『ショスタコーヴィチの証言』
ソロモン・ヴォルコフ編。1986年初版の中公文庫。現在は絶版となっている。アマゾンの紹介文。
レーニン賞など数々の栄誉に輝く世界的作曲家が、死後国外での発表を条件に、スターリン政治に翻弄された芸術家たちのしたたかな抵抗と過酷な状況を語る。晩年に音楽学者ヴォルコフが聞き書きして編んだ、真摯な回想録。(引用終わり)
スターリンを頂点とするソ連の政治体制への痛烈な批判を含む内容だけに、ソ連本国での出版は絶望的で、記録者のヴォルコフはショスタコーヴィチから、自分の死後にソ連国外で発表することを委託された。ショスタコーヴィチが死んだ翌年の1976年、ヴォルコフはアメリカに亡命、1979年に本書が英語で出版された。
当然ながらソ連当局は本書を「偽書」扱いして、ショスタコーヴィチの真意を伝えていないと反駁し、本書の真贋を巡る論争が繰り広げられたが、「訳者あとがき」によれば、本書のロシア語タイプ原稿には、各章ごとにショスタコーヴィチの署名があるそうだ。
スターリンが行なった恐怖政治の実態について、これほど生々しく「証言」した書物は、おそらく他にあるまいと思われる。たとえば、ある夜ラジオ放送でモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いたスターリンがそのレコードを欲したため、それが生演奏だったにもかかわらず「無い」とは答えられず、急遽楽員が集められて一夜のうちに録音が行なわれた。指揮者は恐怖のあまり思考が麻痺してしまって自宅に帰され、結局3人目の指揮者でどうにか最後まで録音できた。こうして、世界にたった1枚だけのレコードが作られた。文句なしに記録(レコード)、追従の記録であった。
そんな状況の中、ショスタコーヴィチの音楽は「形式主義的」だとされ、『プラウダ』紙上で厳しい批判を受けたが、その批判について「内省」した後は、「社会主義リアリズム」に沿って体制を賛美した内容とされる作品を生み続け、多数の称号や賞を受けて不動の地位を確立した。しかし、それは表面的なことで、真意は別のところにあったのだ。
例えば第7交響曲について、彼はこのように述べている。
戦争は多くの新しい悲しみと多くの新しい破壊をもたらしたが、それでも、戦前の恐怖にみちた歳月をわたしは忘れることができない。このようなことが、第四番にはじまり、第七番と第八番を含むわたしのすべての交響曲の主題であった。
結局、第七番が《レニングラード交響曲》と呼ばれるのにわたしは反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである。(318-319頁)
第7交響曲のいわゆる「戦争の主題」の軽薄な感じに違和感をもっていたが、「訳者あとがき」に紹介された柴田南雄氏の指摘によれば、これはレハールの「メリー・ウィドウ」からの引用であって、そこには「彼女たち(酒場の女たち)は親愛なる祖国を忘れさせてくれるのさ!」という、とんでもなく危険な言葉が隠されていたのだ。これを読んではじめて「そうだったのか」と合点がいった。
これ以外にも、ショスタコーヴィチの作品にはこのような仕掛けが随所に施されているようだ。一例を挙げると、第5交響曲終楽章コーダの「ソドレミ」というトランペットの輝かしいファンファーレは、実は「カルメン」の引用で、その歌詞は何と「信用しちゃだめよ!」なのだ。
スターリンには音楽を理解する能力がなく、その取り巻きもまた同様だから、こんな仕掛けには気がつくまいと考えたのだろうが、万が一にも当局に嗅ぎつけられていたら、彼はどうなっていたか分からない。粛清、自殺、亡命…。どんなこともあり得た時代だったのだ。
そんな危険を冒してまで、彼が文字通り命がけで音楽の中に埋め込んだメッセージを踏まえてこそ、ショスタコーヴィチの音楽の真価が理解できるのだろう。20世紀という人類史上特異な時代をしたたかに生き延び、その確たる証を五線紙に遺した作曲家。それがショスタコーヴィチなのである。
7月21日 ジョグ10キロ
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