東海道を走る その24(草津~京三条大橋)
国道1号を横断した先に、江戸から119里の一里塚跡がある。ここから暫く、街道特有のうねるような道が続くが、南笠東に入って弁天池に突き当たるところは、左にカクンと折れる。池の中の弁天島には弁財天神社があり、橋で渡れるようになっている。
江戸から120里の一里塚があった一里山付近を過ぎて旧大江村に入り、街道から左に少し入ったところに野神社舊跡がある。大江千里の住居跡と言われ、大江村の地名の由来となっている。平安時代の歌人「おおえのちさと」であって、「おおえせんり」ではないので念のため。(笑)
次第に賑やかな市街地に入り、いよいよ瀬田の唐橋を渡るが、その手前に寛政12年建立の「太神山(たなかみやま)不動寺 是より二里半」と刻む道標がある。
唐橋東詰には文化14年建立の道標があり、「跋難陀龍王宮 是より」「俵藤太秀郷社 川ばた半丁」と刻む。瀬田川の龍神の依頼により三上山の大ムカデを退治した、俵藤太こと藤原秀郷の伝説に基づき、龍神と秀郷を祀ってあるそうだ。
瀬田の唐橋。古代より「唐橋を制するものは天下を制す」と称された名勝で、以前はびわ湖毎日マラソンのコースになっていた(現在は唐橋は渡らず、下流の南郷洗堰を渡るコースに変更されている)。
大小2つの橋を渡り切って、京阪石山坂本線(以下「石坂線」)の踏切を越え(1回目)、街道は右折して北方向に転じる。国道1号、石坂線(2回目)、JR東海道線を越えた先は、かつて近江八景粟津の晴嵐と呼ばれた景勝地で、その松並木の一部が今も残る。
この先は膳所城の城下町に入り、何度も折れ曲がる城下町特有の道筋を進む。古い民家の軒先には「ばったん」と呼ばれる折り畳み式の床几がある。
石坂線踏切をさらに2回渡りながら琵琶湖岸に近づくと、今度は大きく西に向きを変えて、石坂線石場駅付近で5度目の踏切を渡る。その先が大津宿江戸方口である。滋賀県庁を左に見ながら進むと、「此附近露國皇太子遭難之地」の碑がある。明治24年、巡査津田三蔵がロシア皇太子ニコライに切りつけた「大津事件」が起きた場所である。
この先、高札場があった札の辻(京町1丁目交差点)で左折すると大津宿の中心部になる。現在ではその面影は全くないが、僅かに延享3年建立の道標が残る。「蓮如上人近松御舊跡 是より半町 京大坂 江戸大津 講中」とあり、近松別院顕証寺への道筋を示している。
この先は緩やかな上りとなり逢坂越えとなる。国道1号に合流する手前で京阪京津線の踏切(京阪線通算6度目)を渡るが、その手前左手の駐車場の基礎の一部が、何かの橋梁の跡のようである。これは事前にAさんに教えてもらっていたので気がついたが、実は東海道線旧線の橋台痕跡なのである。街道走りの途中で、ちょこっと廃線探訪。(笑)
この先にある旧逢坂山隧道を出た線路は、国道を跨ぐ橋梁を渡って旧大津駅(現膳所駅)に向かっていたのだ。トンネル出口を背にして眺めると、その延長線上に先の橋台跡があることが分かる。
隧道の坑門上部には太政大臣三条実美の揮毫になる「楽成頼功」の扁額がある。「落成」は落盤に通じるとして、あえて「楽成」としたそうだ。
逢坂越えの国道1号は事故のせいで大渋滞していた。昔も今も交通の難所なのだ。逢坂山関址の碑を目印に旧大谷村に入ると、国道の喧騒がウソのような静けさである。
再び国道1号の歩道に戻り、だらだらと下っていくと、左手に月心寺がある。境内に走井と呼ばれる掘り抜き井戸があるそうだ。
広重「大津」は左下に走井を配し、名物走井餅を商う走井茶屋の前を行く牛車を描いている。茶屋の痕跡はさすがにないが、昔も今も物流の大動脈であることに変わりはない。
この先、名神高速京都東IC付近にある売店で、本家走り井餅を試食させてもらった。黄粉をまぶしていないのがオリジナルだそうだが、あいにく品切れだった。
相前後するが、街道は名神高速の高架を潜った先で伏見道との分岐点、髭茶屋追分に至る。「みきハ京ミち ひたりハふしミみち」と刻む道標(昭和29年再建)があるが、左の蓮如上人御塚道標(明和3年)とともに、鉄板か何かで補修してあるのが痛々しい。
だらだらと坂を下って、国道1号を歩道橋で越えた先に、大津宿札の辻からの別ルートである小関越えとの分岐点がある。逢坂越えを相撲の大関に見立て、それに対して小関と称した脇街道である。「三井寺観音道」「小關越」と刻んだ文政5年の道標が立つ。
この先で、ついに近江(滋賀県)から山城(京都府)に入る。京津線四宮駅の先に「伏見六ぢざう(以下不明)」「南無地蔵菩(薩)」と刻む元禄16年の道標がある。ここにある山科六地蔵から伏見六地蔵への道を示す。
山科駅前の繁華街を通り過ぎると間もなく、宝永4年に沢村道範なる人物が建立した五条別れ道標がある。「右ハ 三条通り」「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水 道」とある。「ひがしにし六条」は東西本願寺、「大佛」は方広寺、「今ぐま」は今熊野観音、「きよ水」は清水寺である。
道標どおり右の道を進むと、間もなく府道143号、通称三条通りに突き当たるので右折。東海道本線ガードを潜った先に冠木門があり、てっきりここが旧東海道と思いきや、これは地下鉄東西線開通で廃止された京阪京津線の廃線跡なのである。ここでもちょこっと廃線ラン。
この先で三条通りを左折、東海道最後の難所、日ノ岡峠越えとなる。結構な急坂で、2日間で80キロ以上走ってきた脚には堪える。昔の人も難儀したようで、多数の地蔵尊が安置され、旅人の道中安全を見守っている。
峠越えを終えて再び三条通りに合流するところに、広重「大津」から抜け出たかのような大八車を復元したモニュメントがある。敷石には轍に合わせた溝が刻まれ、「車石」と呼ばれる。
蹴上浄水場を経て都ホテルが見えてくると、街道走りもいよいよ最後の直線に入る。というか、もうかつての生活圏なので、「とうとう帰って来たなあ」という感覚が込み上げるが、当時は知らなかった史跡もいくつかある。
平安神宮に通じる神宮道交差点の先に、坂本龍馬お龍「結婚式場」跡という標石がある。神奈川宿で働いていたお龍と知り合った龍馬は、ここで内祝言を挙げ、新婚旅行で高千穂峰に登ったというわけだ。もう他人という気がしない。(笑)
その先、白川に架かる白川橋東詰に、三条通白川橋道標があり、「是よりひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち」「京都為無案内旅人立之」と刻む。「京都に不案内な旅人のために立てた」もので、建立は延宝6年(1678)、京都に現存する最古の道標とのことである。
また、ここから白川を少し下ったところに、弘化2年建立の「東梅宮並明智光秀墳」「あけちみつひて」と刻む道標がある。山崎の戦いで秀吉に敗れた光秀の首を埋めた場所らしい。
東大路を越えて間もなく、京阪三条駅前にある高山彦九郎像に挨拶。「土下座像」と言われることもあるがそうではなく、勤皇の士である彼は御所を向いて望拝しているのである。京阪本線が地上を走っていた頃は、この像は確か三条大橋東詰にあった。
16時半前、その三条大橋の擬宝珠にタッチして、旧東海道約489キロ、12日間の走り旅を完踏した。橋を渡ったところで、日永追分で別れて伊勢参りに行っていた弥次さん喜多さんと再会。二人とも何だかホッとした表情だ。
広重「京師」も当然、この三条大橋を描くが、奥に見える高い山は比叡山と言われている。
そうだとすると、この構図はおかしい。絵では鴨川が右から左に流れているが、比叡山は左岸側にあるからだ。本当は下のような絵柄になるべきところ、写真を裏焼きしたようになっているのだ。ブログもインスタもない時代、既存の名所図会と記憶を頼りに描く以上、こういう誤りは仕方ないだろうが。
広重の絵で、橋の中ほどで菅笠を被って川面を眺めている男は、広重自身の姿だとも言われている。それに倣って、私も缶ビールを片手に川面を眺め、しばし旅の思い出に浸ったのだった。(完)
4月29日 LSD20キロ
月間走行 190キロ
5月 1日 ジョグ10キロ
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コメント
東海道ゴールおめでとうございます。
1日に40km以上進めるのが羨ましいです。
グルメ?も堪能されていてそこもぜひ見習いたいです。(笑)
水口辺りは通ったはずですがあまり覚えていないので
近いうちに行ってみたいと思います。
ちゃんと歩けるシリーズ、ただいま借りまくってます。(^-^;
投稿: くー | 2018/05/03 17:22
くーさん
ありがとうございます。
今回1日目の44キロはさすがにキツかったです。
グルメというより、街道にゆかりのある銘菓等を
チェックしているだけですが、その場で食べるか、
持って走るかという制約があるので自ずと限られます。
『ちゃんと歩ける・・・』は時々間違いがあるので、
八木さんのサイトも参考にして下さい。
http://outdoor.geocities.jp/byffg309/5kaido/go-1.htm
投稿: まこてぃん | 2018/05/04 10:01