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2015/05/30

『草のつるぎ・一滴の夏』

Noro野呂邦暢作品集。講談社文芸文庫版。カバーの紹介文。

「言葉の風景画家」と称される著者が、硬質な透明感と静謐さの漂う筆致で描く青春の焦燥。生の実感を求め自衛隊に入隊した青年の、大地と草と照りつける太陽に溶け合う訓練の日々を淡々と綴った芥川賞受賞作「草のつるぎ」、除隊後ふるさとに帰り、友人と過ごすやるせない日常を追う「一滴の夏」――長崎・諫早の地に根を下ろし、42歳で急逝した野呂邦暢の、初期短篇を含む5篇を収録。(引用終わり)

野呂邦暢作品は初めて読んだ。というより、佐藤正午が「友人よりも恋人よりも大切な小説家」と書いていたのを読むまで、その名前すら知らなかった。

どの作品も、ストーリーとか起承転結と言えるものはほとんどなく、作者自身が体験した自衛隊訓練の様子や、除隊後に帰省した際の日常が淡々と書かれているだけのように見える。

ただ、「一滴の夏」の中で、彼が作家になろうと決意した心境を綴った箇所があり、とても印象に残るとともに、これらの作品の意味を理解する手掛かりになった。小説であれエッセーであれ、およそ文章を書くことの本質をこれほど的確に表現した文章は、初めて目にしたような気がする。

自分が得体の知れない物と向い合うとき、まずペンと紙を思い浮べる。自分が獣に襲われた赤ん坊のように無力ではないと知るのは正体不明の事物を言葉で表わそうとしているときだ。(中略)
たとえば干潟がある。外側から見るかぎりそれは名状しがたく重苦しい不定形の拡がりにすぎない。柔らかく水気たっぷりで灰色とも褐色ともつかない微細な軟泥の堆積である。(中略)しかし、一度ペンをとってインクに浸し、「濡れた海獣の肌のように」と書くとき、ぼくは干潟を乗りこえ、自分のものにしたことを感じる。(223-224頁)

一見すると主人公が帰省してただ町中をブラブラしているだけの「一滴の夏」も、主人公の内面の心の動きを中心に、それに影響を与える周囲の人物や風景や事件との関わりが、研ぎ澄まされた言葉で緻密に描かれているのだ。例えば、主人公が郷里諫早を歩きまわる時の心境を述べた箇所はこうだ。

丘から低地へ、低地からまた丘へ、上流から下流へ、林から海辺へ、終日ぼくはうろついている。何を探すという目当てがあるわけでもない。ただ、世界を見るためにとでもいおうか。見ることは歓びだ。到るところでぼくは子供のころから眺め、目に親しかった事物と再会する。
丘の三本杉が、地蔵仏が、古井戸、溜池、水門、運河、堰堤、祠、石橋、寺院、崖、森の沼がぼくの前に立ち現われる。ぼくはそれらを目で貪る。そうではなくてぼくの肉体でもってそれらを受止める。(204頁)

「言葉の風景画家」と、作家にレッテルを貼るようなことは適当でないと思うが、こういう文章を読むと確かにそのとおりだと思う。風景を言葉にして表現する。それだけでなく、それを見る人物の心境までもが、見事に表出されているのである。

ところで、野呂は昭和55年5月7日に42歳という若さで心筋梗塞のため急逝した。佐藤正午は「一九八○年五月七日、快晴」というエッセー(岩波書店『ありのすさび』所収)で、この日の正午のラジオニュースで野呂の訃報に接した感想を、次のように書いている。

…僕はきっとこの日を忘れないだろうと思った。大切に思っていた小説家の死を悲しむ余裕もなく、自分の現実に苛立つことしかできないでいる五月晴れの午後を。
翌年、同じ季節に僕は最初の小説を書き始めた。書き続けながら常に僕の頭の片隅にあったのは、四十二歳で死んだ小説家のことである。だが、それがどんなに早すぎる、どれほど惜しまれる死であるか、まだ若い僕には判っていない。二十五歳の青年はただ、去った者から残った者へ、一つの仕事をやり終えた小説家から自分へ、次はきみの番だと指名されたように思って、そう信じて自分を勇気づけることしかできなかった。

「一滴の夏」で作家になる決意をした心境を書いた野呂の死は、同郷長崎県在住の佐藤正午という作家の誕生にかかわることになるのである。「正午」というペンネームも、もしかするとそこに由来しているのかもしれない。

このペンネームについては、毎日消防署の正午のサイレンを合図に書き始めた習慣からという説もあるが、本人は彼一流の韜晦ゆえか、「もう思い出せない」としか言っていない(「ペンネーム」岩波書店『象を洗う』所収)。しかし、実のところ「あの正午のニュースが小説家としての自分の原点である」という意味ではないだろうか。本人に尋ねても「もう忘れた」と惚けられるのは確実だが。

5月28日 ジョグ10キロ
5月29日 休養
5月30日 ジョグ10キロ

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