歌劇「タンホイザー」
長年クラシックファンの自分であるが、ことオペラに関してはこれまで敬遠がちというか、あまり馴染めないまま過ごしてきた。ひとつには長大な作品が多いため、まとまった時間と心の準備が必要なこと。さらに、主にイタリア語やドイツ語など原語で上演されるため、歌詞対訳や字幕を追いかける必要があるのが煩わしい。約25年前のアメリカ滞在時にはメトロポリタンオペラ(MET)にかなりの回数通ったものだが、当時は現在のような字幕装置もなく、歌詞も分からないままオペラの雰囲気だけを味わう程度だった。
ただ、当時METの売店で買い求めたオペラのVHSビデオだとか、最近WOWOWで放映されたMETライブビューイングなどを録画したオペラのDVD・BDがうちに相当数ある。これまで観る機会はほとんどなく、老後になって時間が十分できたときの愉しみというか、死ぬまでにはいずれ鑑賞する機会が訪れるだろうと考えていた。
ところが、今回の病気が最悪の経過を辿った場合、近い将来それが現実のものとなる可能性が出てきた。自宅で一応普通に過ごせている今のうちから、順次観ておくに越したことはないと思い立ち、とりあえず序曲などで多少馴染みのある「タンホイザー」から手を付けることにした。手元にはシノーポリ指揮による1989年バイロイト音楽祭公演を収録したVHSビデオ(英語字幕)と、レヴァイン指揮による2015年MET公演のBDの2種類があり、順番に観てみた。
前者はいかにも「本家」バイロイトらしく、必要最小限の装置だけにとどめた、ほとんどモノトーンのシンプルな舞台は、ワーグナーの音楽を聴かせるためという目的を明確に示している。オーケストラや合唱の力量の高さも相俟って、音楽作品としての完成度は極めて高い。ただ、英語字幕には見慣れない単語や古語(?)が頻出し、たびたび一時停止して辞書で確認するなど苦労した。
それに比べて、後者はいかにもMETらしい絢爛豪華な舞台で、カメラワークも変化に富み、娯楽作品といって悪ければ、総合芸術としての完成度は高い。独唱者はもちろん、オケや合唱も四半世紀前に比べれば格段の進歩が窺え、何よりも日本語字幕付きなので筋書きを追うのがラクだ。
作品は異教の女神ヴェーヌスに魅入られ、愛欲の日々を送っていた主人公タンホイザー(劇中ではハインリッヒ)が改悛し、カトリック信仰に救いを求めようと巡礼に旅立つも、ローマ法王から拒絶されて絶望の淵に陥るが、恋人エリーザベトの命がけの祈りによって死後の救いを得るという物語。ワーグナーお得意の聖女の自己犠牲ものではあるが、愛欲を謳歌する異教神と厳格なカトリック信仰との二項対立といった、一筋縄ではいかないところがミソだろう。
せっかく邪宗から目覚め、長い巡礼の旅をしたタンホイザーが救われなかったというのは、カトリック信仰の力をもってしても異教神を排除できなかったということだし、一方のエリーザベトにしたところで、神の言葉を代弁する天使という設定でありながら、第3幕では次のような衝撃の告白をしているのだ。
かつて罪深い欲望が芽生えた時
私はもだえ苦しみました
心の中の欲望を押し殺すために
信仰に救いを求めようとする心も、また愛欲に支配される人間の業の深さも、どちらも紛う方なき人間の真実であることを、このオペラは示しているのではないか。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント