東海道を走る その11(藤枝~日坂)
2日目は六合駅前からスタート。駅付近の数百メートルほど旧道を走ったあとは、島田宿まで国道1号をひたすら西進する。この日も朝から快晴で早くも汗をかいたが、島田宿に入ってすぐ、甘露の井戸水を発見したので有難く頂戴した。少し金気の味がするのが、いかにも井戸水らしい。
下本陣跡の一角は遊歩道になっていて、からくり時計塔が設置されている。ちょうど9時になるところで、どんな仕掛けが出てくるのか期待していたが、なんと10時から始まるのだった。残念。
島田は小さな町ですぐに市街地を抜け、新東海製紙の工場を回りこむように走ると、まもなく「越すに越されぬ」大井川である。川会所、札場、番宿などからなる川越場が、タイムスリップしたように往時のまま残っている。一部は復元したものかもしれないが、なるべく当時のままに景観を維持しようという姿勢は好ましい。
とある番宿に入ると、屈強そうな川越し人足が仁王立ちになって、「何か用けぃ?」とばかりにこちらを睨んでいた。奥に見えるハシゴのようなものは連台といって、その上に旅人を乗せ、人足たちがそれを担いで川を渡るのである。
川越しの手続きをする川会所(かわかいしょ)は現存し、今も近所のおばあさんたちの会所になっているようだ。(笑)
また、浄瑠璃「生写朝顔話」で有名な「朝顔の松」がこの辺りにあって、昭和10年代に枯死してしまったが、二代目の松が植えられている。
広重は川越えの様子を鳥瞰図のように高い視点から描いている。手前に見えるのは「朝顔の松」か?
堤防から見るとせいぜいこのぐらいで、広重の着想は見事というしかない。
現在は大井川橋を渡っても島田市のままだが、旧国名では大井川を境に駿河から遠江に変わる。
広重の「金谷」は宿場に入る前、川越しを終えたばかりの様子を描いている。大井川はそれほどの難所だったということだろう。人足の背中から降りたばかりの旅人とか、本当に細かいところまでよく描いている。
旧街道に復帰してすぐ、SLで有名な大井川鐵道の新金谷駅横を通過。
間もなく金谷宿に入り、緩やかな登り坂が続く。
金谷駅手前の一里塚跡で東海道線のガードを潜り、間もなく金谷坂に取り掛かる。最近になって地元の努力で復元された石畳道が続く。
これを登り切ると、今度は菊川坂の下りとなる。周囲は一面に茶畑が広がり、秋の陽光を浴びている。
坂を下りたところは菊川という小さな集落で、その先の難所、小夜の中山を控えた間の宿となっていた。近くの川から出た菊花紋のこの菊石が、その名の由来だという。
菊川を出るとすぐ、青木坂という滅茶苦茶急な坂道となり、思わず歩きが入る。これを登り切った辺りが小夜の中山で、古くから歌に詠まれた名所である。あちこちに歌碑があったが、嗜みがない自分には値打ちが分からない。
また、この付近には夜泣石伝説というのがあって、山賊に殺された妊婦の霊が石に宿り、夜になると石が泣いたという。一方、助かった子は近くの寺の住職に水飴で育てられ、長じて親の仇を討ったそうである。
その寺の近くに宝永年間創業の扇屋があり、週末のみ営業している。子育飴というのを売っていたので味見してみた。1本100円。写真がピンボケになってしまったが、その昔、紙芝居のおじさんが売っていたような水飴で懐かしい味がした。
広重の「日坂(にっさか)」は小夜の中山を描いている。当時は夜泣石が街道の真ん中に鎮座していたのだ。
明治天皇の東幸に当たってこの石は移動されたが、それだと伝えられる石が付近の2箇所にあり、いずれが本物か判別できないのだという。
この先、転げ落ちそうに急な沓掛坂を下り、国道1号バイパスを越えると日坂宿に入る。往時の佇まいが比較的よく残っている。
旅籠の川坂屋が資料館として公開されている。中年男女のツアー客が中に入り切れないほど大勢いて、ガイドの説明を熱心に聞いていた。
この先で一旦国道1号バイパスまで出て、現代の茶屋道の駅で塩分補給兼昼食とする。信じられないくらい大勢の客でごった返していて、人気の少ない旧街道を走ってきた人間には、とても落ち着ける場所ではない。
10月24日 ジョグ10キロ
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