富士川を渡ったところにある光栄寺の前に享保16年の道標があり、「身延山道 身延江三里」などとある。「身延山」は山梨県身延町にある日蓮宗総本山久遠寺のことだとすれば、とてもここから「三里」などという距離ではないのだが。

岩淵村を抜けて東名高速と新幹線の下を潜り、さらに東名高速を今度は橋で越え、新坂をだらだらと下っていくと蒲原宿に至る。街道をカラー舗装にして、由緒ある建物には案内板を立てるなど、旧宿場町の風景を保存しようという意気込みを感じる。

広重は夜の雪景色を描いているが、温暖な土地なので実際は雪が降ることも滅多にないそうだ。

ところで、この絵を図柄にした国際文通週間シリーズの記念切手が、昭和35年に発行されている。子供の頃に切手を集めていて、「蒲原」はかなり値打ちがあったのを記憶している。
蒲原宿の西の外れに古い街道の痕跡が残っている。写真右側の細い路地がそれで、この先が旧蒲原宿であったが、元禄12年の大津波で壊滅したため、現在の山側に移転した。そのため、街道も迂回ルートを辿っている。

再び単調な県道をひたすら西進。並行する東海道本線の駅名は、宿場町の最寄りが「新蒲原」、由比との中間の辺鄙な場所が「蒲原」となっている。これは、東側の富士川駅との駅間が短かいため、当初は新蒲原駅がなかったからだそうだ。
やがて由比宿に到着。本陣跡は公園として整備されている。東海道廣重美術館も併設されているが、基本的に入場料、拝観料を取る施設には入らない主義(どんな主義や)の上、この日は先を急いでいたのでパス。

本陣前の馬の水呑場は、馬ならぬ亀たちが占領して甲羅干ししていた。本陣向かいにある正雪紺屋は、慶安の変の首謀者由比正雪の生家とのことである。

さて、宿場を抜けてしばらくすると、由比漁港付近を通る。名物桜えびがちょうど春の漁獲期を迎えたところで、折角なので東海道線と国道バイパスを潜って漁港に出る。写真左の「浜のかきあげや」で桜えびのかきあげを食するのを、この日2番目の楽しみにしていたのだ。ただ、営業時間が15時までなので、道中を急いでいたというわけだ。(笑)

その甲斐あって、漁港に到着したのは14時前だった。念願のかきあげ蕎麦にありつくことが出来たが、一部売り切れのメニューもあったから、もう少し遅かったらどうなっていたか分からない。大きなかきあげが2枚入っていて、口の中が香ばしさで一杯になった。

えびの香りが残るダシまで完食して塩分補給を済ませ、再び街道筋に戻る。JR由比駅付近を通過した辺りから次第に登りがきつくなる。写真は、分岐点にある一里塚跡を由比方向に眺めたところ。江戸からついに40里となった。右手の建物は望嶽亭といい、官軍に追われた山岡鉄舟が逃げ込み、清水次郎長の手引きで脱出した逸話があるそうだ。

いよいよここからがこの日一番の楽しみにしていた薩埵(さった)峠である。広重の「由井」も、あえて宿場から離れたこの場所から富士山を望む絶景を描いている。

しかし、この日は残念ながら肝心の富士山は裾野しか望むことが出来なかった。近くで道路工事をしていたお兄さんに、「昨日はよく見えていたよ」と声をかけられたが、それに合わせて奈良から来られるわけはないので致し方ない。

それでも、広重の構図が決して誇張ではないと思えるほどの急斜面で、下を走る東名高速が奈落の底のように見える。広重の絵の左上で、山の中腹の細い道を恐々と進む旅人の気持ちがよく分かった。
しばらく待っても富士山を隠す雲は霽れないので、文字通り後ろ髪を引かれる思いで峠を下り、次の宿場である興津(おきつ)に到着した。広重は興津川を渡る力士の姿を描いている。

実はこの絵は、街道から少し離れた山側から河口方向を眺めている。同じ構図を求めて、自分も少し寄り道してみた。

興津宿は今では古い旅館が1軒あるのみで、興津川河口近くの温泉施設に泊まることにした。駿河湾を見下ろす広々とした天然温泉の大浴場で2日間の疲れを癒した。
5月14、15日 ジョグ10キロ
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