鹿嶋春平太著。1995年12月発行の新潮選書。李隆氏によるカバーの推薦文。
この百年の間、われわれの先達は西洋近代に果敢に挑戦してきた。その結果、手にした今日の富は、渾身の背伸びに対する報酬として評価すべきなのだろうが、(中略)東洋と西洋の絶対的な隔たりは、精神世界あるいは形而上の話になると、どこまで埋まったのか。
著者は、この日本近代の古典的な課題に対して、聖書解釈という行為によって再挑戦しているように見えるのだが、方法はオーソドックス。(中略)一見矛盾することの多い聖句をそのまま厳格に理解するという立場から、三位一体論、超越者と被造物の関係、原罪の意味などを深く平易に解説する。
だが、本書は、浅薄な入門書でも安直な啓蒙書でもない。世俗の物語で完結する人本主義に陥りやすい日本流の聖書理解からわれわれを解放し、聖書本来の神本主義に立ち返らせようとする野心作なのである。(引用終わり)
著者の本職は経済学者で、ペンネームの「春平太」はかの著名な経済学者から取ったものだろう。1995年と言えば、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた年で、本書もそれを踏まえて書かれており、新興宗教が若者を惹きつける理由や、その危険性について警鐘を鳴らしている箇所がある。
曰く、日本人の形而上理論(簡単に言えば、宗教的な理屈のこと)の欠如が新興宗教の温床となり、ひいてはサリン事件を生んだというのだが、ではナチスによるユダヤ人虐殺や、最近のイスラム過激派のテロは、宗教と無縁なのかという疑問が生じる。
しかし、そうした部分を別にすれば、本書が格好の聖書入門書であることは間違いない。とりわけ、聖書全体に通底しながら必ずしも明示されてはいない、幾つかの原理原則を明快に解説しており、聖書理解において大いに助けになると思われる。
例えば、霊としてのイエスは、父なる神と同じ創造主であり、宇宙とその万物の創造者であるという点。すなわち、ヨハネ福音書の有名な一節、「初めにことばがあった」の「ことば」が実はイエスを指すことを知らなければ、この一節の意味するところは理解できない。
逆に、それが分かれば、これに続く「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は初めに神とともにおられた」「すべてのものは、この方によって造られた」という文章もすんなりと理解できる。
神の子であるイエスは神であり、絶対者である。聖書はその前提に立って記されている。聖書においてはイエスは「神の子」というのが正解で、ローマ帝国に処刑された歴史上の人物、日常常識としてのイエス像は誤解ということになる。
つまり、聖書とは徹頭徹尾、神が中心の「神本主義」の物語なのであって、キリスト教は決して、人間中心の世界観に立って愛の在り方を説く「人本主義」の宗教ではない。わが国キリスト教界の現状は、人本主義の教義観が濃厚であるが、聖書とはそういうものだという印象を持たず、聖書そのものに当たることが必要である。
以上、自分なりに本書のキモと思われる箇所を抜き書きしてみたが、これ以外にも聖書読解に役立つと思われる原理原則がいくつかある。もちろん、著者の見解が絶対というわけではなく、特に「わが国キリスト教界」からは異端者との批判が出ているかもしれないが、ひとつの見識として決して等閑視しえないだろう。他にもこうした解説本があるのなら、著者流に言えば「ハシゴ」して、さらに勉強してみたいと思う。
2月12、14日 ジョグ10キロ
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