ベートーヴェン演奏史上に残るであろう画期的な全集盤であると思う。既に全曲を2回通して聴いたが、それがどう画期的なのか、まだうまく表現する言葉が思い浮かばない。ともかく、これまでの演奏とは全く異なるアプローチによって、ベートーヴェン本来の音楽を蘇らせることを志向した演奏であると思う。
バレンボイムが初めてのベートーヴェン交響曲全集を録音するのに起用したのは、シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)であるが、この楽団について彼は自伝の中で以下のように述べている。
「ベルリン国立歌劇場で私が出会ったオーケストラは、非常にすばらしいアンティーク家具に、けれどもいく層もの埃に本来の美しさを覆い隠された家具に似ていた。オーケストラのレベルがたいへん高いことは分かっていたので、私はその埃を取り除く作業に着手した。純粋に音楽的観点に立って、イントネーション、アタックの統一、統一のとれた全体演奏、などの本来の美しさを覆っていたものを取り除いた。少しずつではあるが、このオーケストラが高いレベルを持っているという私の判断が正しかったことが実感され、あっという間にすべてがうまく整った。」
実はこれと同じことが、ベートーヴェンの演奏解釈についても言えるのではないか。手垢のついた伝統的解釈を一旦ご破算にし、「純粋に音楽的観点に立って」ベートーヴェンが本来意図した音楽を再現することを彼は目指したのではないか。サイードと対談した『音楽と社会』という本の中でも、彼はワーグナーが古典派音楽の演奏に対して与えた影響の大きさについて述べていた。
ひとつの例として、偶数番の交響曲は小規模で優美な楽曲と捉える見方が伝統的にある。しかし、それは本当に正しいのか。第7番と第8番を1枚に収めたバレンボイムの演奏を聴くと、それはただの偏見だという気がしてくるから不思議である。おそらく意図してであろうが、第7番が(もちろん立派だけれど)意外に「軽快な」演奏であるのに対し、第8番は冒頭からバスを思い切り響かせた、堂々として重厚な演奏が繰り広げられる。第1楽章展開部144小節目以下の熱のこもった演奏は圧巻である。作品番号が連続するこの2曲は、ともに甲乙つけがたい傑作なのである。
それに限らず、従来の演奏が響きの美しさや全体的な調和を目指した演奏であるとするなら、バレンボイムの方向性は真逆であるようにすら思える。全体にゴツゴツ、ザラザラとした肌触りの音づくりで、フォルテのアタック(音の出だし)はぶつけることも辞さず、クレシェンドやスフォルツァンドなどダイナミクスの変化は強烈である。旧ラジオ局スタジオでの優秀な録音のせいもあるかもしれないが、対旋律や伴奏音型も含めた各声部の音が、溶け合うことなく際立って聴こえる。突飛な譬えかもしれないが、従来の演奏が小奇麗な容器に収まった幕の内弁当だとすれば、バレンボイムのそれは色々な料理がそのまま大皿にざっくり盛られた様子を連想させる。
しかし、それこそが実はベートーヴェン本来の音楽なのではないか。それまでの古典派の音楽がいわば貴族の娯楽音楽でしかなかったのに対し、ベートーヴェンは広く一般市民に向けた芸術作品としての音楽を追求し、様々な試みを実行していった音楽家なのである。第9番第2楽章のティンパニに聴衆が大喜びしたという逸話があるが、意表をつくような楽想や展開で聴衆を飽きさせないのも彼の音楽の特質のひとつとすれば、予定調和的にまとまった演奏は古典派の呪縛から脱していないのだ。
ベートーヴェン時代のピリオド楽器や奏法、自筆譜に基づく新校訂版の使用といった試みは、実は些末的・技術的なことでしかない。モダンの楽器や従前の楽譜でも、ベートーヴェンの音楽の本質を追求することは十分可能だというのが、バレンボイムの主張なのではないか。彼が信奉するフルトヴェングラーの精神を受け継いだ、「魂のこもった」ベートーヴェンと言うことも出来るかもしれない。ただし、演奏様式は全然違っていて、バレンボイムはほとんどインテンポで通していて、アンサンブルは完璧、むろんアインザッツの乱れなど無縁である。
ただ、前の記事でも書いたように、我が国におけるバレンボイムという音楽家の評価が低い、というよりほぼ無視されているのは嘆かわしい。しかし、そのせいなのかどうか、この画期的なCD6枚組が何と990円という値段で入手できたのはとても有難かった。(笑)
6月9日 ジョグ10キロ
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