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2019/11/28

『ミスター・ガラス』

Glass132019年、米。ナイト・シャマラン監督作品。公式サイトの紹介文。

フィラデルフィアのある施設に3人の特殊な能力を持つ男が集められ、研究が開始された。彼らの共通点はひとつ―自分が人間を超える存在だと信じていること。不死身の肉体と悪を感知する力を持つデヴィッド(ブルース・ウィリス)、24もの人格を持つ多重人格者ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)、そして、非凡なIQと生涯で94回も骨折した壊れやすい肉体を持つ〝ミスター・ガラス″(サミュエル・L.ジャクソン)…。彼らは人間を超える存在なのか? 最後に明らかになる“驚愕の結末”とは? M.ナイト・シャマラン監督が『アンブレイカブル』のその後を描く、衝撃のサスペンス・スリラー。(引用終わり)

紹介文には『アンブレイカブル』(2000)のその後とあるけれど、もうひとつ『スプリット』(2017)も加えた3部作という構成になっている。したがって、前2作を観ていないと3人の男たちの来歴等が分からず、「驚愕の結末」の意味もピンと来ないことになる。

ここまで伏線を張るだけ張って、いよいよこの完結篇で三者が一堂に会することになる。そこに謎の女性精神分析医が絡んでという展開だが、最後はアメリカン・コミックを踏まえた「スーパーヒーローは実在するのか」という命題に収斂していくことになり、それに向けての虚々実々の駆け引きが繰り広げられる。

フィラデルフィアに最近完成したという設定の「オオサカ・タワー」(あべのハルカスにヒントを得たものか?)でのアクションシーンを期待したけれど、そこに行くまでに勝敗が決してしまったのには少し拍子抜けした。しかし、「驚愕の結末」には次に繋がる伏線が張られているようでもあり、三者それぞれの関係者に引き継がれた続篇もありそうなエンディングは、いかにもシャマランならではである。

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2019/11/25

歌劇「ラ・ボエーム」

Labohemeプッチーニの作品中、いや全てのオペラ作品中でも屈指の人気を誇る傑作。パリの屋根裏部屋で暮らす芸術家4人組のひとり、詩人のロドルフォとお針子ミミの悲恋を中心に描く。

今回鑑賞したのは、1965年にミラノ・スカラ座で収録された映画版(写真)と、2014年メトロポリタンオペラ公演のライブ映像。前者はミレッラ・フレーニ(ミミ)、ジャンニ・ライモンディ(ロドルフォ)、カラヤン(指揮)、後者はそれぞれ、クリスティーヌ・オポライス、ヴィットーリオ・グリゴーロ、ステファーノ・ランザーニといった面々、演出はともにフランコ・ゼフィレッリである。

オポライスは何と前日夜に「蝶々夫人」のタイトルロールを歌った翌朝、MET総裁のゲルブから急遽電話が入り、その日の昼公演の「ラ・ボエーム」のミミ役がキャンセルとなったので、代役で歌ってくれと依頼された。24時間に2つの役でMETにロール・デビューした歌手は、MET史上初めてという快挙だそうだ。

その事情を感じさせないほどの出来映えはさすがと言えるが、それでも歌に関してはフレーニの方がやはり一日の長がある。若干線が細いながらもよく通る声は、病弱という設定のミミにぴったりだし、最後のベッドでの場面など万感の思いを籠める箇所で、あえてソット・ヴォーチェというのか、「大事なことは小さな声で言うのよ」といった表現が素晴らしい効果を上げている。

ゼフィレッリの舞台の見事なことは言うまでもない。実はアメリカ滞在時にMETの舞台をナマで見たことがあり、第2幕冒頭のパリ街頭のシーンには心底驚愕した覚えがある。まるで巨大な印象派の絵画がそのまま動き出したかのような錯覚に襲われたものだ。幕が開いた瞬間、観客から思わず溜息が漏れ、拍手が起きるのはいつものことという。

もう一か所、印象に残る演出があった。第3幕で最初降っていた雪が一旦止み、その後ミミとロドルフォが別れる決意をする場面になる。「花の季節になったら別れよう」と二人は決心し、「ずっとこのまま冬だったらいいのに!」とミミが歌うと、また静かに雪が降り始めるという演出は心憎いばかりだ。

音楽の面では、それまでのオペラでは、筋書きはレチタティーヴォの部分で言わば散文調に淡々と進み、情感が高まったところで詩的な歌詞のアリアとなって一旦時間が止まるような構成だったのが、この作品ではレチタティーヴォとアリアの両方で筋書きが進められ、オペラ全体の一体感が高まっているように感じた。そんなところにも、メロディの美しさだけではない、プッチーニの音楽の魅力があるのかもしれない。

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2019/11/22

ハイティンク&ウィーンフィルのブルックナー交響曲集

Haitink最近やたらとブルックナーばかり聴いている(笑)。先日はバレンボイム&ベルリンフィルの全集を聴いたが、今度はハイティンクがウィーンフィルを指揮したCDをまとめて聴いた。ただ、「全集」とはなっていないのが残念な限りで、録音順に第4番、第5番、第3番、第8番まで終えたところで打ち切りとなってしまった。

ハイティンクは他にもベルリンフィルとマーラーの交響曲の録音をスタートさせたものの、これまた第8番、第9番を残したところで打ち切りの憂き目に遭っている。発売元のフィリップスや楽団等とどのような問題が生じたのかは不明であるが、ブルックナー、マーラーともに、ハイティンクはコンセルトヘボウとは既に全集盤を完成させていたことから、フィリップスとしては他国のオケと全集盤同士の競合になるのを避けたかったのかもしれない。

そんな邪推はともかく、ハイティンクは芸風自体が実直そのものであるし、人相容貌もどこかセントバーナード(Bernard はマエストロのファーストネームと同じ・笑)とかレトリーバーなど性格の温和な大型犬を連想させる(笑)。フィリップスや楽団を相手に、ハッタリや駆け引きも厭わず、上手く立ち回ることが出来なかったのだろうと推察される。

そうした経緯はさておき、残された4曲の演奏はいずれも中庸に徹したオーソドックスなもので、ブルックナー演奏のリファレンスとでも言うべき存在となっている。かつて「なにも足さない。なにも引かない。」というウイスキーのCMがあったが、ちょうどそんな感じだ。テンポ設定やダイナミクス、フレージング、全体のバランス、どれを取ってもびくともしない抜群の安定感を示し、安心してブルックナーの世界に浸ることが出来る。

ブルックナーの交響曲の多くを初演し、「本家」意識が強いに違いないウィーンフィルの自主性を尊重し、任せるべきところは任せた演奏なのだろう。ベルリンフィルの重厚な音と比べると、南欧的な明るさのある音が伸び伸びと広がり、とりわけスケルツォのトリオなどに出る舞曲風のメロディの歌わせ方は他の追随を許さない。

ウィーンフィルのブルックナーと言えば、古くはシューリヒト、クナッパーツブッシュ、時代が下ってベームやカラヤン、ジュリーニといった名指揮者の録音が数多く残されているが、録音が古かったり、解釈が個性的だったりと一長一短がある。そんな中にあって、まるでお手本のような演奏に加え、残響まで美しい優秀な録音のこれらCDは貴重な存在と言える。

なお、ハイティンクは90歳を超えた今年6月に引退を表明、9月のルツェルン音楽祭での公演が最後のコンサートとなった。ちなみにその演奏会で指揮したのは、コンセルトヘボウではなくウィーンフィル、プログラムの最後はブルックナーの交響曲第7番であった。

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2019/11/19

『花嫁のパパ』

Bride1991年、米。チャールズ・シャイアー監督。Yahoo! 映画の紹介文。

「花嫁の父」(1950)のリメイク。スポーツ靴メーカーの経営者ジョージ(スティーヴ・マーティン)は、可愛い娘アニー(キンバリー・ウィリアムズ)がイタリア留学から帰ってきていきなり結婚宣言して気が動転。相手は非の打ち所のない資産家の好青年ブライアン(ジョージ・ニューバーン)。妻ニーナ(ダイアン・キートン)は大喜び、周囲も大乗り気でジョージも露骨な反対で娘に嫌われたくないのでしぶしぶ了承。結婚する前になんとか娘に思い止まらせようというジョージの思惑とは裏腹に、結婚の準備は着々と進み、さらには費用も膨らむ一方で…。(引用終わり)

来月自分も同じ立場になるという、絶妙のタイミングでWOWOWが放映してくれたので、観ないではいられなかった。娘が結婚して家を出て行くに際しての父親の寂しさがテーマだと思っていたが、もちろんそういう場面はあるものの、どちらかと言えば結婚式の事前準備と当日の運営の大変さがメインテーマである。冒頭、結婚式までの半年間を振り返るシーンでジョージはこう述懐する。

結婚は単純だと思ってた
男と女が出会い 恋に落ち 指環を買う そして誓う
だが違った
“結婚”はともかく “結婚式”となると大変だ

「大変」さはもちろん金銭的なものを含む。娘の姓が変わるのに要した費用は、17年前に買った自宅(150人を招待できるほど広い)より高くついたというのである。アメリカでは花嫁側が結婚披露パーティの費用を全て負担するという伝統があるそうで、それはこの映画のように、新郎側が大邸宅に住む富豪で、結婚祝いに新車を1台ポンと寄越すような家であっても同じなのである。

結婚式当日、ジョージは多数の招待客にもみくちゃにされながら、娘に最後の挨拶をしようとするものの、招待客が路上駐車した車への対応などに追われ、とうとう娘に近づくことすら出来ずにお開きとなる。多額の費用を負担した挙句に、挨拶も出来ないまま娘は家を出て行った。「花嫁のパパ」の哀れさを象徴するようなシーンに胸がつまったが、最後にはそれを埋め合わせる出来事がちゃんと用意されて、目出度くハッピーエンドとなる。

ところで、アニーの年の離れた弟マティを演じているのはキーラン・カルキン。どこかで見た名前と顔だと思ったら、『ホーム・アローン』に兄マコーレーとともに出演していたのだった。本作公開当時9歳という子役ながら、惚けたユーモアを交えた演技はなかなか見事で、父母と娘の関係が込み入った場面でも、清涼剤のような笑いを提供してくれている。

蛇足ながら、続篇『花嫁のパパ2』も観たけれど、ちょっと無茶な設定に基づくストーリーで、それこそ蛇足という感が否めなかった。

もうひとつ蛇足ながら、昨日61歳になった。あと何回誕生日を迎えられるか分からないが、1年1年を、いや1日1日を大切に生きていきたいと改めて思った。

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2019/11/16

歌劇「マノン・レスコー」

自堕落な美少女マノンに振り回される青年デ・グリューの破滅的な恋を描いたプッチーニの出世作。今回鑑賞したのは、2016年3月メトロポリタンオペラ公演の録画で、タイトルロールはクリスティーヌ・オポライス。デ・グリューは当初ヨナス・カウフマンの予定だったが、例によって直前にキャンセルされ、急遽代役に指名されたロベルト・アラーニャが初めてこの役を歌った。演出リチャード・エア、指揮ファビオ・ルイージ。METライブビューイング公式サイトの紹介文。

18世紀(本演出では1940年代)のフランス、アミアンとパリ。修道院へ入るために旅していた美少女マノンは、アミアンの町で青年デ・グリューと恋に落ち、駆け落ちする。だが贅沢好きのマノンは、デ・グリューとの貧乏暮らしに耐えられなかった。裕福な貴族ジェロンテの庇護を得て豊かな生活を送るマノンのもとに現れたデ・グリューは、自分とともに来るようマノンを説得し、彼女も同意するが、そこへジェロンテが踏み込んで…。(引用終わり)

ポスト・ヴェルディのオペラの主流は、いわゆるヴェリズモ・オペラとなる。登場人物は王侯貴族や英雄ではなく、市井に生きる普通の人々であり、物語も神話や絵空事の世界ではなく、生々しい真実のドラマである。その傾向はプッチーニにも見られるところで、この出世作にもそれが色濃く現れている。登場人物はどこにでもいそうな普通の人々ばかり。物語も「カネで囲われた恋人を奪い返した青年が、恋人と一緒に逃亡を図るも…」という、今でも映画やドラマの題材になりそうな、まあよくあるメロドラマだ。

一方、音楽的な面では、より感覚的、直接的に聴衆に訴えかける力が強い。メロディは明快で親しみやすく、伴奏がそれをユニゾンで補強することで、いっそう訴求力を高めている。ヴェルディの音楽が20世紀音楽の到来の近いことを窺わせるとすれば、プッチーニのはさらにそれを飛び越え、現代のミュージカルにも通じる、分かりやすさと魅力を兼ね備えた音楽と言える。

主役以外の群衆の扱い方にもリアリティが感じられ、ヴェルディでは「その他大勢」に過ぎなかった群衆が、このオペラ冒頭の街頭シーンでは、一人一人にそれぞれの動作があり、互いに談笑したり口論したりしている。そこから抜け出てきたエドモントが最初のアリアを歌い始めてオペラはスタートするのだが、まさに「真実主義」に相応しい自然なオープニングである。

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2019/11/13

バレンボイムのブラームス交響曲全集

Brahmsブルックナー交響曲全集と同様、バレンボイムにとって2度目となるブラームス交響曲全集。オケは手兵シュターツカペレ・ベルリン、収録は2017年10月で、同年3月にオープンしたばかりのピエール・ブーレーズ・ザールにおいて行われたセッション録音である。ジャケット写真で聴衆が写っているのは、同時期に行われた一般公演時のものだろうか。

第1番第1楽章冒頭から、重心の低い、ズシンと腹にくる重厚なサウンドに引き込まれる。ベルリンの壁が崩壊してもう30年になるけれど、旧東ドイツ地域に残されていたドイツ伝統の響きが再現されたかのようだ。しかし、それでいて対旋律や伴奏音型など細部まで実に見通しの良い演奏であることに驚かされる。このような重厚な響きと見通しの良さを両立させた演奏、録音というのはかつて経験がなく、この全集の最大の成果として誇れるものだろう。

ピエール・ブーレーズ・ザールの音響がそれに寄与していることは間違いない。写真で見ると、楕円形の客席が中央のステージを取り囲む独特の配置となっているが、建物自体はかつての国立歌劇場の倉庫を改造したもので、全体の形状としては天井の高いシューボックス型のホールだそうだ。そのフロアの中央に音源を配置することで、理想的な音響を実現しようとしたのだろう。ちなみにホールの音響設計は日本の永田音響設計が担当した。

ただ、演奏解釈については全面的に賛成とは言いかねる。第1番、第2番は比較的オーソドックスで、じっくり音楽に浸ることが出来たが、第3番、第4番ではテンポをかなり伸び縮みさせた情緒纏綿たる演奏で、時には音楽が止まってしまいそうなほど遅くなる。特に第4番は、冒頭主題からして四分音符のアウフタクトのHを、次の二分音符のGより長くなるほど引っ張る。フルトヴェングラーがベルリンフィルを振った1948年の録音に似た、かなり時代がかったような演奏だ。

自分としては、この第4番は出来る限りインテンポで演奏してほしい。冒頭主題はしばらく演奏してきた音楽の続きででもあるかのように淡々と。第1楽章のコーダも必要以上に煽らず、最後から2小節目のティンパニの四分音符もリタルダンドしない。最低この2点を押さえていない演奏は、基本的に聴く気がしないのが正直なところだ。

ブラームスはこの交響曲を、フリギア旋法だのパッサカリアだの、あえて古色蒼然たる手法を用いて書いた。したがって、形の上ではバロック音楽のような正確なテンポ、地味な音色で演奏すべきである。しかし、そんな古典的な器の中に封じ込めても自ずから滲み出てしまう、作曲者の滾るような熱い思いが籠められている。そのことが分かるような演奏こそが理想であって、クライバーがウィーンフィルを指揮した1980年の録音がまさにそれである。

もうひとつ難点があって、バレンボイムが指揮台で足を踏ん張る「ドン」という音や、ヤマ場で力が入ったときの「シュッ」という呼吸音がかなり頻繁に入る。それだけ気合が入った演奏ということなのだろうが、まるでバレンボイムクジラが指揮台で暴れ回っているかのようである。(苦笑)

しかし、そうしたことを含めてもなお、今日あまり聴くことの出来なくなった重厚な音響によるブラームスは貴重な存在というしかなく、演奏解釈は別として、この音が恋しくなったらまた聴くことになるだろう。

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2019/11/10

当世結婚式事情その2

昨日は甥の結婚式、披露宴に参列した。今年3月以来となるが、その時と比べるとまだ従来型のパターンに近く、結婚式は大阪市内の某神社で挙行され、親族友人を含め大勢の人たちが参列した。幸い、抜けるような秋晴れに恵まれ、屋外での記念撮影も滞りなく行われたが、雨天だったら大変だったろうと思う。

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挙式後は市内某所の高級フレンチレストランに移動して披露宴の運びとなった。3月の時と同様、ここでも媒酌人やケーキカット、キャンドルサービスなどはなかったものの、職場の上司によるスピーチや乾杯挨拶は型通り行われた。ご多分に洩れず少し長くなったけれど、甥っ子本人があまり喋りたがらない、職場での働きぶりの一端を知る良い機会になった。

直腸癌の手術以来、公の場への長時間の外出は初めてで、相当疲れてしまったが、レストランには設備の整ったトイレがあり、その点では特に問題なかった。ただ、抗癌剤の影響で冷たい飲み物、食べ物はNG、当然アルコール抜きなので、折角のフルコースが味気なくなったのは残念だったが。

ところで、来月には今年3度目の結婚式が控えている。今度は何とうちの娘である。新婦のエスコートなど大役が控えているので、しっかり体調を整え、くれぐれも粗相のないようにしたい。

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2019/11/07

歌劇「オテロ」

Otelloヴェルディ晩年の傑作オペラ。シェイクスピアの悲劇「オセロー」を原作とし、それまでのナンバーオペラ(番号が付されたアリアや重唱などを繋げていく)様式を脱して、一瞬の隙もない緊密な音楽が展開する新たな境地を切り拓いた作品である。ヴェルディと同じ年に生まれたワーグナーが、彼の「楽劇」において音楽の流れを切らさない「無限旋律」の手法を用いたのを意識しなかったはずはない。

文字通り「疑心暗鬼を生ず」の猜疑心から、破滅へと突き進む主人公を中心とした人間心理の揺れ動きを、残酷なまでのリアリティーで描き切った「音楽による心理ドラマ」である。とりわけ、主人公を破滅させようと画策する旗手イアーゴの奸計は憎たらしいほどに見事である。実は彼こそが全体の狂言回しを担っていて、実際ヴェルディはこの悪役に惹かれ、作曲中のこのオペラを「イアーゴ」と称していたそうだ。

刺激的なパッセージや不協和音をふんだんに使った音楽も、それまでのヴェルディ作品とは完全に一線を画し、20世紀音楽の到来が近いことをまざまざと実感させるが、そんな中にあってこそ、第1幕最後の愛の二重唱や第4幕「柳の歌」のメロディの美しさが一層際立って感じられ、ヴェルディの音楽技法の円熟ぶりを物語っている。

今回鑑賞したのは、2017年6月英国ロイヤルオペラ公演の録画。ヨナス・カウフマンがオテロデビューを果たし、マルコ・ヴラトーニャ(イアーゴ)、マリア・アグレスタ(デズデモナ)といった実力派とともに臨んだ新演出公演である。指揮アントニオ・パッパーノ、演出キース・ウォーナー。原作者シェイクスピアのお膝元での公演だけに、舞台と客席が一体となってお馴染みの古典を味わい尽くそうという雰囲気が感じ取れた。

さて、これで手許にない「運命の力」と「ファルスタッフ」を除き、ヴェルディの主要作品は一応鑑賞したことになる。続いては、ヴェルディ後のイタリアオペラから、まずはプッチーニを観ていこうと思う。

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2019/11/04

バレンボイムのブルックナー交響曲全集

Bruckner1990年代にベルリン・フィルと録音した、バレンボイムにとって2度目となる全集盤。これまでブルックナーはカラヤン、チェリビダッケ、マタチッチ、ヴァントといった指揮者で聴いてきたが、バレンボイム盤は全く眼中になかった。ところが、少し前に彼のベートーヴェン交響曲全集を聴いて感銘を受け、それならばとブルックナー交響曲全集も入手して試聴してみたのだ。あまり聴く機会のない合唱曲「ヘルゴラント」も収録されている。

期待は裏切られなかった。曲によってはこれまで聴いた中でのベストと思える名演奏である。一言でいえば、大管弦楽の圧倒的な音響美を余すところなく具現化した演奏である。彼の交響曲をカトリック信仰の表現であるとして、一種の宗教音楽として崇敬し神格化するような風潮が、特にわが国では一部評論家の影響を受けて根強いが、これらの演奏はそれに対するアンチテーゼのようですらある。

宗教というフィルターを外して眺めれば、他に類を見ないほどの規模と複雑な構成、メロディや和声の美しさを備えた純粋音楽として、彼の交響曲は確固として存在している。その特質をあるがまま最大限に引き出した演奏であり、ブルックナーの音楽をいわば彼岸から此岸に引き戻した、極めてヒューマンなアプローチと言えるのではないか。とりわけ、これまで宗教色が強いと感じていた第3、5、9番の3曲に大きな感銘を受けたのはその現れと言える。

収録場所は第5、7番がシャウシュピールハウス(現コンツェルトハウス)、それ以外は全てフィルハーモニーである。第4、7番以外は全てライヴ録音であるが、残響が完全に消えてもなお拍手が起きないのはさすがである。テルデックによる録音はダイナミックレンジが広く、各楽器の定位や分離、遠近感まで良く表現出来ている。特筆すべきはコントラバスの音で、余計な共鳴音の少ない、特有の摩擦音を含んだ乾いた音は本当に生々しい。

ところで、先のベートーヴェンは6枚990円、このブルックナーは9枚1823円で入手できた。わが国におけるバレンボイムの評価が低いおかげか、こんな素晴らしい全集が1枚200円程度で入手できたことに感謝しなければならない。実は、最近シュターツカペレ・ベルリンと録音したブラームス交響曲全集も入手したところで、こちらも期待できそうだ。

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2019/11/01

タブレットを買い替え

4年半ほど使ってきたタブレットが充電出来ない状態になり、修理しても新品並みの費用がかかるというので買い替えることにした。6月末からの入院中は重宝していたのだが、その頃から時折充電できない状態になることがあった。ACアダプタを取り替えても同じで、どうやらUSB端子の接触不良が原因のようだ。最初のうちは少し角度をつけてケーブルを差し込むとうまくいっていたが、次第にそれでもダメになり、最後はケーブルに本体をぶら下げるような状態にしていた。そんな異常な使い方が良いわけはなく、遂にどうやっても反応しなくなった。

出来れば国産品にしたかったが、LTE対応SIMフリーのタブレットとなると選択肢は限られている。今回購入したのは HUAWEI(華為)の MediaPad M5 lite という機種である。今年発売されたばかりだが、お値段は2万円台半ばとお手頃だ。ネットでの評判も悪くないけれど、正直言って中国メーカーだけに実際に手にして使ってみるまで不安だった。

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しかし、送られてきた外箱(写真左)を見た時点で見方が変わった。アップル社を意識したに違いない、純白の台紙に小さめのフォント、金箔文字で商品名が印字されたパッケージは、それなりの高級感を演出している。蓋を開けてみると実感できるが、箱の加工精度もなかなかのものだ。当然というべきか、本体の方も洗練されたデザインで、隅々まで美しい仕上がりである。

使い始めて1週間ほど経つが、今のところメールやLINE、PayPay など、何の問題もなく快適に使いこなせている。前と同じ8インチながら、さらに薄くて軽量で扱いやすく、バッテリーの持ちもいいようだ(新品だから当たり前か)。

今後故障でもすれば意見は変わるだろうが、現状での使用感を前提にして言えば、この値段でここまでの商品を生産できるようになった、今の中国メーカーの実力を痛感させられた。昨今、アメリカから目の敵にされている華為であるが、それは取りも直さずアメリカがその脅威を真剣に受け止めているということに他ならない。中国は早くも「安かろう悪かろう」の段階を脱したのだろう。かつての日本がそれを成し遂げた何倍ものスピードで。

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