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2017/11/30

祝、600回!

昨日、芋ケ峠頂上までの往復コースを走った。これで、1999年に初めて走って以来、600回目の節目となった。実際には、吉野まで往復したときなど1日に2回通過することもあったが、それは1回とカウントしているので、正確には600日目ということになろうか。

年ごとの回数は次のとおり。ここ最近で回数が増えたのは、過去の記録を整理したことで、600回到達が視野に入ってきたためだ(笑)。さて、年20回ペースであと20年走ると1000回到達となるが、さすがにちょっと厳しいだろう。

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11月29日 LSD20キロ
月間走行  200キロ

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2017/11/27

『炭水化物が人類を滅ぼす【最終解答編】』

9784334043179夏井睦著。版元の紹介文。

ベストセラー『炭水化物が人類を滅ぼす』の刊行から4年。この間、糖質制限を取り巻く社会の状況は大きく変化した。批判的な記事は数を減らし、代わってスーパーや外食チェーンには糖質オフ商品が続々登場。今や糖質制限市場ともいうべき巨大マーケットが形成されている。それは何より消費者の側が、健康への効果を体感しているからだろう。続編となる本書では、前作で未解決だったいくつかの問題を解決し、実践者からの大規模アンケートの結果を公開。さらに糖質セイゲニストの立場から、全生命史、全人類史を読み直すという新たな試みに挑む。(以下略、引用終わり)

基本的に前著の記述を敷衍したり、新たな考察を追加した内容である。糖質制限の正しさを一層確信することが出来たが、驚くような発見はそれほどなかった。それでも、

インスリン分泌を促す糖質が肥満の唯一の原因だ。逆に、脂肪を摂取してもインスリン分泌は起こらないので、肥満にはならない。肥満の原因はあくまでも、摂取すると必ずインスリンを分泌させる糖質だけなのだ。(101頁)

食物は活動のためのエネルギー源(カロリー)でもあるが、体を作る部品の供給源でもあったのだ。これらが明らかにされたのは20世紀後半であり、(「食物=カロリー」仮説が生まれた)19世紀の科学者には知る由もないことだった。(中略)その「半分しか正しくない19世紀の仮説」はいまだに世界中に広く信じられているし、それどころか、栄養学と医学の基礎理論となり、社会の常識となっていく。(107-108頁)

といった記述には、改めて目からウロコが落ちた。今さらいちいち訂正する気はないが、当ブログでも上記のような誤解に基づいて書いてしまった箇所も多い。

ただ、「ヒトはなぜ長く走り続けられるのか」という問題に対して、「人類は長距離走を武器にした狩猟者だった」という説はランニングブームの影響によるとして退けているけれども、では本当の理由は何かについては記述がない。また、「ヒトはなぜ汗をかくのか」についても、一般的な体温調節説を退け、性交時の快感を増すためという、やや突飛な説明がなされている。

このあたりの説明はやや説得力に欠ける。やはり、ヒトは他の動物には出来ない長距離走が可能となるように進化し、そのために不可欠な冷却装置として発汗システムが生まれたと考えるのが自然だと思う。

11月25、27日 ジョグ10キロ

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2017/11/24

雪虫

朝、玄関先に出てみたら、白い綿くずのような虫が何匹かふわふわと飛んでいた。しばらく見ているうちに、初めて読んだ堂場瞬一の小説のタイトルにもある「雪虫」だと見当がついた。調べてみると、やはりそのとおりだった。

実物はもちろん、これまで画像でも見たことがなかった。アブラムシの一種で北海道、東北を中心に生息し、関東でも目撃例があるようだが、関西では珍しいのではないだろうか。名前のとおり粉雪が風に舞っているような印象があるが、寿命は大変短いそうで、儚さとか「もののあわれ」を感じさせる。

ガラケーカメラゆえ若干不鮮明だが、一瞬だけ手に止まった瞬間をとらえた。

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偶然だが、これで「人生初」関係の記事が3連続となった。この歳になっても、まだまだ知らないことに出会えるのは、きっと良いことに違いない。

11月23日 ジョグ10キロ

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2017/11/21

遠近両用メガネ

なるものを初めて使用することになった。白内障手術から3ケ月近く経過し、目の状態も安定してきたので、メガネを作り直すことにしたのだ。パソコンや読書など日常生活ではメガネなしで全く不自由しないが、外出時や車を運転するときなどは、やはり遠方視力の不足を感じていた。

ただ、手術で入れたのは近方用の単焦点レンズであり、単純に遠方用のメガネにしてしまうと、今度は近いところが見づらくなるため、遠近両用のメガネが必要なのだ。最初、近方は矯正の必要がないため、レンズの下の部分は度数のない素通しのガラス(いや、プラスチックか)で良いと思っていたのだが、遠近の境目がないレンズの構造上、若干の補正をしてやらないといけないそうだ。

それはともかく、出来あがったメガネで見ると、遠くはもちろん、近くもほぼ裸眼と同じ程度に見えるので、当面はこれで問題はなさそうだ。ただ、一旦かけたあとでメガネを外すと、すぐにはピントが合わず違和感が残る。メガネを使う機会はそれほど多くないが、慣れるまで少し時間がかかるかもしれない。

11月19、21日 ジョグ10キロ

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2017/11/18

作務衣

ふだんの部屋着として、初めて作務衣(さむえ)を購入した。もともと禅寺で作務(日常の雑務)を行う際の衣装で、非常に動きやすく機能的に出来ている。袖と裾がゴム入りで、邪魔にならないところが良い。紐で絞るのが本当らしいが、「お寺様のご意見をもとに開発された」実用本位の改良版なのである。

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着ていると「和」の気分になり、どこか心が落ち着く。また、これで日本茶を飲むと、ひときわ美味しく感じられる。家族の評判も意外によろしい。(笑)

実はこれ、きょう50代最後の誕生日を迎えた自分への、自分自身からのプレゼントなのである。それなりに歳をとって、いろいろ趣味嗜好が変わりつつあるのを実感する。おっと、家族からも素敵なプレゼントをもらっているので念のため。

11月17日 LSD40キロ

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2017/11/16

『夜の大捜査線』

Heat1967年、米。シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー他。ウィキペディアの紹介文。

アメリカ南部の小さな駅に夜行列車からひとりの黒人(シドニー・ポワチエ)が降り立った。町では折しも有力者の殺人事件が発生。パトカーの警官がうだるような熱帯夜のなかを巡回していた。人種偏見の強い地方であるために、駅の待合室にいた「よそ者」の黒人は、巡回中の警官によって容疑者として連行され、署長(ロッド・スタイガー)の前に突き出されてしまう。しかし、あからさまな侮蔑と嫌悪にさらされているこの黒人の男は、フィラデルフィア警察の殺人課、敏腕刑事ヴァージル・ティッブスだった。
滅多にない殺人事件に手を焼く田舎町の警察は、地元市長からの圧力もあって、屈辱感を覚えつつも都会のベテラン刑事ティッブスに捜査協力を依頼する。白人署長はもともと頑固な差別主義であったが、次第にティッブスの刑事としての能力に一目置くようになる。ただし、人種偏見が根強い町であるために、捜査には困難が常につきまとう。
事件はようやく解決し、ティッブスと署長との間には奇妙な友情のようなものが生まれていた。ティッブスが町を去る日、駅には彼を晴れやかな表情で見送る署長の姿があった。(引用終わり)

「夜の大捜査線」という邦題から、夜の大都会を舞台に多数の警察官とパトカーが登場する派手なアクションものを想像していたが、全く違っていた。舞台はミシシッピの片田舎で、捜査に当たるのはティッブスと白人署長、それにサム巡査の3人だけ。殺人事件そのものも、犯人、動機、殺害方法、いずれをとっても月並みな、まことにショボい事件としか言いようがない。

しかし、この映画の価値は殺人事件の捜査そのものより、当時の黒人差別の現実、それを跳ね返すティッブスの名推理、次第に彼の真価を認めざるを得なくなる署長の心理などが、説明は最小限ながら実に巧みに描かれているところにあるだろう。

何と言ってもポワチエのクールな表情がハードボイルトそのものであるし、クインシー・ジョーンズの音楽がそれにぴったり合う。ただ、それ以上に白人署長を演じたロッド・スタイガーが大変いい味を出していて、台詞なしでも署長の内面心理が十分に伝わる名演技である。

11月15日 ジョグ10キロ

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2017/11/13

吉井瑞穂、N響に客演

昨日放映されたNHKクラシック音楽館はN響第1868回定期で、曲目はブラームスの交響曲第3番と第2番、指揮はクリストフ・エッシェンバッハ、コンサートマスターは篠崎史紀である。ただ、オーボエのトップはいつもの青山聖樹や茂木大輔ではなく、長い茶髪を後ろにまとめた若い女性が吹いている。

見覚えのある顔だと思ったらやはりそうで、マーラー室内管弦楽団(MCO)の首席、吉井瑞穂その人だった。N響でトップを張れる女性奏者と言えば、私の知る範囲ではこの人しかいない。N響がついにスカウトしたのかと思いきや、実は青山、茂木両氏は事情があって出演出来ず、偶然日本にいた吉井に客演の要請があったようである。

思えば、2006年のMCOの京都公演(メインは同じブラームスの第2番!)で初めてこの人の演奏に接して大変驚いたものだが、もうあれから11年になるのだ。2014年にはベルゲン国際フェスティバルのMCO演奏会でも実演に接した。既にベルリン・フィルやバイエルン放送響ほかドイツの主要オケに客演するなど、確実にキャリアを重ねてきたようだ。

演奏はお見事の一語に尽きる。N響との共演はおそらく初めてと思うが、元々オケの一員であったかのように、全く違和感なく溶け込んだ上で、ちゃんと彼女自身の表現が出来ている。およそプロ奏者であれば、初顔合わせでも破綻のないアンサンブルは出来るだろうが、彼女の場合はそんな次元ではなく、音楽的にもっと高度なレベルでそれを成し遂げている。N響メンバーも今回の共演が楽しかったに違いない。終演後には楽員からもひと際大きな拍手を受けていた。

既に結婚していて、お子さんもいるらしい。「欧州~鎌倉を行ったり来たり」の生活には苦労もあるだろうが、今後ますますの活躍を期待したい。

11月13日 ジョグ10キロ

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2017/11/12

高砂線廃線ラン

旧国鉄高砂線(加古川~高砂港間約8.0キロ)は、もともと播州鉄道が高砂港からの物資輸送を目的に大正2年に開業した路線で、その後、播丹鉄道を経て昭和18年に国有化され、国鉄高砂線となったものである。しかし、旅客需要は山陽電鉄や神姫バスに奪われて低迷し、沿線にあった国鉄高砂工場の廃止と第二加古川橋梁の老朽化が決定打となり、昭和59年11月末をもって廃止となった。廃線跡は大部分が道路に転用されている。

起点の加古川駅からスタート。ただし、ここから南西に向かう路線であるにもかかわらず、北東方向へ向かう加古川線と一旦並走してから東に分岐、やがて山陽本線を南へオーバークロスしていた。これは、高砂線がもともと国鉄ではなく播州鉄道の路線で、同じ会社の加古川線と接続させたためであろう。

左が現在は高架化された加古川線谷川方、右は山陽本線神戸方である。

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加古川線から高砂線が分岐していたと思われる箇所、その方向にコンクリート橋梁の一部のようなものがあった。高砂線の遺構かもしれない。

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その先は真新しい住宅が建っているが、一部に空き地を残している。

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その先では線路のカーブに沿って新しい住宅が建ち並び、庭先の車はまるでゲートインした競走馬を連想させる(笑)。往時はこの付近から築堤となって、まだ高架化されていなかった山陽本線を越えていた。

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山陽本線を越えると道路転用された部分に入り、左手に加古川グリーンシティのマンション群を見ながら進む。

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間もなく野口駅跡に到着。駅名標のレプリカと台車が置かれている。加古川市役所のまん前にあり、それなりに旅客需要はあったのではないかと思われる。

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さらに進むと、国道250号と交差する手前の鶴林寺駅跡を経て、別府鉄道同様、山陽新幹線と山陽電鉄を連続してアンダークロスする。山陽電鉄尾上の松架道橋は、レンガ造りの当時の姿をとどめている。

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この先に尾上駅跡があり、駅名碑と車輪が置かれている。並行する山陽電鉄の尾上の松駅も、かつてはこの付近にあったそうだ。

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やがて廃線跡は未舗装のままとなり、一部は近隣住民が家庭菜園として利用しているようだ。

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小規模な川を渡る橋梁が3箇所ほど残っており、今回の廃線ランでは最も廃線らしい風景に出会った。

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折角なので築堤を下り、赤茶色の錆だらけの鉄橋をしばらく眺めた。

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残念ながら、山陽電鉄と並行して加古川を渡っていた第二加古川橋梁は既になく、泳いで渡るわけにもいかないので(笑)、約600メートル下流の県道相生橋まで迂回せざるを得ない。

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再び廃線跡に復帰、しばらくすると高砂北口駅跡である。現在は駐輪場として利用されているが、線路跡に沿って建ち並んだ建物が当時の風情を残している。

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その先に国鉄高砂工場などへの引込線との分岐点があり、転轍機と腕木式信号機が残されていた。

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間もなく高砂駅跡に到着。ここにも車輪が置かれている。

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時代に取り残されたような駅前商店街のアーケードが、何とも言えない哀愁を漂わせている。

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こちらはもっと凄い。梅ケ枝湯という銭湯だが、いまだに薪で焚いているそうで、ほとんど文化財的価値がある。経営者は…きっと湯婆婆に違いない。(笑)

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高砂神社付近をさらに高砂港駅跡に向けて進む。

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殺風景な工場地帯.の中を進むと、やがて高砂港岸壁に到達する。この付近に高砂港駅があったそうだが、現在は広大なセメント工場の一部となっている。

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廃線ランはここで終了。高砂神社前バス停まで戻り、加古川駅前行きバスを待っていたら、鳥居の下で七五三の晴れ着を着た子供が、家族とともに写真に納まっていた。

11月10、12日 ジョグ10キロ

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2017/11/09

別府鉄道廃線ラン

先日、兵庫県加古川市を走っていた別府(べふ)鉄道の廃線跡を走った。8月にラン友&飲み友の四代目さんに教えてもらった路線である。あわせて、別府鉄道と接続していた旧国鉄高砂線跡も走ったが、それは便宜上別の記事としたい。

別府鉄道は、親会社の多木製肥所(現多木化学)の肥料製品を積み出すための鉄道として、大正10年に野口線(野口~別府港間約3.7キロ、野口で旧国鉄高砂線と接続)、同12年に土山線(別府港~土山間約4.1キロ、土山でJR山陽本線と接続)が開業した。旅客輸送も行って地域住民の足として親しまれていたが、1980年代に入って旧国鉄の貨物営業縮小の影響を受け、主目的の貨物輸送が出来なくなったことから、昭和59年1月末をもって両路線とも廃止となった。廃線跡は大半が遊歩道に転用されている。自転車も通行可能だが、そもそも距離が短い上に随所にバリアが設けられ、サイクリングロードとしては適しない。

全体をなるべく「一筆書き」で走るため、両路線の起終点と逆順になるが、JR土山駅前からスタート。11月とは思えないたっぷりの陽射しが有難い。駅のすぐ北側から、廃線跡を利用した遊歩道「であいのみち」が始まっている。安心して歩けるせいか、子供連れや高齢者の姿が目立つ。

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やがて大中遺跡公園に入ると、播磨町郷土資料館の裏にディーゼル機関車DC302と客車ハフ5が静態保存されている。残念ながらこの日は資料館の休館日だったため、中に立ち入ることは出来なかった。

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公園を出ると道路転用部分に入る。川崎車輌工場前信号所があった辺りに、貨車ワ124が野ざらし状態で置かれている。ただ、塗装をやり直したのか、黒光りする車体は健在である。

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国道250号明姫幹線と交差する場所には中野駅があったが、今は何の痕跡もない。やがて山陽新幹線および山陽電鉄をアンダークロスする。山陽電鉄のガードは単線分の幅しかなく、車はお互いに道を譲り合って通行している。

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この先で線路は左にカーブして野口線跡と合流、しばらく南下すると別府港駅跡に到着する。今も不動産管理会社として存続する別府鉄道の本社があり、タクシー部門が独立した別府タクシーの営業所と車庫もあった。社章は親会社の多木グループ共通で、いかにも肥料会社らしく、鍬(すき)を交差させた形になっている。

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再び北上し、今度は野口線の廃線を走る。こちらはほぼ全線が「松風こみち」として整備されている。沿道には松が植えられ、100メートル毎に距離表示もなされている。高架の山陽電鉄別府駅ホームをアンダークロスした先が別府口駅跡である。

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坂井駅跡の手前、踏切があった場所にはレールの跡が残る。

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円長寺駅跡を過ぎたところにある公園に、昭和6年製のガソリン車キハ2が静態保存されている。前後に荷台を装備した車輌は全国的にも珍しいという。

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藤原製作所前駅跡を経て、別府川を渡る鉄橋が今なお現役として活躍している。

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間もなく野口駅跡に到着、これで別府鉄道全線踏破である。旧国鉄側のモニュメントがあったが、これは別記事で。一旦、最短距離で加古川駅まで走り、駅前で昼食をとる。

11月8日 ジョグ10キロ

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2017/11/06

東海道を走る その20(四日市~亀山)

日永追分を右へ進む。江戸から伊勢参りの旅人はここを通らず、また京大坂からの伊勢参りも別の道を使ったので、この先の区間は東海道中でも通行量が少なく、次の石薬師、庄野宿は甚だ振るわない宿場だったそうだ。そのせいか、街道は心なしか鄙びた風情に変わり、やがて内部(うつべ)川を渡ると、杖衝(つえつき)坂に差しかかる。

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日本武尊が東征の帰途、あまりに疲れて杖を突いて越えたというのがその名の由来である。また、坂を越えた日本武尊が「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」と言ったことから、三重という地名が生まれたという。

再び国道1号と合流、分岐を繰り返すと、やがて石薬師宿に入る。街道の原風景のような光景に、また思わず新日本紀行のテーマ曲が頭の中に流れる。

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広重の「石薬師」は鈴鹿山系を背景に、石薬師寺門前の街並みを描く。

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寺の山門前三叉路の現在の風景。

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宿場を出たところに一里塚があり、その先に旧街道の痕跡と思われる地道(左前方)が残っていた。峠道や石畳を除き、未舗装のまま残る街道痕跡は初めて見たような気がする。

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ただし、この先はJR関西本線と国道1号で分断され、迂回しながら進むと、やがて庄野宿に入る。その手前、JR加佐登駅付近の光景。

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なんでもない景色にしか見えないが、この辺りが広重の五十三次中屈指の名作「庄野」が描かれた場所と言われている。急な雨に慌てて走り出す旅人と籠屋が、今にも動き出しそうだ。

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前の石薬師同様の鄙びた街道筋に、油問屋だった小林家住宅(嘉永7年)を利用した庄野宿資料館があった。古文書などに混じって、天和2年などの高札の現物5点が展示されていた。写真はNGだったが、今も文字の痕跡が残る高札の現物は初めて見た気がする。

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この付近は複数の川が合流し、度々水害に見舞われた場所だったそうで、「川俣神社」が3箇所もあり、宿場の外れには「女人堤防」の痕跡が残る。勝手に堤防を作るのは許されなかった世に、女ならまだ罪が軽いだろうと、重罪覚悟で堤防を築いた女性たちがいたのだ。一旦捕えられたものの許しが出て、褒美を与えられたという。

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安楽川を渡った先に道標が2基ある。「右のゝぼり」とあり、庶民には「ののぼりさん」と呼ばれた野登寺(やとうじ)への道標であるが、左の古い道標の下半分は地中に埋まっている。

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椋川を渡ると、今度は元禄3年の道標が建つ。「従是神戸 白子 若松道」とある。亀山城下から若松港に至る重要な分岐点だったのだ。

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ちなみに、この付近で下校中の小学生の男の子から「こんにちは。今日は暑いなあ」と声をかけられた。「暑い」の「あ」が高いアクセントで、ようやく関西の圏内に入ったことを実感した。亀山宿に入る手前に和田一里塚が復元されている。江戸から104里である。

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亀山の市街地にも宿場町の風情が残る。

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広重「亀山」は、夜明けのグラデーションを背景に、雪景色の中を亀山城に入る大名行列を大胆な構図で描く。

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この日は秋晴れの下、亀山城跡に向かう坂道を高校生たちが自転車を押していた。

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今回の行程はこれにて終了。予定どおり、亀山駅前の郵便局で荷物を受け取り、コミュニティバスに乗って亀山市総合保健福祉センター「白鳥の湯」に向かう。市役所職員たちが働くすぐ横に温泉の受付があり、まるで不条理劇の舞台セットのようだ。(笑)

駅前に戻って夕食を取り、2時間強で自宅まで戻って来られた。さて、次回はいよいよ鈴鹿の峠越え、そして京三条大橋のゴールが待っている。

11月4日 ジョグ10キロ
11月6日 LSD20キロ

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2017/11/03

東海道を走る その19(桑名~四日市)

桑名駅から東に1キロ強走って、渡し場跡に到着。昭和34年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたため、渡し場の前には頑丈な堤防が築かれている。

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広重の「桑名」は、桑名城を背景に、渡し場に着いて帆を下した船を描く。

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この画にもある桑名城の物見櫓、播龍櫓(ばんりゅうろ)が復元されている。実際の用途は水門管理所とのことである。

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ここから南に進むと、桑名城の石垣が残り、一帯は「歴史を語る公園」となっている。

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桑名市博物館前に古い道標が移設されていて、「右 京いせ道」「左 江戸道」とある。案内板には元位置不詳とあるが、方角から考えると江戸方面からの進路が南から西に曲がる角以外になく、桑名宿内では3箇所のうちのいずれかと思われる。

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市街地を進むと街道特有の枡形があり、右へ左へ何度も曲がる。その先の八幡神社の前に天保13年の道標がある。「右 きゃういせみち」「左 ふなばみち」とあり、後者は渡し場のことだろうから、これも前の道標と同じ位置関係にある。

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宿場の京方口(西口)に当たる矢田立場跡には、火の見櫓が復元されている。

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員弁(いなべ)川を渡ると、江戸から97里の一里塚跡がある。宮で89里だったので、七里の渡しを通算しているのだ。その先、近鉄伊勢朝日駅付近で1日目の行程を終え、電車で桑名まで戻って駅前のホテルに宿泊する。泉鏡花の同名の小説に登場した「歌行燈」で、桑名名物の焼き蛤をアテに地酒を頂いた。

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ところで、「その手は桑名の焼き蛤」と言うが、桑名名物は本当は時雨蛤(佃煮)で、焼き蛤は西隣の富田辺りの名物とのこと。西から来た旅人がもうそこで焼き蛤を食べてきて、桑名でまた蛤を勧められても、「その手は食わない」ということのようだ。

翌朝、再び伊勢朝日駅前からスタート。単調な一本道をひたすら進み、朝明(あさけ)川を渡る。JR、近鉄、三岐の3線が集まる所が富田である。「その手」はもう食ったので、ここは何も食べずに通過する。(笑)

さらに進んで海蔵川、三滝川を渡ると、四日市宿に入る。広重の「四日市」は、三滝川の河原で菅笠を風に飛ばされて慌てる旅人をユーモラスに描く。

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現在の三滝川の様子。広重の画で左遠方に見えている船の帆柱に代わって、コンビナートの煙突が聳えている。

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宿場の真ん中辺りに文化7年の道標が残されている。しかし、残念ながらこの先の街道は既に失われ、迂回を余儀なくされる。

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四日市宿を出た辺りで、愛らしい道標が大切に保存されていた。「猿丸太夫名歌古跡すい澤へ是ヨリ三里」とある。百人一首の歌に詠まれた「奥山」とは、この近くの水沢だというのだが、確たる根拠はないようだ。

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この先に日永一里塚の跡がある。江戸からちょうど100里。往時の旅人も、ある種の感慨を催したに違いない。かつての松並木の名残りの松を仰ぎ見たあと、とあるラーメン店で昼食休憩する。

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間もなく、日永追分に到着。左が伊勢、右が京の重要な分岐点だ。弥次さん喜多さんなど、お伊勢参りの旅人とはここでお別れである。

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嘉永2年の立派な道標があり、独特の書体で「右 京大坂道」「左 いせ参宮道」などとある。また、「追分鳥居の水」が相当な水量で湧き出ていたので、ボトルに詰めさせてもらった。鈴鹿山系の伏流水とのことで、とてもまろやかな味だった。

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11月2日 ジョグ10キロ

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