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2018/04/28

東海道を走る その23(水口~草津)

2日目の20日午前8時半頃、甲西駅前をスタート。今日もよく晴れている。昨日以上に気温が上昇して、夏日になるとの予報が出ている。

次の石部宿に入る手前に、八嶋寺地蔵堂の道標がある。ここは道標だけだが、近江に入って以降だろうか、街道に沿って小さな地蔵堂を見かけることが多くなった気がする。

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石部宿に入ったところに、菜飯田楽(なめしでんがく)を供していた往時の田楽茶屋を模した休憩所がある。前述の滋賀LSDで何度か立ち寄ったことがあるが、この日はまだ開いていなかった。

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広重「石部」は、石部宿というより次の草津宿に近い、旧目川村にあった田楽茶屋「いせや」を描いている。ここはそれをモデルに作ったものらしい。屋根の感じなどそっくりだ。

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それ以外に宿場の痕跡はほとんど残っていない。西見附跡から少し行ったところに小さな公園があり、東海道や石部宿の歴史を説明した掲示があるが、ここは目見改場(めみえあらためば)の跡で、京方面からの大名行列は、ここで一旦衣服を整えてから石部宿に入ったそうだ。

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この先に小高い山があり、かつて銅を産出したため「金山」と呼ばれていた。融通の利かない堅物のことを「石部金吉」と言うのは、ここから来ているという説がある。石部宿が飯盛り女を置かない「お堅い」宿場だったことも関係しているとか。

それはともかく、この先の街道は、金山を左に見て野洲川沿いを行く下道と、金山の手前を左に回り込む上道に分かれる。初期の東海道は下道だったが、たびたび洪水に見舞われたため、天和3年に上道が作られた。下道はLSDで走ったことがあり、今回は上道を選択。国道1号バイパス、名神高速の高架を潜ると、前方に近江富士の三上山が見えてきた。

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この先で左折して下道と合流、しばらく進むと「新善光寺道 是より一町餘」と刻む道標がある。平重盛末裔の小松宗定が夢のお告げに従い、建長5年に善光寺如来の分身を安置したものだそうだ。

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旧六地蔵村に入ると、和中散本舗大角家住宅の立派な屋敷がある。和中散は腹痛や暑気あたりに効くと評判になった街道薬で、この薬を飲んで腹痛が快癒した家康が命名したのだとか。

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JR手原駅に近づいた辺りに、「肩かえの松」がある。旅人がこの松の下で休憩し、荷物を担ぐ肩を替えたという。

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この先にある行者堂は、里内九兵衛という人がお告げにより、文政3年に大和国から役行者像を持ち帰ったのが始まりという。役行者こと役小角(えんのおづぬ)は吉野や芋ケ峠でお馴染みだが、近江国にまで勢力を伸ばしていたとは知らなかった。

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旧目川村に入る。広重が「石部」で描いた元伊勢屋跡に「田楽発祥の地」の碑が立つが、街道の雰囲気は全く残っていない。

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この先で街道は旧草津川(天井川)の堤防に突き当たり、右折して草津の市街地を目指す。新幹線のガードを潜り、国道1号線を横断した先で堤防に上がり、旧草津川を渡ったところが草津宿江戸方口で、文化13年建立の火袋付道標がある。「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」とある。

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堤防を下りてだらだらと坂を下りて行くと、中山道との追分に至る。ここにも文化13年の追分道標があり、「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と刻んでいる。建立年や形状、字体から、先の道標とセットで建立されたものではなかろうか。

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T字路を左折した先に木屋本陣遺構(国指定史跡)が現存し、一般公開されているが、入場料を取るので門から少し覗くだけである。(笑)

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宿場の今の様子。今も車や人が頻繁に行き交い、賑わい続けている。

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宿場京方口の黒門近くに立木神社があり、その境内に元の中山道追分道標が移設されている。現在立っている文化13年の道標の先代に当たり、延宝8年(1680)と滋賀県下では最も古いものである。「みぎハたうかいとういせミち」「ひだりハ中せんたうをた加みち」と刻む。

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新たに開削された新草津川を渡ってしばらく進むと、瓢泉堂前の三叉路の角に「右 やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻む寛政10年の道標がある。琵琶湖矢橋湊に通じる矢橋道との追分(分岐点)である。

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往時はここに名物姥ケ餅を商う姥ケ茶屋があり、広重「草津」はその風景を描く。店先の道標は今と同じ位置にあり、おそらく現存のものと同一であろう。広重の五十三次のうち、「戸塚」に描かれた道標も移設されて現存するが、元の場所に今も立つのはここだけではないだろうか。

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この追分で、旅人は「瀬田へ廻ろか矢橋へ出よか ここが思案の姥ケ餅」と迷ったそうで、また、「武士(もののふ)の 矢橋の舟は速くとも 急がば廻れ瀬田の長橋」という歌から「急がば回れ」という言葉が生まれた。

名物「うばがもち」は、近江源氏佐々木義賢が信長に滅ぼされ、その曽孫の後事を託された乳母が街道で餅を売って養育費に充てたのが発祥で、姥(乳母)の乳をかたどった小さなあんころ餅である。素朴な味わいが何だか懐かしい。

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昼時になったので、国道沿いのラーメン店で昼食休憩を取る。(続く)

4月27日 ジョグ10キロ

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2018/04/25

東海道を走る その22(坂下~水口)

鈴鹿峠を越え近江に入って間もなく、巨大な常夜燈が見えてくる。江戸中期に金毘羅参りの万人講が道中安全を祈願して建立したもので、高さ5.5メートル、重量38トンと言われる。これほどの石造物が300年近くもの間、地震や台風に耐えて立ち続けているのに驚く。

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国道1号に合流して緩やかな下り坂を進み、旧山中村に入ると、前方に新名神高速の巨大な高架橋が見えて来た。滋賀県下の新名神高速はこの地で起工されたという記念碑がある。

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もとの名神高速は米原回り(旧中山道)の比較的平坦なルートを通っているが、当時はこんな巨大橋梁を作る技術や資金がなかったのだろう。時代が下ってそれが可能になると、旧東海道に近い最短ルートを通るようになったのだ。そう言えば、これも名神・東名高速をバイパスする伊勢湾岸道は、旧東海道・七里の渡しのルートに近く、リニア中央新幹線も鈴鹿峠付近を通るルートが検討されているようだ。

また、偶然かもしれないが、ここは江戸から109里の一里塚があった場所に近い。起工記念碑向かいは一里塚緑地として整備され、櫟野観音道の道標が立っている。「いちゐのくわんおん道」とあり、櫟野村の櫟野寺(らくやじ)への参詣道を示している。

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この先、旧街道はコンクリート会社の敷地内に取り込まれてほぼ消失している。国道に迂回して猪鼻村で一旦旧道に戻り、さらに先に進むと「蟹が坂」に至る。

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平安時代、この付近に巨大な蟹が出没し、村人や旅人を苦しめたが、京の恵心僧都が説法を施したところ、蟹は自らの悪行を悟るが如く甲羅を八つに裂いてしまった。蟹の血は固まって八つの飴となり、厄除けの効があったということから、蟹の甲羅を模した「蟹が坂飴」が作られ今日に伝わっている。この先の道の駅で買い求めて旅の友にしたが、ちとばかり重かったな。(苦笑)

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この先の蟹坂古戦場跡を経て、街道は田村神社の手前で田村川を渡る。安永4年に架けられた旧田村橋は昭和初期に台風で流され、その後は架橋されないままになっていたが、平成17年に海道橋として再び架橋されたものだ。

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広重「土山」は、馬子唄のとおり「あいの土山雨が降る」中、田村橋を渡る大名行列を描く。

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坂上田村麻呂を祀る田村神社の境内を抜け、道の駅「あいの土山」で昼食休憩(塩分補給)してから街道走りを再開。間もなく土山宿に入る。ところで、「あいの」とはどういう意味なのか? 実は諸説あって、いまだに定説がないようである。詳細はこちら

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本陣跡は往時の雰囲気をとどめる。

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この先、国道1号に突き当たる地点が宿場西口で、脇往還御代参街道との分岐点に当たる。古い道標2基が立っていて、奥側は文化4年建立で「右 北国たが街道 ひの八まんみち」とあり、手前側は天明8年建立で「高埜世継観音道」とある。

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この先の旧道をしばらく進むと、野洲川(松尾川)の渡し場跡に出る。今は橋もないので国道に迂回せざるを得ない。対岸には渡し場へ下りる道の痕跡も残るが、柵が2箇所に設けられていて立ち入ることは出来ない。旧道痕跡を探索しようという街道ファン(誰のこと?)が出没するので、田んぼの所有者が業を煮やしたのだろうか。

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この先、国道1号を縫うように進む単調な区間となる。4月とは思えないほど気温が上昇して徐々にペースが落ちてくるが、茶畑の鮮やかな緑が心身をリフレッシュしてくれる。そう言えば、もうすぐ新茶の季節である。土山は茶の名産地なのだ。

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大日川を渡ると、今回の区間でほとんど唯一の松並木(僅か2、3本だが)があった。反野畷というところらしい。

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さらに進むと、間の宿があった旧大野村、旧今宿村を経て甲賀市水口に入る。上り坂をしばらく行くと、今在家の一里塚跡(江戸から112里)がある。

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前方に水口岡山城があった古城山が見えてくると、ようやく水口宿に到着である。広重「水口」は古城山を背景に、名物干瓢作りの様子を描く。

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広重が描いた場所はよく分からないが、古城山を背景にした現在の街道の風景。この日に宵宮を迎える「水口曳山まつり」の山車が、庫から半分だけ顔を覗かせている。

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宿場の痕跡はほとんどないが、三筋に分かれた独特の宿並みが今も残る。その西端、近江鉄道石橋駅近くの三筋の合流点には、曳山の模型に乗ったからくり時計が設置されている。

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その先には水口城があり、城下町特有の何度も曲がる(ここは六曲がり)道筋を通って水口宿を出ると、また北脇縄手という単調な直線区間となる。さらに気温が上昇してかなり辛かったが、やがて再び野洲川を渡る横田の渡し跡が見えてきた。

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明治24年に同じ場所に横田橋が架けられたが、現在は下流側に移転していて、そちらに迂回せざるを得ない。野洲川を渡ってすぐのJR三雲駅近くに、かつての渡し場(西側)にあった常夜燈が移設されている。

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三雲と言えば、かつて草津在住のランナーAさん主催のLSDで何度か来たことがある。ここでフィニッシュして、駅近くの酒屋でビールを買って飲んだりしたものだが、その酒屋の前の道が旧東海道だとは、当時は全く知るよしもなかった。

三雲駅前からしばらく行くと、3基の道標が並んでいて、真ん中は寛政9年の銘があり、「万里小路藤房卿古跡」「雲照山妙感寺 従是十四丁」と刻まれている。万里小路(までのこうじ)藤房は後醍醐天皇側近だった人で、後に出家して妙感寺を開いたそうだ。

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さらに西に進むと、大沙川(おおすながわ)隧道(明治17年築)を潜る。この辺りの川は天井川となっていて、街道は川の下をトンネルで潜るわけだ。往時は一旦河原まで上がって下りていたのだろう。左の杉の大木は弘法杉といって樹齢750年。弘法大師空海がここで昼飯を食べ、その時に使った杉箸が根付いたという話だが、空海が没したのは9世紀前半。ちと勘定が合わぬようだが。(笑)

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この先、夏美の一里塚跡(江戸から115里)を過ぎて、今度は由良谷川隧道(明治19年築)を潜る。こちらは河川の付け替え工事が行われていて、片側交互通行となっている隧道は近く姿を消してしまうだろう。

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この先のJR甲西駅付近で1日目の行程を終了。草津線で草津まで移動して、駅前ホテルに投宿。ひと風呂浴びた後は、Aさんと落ち合って久々に一献傾けたのだった。(続く)

4月23、25日 ジョグ10キロ

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2018/04/22

東海道を走る その21(亀山~坂下)

「東海道を走る」シリーズもいよいよ最後の第6回、亀山から京三条大橋まで走った。伊勢から近江、そして山城へ。どんどん地元に近づいて、土地勘が働くようになってきたのは心強い。

快晴に恵まれた4月19日午前8時過ぎ、亀山宿西町問屋場跡を出立。

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亀山城京口門跡からだらだらと坂を下ると、まもなく野村の一里塚がある。江戸から105里。巨大な椋の木は樹齢400年という。

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JR関西本線を跨線橋で越えると、鈴鹿川に沿った大岡寺畷という単調な区間になる。途中、名阪国道の関JCT-亀山IC間の高架橋を潜る。車で名古屋方面に行くときいつも通る道路の真下を走っているわけだ。

再び関西本線を踏切で越えると、間もなく次の関宿に入る。東口がこの東追分で、鳥居の先の伊勢別街道との分岐点に当たる。江戸から106里の一里塚もここにあった。

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関宿の街並み。重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが残され、往時の宿場町にタイムスリップしたかのようだ。宿並みはたいそう狭く、伝統の祭り「関の曳山」の山車が道幅以上に大きくできなかったところから、「関の山」という言葉が生まれたという。

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広重「関」は川北本陣前の早朝の風景を描く。

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川北本陣跡の現在の風景。

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関宿銘菓「志ら玉」を味わってみたいと思っていたが、あいにく店は閉まっていた。まだ開店時間前だったようだ。残念。

宿場西口の西追分は、伊賀から奈良へ向かう大和街道との分岐点である。元禄14年の道標に「南無妙法蓮華経 ひだりハいか(伊賀)やまとみち」とある。左折すれば奈良への近道になるが、まさかそちらを行くわけにはいかない。(笑)

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ここから次の坂下(さかのした)宿までは国道1号と合流、分岐を繰り返しながら、鈴鹿峠に向かってどんどん上っていく。途中、右手に聳える筆捨山を望む場所に藤の茶屋があったそうで、広重「阪之下」はその光景を描く。

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筆捨山の名は、昔狩野元信がこの山を描こうとして筆をとり、翌日描き残し分を続けようとしたところ、雲や霞で景色が全く変わってしまい、ついには諦めて筆を投げ捨てたという故事に由来する。

現在の風景。岩が露出していたらしい筆捨山も山容が変化している。

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107里の一里塚跡の先で旧道に分岐、緩やかな上り坂の旧道を上っていくと、かなたに三子山(みつごやま)が見えてきた。東海道峠越えの二大難所、東の箱根に二子山、西の鈴鹿に三子山と称された。

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この先、鈴鹿馬子唄会館の駐車場に鈴鹿馬子唄発祥之地の碑がある。「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と、峠を挟んで天候が大きく異なることを唄っている。「正調鈴鹿馬子唄」はこちらを。

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間もなく坂下宿に入る。かつてはこの先の鈴鹿峠の麓にあったのが、慶安3年の大洪水で流され下流側に移転したものだ。津波で内陸に移転した吉原や白須賀とは逆のパターンである。

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関宿で食べそびれた「志ら玉」の製造元はここにあり、訪ねてみるとご主人が出てきて、今日作った分はついさっき全て関宿の店に運んでしまったという。残念がっていたら、申し訳ないからと言って、「栗小萬」という別のお菓子をひとつ下さった。親に代わって仇を討った烈女小萬にちなんだ、渋皮付の栗が入った饅頭はとても美味しかった。前田製菓さん、ありがとうございました。いずれ志ら玉の仇を討ちに参上仕りまする。(笑)

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間もなく元の宿場があった片山神社下を通り、鈴鹿峠に入る。東の箱根に並び称されるが、標高は378メートルで、同846メートルの箱根に比べれば楽勝だった。

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峠の頂上から脇道を入ると「鏡岩」がある。断層が生じる際の摩擦力で研磨された「鏡肌(スリッケンサイド)」というものらしい。タモリさんならご存じかも(笑)。昔、山賊がこの岩を磨き、身を隠して岩に映った旅人を襲ったという伝説から、「鬼の姿見」とも呼ばれたそうだ。残念ながら明治元年の山火事で岩の輝きは失われてしまっている。

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街道に戻ると急に視界が開け、平坦な道になる。木立を抜けたところに三重と滋賀の県境を示す石碑があり、いよいよ近江国に入る。(続く)

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4月19日 LSD44キロ
4月20日 LSD40キロ
4月22日 ジョグ10キロ

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2018/04/18

『炎のランナー』

Chariots1981年、英。ヒュー・ハドソン監督。アマゾンの紹介文。

パリ・オリンピック陸上短距離で祖国イギリスに金メダルをもたらした2人の若者がいた。ユダヤの血をひいている為、言われなき差別と偏見を受けてきたハロルド。彼にとって走ることは偏見に勝利することであった。一方、宣教師の家に生まれたエリックは神のため、信仰のため走った……。(引用終わり)

あまりに有名なヴァンゲリスのテーマ曲以外、ほとんど知らなかったが、ランナーとしては死ぬまでに一度は観ておくべきだろうと思った。多少の脚色はあるものの、実話に基づいて製作された、一種のスポーツ・ドキュメント的な作品である。

しかし、単純なサクセス・ストーリーにとどまらず、ユダヤ人差別の問題や、信仰とスポーツの相克、さらにはプロを排除するアマチュアリズムといった、社会倫理的な背景にも力点が置かれ、作品に深みを与えている。

なお、ハロルドが一目惚れするオペラ歌手シビルが出演していたのは、「ミカド」というオペレッタで、そのロングラン公演が行われていたサヴォイ劇場に彼女を送るよう、彼の友人アンドリューが運転手に命じる場面がある。「ミカド」=天皇を冒瀆するような内容らしく、日本ではほとんど上演機会がない作品だ。

ところで、今日から東海道街道走りの最終回に出発するので、次回更新までしばしお待ちを。

4月16日 ジョグ10キロ

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2018/04/15

肉体的援助

少女相手にいかがわしい行為に及ぶという話ではない(笑)。野球の話である。

昨日、佐藤薬品スタジアム(県営橿原球場)でオリックス対ソフトバンクのウェスタンリーグ公式戦があり、約4年ぶりの野球観戦に出かけた。試合そのものは両軍とも投手の制球が定まらず、締りのない乱打戦になってしまったが、途中で珍しいプレーが起きたのだ。

詳しくは覚えていないが、試合中盤のソフトバンクの攻撃で、二塁走者グラシアルが、後続打者のライト前ヒットで一挙本塁を陥れようとし、これを制止しようと両手を広げる三塁ベースコーチ井出と接触してしまったのだ。グラシアルはそのまま本塁に突入するも、はるか手前で捕手にタッチされてアウト。

…と思いきや、しばらくして主審梅木が場内放送のマイクを持ち、「ベースコーチが走者を肉体的に援助したと判定し、走者アウトで試合を再開する」旨の説明を行ったのだ。「肉体的援助」などという反則は初めて聞いたが、公認野球規則 6.01(a) 8 によれば、「三塁または一塁のベースコーチが走者に触れるかまたは支えるかして、走者の三塁または一塁への帰塁あるいはそれらの離塁を肉体的に援助したと審判員が認めた場合」、走者によるインターフェア(守備妨害)が宣告され、走者はアウトとなる。

マラソンでも選手に接触すると「助力」とみなされ、失格となることがあるのと同じようなものだろうか。調べてみると、何年かに一度起こるぐらいの珍プレーのようだ。井出コーチは実は2012年にも一軍公式戦で同じ反則を犯しているが、今回に限ってはコーチの制止を無視したグラシアルに非があると思う。もしハリさんが監督だったら、「喝!」と叫んで、即座に選手交代を告げただろう。

写真はそのプレーの時のものではない。それにしても、もう名前を知っているのは監督・コーチ陣しかいなくなってしまった。(泣)

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4月13日 ジョグ10キロ

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2018/04/12

『わたしを離さないで』

Nlmg2010年、英米。カズオ・イシグロの同名小説の映画版。allcinema の紹介文。

緑豊かな自然に囲まれた寄宿学校“ヘールシャム”。そこは、牧歌的な田園地帯にありながら外界からは完全に隔絶され、徹底した管理が行われている謎めいた施設だった。そんな静かで整然とした環境の中で、幼い頃からずっと一緒に育ってきたキャシー、ルース、トミーの仲良し3人組。やがて18歳となった3人はヘールシャムを卒業し、農場のコテージで共同生活を送ることに。初めて接する外の世界に不安や喜びを感じていく3人。そして、いつしかルースとトミーが恋人になったことで3人の関係も終わりを迎えようとしていたが…。(引用終わり)

同じカズオ・イシグロ原作で、以前『日の名残り』を観たが、とても同じ作家と思えないほど全く違うジャンルの作品なのに、それぞれ独特の作品世界にどっぷりと浸らせてくれる。さすがはノーベル賞作家だけのことはある。

ネタバレになるので肝心のところはほとんど何も書けないが、平均寿命が100歳を超えた架空世界(パラレルワールド)というSF的な設定を使いながらも、内容的にはとても切ないヒューマンドラマというところが秀逸である。映像、音楽ともに大変美しく、そして哀しい。

平均寿命がいくら延びても、人間はいつか死ぬ。それは誰にとっても避けられないことなのだ。ラスト近くの、「よく分からないのは、私たちの命が、私たちが救う人々の命とそんなに違うのかということだ。皆、“終了”する。たぶん誰もが人生を本当には理解せず、また十分長く生きたと感じないままに」(筆者試訳)というキャシーの独白が心に迫った。

ところで、同じ原作で日本でも2016年にテレビドラマ化されている。主役3人は綾瀬はるか、三浦春馬、水川あさみというのだが、この映画を観た後となっては、観てみたいような観たくないような。(苦笑)

4月10日 ジョグ10キロ

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2018/04/09

『ダンス・ウィズ・ウルブズ』

Dances_21990年、米。ケビン・コスナー監督、主演。allcinema の紹介文。

1863年、南北戦争の激戦地。その自殺的行為から英雄となり、殊勲者として勤務地を選ぶ権利を与えられたジョン・ダンバーは、当時の最西部で、かねてより興味を持っていたダコダにあるセッジウィック砦を望んだ。常人なら孤独に耐え兼ね、精神を病んでしまうような荒野に、次第に魅了されてゆくダンバー。彼は、愛馬シスコとトゥー・ソックスと名付けた野性の狼と共に、不思議に満ち足りた日々を送り始める。ひと月が経った頃、ダンバーはシスコを盗みに来たインディアンを追い払った事から彼らと次第に交流を深めるようになる。やがて、インディアンに育てられた白人女性と恋に落ちたダンバーは、“狼と踊る男”という名をもらい、侵略者である白人から彼らを守ろうと努力するが……。(引用終わり)

馴染みのない西部開拓時代の話に加え、3時間という長尺ゆえこれまで敬遠していた作品だが、観る価値は十分ある映画だった。

何より、白人=善、インディアン(ネイティブ・アメリカン)=悪という、かつてのハリウッド映画のステレオタイプにとらわれず、インディアンの側から西部開拓時代の真相を描いた点は革新的である。その内容から当初は原作小説の出版が拒否されたそうだが、コスナーは私財を擲って製作を敢行、結果的にアカデミー賞7部門を受賞する大成功となった。

無人の砦で次第に自分の存在理由に疑問を持ち始めた主人公が、近隣のスー族と交流を始める中で、自然と同化した彼らの生き方に強く惹かれ、次第に溶け込んでいく様子が丹念に、そして美しい映像を通して描かれる。バファローを狩る場面は大変な迫力があり、また白人ながらスー族の一員となった女性とのラブロマンスありと、長い尺だが全く飽きさせることがない。

レンタルで観たので特典映像は全くなかったが、バファロー狩りや狼の調教など、製作の舞台裏を紹介したメイキング映像があれば観てみたいものだ。いや、もしかしてあれはCGなのかな?(笑)

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2018/04/06

『そこのみにて光輝く』

Sokonomi2014年、製作委員会。綾野剛、池脇千鶴、菅田将暉ほか。アマゾンの紹介文。

ある出来事がきっかけに仕事を辞め、目的もなく毎日を過ごしていた佐藤達夫(綾野剛)は、ある日パチンコ屋で使い捨てライターをあげたことをきっかけに、粗暴だが人なつこい青年・大城拓児(菅田将暉)と知り合う。拓児に誘われるままについていくと、そこは取り残されたように存在している一軒のバラックだった。そこで達夫は拓児の姉・千夏(池脇千鶴)と出会う。
互いに心惹かれ、二人は距離を縮めていくが、千夏は家族を支えるため、達夫の想像以上に過酷な日常を生きていた。それでも、千夏への一途な愛を貫こうとする達夫。達夫のまっすぐな想いに揺れ動かされる千夏。千夏の魂にふれたことから、達夫の現実が静かに色づきはじめ、達夫は失いかけていたこの世界への希求を取り戻していく。そんなとき、ある事件が起こる――。(引用終わり)

原作者の佐藤泰志は何度か芥川賞候補に上りながら、各賞に縁がないまま41歳で自殺した不遇の作家という。自身の出身地函館を舞台に、どん底の環境に生きる千夏と拓児の姉弟と、死亡事故の責任を感じて仕事を辞めた達夫との魂の触れ合いを描く。

全体にとても暗いストーリーに加えて、セリフが極端に少ない長回し、くすんだような色合いの映像(撮影近藤龍人)は、全く独特の作品世界を作り上げている。一時は三人で乾杯するほどに好転の兆しが見えるが、それは映画の中では実現しないままでエンドとなり、もうどこにも救いがないように思える。

達夫と千夏が海岸で見つめ合いながら、泣き笑いのような微笑を浮かべるラストシーンも、決して明るい希望を感じさせるものではない。しかし、開き直りというのか、人は自らの置かれた環境で何とかして生きていくしかない。その際、心から理解しあえる相手が近くにいれば、たとえそこ(底)であっても、むしろそこだからこそ光輝く、という象徴的なシーンであるのかもしれない。

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2018/04/03

奈良お花見マラニック

この日曜日、ラン仲間のKさんHさんと奈良お花見マラニックに出かけた。以前は吉野山まで往復40キロ強を走ったりしたものだが、さすがにもうそんな元気はなく、奈良市内のほぼフラットな16キロほどのコースを、満開となった桜を愛でながら走るという、かつてなくユル~いマラニックとなった。

平城宮跡から鴻池運動公園、東大寺、春日大社、浮御堂などを回ったが、とりわけ桜が見事だったのが鴻池陸上競技場(ならでんフィールド)付近だった。競技場裏手の小高い丘の斜面に植わった桜がちょうど満開で、水平にも垂直にも連なった桜は、どこか吉野山のような風情である。

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確かこの付近に奈良地方気象台があって、ソメイヨシノの標本木もこの辺りのどれかなのだと思っていたが、帰ってから調べてみると、昨年3月に気象台は西紀寺町に移転していて、現在の標本木もその付近にあるそうだ。開花、満開の時期が先代に近い木を選んだということである。

ところで、先月末から腰痛に見舞われていて、回復の兆しが見られない。しばらくは大人しくしていようかと思っている。

4月1日 LSD16キロ

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