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2016/07/31

温度湿度計を買った

一年で最も暑い季節を迎えた。まだ一応ランナーなので、普通の人間より「暑熱馴化」できていると思うが、さすがにエアコンをつける機会が多くなった。ただ、その判断はなかなか難しい。これまでは温度計を見ながら自分の感覚で判断していたが、ボタンを押す際にはいつも、年間で最も単価の高い電気を使うことに罪悪感を感じていた。

それを多少とも減じるためには、エアコンをつけるタイミングをもう少し客観的かつ科学的に判定出来れば良いだろう。調べてみると、WBGTという「暑さ指数」があり、天気予報で発表している熱中症の危険度はこれに基づくものらしい。

さらに調べてみると、このWBGTは正確には湿球温度、黒球温度、乾球温度というものから算定されるそうだが、温度と湿度だけで速算する簡便法があることが分かった。それがこの表である。

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このマトリックスで赤や濃い赤の領域は危ないということである。これまで主観的判断でエアコンをつけていたのも、概ね赤の領域に入る辺りだったと思われる。なるほど、一目瞭然とはこのことだ。

そこで今回、温度湿度計を購入することにした。ネットで調べてみると様々な商品が出回っているが、ある程度の測定精度があって、デザイン的に満足がいくものは少ない。結局選んだのはこれ。

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温度湿度の数字が大きくて見やすいだけでなく、木目を配した落ち着いたデザインで、コンポの操作ボタンにもかからないので丁度良い。熱中症以外に食中毒、インフルエンザ、カビ・ダニの注意報も表示されるようになっている。

これで今後はエアコンをつけるタイミングを、WBGTに基づいて客観的に判断出来ることになった。罪悪感は多少緩和されるだろうが、だからと言って電気代が安くなるわけでは決してない。(苦笑)

7月29、31日 ジョグ10キロ
月間走行    176キロ

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2016/07/28

『ピアノ・レッスン』

Piano1993年豪。ニュージーランド出身の女流監督ジェーン・カンピオンが脚本も担当。アマゾンの紹介文。

19世紀半ば。エイダは娘のフロラとピアノとともに見知らぬ男のもとへと嫁いでゆく。口のきけないエイダにとってピアノは言葉の代わりであり、全てだった。しかし夫のスチュアートはピアノを海辺に置き去りにし、粗野な男ベインズの土地と交換してしまう。エイダに興味を抱いたベインズはレッスンと引換えにピアノを返すと約束をする。警戒しながらもピアノを弾きに通うエイダだったが、ベインズとの“レッスン”は次第にエスカレートし、ふたりはいつしか愛と官能の炎を燃え上がらせていく――。(引用終わり)

スコットランドからニュージーランドまで航海するには小さすぎる舟。その舟にピアノを載せて運んで来たばかりか、そのピアノを波打ち際に置き去りにするという、とても非現実的でありながら印象的なシーンから始まる。

エイダの夫スチュアートは、彼女の大切なピアノを放置するばかりか、最初の日から土地取引のために出かけてしまうような男である。それとは逆に、土地と引き換えにピアノを取り戻してくれたのは、文字も読めずマオリ族の化粧をする野卑な男ベインズである。ベインズに請われてピアノを弾きに通うエイダは、次第に彼と道ならぬ恋に落ちる。

結局のところ、これは新たな『チャタレイ夫人の恋人』なのだろう(読んだことはないけれども、あらすじは知っている)。ネットで検索すると、両者を詳細に比較している論文もあるようだし、素人の見解を述べるのは控えるとしても、この映画が男女の愛情についての深い洞察を示しているのは確かだと思われる。

淀川長治氏は、この映画におけるピアノは男性器の象徴だとしていて、最後にエイダがピアノを海に捨てるシーンは、ベインズという男が出来て不要になったからだというが、ではなぜエイダは予めロープで自分をピアノに繋いでいて、一旦はピアノと一緒に海に落ちたのか。ピアノと一体だった自分の過去を否定するための行為だったすれば、ピアノは以前の自分の分身、いや自分そのものということになるのではないだろうか。

7月27日 ジョグ10キロ

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2016/07/25

『八月の鯨』

Whales1987年米。allcinema の紹介文。

リビーとセーラの姉妹は、長い人生のほとんどを一緒に過ごしてきた。そんな姉妹は毎年夏の間、アメリカ・メイン州の小さな島にあるセーラの別荘に滞在していた。そこの入江には、8月になると鯨がやって来る。少女の頃、よくその鯨を見に駆けていったものだが、二人ともそれは遠い昔のこととなってしまった……。(引用終わり)

90歳のリリアン・ギッシュが妹、79歳のベティ・デイヴィスが姉を演じているが、年齢の逆転など感じさせない名演技である。というか、もう年齢など超越しているのだろう。

老姉妹の日常を淡々と描くだけで、出来事らしきものと言えば、ロシア亡命貴族のマラノフが自分が釣った魚を持って来て、それを姉妹と一緒に食べるというぐらいのものだ。ただ、次第に気難しくなっている姉が、そんな魚は食べたくないといって駄々をこねるといった、小さな波風の描き方が実にうまい。随所に挿入されるアメリカ北東海岸の美しい風景にも心が癒される。

人生の黄昏をどう過ごすのか。気持ちの張りをどうやって維持するのか。そうしたことをしみじみと考えさせてくれる。海が見える窓を作ることに「新しい物を作るには年寄りすぎるわ」といって反対していた姉が、ついにそれに賛成するところでこの作品は終わっている。さて、あなたの心の窓は開いているだろうか? あなたにとっての「八月の鯨」とは何だろうか? そう問いかけてくるような結末だ。

ひとつだけ些細な指摘を。マラノフが思い出話をするところで、「セントピータースバーグ」という地名を述べているが、字幕もそのままでは分かりにくい。日本では「サンクトペテルブルク」の方が通りが良いだろう。

7月24日 LSD25キロ

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2016/07/22

『ショスタコーヴィチの証言』

Testimonyソロモン・ヴォルコフ編。1986年初版の中公文庫。現在は絶版となっている。アマゾンの紹介文。

レーニン賞など数々の栄誉に輝く世界的作曲家が、死後国外での発表を条件に、スターリン政治に翻弄された芸術家たちのしたたかな抵抗と過酷な状況を語る。晩年に音楽学者ヴォルコフが聞き書きして編んだ、真摯な回想録。(引用終わり)

スターリンを頂点とするソ連の政治体制への痛烈な批判を含む内容だけに、ソ連本国での出版は絶望的で、記録者のヴォルコフはショスタコーヴィチから、自分の死後にソ連国外で発表することを委託された。ショスタコーヴィチが死んだ翌年の1976年、ヴォルコフはアメリカに亡命、1979年に本書が英語で出版された。

当然ながらソ連当局は本書を「偽書」扱いして、ショスタコーヴィチの真意を伝えていないと反駁し、本書の真贋を巡る論争が繰り広げられたが、「訳者あとがき」によれば、本書のロシア語タイプ原稿には、各章ごとにショスタコーヴィチの署名があるそうだ。

スターリンが行なった恐怖政治の実態について、これほど生々しく「証言」した書物は、おそらく他にあるまいと思われる。たとえば、ある夜ラジオ放送でモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いたスターリンがそのレコードを欲したため、それが生演奏だったにもかかわらず「無い」とは答えられず、急遽楽員が集められて一夜のうちに録音が行なわれた。指揮者は恐怖のあまり思考が麻痺してしまって自宅に帰され、結局3人目の指揮者でどうにか最後まで録音できた。こうして、世界にたった1枚だけのレコードが作られた。文句なしに記録(レコード)、追従の記録であった。

そんな状況の中、ショスタコーヴィチの音楽は「形式主義的」だとされ、『プラウダ』紙上で厳しい批判を受けたが、その批判について「内省」した後は、「社会主義リアリズム」に沿って体制を賛美した内容とされる作品を生み続け、多数の称号や賞を受けて不動の地位を確立した。しかし、それは表面的なことで、真意は別のところにあったのだ。

例えば第7交響曲について、彼はこのように述べている。

戦争は多くの新しい悲しみと多くの新しい破壊をもたらしたが、それでも、戦前の恐怖にみちた歳月をわたしは忘れることができない。このようなことが、第四番にはじまり、第七番と第八番を含むわたしのすべての交響曲の主題であった。
結局、第七番が《レニングラード交響曲》と呼ばれるのにわたしは反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである。(318-319頁)

第7交響曲のいわゆる「戦争の主題」の軽薄な感じに違和感をもっていたが、「訳者あとがき」に紹介された柴田南雄氏の指摘によれば、これはレハールの「メリー・ウィドウ」からの引用であって、そこには「彼女たち(酒場の女たち)は親愛なる祖国を忘れさせてくれるのさ!」という、とんでもなく危険な言葉が隠されていたのだ。これを読んではじめて「そうだったのか」と合点がいった。

これ以外にも、ショスタコーヴィチの作品にはこのような仕掛けが随所に施されているようだ。一例を挙げると、第5交響曲終楽章コーダの「ソドレミ」というトランペットの輝かしいファンファーレは、実は「カルメン」の引用で、その歌詞は何と「信用しちゃだめよ!」なのだ。

スターリンには音楽を理解する能力がなく、その取り巻きもまた同様だから、こんな仕掛けには気がつくまいと考えたのだろうが、万が一にも当局に嗅ぎつけられていたら、彼はどうなっていたか分からない。粛清、自殺、亡命…。どんなこともあり得た時代だったのだ。

そんな危険を冒してまで、彼が文字通り命がけで音楽の中に埋め込んだメッセージを踏まえてこそ、ショスタコーヴィチの音楽の真価が理解できるのだろう。20世紀という人類史上特異な時代をしたたかに生き延び、その確たる証を五線紙に遺した作曲家。それがショスタコーヴィチなのである。

7月21日 ジョグ10キロ

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2016/07/19

湧網線(東線)廃線ラン

今回の北海道旅行の主たる目的は湧網線(東線)の廃線ランである。以前、サロマ湖ウルトラマラソンからの帰り道にその存在を知って以来、いつかは走ってみたいと思っていたのだ。

中湧別-網走間を結ぶ湧網線は昭和28年に全線開通した。昭和7年の着工から数えて、太平洋戦争による中断を挟んで実に21年もかかっている。ブラームスの第1交響曲にも匹敵する(?)長年に亘る努力の成果なのだ。

それにもかかわらず、御多分にもれず沿線の過疎化とモータリゼーションの進展により利用客が減少し、国鉄民営化直前の昭和62年3月19日をもって全線廃止となったものである。

そのうち常呂-網走間約31キロの湧網東線は、大部分がオホーツクサイクリングロードとして整備されていて、私が走った前の週末には、ここをコースの一部とするサイクリング大会が開催されたそうだ。ただ、この日は雨のせいもあって、網走付近でディスタンスチャレンジのランナー数人に出会った以外、コース上で1台の自転車も1人のランナーも見かけなかった。

常呂町内、ウルトラマラソンのフィニッシュ地点近くの道路脇から網走に向けてスタート。ここから画面手前の中湧別方は既に廃線跡は失われ、途中何箇所かで駅舎などの遺構を残すのみとなっているようだ。

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間もなく常呂駅跡の常呂交通ターミナルに到着。現在は鉄道代替のバス路線が運行され、その停留所として利用されている。以前は船のような形をしていたと思うが、建て替えられたのだろう。清潔なトイレや飲料自販機があって助かった。

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この先、サイクリングロードは一旦国道238号に合流する設定となっているが、自分は常呂漁港のある海岸沿いの集落内を走る。こちらが本来の廃線跡に近いからで、高台を走る国道まで上がるのがイヤだったからではない。(笑)

集落を出たところでようやく本来の廃線跡に入る。「天に続く道」同様、はるか彼方まで直線道路が伸びていて、一瞬気が遠くなる。(苦笑)

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いかにも北海道という風景の中をひたすら走り続ける。

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やがて、次の能取(のとろ)駅跡に到着。ホーム跡が残っているのは、ここと卯原内(うばらない)の2駅のみで、それ以外は駅の位置すら確認できなかった。

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この先、左手に能取湖を望む区間に入るが、単調な景色が続く上に、次第に雨が激しくなり、やや辛いものがあった。遠くて写真は撮れなかったが、サギの仲間と思われる水鳥が干潟で羽を休めているのが見えた。

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能取湖を西岸沿いに約半周して、ようやく卯原内駅跡に到着。付近は鉄道記念公園として整備され、9600形蒸気機関車とオハ47形客車1両が静態保存されていた。

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ただ、鉄道記念館の建物内は無人で、2階の展示スペースにも鍵がかかっていた。来訪者があまりに少なく、実質的に閉鎖されているのだろう。

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やがて能取湖に別れを告げ、二見ケ岡という低い峠を越えると、今後は右手に網走湖が見えてくる。国道238号を越える湖眺橋(こちょうばし)の上から網走湖を望む。

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間もなく網走川を渡って網走市街に入る。レンガ風の欄干は多分刑務所をイメージしたものだろう。この橋を渡ったところ大曲駐輪場があり、自転車専用道としてはそこまでだが、廃鉄ファンとしては更に網走方に進む。

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石北本線との合流点付近。優雅にカーブする道が明らかに廃線跡と分かる。写真右手から左奥にかけての山裾を石北本線が走っていて、湧網線はこれに合流する形で網走に向かっていた。合流点には大曲仮乗降場があったそうだが、その痕跡は全くない。

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この後は国道39号の歩道を走って終点網走駅に到着。レンガの壁といい「網走駅」の字体といい、まるで刑務所である。(苦笑)

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あいにく雨に祟られたが、念願の廃線ランを果たすことができ、今回の旅行のハイライトが無事終了した。

7月17、19日 ジョグ10キロ

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2016/07/16

北海道の旅 後篇

知床半島に入って最初の名所オシンコシンの滝。水量が豊富で迫力がある。さすがは北海道、日本離れしていて、2年前の北欧旅行で見たノルウェーのツヴィンデの滝を思い出した。

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しかし、残念ながらこの日は天気が悪く、知床半島の奥へ行くほど霧が濃くなってきた。知床五湖を巡る散策を楽しむ予定だったが、高架木道の展望台でもこの有様だ。

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おかげで少し時間が出来たので、少し足を延ばしてカムイワッカ湯の滝を見に行くことにした。途中から未舗装の悪路となり、レンタカーの日産ノートを4WDモードに切り替える。野生のエゾシカと遭遇したが、人や車を見慣れているのか逃げようともしない。

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「湯の滝」の名のとおり、30度ぐらいの温泉が流れ落ちていて、湯気が立ち籠めている。もう少し上流まで行けば、滝壺が天然の露天風呂になっているそうだ。

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4日目は朝一番に知床峠までのドライブ。前日同様、濃い霧が立ち籠めているが、経験上、峠の向こう側は晴れている可能性がある。峠の頂上まで行っても相変わらず何も見えない状態だったが、羅臼側にものの2、3分も降りていくと急に視界が開け、雄大な風景が姿を現した。

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はるか遠方に国後島を望む。

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余談になるが、知床と言えば必ず出てくる森繁久彌「知床旅情」に、「遥か国後に白夜は明ける」とある。しかし、知床半島は北極圏ではないので白夜はあり得ないし、そもそも白夜は終日昼なので「明ける」ことはない。更に言えば、白夜はもともと「はくや」と読んでいたものが、森繁氏がこの歌で「びゃくや」としたために、それが一般に流布したそうだ。

再びウトロまで戻り、おーろら号で海上からの知床観光を楽しんだ。

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波や流氷に浸食されて出来た「クンネポール」(アイヌ語で「黒い穴」の意)。フィンガルの洞窟もこんな感じなのだろうか。メンデルスゾーンではないので、メロディも何も浮かんで来ないが。(苦笑)

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カムイワッカの滝。先ほどの「湯の滝」の下流に当たる。

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これで知床観光はおしまい。女満別空港に向かう途中、斜里町の外れにある名所「天に続く道」の眺望ポイントに立ち寄る。18キロもあるという長い長い直線道路が地の果てまで続いているように見える。北海道ならではの風景だ。

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帰って来た「内地」はそれほどの暑さではなかったが、あの爽やかな空気を丸ごと持って帰りたかった。

7月15日 ジョグ10キロ

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2016/07/13

北海道の旅 前篇

3泊4日で北海道旅行に行って来た。起点はかつてサロマ湖ウルトラマラソンで何度か利用した女満別空港。今回、ANAのマイレージ有効期間が切れそうになり、それを消化する目的もあったのだが、あいにく大阪からの直行便はなく、わざわざ中部国際空港まで移動してのフライトとなった。

空港近くの「メルヘンの丘」。以前から有名だったはずだが見過ごしていた。実は、今回の旅行は当初自分ひとりで行くつもりだったのが、家内も一緒に行くことになり、さらに娘までわざわざ休暇を取って同行することになった。立ち寄り先や行程がその影響を受けているのだ。(笑)

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網走市内に向けてレンタカーを走らせていると、国道の路側を相当なスピードで走るランナー集団を何組か目撃した。市内に入る頃になって、ホクレン・ディスタンスチャレンジ第3戦が網走市内で行なわれることを知った。どうりで網走市内のホテルが取りにくかった訳だわ。

我々が泊まったルートインホテルにも実業団の選手やスタッフが多数投宿していて、朝食会場では旭化成の宗猛総監督、カネボウの高岡寿成監督らと隣のテーブルになった。さすがに声を掛ける勇気はなかったが、文字通り「同じ釜の飯を食った」間柄となったわけだ。(笑)

さて、初日は夕方の到着だったので、能取岬1周のドライブをしただけで終わった。岬に向かって伸びる道路がオホーツク海にダイブしているように錯覚する。ここでロケを行った映画も何本かあるそうだ。

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2日目はワッカ原生花園に出かけた。ウルトラマラソンでは80キロ以降の最もキツイ箇所に当たり、とても花を眺めたりする余裕がなかったが、今回はレンタサイクルでのんびりと見物できた。

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昼食は常呂町内の「しゃべりたい」というユニークな名前のカフェで、名物ホタテのフライが載ったカレーをいただいた。

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この後、自分は今回の旅行の主たる目的の行程に移るが、それについては稿を改める。その間家内たちは別行動で網走監獄、流氷館などを訪れたそうだ。

3日目の午前中は網走湖畔のシマリス公園を訪れた。自分ひとりだったらまず来なかっただろうが(笑)、人馴れしたリスが手に乗ってエサを食べる様子は愛らしく、心が癒される。

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この後、知床に向かって移動する途中、斜里町の麺通館(「メンズクラブ」と読ませる。この辺りは変わった名前の店が多いのか)のカニ塩ラーメンで昼食。

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後篇に続く。

7月10日 LSD31キロ
7月13日 ジョグ10キロ

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2016/07/08

『ラストエンペラー』

Lastemperor1987年伊、中。ベルナルド・ベルトルッチ監督。アマゾンの紹介文。

1950年。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ送還された中国人戦犯の中に、清朝最後の皇帝、ラスト・エンペラ―宣統帝愛新覚羅溥儀がいた。わずか3歳で清朝皇帝の地位につきながらも、近代化の嵐にもまれ、孤独な日々を送らざるを得なかった溥儀。彼が即位してから文化大革命以降に至るまで、文字通り激動の生涯をあますところなく描き出した珠玉の名作!(引用終わり)

これも名作の誉れ高い作品だが、いわゆる歴史認識の問題に加えて、163分という長尺ゆえ、なかなか観る機会を作れずにいた。

前者については、清朝滅亡から満州国建国といった歴史が描かれているものの、それは溥儀の生涯を語る上で欠かせない時代背景としてであって、それ自体がテーマではないこと。また、後者については、見事な映像表現の連続にため息が出るほどで、長さを全く感じなかったことで、ともに杞憂に終わった。

主演のジョン・ローンをはじめ、主として中国系アメリカ人を起用したこともあり、セリフがほぼ全て英語であるのは止むを得ないとしても、本家の中国人が見たら首を捻りたくなるシーンも多いに違いない。しかし、そんな次元を超越した普遍的人間ドラマとして完成度が高く、アカデミー賞9部門を受賞したのも頷ける。

明日から北海道へ旅行するので、しばらく更新されません。悪しからず。

7月7日 ジョグ10キロ

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2016/07/06

『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』

Strangelove1963年米。長いタイトルは原語どおりだが、人名の “Dr.Strangelove” まで直訳したため、倒錯性愛ものか何かと勘違いしてしまう。アマゾンの紹介文。

時は冷戦の真っ只中。アメリカの戦略空軍基地司令官リッパー将軍が突然、ソ連への水爆攻撃を命令する。ところがソ連が保有している核の自爆装置は水爆攻撃を受けると10ヶ月以内に全世界を破滅させてしまうと判明。両国首脳陣は最悪の事態を回避すべく必死の努力を続けるが、水爆はついに投下されてしまう…。(引用終わり)

時計じかけのオレンジ』『2001年宇宙の旅』と並んでSF3部作とされる。核戦争の恐怖をリアルに、そして馬鹿馬鹿しく描いたブラックコメディ。1962年のキューバ危機直後で、全くシャレになっていないと思うが、過度の恐怖は笑いに通じるものがあるのだろう。

なかでも、マンドレーク大佐、マフリー米大統領、ストレンジラブ博士の3役を演じたピーター・セラーズの演技が見ものである。言われなければ気づかないのではないかと思うほど、人相風体から表情、言葉遣い、声色まで違っているのだ。撮影中の事故がなければコング少佐も含め4役の予定だったというから驚く。

ドイツ出身の科学者が、大統領と間違えてつい「総統」と言ってしまうなど、チャップリンの『独裁者』にも通じる風刺に満ちているが、それとは比べるべくもないブラックな結末は、いかにもこの監督らしいと言えるかもしれない。

7月5日 ジョグ10キロ

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2016/07/03

スキレットな日々 その2

スキレットを使った簡単レシピ第2弾として、煮込みハンバーグを作ってみた。見た目も味も結構本格的なものが出来て満足している。

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とは言え、ハンバーグ本体は冷凍の既製品を使ったので手間が省けたが、これを一から作ったらかなり面倒だろう。「主婦は大変なのよ」という声がどこからか聞こえたような…。(笑)

7月1、3日 ジョグ10キロ

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