クルレンツィスのCD
近年話題になっているギリシャ出身の指揮者テオドール・クルレンツィスが、手兵ムジカエテルナと録音したCD4枚を聴いてみた。曲目はモーツァルトの「フィガロの結婚」ハイライト、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」とヴァイオリン協奏曲(独奏コパチンスカヤ)、マーラーの交響曲第6番、そしてストラヴィンスキーの「春の祭典」とカンタータ「結婚」である。
ピリオド楽器を使う楽団とのことだが、ディスコグラフィーにはパーセルからショスタコーヴィチまで並び、そのレパートリーの広さに驚かされる。今回聴いた中でも、モーツァルトではほとんど室内楽のような小編成オケにピアノフォルテを加えて18世紀の音を再現する一方、マーラーやストラヴィンスキーでは大編成オケによる迫力ある音響を聴かせる。かように伸縮自在でありながら、アンサンブルの精度は常に高く保たれている。
ところが、である。
CDを聴いている間じゅう、ずっと妙な違和感に襲われて音楽に集中することが出来なかったのだ。モーツァルトはともかく、それ以外のCDで聴くオケの音がどこかヘンだ。「実際こんな風に聴こえるはずがない」。そう思い始めると、どこがどうヘンなのか気になって仕方なく、音楽の流れに身を委ねるどころでなくなる。
おそらく、録音後のミキシングでかなり作為的な編集が行われたに違いない。特定の楽器が突然前面に出て目立つかと思えば、「悲愴」のクラリネットソロが、舞台袖で吹いているかと思うぐらいの超弱音で始まったりする。協奏曲のヴァイオリンソロがフルオーケストラに負けない大きな音像で再生されたりすると、思わず「ウソだろ」と叫びたくなる。一方では、マーラーの最も音量が大きな箇所では、不自然にピークが抑えられていたりする。
LPレコードの時代から録音後の編集作業は不可欠の工程で、エンジニアの腕の見せ所ではあるのだけれど、ここまで踏み込んで音をいじる、と言って悪ければ作り込んだ録音はなかったのではないか。従来のアーティストだったら許容しないレベルまで、クルレンツィス自身がむしろ積極的に関与しなければ、これらのCDは日の目を見なかったに違いない。そういう意味でも、これまでに類を見ない新しい時代の指揮者なのだろう。
そうなると、実演ではどうなのかが気になるところだ。今年4月に予定されていた来日公演は残念ながら中止になったが、昨年の来日公演では「賛否両論、さまざまな議論が飛び交った」そうである。過去の公演の動画を見ると、チェロ以外の奏者が全員起立したまま演奏しているのもあり、ビジュアル的にも世間の耳目を集めているようだ。
ところで、そうした録音編集や演奏スタイルなど表面的な特徴はさておき、肝心の演奏の中身はどうなのだろう。前述したように、録音の不自然さのため音楽に集中できなかったきらいはあるが、自由闊達な演奏に好感を持てたモーツァルト以外は大して感心しなかったというのが正直なところだ。
チャイコフスキーの交響曲は細部まで克明に表現された演奏だが、協奏曲は奇を衒ったとしか思いようがなく、マーラーは音響の美しさは良いとして、特有の粘っこいリズムとかグロテスクな音色との対比などの味わいに乏しい。「春の祭典」はもっと野性的で「尖った」演奏を期待していたが、これまた大変美しく「円い」演奏に拍子抜けした。
最近、ベートーヴェンの交響曲第5番のCDが発売され、今後チクルスを完成させる予定と聞く。また機会があれば聴いてみたい。
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