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2020/06/29

『トゥルーマン・ショー』

Trumanshow1998年、米。ジム・キャリー主演。映画ドットコムの紹介文。

離島の町シーヘブンで生まれ育った男トゥルーマン。保険会社で働きながら、しっかり者の妻メリルと平穏な毎日を送る彼には、本人だけが知らない驚きの事実があった。実はトゥルーマンは生まれた時から毎日24時間すべてをテレビ番組「トゥルーマン・ショー」で生中継されており、彼が暮らす町は巨大なセット、住人も妻や親友に至るまで全員が俳優なのだ。自分が生きる世界に違和感を抱き始めた彼は、真実を突き止めようと奔走するが……。(引用終わり)

TVはニュースぐらいしか見ないので全く知らなかったのだけれど、リアリティショーというジャンルの番組が近年世界各地のTVで人気を博しているそうである。事前の台本や演出がなく、予測不可能で困難な状況に一般人出演者が直面する様子を、ドキュメンタリーやドラマのように楽しめる番組なのだそうだ。

しかし、この映画では主人公だけがその設定を知らされておらず、逆に彼以外は妻や親友も全て俳優で、行動からセリフまで全て指示されている。実際のTV番組ではさすがにそこまでやらないだろうが、その極端さこそが本作の面白いところだ。

生まれてから30年、つい最近に至るまで自分が置かれている環境に違和感はなかったのかなど、突っ込みどころは多々あるけれど、真実を求めて動き出した彼の勇気と行動力には思わず拍手を贈りたくなる。その様子を変に深刻ぶらず、明るく快活に演じ切ったジム・キャリーのキャラクターがいい。

一応の決着がついて番組は終了となるが、その瞬間に視聴者は「他の番組を」「『TVガイド』は?」と早くも他の番組を物色する。リアリティとか何とか言っても、結局TVというのは面白ければそれでいい「見世物」なのだ。別にそれが悪いとは言わないけれど。

6月29日 ジョグ2キロ
月間走行  9キロ

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2020/06/26

『ワンダーストラック』

Wonderstruck 2017年米。ブライアン・セルズニック原作の同名小説を映画化。トッド・ヘインズ監督。KINENOTE の紹介文。

1977年、ミネソタ。母親を交通事故で亡くし、おばさんのもとで暮らしている少年ベン(オークス・フェグリー)。実父を知らないベンは、母の遺品から父のある手がかりを見つけ出す……。その50年前の1927年、ニュージャージー。両親が離婚し、厳格な父に育てられている聴覚障害を持つ少女ローズ(ミリセント・シモンズ)は、いつも孤独を感じていた。そんなローズの宝物は、憧れの女優リリアン・メイヒューの記事を密かに集めたスクラップブックだった……。そしてある日、ベンは会ったことのない父を探しに、ローズは憧れの女優に会うために、それぞれニューヨークへと向かう。異なる時代に生きたふたりの物語は、やがて謎めいた因縁で結びつけられ、ひとつになっていく……。(引用終わり)

KINENOTE の分類では「サスペンス・ミステリー」とあるが、むしろ「ファンタジー・ヒューマン」と言う方が相応しい作品ではないかと思う。ベンとローズそれぞれの物語が、50年の時を越えて頻繁に行ったり来たりする構成に最初は戸惑うものの、NY自然史博物館という共通の場所に収斂していく辺りから目が離せなくなる。

秀逸なのは1927年と1977年、それぞれの時代を見事に再現した映像である。前者はモノクロでセリフは一切なし、劇伴が効果音を兼ねるサイレント映画風の作りになっているが、要所では聴覚障害者のローズが筆談で会話するため、大体のストーリーは理解できる。

一方、後者はいかにも70年代という感じのチープな色調で、ヒッピー風の若者が気怠そうに町を闊歩する、ベトナム戦争後のNYの街頭風景を映し出す。改装前のポートオーソリティ・バスターミナルの内部など、年代物のセブンアップの自販機が置かれていたり、一体どうやって撮影したのかと驚いてしまった。

さて、ひょんなことから自然史博物館に迷い込んだベンは、父親がそこで働くジェイミーという少年と仲良くなり、彼の情報を頼りに謎解きのカギとなるキンケイド書店に辿り着くことになる。少しだけネタバラシになるが、1927年のローズに兄から届くハガキにそのヒントがあるのだが、字幕は敢えてかどうかそこを訳していないので要注意である。

そこからラストにかけて、50年の時を繋ぐ因縁が順を追って明かされていき、冒頭のベンの悪夢をはじめとする様々な伏線が見事に回収されていく。全てが腑に落ちたとき、何とも言えない静かな感動が胸に迫ってきて、美しいラストシーンが全体を締め括る。子供から大人まで、観る者の心に温かいものを残す秀作である。

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2020/06/23

喜歌劇「メリー・ウィドウ」

Merrywidowフランツ・レハールの代表作。2015年メトロポリタンオペラ公演の録画を鑑賞。METでのオペレッタ上演は珍しい。METライブビューイングの紹介文。

20世紀初めのパリ。東欧の小国ポンテヴェドロの外交官ツェータ男爵は、亡夫から莫大な財産を受け継いだハンナが他国の男性と再婚すると国が破産しかねないと、書記官の伯爵ダニロにハンナに求婚するよう命じる。実はダニロはかつてハンナと恋仲で、身分違いゆえに結ばれなかったのだ。だが意地っ張りのダニロは頼みを断る。一方ハンナは、ツェータ男爵の妻ヴァランシエンヌの浮気をかばってダニロの誤解を招く。すれ違う恋のゆくえはいかに?(引用終わり)

「指環」を観たあとの箸休めというか、お気楽なオペレッタで気分転換でもと思っていたのだけれど、ごめんなさい。オペレッタ、完全に舐めていました(笑)。全体にとても品の良い、大人向けの極上のエンターテインメント作品だったのだ。

かつて恋仲だったハンナとダニロの間に再び恋愛騒ぎが持ち上がり、そこにツェータ男爵夫人の浮気が絡んで、一時は祖国の命運にかかわる事態に発展するが、最終的には誤解が解けてハッピーエンドを迎える。ストーリー自体は、例によって他愛もないお話である。

主人公の二人は本音では縒りを戻したいのに、過去の経緯と今の状況がそれを簡単に許さない。それでも互いの本心を探り合い、ついに幸福な結末を迎えるまでの過程が本作のキモである。それを象徴するのが有名な「メリー・ウィドウ・ワルツ」で、最初はハミングだったのが、最後に心温まる二重唱となって完成する構成は心憎いばかりだ。

一方、オペラにつきもののバレエは、ともすればそこだけ浮いた存在になりがちなところ、本作では祖国ポンテヴェドロへの愛国心や、ダニロの行動や心理を表現する重要な手段となっていて、オペレッタの不可欠の一部としてきちんと機能を果たしている。

このMET公演ではハンナ役のルネ・フレミング、ヴァランシエンヌ役のケリー・オハラとの豪華共演が話題となった。ケリー・オハラはブロードウェイのスターだが、学生時代はオペラを勉強していて、夜の女王を歌ったこともあるそうだ。確かにコロラトゥーラ系の軽い声質で、マイクなしでの声の通りは今一歩だったが、初オペレッタ初METとしては大健闘した部類だろう。

また、本作はこれもMETでは珍しい英語での上演だが(原語ドイツ語)、日本ではなぜかタイトル自体が英語表記のせいもあってかさほど違和感はなく、英語圏出身の歌手たちがセリフ部分を含めて伸び伸びと演じていたのが印象的だった。トニー賞受賞のストローマン演出も相俟って、特に第2幕の七重唱「女たちをどう扱う?」など、もうブロードウェイ・ミュージカルの一歩手前まで来ている感じだ。

ところで、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の「戦争の主題」後半の下降音型は、本作でダニロが歌う「マキシムへ行こう」を引用したものとされる。その歌詞は何と、「彼女たち(酒場の女たち)は祖国を忘れさせてくれるのさ」というのだ。これを不真面目だと批判したバルトークは、「管弦楽のための協奏曲」第4楽章でこれをさらに引用して茶化すような音楽を書いた。

一方、未亡人殺人事件を題材にしたヒッチコックの名作「疑惑の影」で、本作のワルツが重要なカギとして登場するなど、後世の芸術作品への影響は少なからぬものがある。ヒトラーがこのオペレッタを好んだためナチスに庇護されたレハールは、のちに戦争協力者と目されたという話まであり、ただのお気楽なオペレッタと思ったら大間違いなのだ。

6月21日 ジョグ3キロ

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2020/06/20

クルレンツィスのCD

Pathetique近年話題になっているギリシャ出身の指揮者テオドール・クルレンツィスが、手兵ムジカエテルナと録音したCD4枚を聴いてみた。曲目はモーツァルトの「フィガロの結婚」ハイライト、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」とヴァイオリン協奏曲(独奏コパチンスカヤ)、マーラーの交響曲第6番、そしてストラヴィンスキーの「春の祭典」とカンタータ「結婚」である。

ピリオド楽器を使う楽団とのことだが、ディスコグラフィーにはパーセルからショスタコーヴィチまで並び、そのレパートリーの広さに驚かされる。今回聴いた中でも、モーツァルトではほとんど室内楽のような小編成オケにピアノフォルテを加えて18世紀の音を再現する一方、マーラーやストラヴィンスキーでは大編成オケによる迫力ある音響を聴かせる。かように伸縮自在でありながら、アンサンブルの精度は常に高く保たれている。

ところが、である。

CDを聴いている間じゅう、ずっと妙な違和感に襲われて音楽に集中することが出来なかったのだ。モーツァルトはともかく、それ以外のCDで聴くオケの音がどこかヘンだ。「実際こんな風に聴こえるはずがない」。そう思い始めると、どこがどうヘンなのか気になって仕方なく、音楽の流れに身を委ねるどころでなくなる。

おそらく、録音後のミキシングでかなり作為的な編集が行われたに違いない。特定の楽器が突然前面に出て目立つかと思えば、「悲愴」のクラリネットソロが、舞台袖で吹いているかと思うぐらいの超弱音で始まったりする。協奏曲のヴァイオリンソロがフルオーケストラに負けない大きな音像で再生されたりすると、思わず「ウソだろ」と叫びたくなる。一方では、マーラーの最も音量が大きな箇所では、不自然にピークが抑えられていたりする。

LPレコードの時代から録音後の編集作業は不可欠の工程で、エンジニアの腕の見せ所ではあるのだけれど、ここまで踏み込んで音をいじる、と言って悪ければ作り込んだ録音はなかったのではないか。従来のアーティストだったら許容しないレベルまで、クルレンツィス自身がむしろ積極的に関与しなければ、これらのCDは日の目を見なかったに違いない。そういう意味でも、これまでに類を見ない新しい時代の指揮者なのだろう。

そうなると、実演ではどうなのかが気になるところだ。今年4月に予定されていた来日公演は残念ながら中止になったが、昨年の来日公演では「賛否両論、さまざまな議論が飛び交った」そうである。過去の公演の動画を見ると、チェロ以外の奏者が全員起立したまま演奏しているのもあり、ビジュアル的にも世間の耳目を集めているようだ。

ところで、そうした録音編集や演奏スタイルなど表面的な特徴はさておき、肝心の演奏の中身はどうなのだろう。前述したように、録音の不自然さのため音楽に集中できなかったきらいはあるが、自由闊達な演奏に好感を持てたモーツァルト以外は大して感心しなかったというのが正直なところだ。

チャイコフスキーの交響曲は細部まで克明に表現された演奏だが、協奏曲は奇を衒ったとしか思いようがなく、マーラーは音響の美しさは良いとして、特有の粘っこいリズムとかグロテスクな音色との対比などの味わいに乏しい。「春の祭典」はもっと野性的で「尖った」演奏を期待していたが、これまた大変美しく「円い」演奏に拍子抜けした。

最近、ベートーヴェンの交響曲第5番のCDが発売され、今後チクルスを完成させる予定と聞く。また機会があれば聴いてみたい。

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2020/06/17

『ロング・エンゲージメント』

Engagement2004年仏。『アメリ』と同じ、ジャン=ピエール・ジュネ監督、オドレイ・トトゥ主演。アマゾンの紹介文。

第一次大戦下のフランス。前線の塹壕を5人の兵士が連行されて行く。過酷な戦場から逃れるため自らの身体を傷つけたフランス兵たちだ。彼らは刑のかわりにドイツ軍の標的となるような敵陣との中間地点に置き去りにされた。そのなかの最も若い兵士がマチルドの婚約者マネクだった。
終戦後も全く音沙汰のないマネクの安否を気づかうマチルドのもとに、戦場で彼に出会ったというエスペランザから手紙が届く。その日からマチルドの懸命な捜索が始まった。プロの探偵を雇い、新聞に告知を出し、必死に捜索を続けるマチルド。兵士たちの知人など関係者が浮かぶたびにどこにでも出向き、さまざまな出会いと証言を重ねていく。
だがマネクの最期を見たものは一人もいない。「マネクに何かあれば、私にはわかるはず---」果たして、その愛の直感は、奇跡を起こし、マチルドを彼へと導くのか?(引用終わり)

戦争で生死行方ともに不明になった恋人を探し求めるという単純なストーリーだけれど、登場人物の人間関係がかなり複雑で、そこを押さえておかないとマチルドの捜索の内容が分からない。『アメリ』でもそうだったが、この監督の作品は説明が極端に少ないので、最初観たときは途中でついていけなくなり、再度メモを取りながら観直す破目になった。

しかし、それだけの価値はある作品だ。悲惨な戦争に引き裂かれた男女の愛。マチルドは小児麻痺の体をおして恋人を探し求めるが、別の女性は恋人を殺した人間への復讐に執念を燃やす。やむを得ない事情で不倫に至ってしまった過去を隠して生きる未亡人、別人に成りすまして密かに戦後を生き延びる元兵士もいる。

そういった様々なエピソードが、ひとつひとつ丁寧に描かれているけれど、それがセリフによる説明ではなく、美しい映像によって直感的に表現されているのが本作最大の特徴であろう。ラスト近く、マチルドが川岸の東屋で化粧直しするシーンは、ルノアールの絵画のような美しさに圧倒される。また、畑の中で農夫が兵隊に徴用される僅か十数秒のシーンですら強い印象を残すが、そのためにわざわざ麻を一から栽培し、ヘリで草を揺らして撮影したというから恐れ入る。

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2020/06/14

テレワーク

もちろん、自分の話ではない。先週娘が実家に帰省していて、会社から1週間の在宅勤務を認められていたのだ。なるほど、ネットを介したテレワークなら、首都圏の自宅であろうと奈良の実家であろうと何ら変わりはない。いっそニューカレドニアのリゾートホテルでも構わないのだろうが、それではほとんど仕事にならないか。(笑)

普段実家に帰省しているときは遅寝遅起きのぐうたら生活を送る娘だが、さすがに今回は月曜から金曜までちゃんと始業時間にはスタンバイして、ほぼ終日部屋に籠って仕事をしていたようだ。「ようだ」というのは中を覗くのは憚られたからで、それでも時折仕事関係の電話がかかってきて応対していたのは間違いない。

ところで、こういう環境だとオンとオフの切り替えが大事だろうと思って、こんなものを拵えて部屋のドアにかけておいた。もちろん、「サテライトオフィス」というのは勝手につけた事業所名であるが、まあ当たらずとも遠からずといったところだろう。

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さて、仕事が終わったら・・・

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2020/06/11

『アメリカン・ビューティー』

Americanbeauty1999年米。サム・メンデス監督、ケヴィン・スペイシーほか。映画ドットコムの紹介文。

郊外の新興住宅地に暮らす夫婦と娘の三人家族。夫婦仲は冷め、娘は親と意思の疎通がない。おかしな青年とゲイ嫌いの父親がいる隣家も同様の家庭だ。だが夫がリストラに遭い、娘の友人に性的妄想を抱き、妻は浮気、娘は隣家の青年と駆け落ちを決意し……。コミカルで辛辣な家庭崩壊ドラマ。アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、脚本賞、撮影賞の5部門を獲得。(引用終わり)

一見ごく普通の中流家庭を構成する登場人物たちの突然の行動変化が、ともすればマンガ的なほど分かりやすく描写され、またジャケット写真に象徴される性的なエピソードも頻繁に登場する。最初に観終えた瞬間は、何だか浅薄で悪趣味で嫌味なブラックコメディのように感じた。

しかし、時が経つにつれ、じわじわと底知れぬ恐ろしさが忍び寄ってきた。ここに登場するのは、どこかの知らない住宅地に住む「彼ら」だけれど、それはもしかしたら明日の「あなた」に起こるかもしれない話なのだ。

一見平和で平凡な日常生活を送る現代人の内面に潜む不安や不満、虚栄心、秘められた願望、破壊や逃走への衝動などが、遠慮会釈なく白日のもとに晒されていく。これは、そういうとても怖い映画なのだ。「自分はそんなのとは関係ない」と仰る(あるいは思い込んでいる)幸せな聖人君子諸氏に、この映画はお勧めできない。

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2020/06/08

舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」

Walkureクラシック音楽を聴き始めて半世紀近く、ようやく「指環」全4作を初めて鑑賞したのだ。

ワーグナー畢生の大作である。上演時間は全体で16時間にも及び、4日に亘って上演される。順に、初夜いや(笑)序夜「ラインの黄金」、第1日「ヴァルキューレ」、第2日「ジークフリート」、第3日「神々の黄昏」の楽劇四部作からなる。その総称が「ニーベルングの指環」で、作曲者は「舞台祝祭劇」という呼称を付している。

オペラ史上希にみる長大さに加え、世界支配を可能にする黄金の指環を巡る争奪戦、それによる神々の終末と愛による救済を描いた壮大な叙事詩的内容とあって、とにかく敷居の高い作品である。あらすじですら長文たらざるを得ず、それを一読したところで皆目見当がつかない。

自分の場合、里中満智子によるマンガを読んで、ようやくビジュアル的に概略を把握することが出来たのが大きい。それがなければいまだに鑑賞を躊躇していたに違いない。

しかし、「案ずるより産むが易し」とはよく言ったもので、一旦観始めてその独特の世界観に馴染んでくると、意外にすんなりと最後まで通して鑑賞することが出来た。最初は途中でイヤになって投げ出すかもしれないと思っていたのだ。

劇中の人物や概念、小道具等を短い音型で表したライトモティーフ(示導動機)の主なものを予習しておいたことと、無理せず1日1幕か2幕にしておいたのが良かった。結局、4日どころか半月ほどかかってしまったけれど。(苦笑)

また最初から観直して詳細な感想を書く機会が訪れることを願うが、とりあえずの雑駁な印象を言えば、里中版もまさにそうであるように、これは今で言うSFアニメやゲームの先駆的作品であるように感じた。いや、むしろ現代のそれらこそ、本作から多くのヒントを得ているという方が正しいのだろう。

天上の神々、ラインの乙女、地底の小人族、巨人族、人間界の英雄といった多彩なキャラクター、「黄金の指環」「ノートゥングの剣」「隠れ頭巾」といったアイテム、激しい闘争や陰謀、復讐といったスケールの大きな物語展開は、そのままゲームやアニメにしても全く違和感がなさそうだ。

正統派のワグネリアンからは「何をふざけたことを」とお叱りを受けるかもしれないが、ワグナー当人は当時の上演内容には満足しておらず、もしかすると今のアニメを見て膝を打ったりするかもしれないではないか。

今回鑑賞したメトロポリタンオペラ公演でも、会場にはヴァルキューレの兜を模したような帽子を被って嬉しそうに着席しているファンの姿もあった。バイロイトだったら摘み出されかねないが、それでいいのではないかと思う。

そのMETでは、ワグナー生誕200年に当たる2013年に向けて、ルパージュ演出による新たなプロダクションを敢行、今回はその新演出による公演全体の録画に加え、メイキング映像もたっぷりと観ることが出来た。

写真にあるように、舞台中央に長方形をした24枚の巨大な板が据え付けられ、これが自由に回転して様々な形を作り出すことが出来る。自分は南京玉すだれのバケモノを連想してしまったが(笑)、そこに場面や歌手の動作に合わせて、川や森、小鳥、岩山、火炎などの映像が投影されるという仕掛けである。

総重量40トンにも及び、舞台の補強工事まで行われたそうだが、一旦これを据え付ければ他の大道具は一切不要、場面転換も板を動かして映像を切り替えれば済むので、ワーグナーが19世紀当時の舞台を前提に書いた場面転換の音楽が間延びして聴こえたほどである。

もうひとつ、ある歌手がインタビューで言っていたが、舞台中央に大きな板が立っているため、これが格好の反響板となって、自分の声が普段より劇場全体に届く実感があるそうだ。

新演出の評価がどのようなものかよく分からないが、装置はともかく演出自体はオーソドックスなもので安心して観ることが出来た。少なくとも、今後の「指環」上演の方向性を示すものと言えるが、バイロイトを含むヨーロッパの古い劇場では、同じスケールでの導入は無理かもしれない。

6月7日 ジョグ4キロ

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2020/06/05

新しい登山様式

4月11日を最後に畝傍山登山を控えていた。屋外の活動で、それほど多くの人が集まるわけではないけれど、狭い登山道ですれ違ったり追い越したりする場合、一瞬とはいえ「密接」は避けられない。抗癌剤治療中の自分はさすがに用心が必要だろうと自粛していたのだ。

しかし、緊急事態宣言が解除され、外出自粛も緩和されたようなので、昨日久々に登ってみたのだ。分岐点にはご覧のような注意書きが掲示されていた。いわば「新しい登山様式」とでも言うのだろうか。何もここまでする必要はなく、周囲に人がいないときはマスクを外してもいいと思うのだけれど。

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ざっとの感じで言えば、マスクをしている人は半分にも満たなかった。もちろん自分はしていったけれど、息がしづらいし、汗で蒸れて暑い。感染症より熱中症の方が心配になる。

町中でもそうだが、高齢男性はほとんどしていないように見受けられた。特にひどかったのが、いつも山頂で屯している高齢者たちで、2mどころが隣とくっつきそうなほど密接して腰かけ、傍若無人に大声で談笑に耽り、マスクはほぼ全員着用せず、極めつけは煙草を吸っている輩まで居た。

あなたたちに、山に登る資格はないッ!(怒)

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2020/06/02

オンライン帰省

大型連休中も帰省が叶わなかった首都圏在住の娘、四国在住の息子と我が家を結んで、オンライン帰省なるものを試してみたのだ。LINEのグループ通話を使い、日曜の20時頃から、それぞれ自宅の WiFi を利用してという条件下である。

画像、音声ともタイムラグが生じるのは予想どおりだったが、思っていたほどではなかった。画像は意外に鮮明で、部屋の様子もしっかり確認することが出来た(ここは大事なところ・笑)。ただ、慣れないものだから発言のタイミングが分からず、無音時間が続いたり、いちどきに発話して聞き取れなかったりという事態が頻発した。

いかにも隔靴掻痒の感は否めなかったが、久々にリアルタイムで時間を共有できた機会は貴重だった。まあ、緊急事態宣言とやらも解除になって、近いうちにリアルで再会できる日も近いと思うけれど、たまにはこんな形でも家族の時間を過ごせるのは良いことには違いない。

ここからは余談になる。「帰省」に相当する英語は family reunion といい、今回の場合はこちらの方がしっくり来る。ただ故郷に戻るのではなく、普段離れて暮らす家族と再会するのが主目的だからだ。某知事のように滅多矢鱈とカタカナ語を使う趣味はないけれど、日本語に訳しにくい英語の方がうまく中身を表現できることはあるのだ。

reminder というのもそうだ。締切が迫った用件を思い出させるためのメールとかメモ書きなどのことだが、これに相当する日本語が見当たらない。辞書には「催促状」とあるけれど、「(そういう用件があったことを)思い出させる」ことと、「(何々をせよと)催促する」ことは意味が違うと思う。

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