『ピアノ・レッスン』
1993年豪。ニュージーランド出身の女流監督ジェーン・カンピオンが脚本も担当。アマゾンの紹介文。
19世紀半ば。エイダは娘のフロラとピアノとともに見知らぬ男のもとへと嫁いでゆく。口のきけないエイダにとってピアノは言葉の代わりであり、全てだった。しかし夫のスチュアートはピアノを海辺に置き去りにし、粗野な男ベインズの土地と交換してしまう。エイダに興味を抱いたベインズはレッスンと引換えにピアノを返すと約束をする。警戒しながらもピアノを弾きに通うエイダだったが、ベインズとの“レッスン”は次第にエスカレートし、ふたりはいつしか愛と官能の炎を燃え上がらせていく――。(引用終わり)
スコットランドからニュージーランドまで航海するには小さすぎる舟。その舟にピアノを載せて運んで来たばかりか、そのピアノを波打ち際に置き去りにするという、とても非現実的でありながら印象的なシーンから始まる。
エイダの夫スチュアートは、彼女の大切なピアノを放置するばかりか、最初の日から土地取引のために出かけてしまうような男である。それとは逆に、土地と引き換えにピアノを取り戻してくれたのは、文字も読めずマオリ族の化粧をする野卑な男ベインズである。ベインズに請われてピアノを弾きに通うエイダは、次第に彼と道ならぬ恋に落ちる。
結局のところ、これは新たな『チャタレイ夫人の恋人』なのだろう(読んだことはないけれども、あらすじは知っている)。ネットで検索すると、両者を詳細に比較している論文もあるようだし、素人の見解を述べるのは控えるとしても、この映画が男女の愛情についての深い洞察を示しているのは確かだと思われる。
淀川長治氏は、この映画におけるピアノは男性器の象徴だとしていて、最後にエイダがピアノを海に捨てるシーンは、ベインズという男が出来て不要になったからだというが、ではなぜエイダは予めロープで自分をピアノに繋いでいて、一旦はピアノと一緒に海に落ちたのか。ピアノと一体だった自分の過去を否定するための行為だったすれば、ピアノは以前の自分の分身、いや自分そのものということになるのではないだろうか。
7月27日 ジョグ10キロ
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