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2018/05/04

「地続き」その1

旧東海道の走り旅を終えての感想めいたことを少し書いておきたい。それは別に東海道に限らず、伊勢本街道や紀州街道など、他の街道を走ったときにも感じたことだが、「キング・オブ・街道」である東海道を完踏して、その思いはより一層強まった。

それは、旧街道が2つの意味において「地続き」だということだ。そのひとつは、空間的・地理的な意味において。もちろん、江戸(東京)と京(京都)が地続きであることは当たり前で、それは新幹線で行こうが車で行こうが変わらないのだが、ここで言いたいのは、人間の身体による距離感覚においての「地続き」ということだ。

人間の身体感覚、即ち歩く、走るときの距離感覚と、電車や自動車でのそれとは全く別物だ。電車や車に乗り込んで動き出した瞬間から、その距離感覚は人間の身体性を離れ、目的地まで地続きという体感はなくなってしまう。文明開化の頃、汽車の乗客が脱いだ履物がホームに残されていたという逸話は、ただの笑い話以上の含蓄があるように思う。

しかし、近代人にとってはその別物の感覚の方が日常となった。都市以上にクルマ社会である地方において、それはより顕著と言えるだろう。某地方都市郊外のコンビニの若い店員に、目的地までの大体の距離を尋ねたところ、とんでもない距離を言われた経験がある。車で何分ぐらいとは分かっていても、それが何キロの距離に相当するのか見当がつかないのである。

まして、朝から晩まで歩くとどのぐらいの距離を進めるのかなど、現代人の感覚からは既に失われてしまった。昔の旅人は1日に10里(40キロ)近く歩いたが、その距離を身体で実感する機会はほぼ皆無である。だから、江戸から平均14日間歩き通してようやく到達できる場所が京だということを、頭では分かっても身体で理解することは不可能である。

今回の街道走りは、まさにそれを自分自身の身体で理解する旅であったとも言える。江戸から京までを実際に走って(歩いて)、その距離を身体で実感する。言い換えれば、江戸と京が間違いなく地続きであることを、身体感覚において理解したということだ。

長くなりそうなので、もう一つの「地続き」については稿を改める。

5月3日 ジョグ10キロ

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