の英断

米国プリンストン大学は先月末、同大学の Woodrow Wilson School of Public and International Affairs の名称から Woodrow Wilson の名前を外し、The Princeton School of Public and International Affairs に変更すると発表した。

ウィルソンの人種差別主義的な思想や政策が、あらゆる形態の差別に毅然と立ち向かうべき学校の名称として相応しくないと判断したためとしている。言うまでもなく、最近全米のみならず世界各地で高まっている黒人差別に対する激しい抗議の動きを受けたものである。

学長として同大学を世界トップクラスの研究機関に押し上げ、その後ニュージャージー州知事を経て合衆国第28代大統領に就任、国際連盟の創設に尽力し、ノーベル平和賞まで受賞したウッドロー・ウィルソンの業績は否定すべくもないが、それが彼の人種差別主義と無関係に、あるいはそれを無視して賞賛されてきたことこそが問題であるという。

このスクールにかつて1年だけ在籍した人間として、ウィルソンが人種差別主義者であった事実を知らなかったのを恥じると同時に、“母校”の看板だった彼の名前が消えることには一抹の寂しさを感じざるを得ないが、彼ほどの功績者の名前ですら、校名に相応しくないと判断すれば抹消することを躊躇わない姿勢には敬意を覚える。

それだけ今回の抗議運動が過去にない高まりを見せているということであるし、伝統的にリベラル色の強いプリンストン大学が、現トランプ政権に突き付けた痛烈なメッセージであるかもしれない。

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7月2日 ジョグ2キロ

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