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2018/06/30

1分23秒

先日、NHK-BSで放送された、アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会を視聴した。曲目はモーツァルトの交響曲第40番ト短調と、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」というもの。今年3月に本拠地ゲヴァントハウス大ホールにて行われた公演である。

このオケは以前、ブロムシュテットがブルックナーの交響曲第7番を振った来日公演をナマで聴いた記憶があるが、いかにもドイツの古い伝統を感じさせるものの、ベルリンやミュンヘンのオケに比べるとやや地味な印象は拭えない。今回の演奏も大変オーソドックスなものだった。

それよりも驚いたのが、聴衆のマナーの良さである。映像からするとほぼ満員と思われるが、楽章の合間も含めてそれこそ咳きひとつしない。何より、曲が終わってから拍手が起きるまでの時間がとても長い。最弱音で消え入るように終わる「悲愴」では、いつまで経っても場内は静まり返ったままだ。

指揮者が中空で止めていた腕を静かに下ろす。普通ならこれが合図だが、まだまだ。

……

顔を上げて、閉じていた目をおもむろに開ける。ステージ後方の客席からは見えるはずだが、なかなか。

……

指揮棒を譜面台にそっと置く。なんのなんの。

……

譜面台の上に置いていたポケット版スコアを閉じる。ここでようやく拍手が起きた。

その経過時間を計ってみた。音が消える瞬間は分かりづらいので、便宜上、最後から2小節目、コントラバスの最後のピチカート(pppp)からとした。実に、1分23秒である。音楽の余韻に浸る。そして、そこから現実に戻るまでに、ライプツィヒの聴衆にはそれだけの時間が必要なのだ。

「それに比べて日本の聴衆は」などと言うも憚られる。かつてメンデルスゾーンがカペルマイスターを務めたライプツィヒ・ゲヴァントハウスの、そしてドイツの音楽文化の伝統というものをまざまざと見せつけられた思いである。

6月29日 ジョグ10キロ
月間走行 190キロ

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2018/06/27

『利己的な遺伝子』

Selfishgene_2リチャード・ドーキンス著。1976年初版刊行。版元の紹介文。

私たちはなぜ、生き延びようと必死になり、恋をし、争うのか? 本書で著者は、動物や人間の社会で見られる、親子間の対立や保護行為、夫婦間の争い、攻撃やなわばり行動などがなぜ進化したかを、遺伝子の視点から解き明かす。自らのコピーを増やすことを最優先にする遺伝子は、いかに生物を操るのか? 生物観を根底から揺るがし、科学の世界に地殻変動をもたらした本書は、1976年の初版刊行以来、分野を超えて多大な影響を及ぼし続けている古典的名著である。(引用終わり)

「利己的な遺伝子」の概念について、断片的には聞きかじっていたものの、ドーキンス自身の著書を手にしたのは初めてである。決して読みやすい本ではない。本文だけで416頁もあるうえに、文章は独特のレトリックに満ちていて、ともすれば途中でついて行けなくなりそうになる。池上彰氏あたりに分かりやすいダイジェストを作ってほしいと真剣に思った。(苦笑)

しかし、とにかく全体を読み通してみて、やはり一度は読むべき名著であることを実感した。コペルニクスの地動説、ダーウィンの進化論にも匹敵しうる科学革命であるのみならず、社会や宗教、倫理など広汎な分野に大きな影響を及ぼしているに違いない。

本書の要点をうまく纏めることは私の手に余るが、要するに生命というものの本質は、自分のコピーを作る「自己複製子」であるということ。その進化したものがDNAで、生物の身体とは畢竟DNAが生き延びるための乗り物(ヴィークル)に過ぎない。生物が子孫を残すためにDNAが存在するのではない。逆なのだ。

親子間の対立や夫婦間の争い、一見利他的に見える行動に隠された遺伝子の利己性。いずれも「目から鱗」の鮮やかな解明に驚くばかりである。

実は本書を読んでみようと思ったのは、最近東京で起きた幼児虐待事件がきっかけで、その原因は遺伝子レベルで解釈できるのではないかと思ったからだ。この種の事件では、ほとんどの場合、母親と前の夫との間の幼い子が新しい夫に暴行されるというパターンである。血の繋がりのない夫はともかく、母親までが自分の腹を痛めた子への暴力を黙認、場合によっては加担までするのはなぜなのか。

本書にその直接の解答はない。しかし、ヒントとなる記述はあった。あえて擬人的表現を使えば、新しい夫が前の夫より優れた遺伝子を持つと考えた母親の遺伝子は、新しい夫との子作り、子育てを優先するため、まだ手のかかる前夫との子に労力を使うのは避けようとする傾向があるのではないか。それが高じることで、連れ子に対する暴力という悲しい事態(遺伝子にとっては合理的な選択)を招くのだろう。

再婚した母親に連れ子がいる場合、潜在的には常にその危険性があると考えられるので、児童相談所などの関係機関が定期的にチェックするなど、よりキメ細かく対応することが必要ではないか。

6月25、27日 ジョグ10キロ

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2018/06/24

『花戦さ』

Hanaikusa2017年、製作委員会。東映配給。野村萬斎主演。公式サイトの紹介文。

戦国時代末期、花と町衆を愛する風変りな男がいた。男の名は池坊専好。京都・頂法寺六角堂の花僧で、いけばなの名手だ。専好がいけた松は、岐阜城大座敷で権力者・織田信長の心を奪い、豊臣秀吉、千利休をもうならせた。 この男、人の顔と名前を覚えられないうえに、口下手である。その上、秀吉や利休など超有名人の眼前でも権力には全く興味なし! 花をいけることのみが彼の至福なのだ。
時は流れて・・・愛息・鶴松を亡くして正気を失った秀吉は圧政を敷いて、己に異を唱える者どころか陰口を言った町衆にさえも残忍な粛清を始める。死に追いやられた者の中にはともに美を追い求めた友人・利休や、専好を慕う町衆たちの姿もあった。愛する人々を守る為、そして、平和な世を取り戻すため、専好は天下人・秀吉に対して一世一代の大勝負に挑む。彼が手にしたのは刃(やいば)ではなく花だった・・・。 (引用終わり)

文禄3年、実在した華道家元・初代池坊専好が、秀吉を迎えた前田利家邸で巨大な松をいけ、秀吉から称賛されたという大砂物伝説に着想を得た、鬼塚忠原作の時代小説『花いくさ』を映画化。当然ながら池坊華道会が全面的にバックアップし、私のような素人が見ても見事な生け花を、映画の随所で披露している。昇り竜をイメージしたという大砂物など、奥行きまで感じられる映像美で再現している。

秀吉を諌めるため、花を武器に命がけの勝負に出た専好の作戦は果たして成功するのか。最後の対決シーンに向けて、様々な出来事が一点に収斂していきながら、緊張感を高めていく。架空の人物、れんの存在が伏線となって、最後でうまく回収されるところも良かった。

俳優陣では、主役の野村萬斎の千変万化の表情が特徴的だが、人によっては好き嫌いが分かれるかもしれない。秀吉役が市川「猿」之助とはシャレが利いている。他に、中井貴一、佐々木蔵之介、佐藤浩市、竹下景子といった大物俳優が流石の貫録を見せている。ただ、れん役の森川葵はいかにも現代的な顔立ちで、かなり違和感があった。

6月23日 ジョグ10キロ

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2018/06/21

『ドクトル・ジバゴ』

Zhivago1965年、米伊。デヴィッド・リーン監督。allcinema の紹介文。

ロシアの文豪ボリス・パステルナークの同名小説を映画化した長編大作。時はロシア革命前後の動乱期。純真な心を持つ詩人でもある医者ジバゴを主人公に、ラーラとトーニャという2人の女性への愛を通して波瀾に満ちた生涯を描いてゆく。人生の軌跡を、多彩な登場人物を交えながら時代のうねりと共に描く壮大な一大叙事詩。M・ジャールによる美しい“ラーラのテーマ”も忘れがたい。(引用終わり)

この監督の作品は、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』『旅情』に続いて4作目。テーマはそれぞれ異なるが、「映画はこうやって作るものだ」という一貫した主張が感じられる。文芸や演劇とは異なり、映画はセリフ以外にも、場合によってはセリフなしでも、映像による表現が十分出来るメディアなのである。

本作でもその映像表現の素晴らしいことと言ったら、まさにモーション・ピクチャー、動く絵画そのものである。革命前夜の街頭デモと治安部隊の衝突、ロシアの大雪原を疾走する機関車といった迫力あるシーンのみならず、野戦病院の中で向日葵の花弁が落ちるところや、窓越しに見る雪景色が水仙の花畑に変わり、その花からラーラの顔に移るところなど、鮮やかな色彩を使った象徴的なシーンも印象に残る。

音楽はバラライカが奏でる有名な「ラーラのテーマ」が、要所要所でライトモチーフのように使われている。BDの映像特典によれば、封切当初あまり客入りが良くなかったため、この音楽を町の至るところで流して宣伝したのだという。

ストーリーそのものは、ロシア革命前後の揺れ動くロシア社会を舞台にした、主人公の不倫物語である。ドロドロしたものではないけれど、何だか大作少女漫画か宝塚歌劇みたいな感じで、個人的にはあまり感情移入できなかった。後で調べて分かったのだが、何と本当に今春の宝塚雪組公演で取り上げられていた。

アカデミー賞は脚色、撮影、作曲、美術監督・装置、衣裳デザインの5部門を受賞している。上記のような感想からすると頷けるところだ。

6月19、21日 ジョグ10キロ

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2018/06/18

特別展「広重-雨、雪、夜」

Hiroshige美術ネタなど初めてかもしれない(笑)。明日香村の奈良県立万葉文化館で現在開催されている標記展覧会を観に行って来た。この施設は飛鳥周遊マラニックなどの機会に何度か訪れているが、いつも外の売店で買い食いするだけで、中に入ったのは実は今回が初めてである。入場料を取る施設には基本的に入らないという一貫したポリシーゆえである。(笑)

しかし、先月奈良県文化会館のコンサートに行った際、配られたチラシの中にこの展覧会の案内が入っていた。街道ファン、広重ファンの自分としては見逃すわけにはいかないので、わざわざ入場料を払って入ることにしたのだ。

昨年から全国各地を回って行われている展覧会のひとつで、「東海道五拾三次」を中心に、実に150点もの広重の風景版画を展示している。東海道街道走りと並行して、近所の図書館所蔵の複製画を鑑賞してきたが、やはり本物は微細な線まで生々しく、大変迫力がある。

また、あまり詳しく知らなかったが、広重の東海道は保永堂版と呼ばれる有名なセット以外にも、行書版、隷書版、狂歌入など、実に20種類以上にも及ぶそうだ。今回はその一部も展示してあり、保永堂版とはまた違った趣の絵を楽しむことが出来た。入場料800円は十分に値打ちがあった。

ところで、この展覧会の版画は亀山市のかめやま美術館所蔵のものである。前々回と前回の街道走りでは、亀山を終点、起点にしていた。広重のコレクションを有する同美術館の存在は知っていたが、交通不便な場所にあるため断念していたのだけれど、仮に実際に訪問していたとしても、この展覧会のため貸出し中で観られなかった可能性が大きい。それが地元の施設で、しかもたまたま配られたチラシで知って観られたのだから、今回は本当にラッキーだった。

6月17日 LSD20キロ

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2018/06/15

『あやしい彼女』

Ayakano2016年、「あやカノ」製作委員会。松竹配給。多部未華子主演。allcinema の紹介文。

73歳の瀬山カツ(倍賞美津子)はワガママで無神経な毒舌おばあちゃん。地元商店街ではいつもトラブルの元凶となる鼻つまみ者。女手一つで育て上げた娘の幸恵(小林聡美)とバンド活動をしている孫・翼(北村匠海)の自慢話に周囲は辟易。そんなカツの唯一の理解者が、昔なじみの中田次郎(志賀廣太郎)。彼女を一途に慕い、どんな時でも味方になってくれていた。
ある日、幸恵と喧嘩して家を飛び出したカツは、見知らぬ写真館にふらりと足を踏み入れる。やがてふと気づくと、いつの間にか20歳の時の自分(多部未華子)に若返っていたのだった。そしてひょんな成り行きから、大鳥節子と名乗り、次郎の家に居候することに。やがて、のど自慢大会がきっかけで翼のバンドにスカウトされたカツ。かわいい孫のためとひた肌脱ぐことに。一方、音楽プロデューサーの小林拓人(要潤)も同じようにカツの歌声に魅了され、その行方を捜していたのだが…。(引用終わり)

2014年の韓国映画『怪しい彼女』のリメイク。中国版、ベトナム版もあるそうだが、そうと知らずに見れば、純然たる邦画として全く違和感はない。突然若返るというベタな設定ながら、単なるファンタジーコメディにとどまらない。苦労続きだった主人公の人生を振り返りつつ、もう一度青春時代をやり直せたらという、ヒューマンドラマとしての厚みをもっている。

何と言っても、多部未華子の可憐さが本作最大の魅力だが、そのキュートな外観と、言葉遣いなどに現れる73歳の老女の中身とのギャップがとてもコミカルである。「大鳥節子」の人物造形は、その名前からして『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンへのオマージュで、他にも「真実の口」を模した福引の抽選箱に手を突っ込むシーンなどが登場する。ラストも「やはりそう来たか」という納得のオチだ。(笑)

冒頭の輸血シーンの意味が最後に明らかとなり、清々しい結末へと繋がっていく。ほろ苦いラブロマンスや、母娘間のわだかまりとその解消なども織り交ぜ、多部未華子が吹き替えなしで歌うナツメロとも相俟って、老若男女が楽しめる一級の娯楽作品に仕上がっている。

ところで、ふと多部未華子の顔はどこかで見た気がすると思ったら…

6月13、15日 ジョグ10キロ

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2018/06/12

断捨離、第1弾!

ちょっと前に流行語になった「断捨離」なるものの第1弾を実行に移したのだ。還暦を前にして、そろそろ身の回りを整理し始めても良い時期に来ている。死に支度に着手した、と言っても良いかもしれない。

きっかけは、20年以上取り組んできたあるボランティア活動から、今年の春に引退したことだ。使用していた機材や書物、書類など、結構な量のモノが部屋を占領していたが、3カ月経過してもう処分しても問題ないと判断した。

空いたスペースに他のモノを移し替えるなどした結果、3段のカラーボックスを2個廃棄できることになった。部屋はリスニングルームを兼ねているが、スピーカーの前のスペースが広がるようセットし直した結果、聴感上ややライヴ(反響音が大きい)に変化し、高音の「抜け」が良くなったように感じられる。

思わぬ副次的効果もあって、第1弾としてはまずまず成功したと思っている。また何かきっかけがあれば、第2弾、第3弾と実行していきたい。

6月11日 ジョグ10キロ

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2018/06/09

『怒りの葡萄』

Grapes1940年、米。ジョン・スタインベックの同名小説の映画化。ジョン・フォード監督。ヘンリー・フォンダ主演。allcinema の紹介文。

殺人容疑で入獄していた主人公トム・ジョードは仮釈放で4年ぶりに故郷オクラホマの農場に戻るが、小作人として働いていた一家は既に凶作の土地を逃れさったあとだった。叔父の家で家族と再会した彼は、みなで遥かカリフォルニアに行き、職を求める。そして、桃もぎで雇われた農場で賃金カットに反対したストが起き、首謀者ケイシーを殺した男をトムは殴り殺してしまう。一家で国営キャンプに潜んだが、彼を追う保安官が姿を現わし、トムはまた一人逃亡の旅に出る……。再会を信じ、彼を送り出す母の逞しい言葉で映画は締めくくられ、やるせない余韻を残す。(引用終わり)

世界で最も豊かな経済大国アメリカにも、こんな悲惨な時代があったのかとまず驚く。家財道具一式を積んだオンボロトラックで遥かカリフォルニアを目指す一家の姿は、現在のシリアやロヒンギャなどの難民と重なって映る。

しかも、「乳と蜜の天地」のはずだったカリフォルニアに着いてみたら、難民キャンプのような所しか行き場所がなく、一家は道中で聞かされた過酷な現実を目の当たりにすることになる。そのシーンでは音声はほとんどなく、キャンプの人々の茫然とした表情を次々に映すだけだが、それがどんな言葉にも勝る説得力をもって迫ってくる。

ちなみに、「乳と蜜…」という言葉は、聖書の「出エジプト記」を踏まえたものである。そもそもタイトルの「怒りの葡萄」からして、ヨハネ黙示録の「神の怒りで踏み潰される人間」から来ており、スタインベック文学の背景には聖書やキリスト教信仰があると言われる。

資本家による土地収奪や搾取、それに対する労働者の抵抗やストライキなど、社会主義の側に立った映画と捉えられかねない内容で、当時のハリウッドでは相当な勇気が必要だったと思うが、本作は単なるイデオロギー映画ではなく、逆境を生き抜く民衆の逞しさや家族の絆といった、普遍的な価値を謳い上げている点に価値があるだろう。

主人公トムが「俺は闇のどこにでもいる。母さんの見える所にいる」などと語って母親との別れを告げるシーンが有名だが、それよりもラストの場面で、元の家に戻りたいと嘆く父親を励ます母親のセリフが素晴らしい。さしずめ、アメリカ版「肝っ玉母さん」と言ったところか。

女は男より変わり身が早い/男は不器用でいちいち止まる/ところが女は流れる川でね/渦や滝があっても止まらずに流れる/それで強くなる

金持ちはダメ/子供が弱いと死に絶える/でも私たち民衆は違う/死なない/しぶとく生きていく/永遠に生きるのよ/民衆だから

他にも要所要所でキーパーソンとなるこの母親役を演じたジェーン・ダーウェルは、ノミネートどまりだった主演男優ヘンリー・フォンダを差し置いて(笑)、アカデミー賞助演女優賞を獲得している。巨匠ジョン・フォードが同監督賞を受賞したのは言うまでもない。

6月7、9日 ジョグ10キロ

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2018/06/06

カラヤン最高の名録音

Swanlake_3音楽ネタをもうひとつ。先日、フォノカートリッジを買い替えて試聴した際、カラヤンがベルリンフィルを指揮した、チャイコフスキーのバレエ組曲「白鳥の湖」を聴いた。LPとCD、同じ音源のディスクで比較してみたというわけなのだが、改めてこの録音の凄さに気づかされた。

中でも1曲目の「情景」は、これまで自分が聴いたカラヤンの録音の中で、最も素晴らしいというか、最もカラヤンらしい名録音だと思う。オペラの序曲や間奏曲など、小品でも全く手を抜かないどころか、小品になるとその芸が一層冴える、カラヤンの面目躍如といったところだろう。

「バレエ」というと必ず登場する、あまりにも有名なメロディで始まる、僅か3分ほどの短い曲。「何をいまさら。こんなの誰が振っても同じ」と、並みの指揮者なら思いかねないところ、カラヤンは違う。最初から最後まで気迫に満ちた真剣勝負を繰り広げるのだ。

まず、「つかみ」が見事だ。ヴァイオリンとヴィオラのトレモロ、それにハープのアルペジオ。冒頭わずか1小節だけで室温が4、5度下がり、霧の立ち籠める北国の湖の風景が現れる。そこに浮かび上がるように、オーボエソロが白鳥のテーマを切々と奏でる。5、6小節目のハープの細かい音型は湖面を吹き渡る冷たい風のようだ。

ところで、このオーボエソロはローター・コッホの演奏だとずっと思い込んでいたが、ネットで調べてみるとカール・シュタインスとする記事があり、その可能性もありそうだ。いずれも名人というにふさわしい奏者であることは間違いない。特に、10小節目アウフタクトからの後半では、クレシェンド、デクレシェンドに応じて微妙にテンポを揺らし、緊迫感をさらに強めている。

19小節目からはトゥッティ(総奏)でテーマを繰り返す。前半は荘厳なホルンの響きが、鬱蒼とした北国の森林風景を思わせる。後半は木管の3連符に乗って、ヴァイオリンとヴィオラが情熱的に、うねるような節回しで歌い、聴く者の心を鷲掴みにする。一歩間違えると低俗趣味に陥りかねない、そのギリギリ手前で踏みとどまるのがカラヤンの「芸」である。

テーマの終わりから3連符による経過的な部分に入り、次第に高潮していく。ff の42小節からの金管楽器群の掛け合い(特に3連符!)は、まるでブルックナーの交響曲のような迫力である。52小節目以降、fff  で白鳥のテーマが再現されクライマックスを迎えるが、その轟然たる音響は聴く者を圧倒する。60小節目で再び冒頭の霧の湖畔の風景に戻り、余韻を残して曲は終わる。

一篇の壮大な音楽ドラマを聴き終えたような感覚になり、これ1曲でお腹いっぱいになるのだが、演奏時間は僅か2分43秒でしかない。自分はこの演奏を聴くたびに、「邯鄲の夢」という中国の故事を思い出すのである。

6月5日 ジョグ10キロ

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2018/06/03

1台のラジオキットから

フォノカートリッジの話題が出たついでに、オーディオに興味を持ったきっかけと、その後のことについて書いてみたい。

タイトルのとおり、それは1台のトランジスタラジオキットから始まった。キットというのは、必要な部品が全てセットされていて、説明書に従って組み立てれば完成するというものだ。小学校高学年のとき、電気工事店の跡取り息子である従兄からプレゼントされたものだ。従弟の私にも電気に興味を持たせようとしたのかもしれない。

それまでプラモデルには親しんでいたけれど、ちゃんと音が出るラジオを自分で組み立てた感激は比較にならないほどで、中学時代には電子工作に熱中するようになった。「子供の科学」という雑誌に掲載された様々なガジェットを拵えた。当時は大阪市内に住んでいて、週末はほぼ日本橋の電気街で過ごす少年だったのだ。(笑)

それがさらにエスカレートして、アンプやスピーカーなどの自作に取り組むようになる。ラックスやケンクラフトなどのアンプキット、オール自作の真空管アンプ、16センチフルレンジを自作ボックスに納めたスピーカーなど、小遣いはほとんど全てオーディオに費やした。

さらに、オーディオと並行して、音楽の方にものめり込んでいく。折角ステレオを自作したのだから、本格的な音楽を聴かないともったいないと、ワケも分からないくせにクラシックのレコードを買い始めた。最初はオーケストラの迫力ある音に満足するだけだったのが、繰り返し聴くうち音楽そのものに心奪われるようになっていく。

オーケストラの編成とか各楽器の音にも興味が湧いて、ポケット版のスコアを買ったりしていたが、そのうち何を思ったか自分でも演奏してみたくなった。とりあえず簡単に音が出そうで、楽器も比較的安価なクラリネットを買ってもらい、教則本を見ながら自己流で練習を始めた。

中学、高校時代は弱小ブラスバンドの一員として活動するだけだったが、高校時代に聴いた某大学オーケストラのブラームスに衝撃を受け、何が何でもこのオケに入るんだという一念で受験勉強に励んだ結果、無事合格したことはだいぶ以前にも書いた。

今から思えば、プレゼントした従兄本人は全く意図しなかっただろうが、1台のトランジスタラジオキットが、その後の私の人生を大きく変えたのだ。他にもそういう人物が2人いるのだが、いずれも本人は全く与り知らないはずだ。

6月1日 LSD40キロ
6月3日 ジョグ10キロ

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