東海道を走る その20(四日市~亀山)
日永追分を右へ進む。江戸から伊勢参りの旅人はここを通らず、また京大坂からの伊勢参りも別の道を使ったので、この先の区間は東海道中でも通行量が少なく、次の石薬師、庄野宿は甚だ振るわない宿場だったそうだ。そのせいか、街道は心なしか鄙びた風情に変わり、やがて内部(うつべ)川を渡ると、杖衝(つえつき)坂に差しかかる。
日本武尊が東征の帰途、あまりに疲れて杖を突いて越えたというのがその名の由来である。また、坂を越えた日本武尊が「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」と言ったことから、三重という地名が生まれたという。
再び国道1号と合流、分岐を繰り返すと、やがて石薬師宿に入る。街道の原風景のような光景に、また思わず新日本紀行のテーマ曲が頭の中に流れる。
広重の「石薬師」は鈴鹿山系を背景に、石薬師寺門前の街並みを描く。
宿場を出たところに一里塚があり、その先に旧街道の痕跡と思われる地道(左前方)が残っていた。峠道や石畳を除き、未舗装のまま残る街道痕跡は初めて見たような気がする。
ただし、この先はJR関西本線と国道1号で分断され、迂回しながら進むと、やがて庄野宿に入る。その手前、JR加佐登駅付近の光景。
なんでもない景色にしか見えないが、この辺りが広重の五十三次中屈指の名作「庄野」が描かれた場所と言われている。急な雨に慌てて走り出す旅人と籠屋が、今にも動き出しそうだ。
前の石薬師同様の鄙びた街道筋に、油問屋だった小林家住宅(嘉永7年)を利用した庄野宿資料館があった。古文書などに混じって、天和2年などの高札の現物5点が展示されていた。写真はNGだったが、今も文字の痕跡が残る高札の現物は初めて見た気がする。
この付近は複数の川が合流し、度々水害に見舞われた場所だったそうで、「川俣神社」が3箇所もあり、宿場の外れには「女人堤防」の痕跡が残る。勝手に堤防を作るのは許されなかった世に、女ならまだ罪が軽いだろうと、重罪覚悟で堤防を築いた女性たちがいたのだ。一旦捕えられたものの許しが出て、褒美を与えられたという。
安楽川を渡った先に道標が2基ある。「右のゝぼり」とあり、庶民には「ののぼりさん」と呼ばれた野登寺(やとうじ)への道標であるが、左の古い道標の下半分は地中に埋まっている。
椋川を渡ると、今度は元禄3年の道標が建つ。「従是神戸 白子 若松道」とある。亀山城下から若松港に至る重要な分岐点だったのだ。
ちなみに、この付近で下校中の小学生の男の子から「こんにちは。今日は暑いなあ」と声をかけられた。「暑い」の「あ」が高いアクセントで、ようやく関西の圏内に入ったことを実感した。亀山宿に入る手前に和田一里塚が復元されている。江戸から104里である。
広重「亀山」は、夜明けのグラデーションを背景に、雪景色の中を亀山城に入る大名行列を大胆な構図で描く。
この日は秋晴れの下、亀山城跡に向かう坂道を高校生たちが自転車を押していた。
今回の行程はこれにて終了。予定どおり、亀山駅前の郵便局で荷物を受け取り、コミュニティバスに乗って亀山市総合保健福祉センター「白鳥の湯」に向かう。市役所職員たちが働くすぐ横に温泉の受付があり、まるで不条理劇の舞台セットのようだ。(笑)
駅前に戻って夕食を取り、2時間強で自宅まで戻って来られた。さて、次回はいよいよ鈴鹿の峠越え、そして京三条大橋のゴールが待っている。
11月4日 ジョグ10キロ
11月6日 LSD20キロ
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