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2018/04/25

東海道を走る その22(坂下~水口)

鈴鹿峠を越え近江に入って間もなく、巨大な常夜燈が見えてくる。江戸中期に金毘羅参りの万人講が道中安全を祈願して建立したもので、高さ5.5メートル、重量38トンと言われる。これほどの石造物が300年近くもの間、地震や台風に耐えて立ち続けているのに驚く。

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国道1号に合流して緩やかな下り坂を進み、旧山中村に入ると、前方に新名神高速の巨大な高架橋が見えて来た。滋賀県下の新名神高速はこの地で起工されたという記念碑がある。

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もとの名神高速は米原回り(旧中山道)の比較的平坦なルートを通っているが、当時はこんな巨大橋梁を作る技術や資金がなかったのだろう。時代が下ってそれが可能になると、旧東海道に近い最短ルートを通るようになったのだ。そう言えば、これも名神・東名高速をバイパスする伊勢湾岸道は、旧東海道・七里の渡しのルートに近く、リニア中央新幹線も鈴鹿峠付近を通るルートが検討されているようだ。

また、偶然かもしれないが、ここは江戸から109里の一里塚があった場所に近い。起工記念碑向かいは一里塚緑地として整備され、櫟野観音道の道標が立っている。「いちゐのくわんおん道」とあり、櫟野村の櫟野寺(らくやじ)への参詣道を示している。

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この先、旧街道はコンクリート会社の敷地内に取り込まれてほぼ消失している。国道に迂回して猪鼻村で一旦旧道に戻り、さらに先に進むと「蟹が坂」に至る。

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平安時代、この付近に巨大な蟹が出没し、村人や旅人を苦しめたが、京の恵心僧都が説法を施したところ、蟹は自らの悪行を悟るが如く甲羅を八つに裂いてしまった。蟹の血は固まって八つの飴となり、厄除けの効があったということから、蟹の甲羅を模した「蟹が坂飴」が作られ今日に伝わっている。この先の道の駅で買い求めて旅の友にしたが、ちとばかり重かったな。(苦笑)

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この先の蟹坂古戦場跡を経て、街道は田村神社の手前で田村川を渡る。安永4年に架けられた旧田村橋は昭和初期に台風で流され、その後は架橋されないままになっていたが、平成17年に海道橋として再び架橋されたものだ。

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広重「土山」は、馬子唄のとおり「あいの土山雨が降る」中、田村橋を渡る大名行列を描く。

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坂上田村麻呂を祀る田村神社の境内を抜け、道の駅「あいの土山」で昼食休憩(塩分補給)してから街道走りを再開。間もなく土山宿に入る。ところで、「あいの」とはどういう意味なのか? 実は諸説あって、いまだに定説がないようである。詳細はこちら

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本陣跡は往時の雰囲気をとどめる。

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この先、国道1号に突き当たる地点が宿場西口で、脇往還御代参街道との分岐点に当たる。古い道標2基が立っていて、奥側は文化4年建立で「右 北国たが街道 ひの八まんみち」とあり、手前側は天明8年建立で「高埜世継観音道」とある。

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この先の旧道をしばらく進むと、野洲川(松尾川)の渡し場跡に出る。今は橋もないので国道に迂回せざるを得ない。対岸には渡し場へ下りる道の痕跡も残るが、柵が2箇所に設けられていて立ち入ることは出来ない。旧道痕跡を探索しようという街道ファン(誰のこと?)が出没するので、田んぼの所有者が業を煮やしたのだろうか。

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この先、国道1号を縫うように進む単調な区間となる。4月とは思えないほど気温が上昇して徐々にペースが落ちてくるが、茶畑の鮮やかな緑が心身をリフレッシュしてくれる。そう言えば、もうすぐ新茶の季節である。土山は茶の名産地なのだ。

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大日川を渡ると、今回の区間でほとんど唯一の松並木(僅か2、3本だが)があった。反野畷というところらしい。

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さらに進むと、間の宿があった旧大野村、旧今宿村を経て甲賀市水口に入る。上り坂をしばらく行くと、今在家の一里塚跡(江戸から112里)がある。

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前方に水口岡山城があった古城山が見えてくると、ようやく水口宿に到着である。広重「水口」は古城山を背景に、名物干瓢作りの様子を描く。

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広重が描いた場所はよく分からないが、古城山を背景にした現在の街道の風景。この日に宵宮を迎える「水口曳山まつり」の山車が、庫から半分だけ顔を覗かせている。

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宿場の痕跡はほとんどないが、三筋に分かれた独特の宿並みが今も残る。その西端、近江鉄道石橋駅近くの三筋の合流点には、曳山の模型に乗ったからくり時計が設置されている。

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その先には水口城があり、城下町特有の何度も曲がる(ここは六曲がり)道筋を通って水口宿を出ると、また北脇縄手という単調な直線区間となる。さらに気温が上昇してかなり辛かったが、やがて再び野洲川を渡る横田の渡し跡が見えてきた。

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明治24年に同じ場所に横田橋が架けられたが、現在は下流側に移転していて、そちらに迂回せざるを得ない。野洲川を渡ってすぐのJR三雲駅近くに、かつての渡し場(西側)にあった常夜燈が移設されている。

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三雲と言えば、かつて草津在住のランナーAさん主催のLSDで何度か来たことがある。ここでフィニッシュして、駅近くの酒屋でビールを買って飲んだりしたものだが、その酒屋の前の道が旧東海道だとは、当時は全く知るよしもなかった。

三雲駅前からしばらく行くと、3基の道標が並んでいて、真ん中は寛政9年の銘があり、「万里小路藤房卿古跡」「雲照山妙感寺 従是十四丁」と刻まれている。万里小路(までのこうじ)藤房は後醍醐天皇側近だった人で、後に出家して妙感寺を開いたそうだ。

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さらに西に進むと、大沙川(おおすながわ)隧道(明治17年築)を潜る。この辺りの川は天井川となっていて、街道は川の下をトンネルで潜るわけだ。往時は一旦河原まで上がって下りていたのだろう。左の杉の大木は弘法杉といって樹齢750年。弘法大師空海がここで昼飯を食べ、その時に使った杉箸が根付いたという話だが、空海が没したのは9世紀前半。ちと勘定が合わぬようだが。(笑)

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この先、夏美の一里塚跡(江戸から115里)を過ぎて、今度は由良谷川隧道(明治19年築)を潜る。こちらは河川の付け替え工事が行われていて、片側交互通行となっている隧道は近く姿を消してしまうだろう。

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この先のJR甲西駅付近で1日目の行程を終了。草津線で草津まで移動して、駅前ホテルに投宿。ひと風呂浴びた後は、Aさんと落ち合って久々に一献傾けたのだった。(続く)

4月23、25日 ジョグ10キロ

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