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2015/05/30

『草のつるぎ・一滴の夏』

Noro野呂邦暢作品集。講談社文芸文庫版。カバーの紹介文。

「言葉の風景画家」と称される著者が、硬質な透明感と静謐さの漂う筆致で描く青春の焦燥。生の実感を求め自衛隊に入隊した青年の、大地と草と照りつける太陽に溶け合う訓練の日々を淡々と綴った芥川賞受賞作「草のつるぎ」、除隊後ふるさとに帰り、友人と過ごすやるせない日常を追う「一滴の夏」――長崎・諫早の地に根を下ろし、42歳で急逝した野呂邦暢の、初期短篇を含む5篇を収録。(引用終わり)

野呂邦暢作品は初めて読んだ。というより、佐藤正午が「友人よりも恋人よりも大切な小説家」と書いていたのを読むまで、その名前すら知らなかった。

どの作品も、ストーリーとか起承転結と言えるものはほとんどなく、作者自身が体験した自衛隊訓練の様子や、除隊後に帰省した際の日常が淡々と書かれているだけのように見える。

ただ、「一滴の夏」の中で、彼が作家になろうと決意した心境を綴った箇所があり、とても印象に残るとともに、これらの作品の意味を理解する手掛かりになった。小説であれエッセーであれ、およそ文章を書くことの本質をこれほど的確に表現した文章は、初めて目にしたような気がする。

自分が得体の知れない物と向い合うとき、まずペンと紙を思い浮べる。自分が獣に襲われた赤ん坊のように無力ではないと知るのは正体不明の事物を言葉で表わそうとしているときだ。(中略)
たとえば干潟がある。外側から見るかぎりそれは名状しがたく重苦しい不定形の拡がりにすぎない。柔らかく水気たっぷりで灰色とも褐色ともつかない微細な軟泥の堆積である。(中略)しかし、一度ペンをとってインクに浸し、「濡れた海獣の肌のように」と書くとき、ぼくは干潟を乗りこえ、自分のものにしたことを感じる。(223-224頁)

一見すると主人公が帰省してただ町中をブラブラしているだけの「一滴の夏」も、主人公の内面の心の動きを中心に、それに影響を与える周囲の人物や風景や事件との関わりが、研ぎ澄まされた言葉で緻密に描かれているのだ。例えば、主人公が郷里諫早を歩きまわる時の心境を述べた箇所はこうだ。

丘から低地へ、低地からまた丘へ、上流から下流へ、林から海辺へ、終日ぼくはうろついている。何を探すという目当てがあるわけでもない。ただ、世界を見るためにとでもいおうか。見ることは歓びだ。到るところでぼくは子供のころから眺め、目に親しかった事物と再会する。
丘の三本杉が、地蔵仏が、古井戸、溜池、水門、運河、堰堤、祠、石橋、寺院、崖、森の沼がぼくの前に立ち現われる。ぼくはそれらを目で貪る。そうではなくてぼくの肉体でもってそれらを受止める。(204頁)

「言葉の風景画家」と、作家にレッテルを貼るようなことは適当でないと思うが、こういう文章を読むと確かにそのとおりだと思う。風景を言葉にして表現する。それだけでなく、それを見る人物の心境までもが、見事に表出されているのである。

ところで、野呂は昭和55年5月7日に42歳という若さで心筋梗塞のため急逝した。佐藤正午は「一九八○年五月七日、快晴」というエッセー(岩波書店『ありのすさび』所収)で、この日の正午のラジオニュースで野呂の訃報に接した感想を、次のように書いている。

…僕はきっとこの日を忘れないだろうと思った。大切に思っていた小説家の死を悲しむ余裕もなく、自分の現実に苛立つことしかできないでいる五月晴れの午後を。
翌年、同じ季節に僕は最初の小説を書き始めた。書き続けながら常に僕の頭の片隅にあったのは、四十二歳で死んだ小説家のことである。だが、それがどんなに早すぎる、どれほど惜しまれる死であるか、まだ若い僕には判っていない。二十五歳の青年はただ、去った者から残った者へ、一つの仕事をやり終えた小説家から自分へ、次はきみの番だと指名されたように思って、そう信じて自分を勇気づけることしかできなかった。

「一滴の夏」で作家になる決意をした心境を書いた野呂の死は、同郷長崎県在住の佐藤正午という作家の誕生にかかわることになるのである。「正午」というペンネームも、もしかするとそこに由来しているのかもしれない。

このペンネームについては、毎日消防署の正午のサイレンを合図に書き始めた習慣からという説もあるが、本人は彼一流の韜晦ゆえか、「もう思い出せない」としか言っていない(「ペンネーム」岩波書店『象を洗う』所収)。しかし、実のところ「あの正午のニュースが小説家としての自分の原点である」という意味ではないだろうか。本人に尋ねても「もう忘れた」と惚けられるのは確実だが。

5月28日 ジョグ10キロ
5月29日 休養
5月30日 ジョグ10キロ

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2015/05/27

片上鉄道廃線ラン

一昨日、岡山県の片上鉄道廃線跡を走った。かなり以前に旅行で和気(わけ)駅付近に立ち寄った際、偶然廃線跡を発見して以来、いつかはここを訪れたいと思っていた。まさか自分の足で走ることになるとは思いもしなかったが。(笑)

片上鉄道は岡山県備前市片上駅から和気駅を経由し、同久米郡(現美咲町)柵原(やなはら)駅までを結んで昭和6年に全線開通、同和鉱業柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱を片上港まで輸送していた。沿線住民の足にもなっていたが、鉱石産出が減少するなどでトラック輸送にその座を譲り、平成3年6月末をもって廃止となった。

廃線後、片上-吉ケ原(きちがはら)間はサイクリングロードとして整備される一方、吉ケ原-柵原間の一部区間は線路が残り、有志による保存会が毎月一度、動態保存された車両を展示運転している。廃線後も比較的恵まれた境遇にあるのは、それだけ地元民から「片鉄」として愛されていたということだろう。

さて、快晴の25日午前11時前、片上港岸壁にある0キロポストからスタート。ホームなどの痕跡はないが、バラストを敷いた軌道跡が残り、離れた場所にDD13形機関車が展示してあった。

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起点付近は大型商業施設が建つなどしてほとんど痕跡をとどめないが、JR赤穂線西片上駅東の高架下近くまで来ると、旧軌道跡がそれと分かるようになり、ここから自転車歩行者専用道路が始まる。

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なだらかな登りとなって山陽新幹線の高架下を潜るとすぐにキロポストがあった。てっきり1キロかと思ったが、よく見ると0.1キロだった。サイクリングロードの起点は新幹線高架下付近としていて、そこからの距離を表示しているようだ。分からないでもないが、本来のキロポストをわざわざ移動して設置するとは、何とも無粋なことをするものだ。

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さらに登りがきつくなる。勾配標に28.6(‰・パーミル)とあり、片上鉄道の最大勾配地点である。

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登り切ったところに峠清水トンネル(203M)があった。僅かな距離だが涼しくて気持ちよい。

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間もなく最初の駅、清水に到着。以後、いくつかの駅がこんな風に保存されていた。トイレが設置されている駅もあったが、飲料の自動販売機はなく、飲料調達がつい遅れ気味になってしまった。

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山陽自動車道の高架を潜り、和気駅近くのセブンイレブンで昼食休憩。和気駅で山陽本線と一時並行した後、築堤を上がって金剛川橋梁を渡る。

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この後、左に吉井川が見え始め、右から迫る山との間の狭い土地をひたすら遡る。吉井川は川幅が最大百数十メートルはあろうかという堂々たる大河である。これは新田原井堰といって、農業用水の確保と水力発電を行っている(ガイドマップの受け売り・笑)。

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天瀬(あませ)駅。当時のままの駅舎に加え、信号の制御器みたいな機械やレールの切れ端が残っていて、吉ケ原を除く全駅中で最も鉄道遺構が残されていた。

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短い第1、第2天神山トンネルを潜り、河本(こうもと)駅を過ぎると、備前矢田駅手前に陸閘門(りくこうもん)があった。吉井川増水時にはこのゲートを閉じて矢田地区への浸水を防ぐのである。ここを鉄道が通っていたというのは、多分全国的にも珍しいだろう。レールが僅かに残っているのが見える。

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備前矢田駅付近では信号設備がそのまま残っている。

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更に吉井川沿いの単調な行程が続く。気温も上がってきてかなりバテて来たので、木陰を見つけては小刻みに休憩、給水を取る。備前塩田駅を過ぎると、鉄道は右にカーブして第1吉井川橋梁を渡っていたのだが、この橋はもうなくなっていて廃線跡を進むことは出来ない。

そのためサイクリングロードはここから吉ケ原駅の手前約2キロ地点まで、本来の鉄道とは別のルートを通っている。ただサイクリングを楽しむならその方が分かりやすいだろうが、廃鉄ファンの自分としてはなるべく本来の鉄道跡を走りたい。備前福田駅手前で本来の鉄道跡と思われる道路に入り、沿道で農作業をしていた地元の人に確認したら、間違いなくここが線路跡だと教えてくれた。

しかし、この辺りでお決まりの痙攣が始まり、歩きが入るようになる。頻繁に給水し、塩カプセルも服んだが、大量の発汗を補えていないようだ。周匝(すさい)駅付近は商業施設も多く、廃線跡は今では近隣住民の生活道路になっている。確かにここをサイクリングロードにするわけには行かないだろう。

国道374号を横断して、鉄道跡はやがて再び吉井川を渡る。この第2吉井川橋梁は台風で流されたのを近年復活したそうで、幅1Mほどの歩行者専用橋である。

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この橋を渡ると美咲町に入る。旧国名は美作(みまさか)で、手前の備前との国境なのである。渡ってすぐのところに美作飯岡(ゆうか)駅跡があった。廃線時まで使用されたホームは雑草の中に埋没しつつあり、既に使用されていなかった対向ホームは朽ちかけている。これぞ廃線という風景である。

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この先、鉄道跡は郵便局用地になっていたりで辿るのが困難だ。川沿いを迂回した飯岡集落の西外れで、鉄路が高架で県道を越えていた痕跡を発見。今は墓地公園になっている辺りで再び吉井川左岸に戻ったところでサイクリングロードに合流し、16時前に吉ケ原駅に到着した。

最初に書いたように、この吉ケ原からの先の一部区間(写真奥)は廃線後も線路が保全され、片上鉄道保存会が毎月第1日曜に展示運転を行っている。昨年11月には黄福柵原という駅が新たに作られたそうだ。

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そのため、拠点となる吉ケ原駅構内に現役当時のままの車両が動態保存されている。先頭が流線型をしたユニークな形状のキハ07形は、原型を保ったものは全国でも2両しかないそうだ。また、駅舎は登録有形文化財に指定されている。ここが発祥という駅長ネコは「本日非番」とのことだった。(笑)

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廃線ランはここで終了である。この先の線路内は立入りが禁止されているのだ。というか、そこはそもそも「廃線」ではないだろう。広島かどこかで一旦廃線となった路線が復活したという話を聞いたが、「復線」とでもいうべき稀有な例に違いない。

平日ということもあって、出会ったサイクリストは外人の親子連れを含めて10人ほど。ほとんどが下り勾配となる起点片上方向へと走っていた。ランナーは私以外、皆無だった。そう、私は極め付けの変人なのだ。(笑)

吉ケ原から路線バスを際どいタイミングで乗り継いで湯郷温泉まで移動し、とある旅館に投宿して疲れを癒したが、そこの露天風呂の作りに見覚えがある。何と、約40年前に家族旅行で一度泊まったことのある旅館だった。宿の名前が変わっていたので、予約時には気づかなかったのだ。

当時まだ高校生だった自分がもしも、「40年後にはリタイアしていて、32キロの廃線ランの後、再びここに泊まりに来るだろう」などと聞かされたら、笑い飛ばしていたに違いない。(苦笑)

5月25日    LSD32キロ
5月26、27日 休養

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2015/05/24

『孤独な天使たち』

Ioete_22012年伊。ベルナルト・ベルトルッチ監督。アマゾンの紹介文。

アパートの地下倉庫で過ごした秘密の1週間。ふたりにとっては忘れられないあの場所、あの時間。ロレンツォは、少し風変わりで独りが好きな14歳。彼は両親に嘘をついて、学校のスキー旅行に行かずに、自分の住むアパートの地下で暮らそうと計画する。まるまる一週間、好きな音楽と本だけで過ごそうと思っていたが、思いがけず異母姉のオリヴィアが現れたことで、すべてが一変する。少し年上で、世の中の経験も彼より豊富な彼女のおかげで、ロレンツォは少年時代に別れを告げて、大人の世界に飛び込めるような気持ちになっていくが…。(引用終わり)

親にスキー合宿に行くと偽り、アパートの地下室に閉じこもって音楽や読書にふける主人公は、わが日本にも数多い「ひきこもり」少年そのものだ。しかし、かねてから計画していた彼にとっての天国の日々は、突然闖入してきた異母姉によってかき乱されていく。

秘密を握られた彼女を追い出す訳にもいかず、奇妙な共同生活が始まるのだが、薬物中毒を断ち切ろうと必死な彼女との関わりを通して、彼が人間として一歩成長していく姿を、ごく自然でどこか優しいタッチで描いている。

決して劇的に何かが変わったとは言いがたい微妙な終わり方をしているが、2人とも人生に対して少し前向きな姿勢を得たことは間違いないだろう。それは異母姉弟だからというよりは、短い共同生活での心の交流の結果なのだろう。

5月21日    休養
5月22、23日 ジョグ10キロ
5月24日    休養

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2015/05/20

大阪都構想住民投票に思う

政治の話はなるべく避けているが、あえて2点感想を述べておきたい。各種マスコミでうんざりするほど解説された大阪都構想なるものの中味についてではない。住民投票そのものの経緯やその是非についてである。

まず、公明党の強(したた)かさについて。ほとんど風前の灯と化していた都構想について、住民投票でその是非を問うという橋下市長の起死回生の奇策が実現したのは、ひとえに公明党が突如として住民投票実施賛成に転じたためである。時をほぼ同じくして、衆議院総選挙において公明党が候補擁立を予定していた選挙区全てで、日本維新の党が対立候補の擁立を見送ったことから、その裏に政治的取引があったことが確実視されている。

そのまた裏には、橋下氏と良好な関係にある官邸筋、具体的には菅官房長官の介入ないし調整が行われたと見るのが妥当なところである。住民投票翌日の官房長官定例会見で、一地方自治体の住民投票結果に官房長官が個人的感想を述べるなどという異例の事態はそのことの傍証だろう。

それはともかく、政治家橋下徹の誕生に関わった公明党、創価学会は、後に都構想の進め方を巡って橋下市長と決定的に対立するところとなり、市長も「公明党に裏切られた」と公言して、一旦は袂を分かったかに見えた。しかし、都構想で議会の歩み寄りを得られず万策尽きていた橋下市長に、公明党は救いの手を差し伸べ、住民投票の道を開いてやることと引き替えに、金城湯池・大阪の衆院議席を堅持したのだ。

公明党は都構想そのものには反対していて、住民投票は反対多数になると踏んでいたのかもしれないが、仮に賛成多数となっても、「一体誰のお蔭で住民投票が実施出来たのか」ということになり、逆に反対多数になれば橋下氏は政界引退となって、まさに「肉を切らせて骨を断つ」結果を得る。

つまり、どちらに転んでも自らの有利に働くという計算があったのだろう。長年にわたり日本の政治のキャスチングボートを握り続け、各種選挙の日程は創価学会の行事を考慮して決まるとさえ言われる公明党の政治力と強かさを、改めて痛感させられた次第である。

もう一点は、この住民投票自体の是非について。橋下市長は当日夜の記者会見で、「民主主義は素晴らしい」「日本の民主主義はレベルアップした」などと述べているが、本当はそこにある限定をつけなければならない。しかし、恐らくそんなことは百も承知の上でそう言い切ってしまうところが、橋下流の人心収攬術の真骨頂なのかもしれない。

ここで「ある限定」と言ったのは、彼が言っているのはあくまで「直接」民主主義だということである。「民意」を受けた強力なリーダーが、既得権益と戦いながら改革を進める。彼のスタイルからすればそれが理想で、今回大阪はそれに一歩近づいたというのだろう。

しかしながら、日本は議会制民主主義の国である。間接民主主義である。主権者である国民(市民、府民)が選挙によって議員を選び、その議員が議会で議論して法律や条例を作り、政策を決めるというのが原則である。

市議会で住民投票条例を可決したのだから、それでOKではないかと言われればその通りかもしれないが、では議会は一体何のためにあるのかということになる。事あるごとに「民意を問う」として住民投票が実施されるようになれば、議会制民主主義は有名無実化しかねない。

古来、人々は望ましい政治のあり方について色々と頭を悩ませてきた。プラトンが予言したように、民主政治がやがて大衆迎合主義、衆愚政治へと陥り、独裁者の登場を許した歴史もある。そうした手痛い犠牲を払った上で、ほとんどの民主的な近代国家は、議会制民主主義という、わざと手間のかかる制度に行き着いたのだ。

議会が言うことを聞かないからと言って、手間のかかる説得、調整の手続きをすっ飛ばし、住民投票で一気に事を決しようというのは、時計の針を逆に戻すことに他ならない。「分かりやすい政治」は、その反面で大変な危険性がある。人々がそのことを認識しなくなっているとすれば、これは恐ろしい時代だと言わざるを得ないだろう。

5月19日 休養
5月20日 ジョグ10キロ

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2015/05/18

西国街道を走る(後半)

一昨日、西国街道の後半、モノレール豊川駅から西宮まで23キロ、プラス今津までの1キロを走った。朝方までかなり強い雨が降ったが、幸い走り始めた11時前には上がり、今回もまた寒くもなく暑くもない、絶好の街道走り日和だった。

豊川駅から西に向かうとすぐに箕面市に入り、風情のある街道風景が現れる。西から見て道が二股に分かれる場所に竜王堂があり、その前に享和2年の道標がある。「左 京ふしみ道」とある。

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粟生新家(あおしんけ)に勝尾寺(かつおうじ)への旧参道入口がある。今も地元の人がよく通る辻のようで、クルマを避けて写真を撮るタイミングが難しかった。しかし、寺なのに鳥居とはこれ如何に。

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一旦国道171号に合流し、萱野交差点手前に寛文12年(1672年)の古い道標があった。「みのを山の入口」とあり、元は西方の萱野小学校付近にあったのを、新御堂筋建設のため移設したらしい。建立から約170年後の天保11年(1840年)に追善供養が行われた旨の追刻があるそうだ。それから更に約170年後の今、その道標を自分が眺めているという訳だ。

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萱野交差点を渡り旧道に戻ると、赤穂浪士四十八番目の義士と言われた萱野三平の旧宅がある。討ち入りを希望したものの父に反対され、忠義の板挟みになった彼は、ここで自害して27年の短い生涯を終えた。高輪泉岳寺には彼の供養墓がちゃんとあるそうで、忠臣蔵というのはつくづく日本人を泣かせる話が満載なのだ。

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再び国道と合流したところにあるすき家で昼食。牧落交差点を過ぎて再び旧道に入るとすぐ、箕面街道と交わる地点に道標が2基があった。小さい方は享保5年のもので、「みのをみち」とある。

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間もなく阪急箕面線の踏切を渡り、桜井駅北を通過して箕面川の手前で南に折れた旧道は池田市に入り、石橋駅東から阪大下交差点を通って、今度は阪急宝塚線の踏切を渡る。ここで南北の能勢街道と交わっていて、踏切東側にかなり古い道標がある。「右西宮 左大坂」「右妙見 すぐ西宮」などとあるが、年代は不明である。

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その先、中国自動車道の高架を潜り、再び国道と合流して兵庫県伊丹市に入る。片側3車線の広い道路ではあるけれども、南側には古い民家が並んでいて、この歩道が旧街道であったことを物語っている。

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軍行橋で猪名川を渡り、JR福知山線を越えると、多田街道との交差点に「辻の碑(いしぶみ)」という自然石の古い道標が、小さなお堂の中に納まっていた。文字は大部分剥落してしまっているが、辛うじて「従東寺拾里」と読めるそうである。東寺から40キロ。なるほど。

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この先、距離は短いがかなりの急坂になっていて、「伊丹坂」というらしい。猪名川の河岸段丘だろう。たぶん。(笑)

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旧大鹿村で有馬道と交わり、やがて自衛隊千僧駐屯地の南端を通って、市役所、警察署等のある伊丹市中心部を通過する。昆陽里(こやのさと)付近には田中将大(現NYヤンキース)が通った小学校と中学校が並んで建っている。

再び国道に合流するとすぐ尼崎市に入る。武庫川手前で旧道に戻り、河川敷を下りて行くと、往時「髭の渡し」があった場所に記念碑があった。渡し船を担当していた近くの茶屋の主人が髭で有名だったのがその由来らしい。少し下流に堰堤があり、渇水時は徒歩で渡れるそうだが、この日は未明からの雨でオーバーフローしていたので断念した。

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更に下流の国道まで迂回して甲武橋を渡るといよいよ西宮市である。正面右手には甲山が見えている。「甲」山と「武」庫川だから「甲武」橋なのか? 武庫川右岸を今度は少し遡る。こちら側にはサイクリングロードが整備されている。報徳学園高校北側の細い道が西国街道である。

新幹線高架下を潜り、阪急門戸厄神駅の踏切を越えると、有馬街道との辻に文久2年に再建されたという道標があった。「日本三躰厄神明王」とあり、門戸厄神への参詣道に当たっていたようだ。

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その先で南に折れて国道を横断し、阪急神戸線、JR東海道線、阪神本線を潜ると、旧西宮宿の東外れ辺りに到着した。付近にはその名も「西宮東口」という阪神の駅があったが、高架化に伴い平成13年に廃止され、跡地は児童公園と駐車場になっている。

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そこからもう少し南に行くと、旧中国街道(山陽道)に行き当たる。明治時代の地図と対照したので間違いないと思うが、古い道標はおろか案内標識もなく、思い切り殺風景な景色があるだけだ。左に行くと西国街道、右斜め前方が尼崎から大坂への中国街道である。

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ここからスーパー銭湯のある今津まで中国街道をちょこっと走る。阪神今津駅辺りは大変賑やかだが、実は阪急今津線が延伸されるまでここに駅はなく、ひとつ大阪寄りの久寿川が元の今津駅だったのだ。

最後は少し鉄分まで入ってしまったが(笑)、東寺から西宮までの西国街道を無事完踏した。さあ、次はどこを走ろうか。

5月16日 LSD24キロ
5月17日 休養
5月18日 ジョグ10キロ

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2015/05/15

タブレットはカーナビにもなる

私のクルマにはカーナビがない。今では近所の買い物ぐらいしか乗らないので、そもそも必要がないということもあるが、そういう機械に頼っていると方向感覚が鈍くなるような気がするのだ。たまに遠出するときは地図をプリントして持参するという、超アナログ人間なのである。(苦笑)

とは言っても、たまにレンタカーを借りて一人で運転する時など、見知らぬ土地を走るからレンタカーを借りる訳で、ナビがついているとほぼ頼り切りになる。また、先日東京に行った時も、慣れない首都高速で迷ってしまい、息子のスマホをナビ代わりにして何とか乗り切る始末だった。

確かに、年に何回かはナビがあると助かるという場面があるのは事実で、「あるに越したことはない」と思いながらも、これまでは数万円の出費に踏み切れずにいた。そこへ、最近買ったタブレット端末はカーナビとしても使えるという、これまた耳よりな話を聞き、早速試してみた。

Yahoo!カーナビという無料アプリの評判が良いようなので、これをダウンロードして、元々ナビがついている父のクルマを借りて比較してみた。画面は8インチタブレットの方がひと回り大きく、またより明るくキレイに見える。

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車載のナビがかなり旧型ということもあるが、Yahoo!カーナビの地図は詳細で、沿道の情報も新しい。右左折のアナウンスもちょうどいいタイミングである。VICSの渋滞情報がほぼリアルタイムで見られるのにも驚いた。

逆に、これだけのアプリが無料というのは、一体どういう仕掛けなのかと勘繰りたくなる。クルマの位置情報や移動経路などのビッグデータを収集し、マーケティングに役立てようとでもいうのだろうか。

5月14、15日 休養

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2015/05/13

『あなたが寝てる間に…』

Whileyouweresleeping1995年米。allcinema の紹介文。

シカゴの地下鉄改札係、ルーシー(サンドラ・ブロック)。天涯孤独な彼女の慰めは毎日顔を合わせるだけの名も知らぬ乗客。クリスマス・イヴ、不良にからまれ線路に転落し気絶したその彼を助けたルーシーは、病院でのふとした行き違いから彼=ピーター(ピーター・ギャラガー)の婚約者ということになってしまう。依然意識の戻らぬピーターをよそに、ルーシーは本当のことを言い出せぬまま彼の家族と親しくなっていく。はじめは彼女を疑っていたピーターの弟ジャック(ビル・プルマン)も次第に彼女に魅かれ始めていた。それは彼女も同じだったが……。(引用終わり)

柄にもないラブ・コメディを観る気になったのは、TVドラマ『独身貴族』に出てきたためで、ある兄弟の前に突然現れた女性との三角関係という設定も似通っている。こちらの方もストーリーは大甘だけれど、何と言ってもサンドラ・ブロックの可愛らしさが全てを補っている。

典型的な美人顔ではないけれども、こういうちょっと不運な女性って本当にいそうだなと思わせる親近感がある。ツキのない自分に嫌気がさして橋の欄干に突っ伏すところとか、ジャックが車で去って行った後、その場で回れ右して自分のアパートに入っていくシーンなど本当に可愛らしい。

ところで、紹介文には「地下鉄」とあるが、ルーシーが勤めているのは高架駅で、シカゴ中心部を周回する Loop と呼ばれる高架環状線の駅 Randolf/Wabash で撮影されたそうだ。

5月11日 ジョグ10キロ
5月12日 休養
5月13日 ジョグ10キロ

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2015/05/10

西国街道を走る(前半)

気候が良くなってきたので街道走りを再開、今回は京から西宮に至る西国街道を走ることにして、昨日前半の部として東寺前から大阪モノレール豊川駅までの約30キロを走った。心配された雨は時折パラついただけで、陽射しも弱く、寒くも暑くもないまずまずのコンディションだった。

10時前に近鉄東寺駅前をスタート。世界文化遺産の東寺は、正式には教王護国寺といい、平安京造営と時を同じくして国家鎮護のために創建され、後に嵯峨天皇によって空海に下賜された。「国家神道」などと言うけれども、それはごく最近の話で、日本は昔は仏教国家だったのだ。

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その西には都の南正門に当たる羅城門があり、その跡地が公園として整備されている。豊臣秀吉が築いた御土居の東寺口もこの辺りにあったそうで、「九条御土居」という道路標識が出ていた。

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ここが西国街道の起点であり、かつ大坂からの京街道の終点に当たる。正面にある矢取地蔵から西国街道(右)と京街道(奥)を望んだところ。道標は嘉永7年のもので、他に天保3年の常夜燈もあった。

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いきなり10分以上も長居してしまったので先を急ぐ。(笑)

久世橋で桂川を渡り、JR向日町駅近くで東海道線の地下道を潜ると向日市に入る。阪急東向日駅の踏切を渡って旧道に入ると、ようやく街道らしい風景になってきたが、この先は結構アップダウンがあった。

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愛宕道(物集女街道)との分岐点。左奥が愛宕道、右奥から手前が西国街道。

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愛宕道側に京都府指定文化財である須田家住宅があり、近くの店先では名産の筍がうず高く積まれていた。

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一文橋の手前には風情のある街道風景が残る。架け替え費用に充てるため通行人から一文ずつ徴収したのが名前の由来の橋を渡って長岡京市に入る。

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JR長岡京(旧神足)駅付近は、旧街道にしては珍しく、長い直線道路である。

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西山街道との分岐点に当たる調子八角を過ぎると大山崎町。名神高速を潜った先のこの何でもない交差点は、西国街道の今で言うバイパスに当たる久我畷(こがなわて、右奥)との分岐点に当たる。向日町付近のアップダウンを避けるためという説明があったが、幕府の政策として西国からの大名行列を京に寄らせず、直接伏見方面に向かわせたという説もある。

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阪急大山崎駅前で昼食休憩。この辺りは山側から名神高速、JR東海道線、阪急京都線、旧西国街道、東海道新幹線、国道171号と、主要交通路線が犇めく交通の要衝である。関大明神社の前には「従是東山城國」という道標があり、「関」の名前通りここが山城と摂津の国境である。大阪府島本町に入る。

その先、街道が最も東海道線に接近したところに踏切があり、渡った先に鴨居商店、もといサントリーの山崎蒸留所がある。わざわざ列車の乗客から目立つ場所に造ったというのは、連続テレビ小説『マッサン』で紹介されたとおりである。

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水無瀬神宮の傍を通り、暫くすると明暦3年の銘がある古い道標があった。西暦1657年。これまで見た中で最も古い部類に属する。「右 柳谷 左 西ノ宮そうじ寺」「右 京 伏見 山崎道」とある。

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JR島本駅のすぐ東側に「桜井駅跡」があるが、これは鉄道の駅ではなく、馬など旅に必要なものを備えた宿駅のことで、駅伝の「駅」もそこから来ている。島本駅は平成20年開業の新駅だが、「桜井駅」に出来なかったのは桜井線(万葉まほろば線)に同名の駅があるからか。

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間もなくして高槻市に入り、ポンポン山LSDなどで何度か通ったことのある辺りを通過する。街道がカギ型に曲がったところに芥川一里塚の跡があり、この辺りは芥川宿という宿場町だったそうだ。

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その先、芥川橋東詰から芥川宿方向を振り返って見たところ。道の両側に溝が掘られた石柱があるのは、芥川が氾濫した際に宿場を守るための水門の跡とのことである。他にも愛宕山や金毘羅大権現の燈籠などがあった。

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継体天皇陵とされる今城塚古墳近くにある道標。小さな自然石のものに「右ハ妙見道 すぐ惣持寺道」、ブロック塀に埋め込まれた天保6年のものにも「右妙見道」とある。阪急箕面駅から妙見山まで往復のLSDを何度も走ったものだが、昔の人はこの道を走って行ったのだろうか。(笑)

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茨木市に入り、東芝工場跡の広大な空き地を左に見てから安威川を越え、やがて茨木川を渡って中河原で亀岡街道と交差する。国道171号を渡ってすぐのところに郡山宿跡があり、椿の本陣がひっそりと佇んでいた。

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15時半過ぎにモノレール豊川駅に到着。近くのすみれの湯で汗を流してから帰宅の途に就いた。

5月 9日 LSD30キロ
5月10日 休養

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2015/05/08

『独身貴族』

Singleフジテレビ2013年。草彅剛、伊藤英明、北川景子他。フジテレビの紹介記事から。

父の代から続く映画制作会社の社長をつめとる草彅剛演じる主人公。クリエイティブな能力に秀でた映画作りのプロフェッショナル。人にペースを乱されることを好まず、独身をであることに満足する。いつからか人は彼を「独身貴族」と呼ぶ。
主人公の実の弟を演じるのは伊藤英明。離婚調停中の妻によって家も追い出された。兄と同じ映画制作会社で働き、高交渉能力と営業センスを活かして兄を支える。持ち前のルックスのよさで恋愛に忙しい。人はそんな彼を「離婚勇者」と呼ぶ。
そして、映画の脚本を書くことを夢見ているヒロインを演じるのが北川景子。恋も仕事も上手くいかず、男の結婚観にも幻滅。「結婚難民」となる。結婚に目もくれず夢のために邁進してきたが、なかなか芽が出ず最近では夢を諦めかけている。現在は生活のために家事代行のアルバイトをしているが、そこで思わぬ事が起こる……。
そんな3人が、偶然か?はたまた運命か?出逢いそして人生を大きく動かすことに。40歳を目前に結婚が必要ない男「独身貴族」と結婚に打ちのめされた男「離婚勇者」。そして、彼らの前に現れた結婚に絶望した女「結婚難民」。果たしてこの3人に“決断の時”はやってくるのか?!(引用終わり)

映画会社の社長と専務を務める、性格的には正反対の兄弟。彼らの前に突然現れた脚本家志望のヒロインとの三角関係という、いわば古典的なラブ・コメディである。結末は大方の予想どおりで、味付けは大甘だけれど、不思議と陳腐な感じはしなかった。

各回冒頭に結婚に関する著名人の名言が引用されるが、それにも増して兄の守が父から教わったという、女性の長話への対応方法が秀逸である。そのせいで守は窮地に追い込まれることになるのだが。

映画会社が舞台とあって、いろんな映画の話題が登場するが、中でもトム・ハンクス、メグ・ライアン主演の『めぐり逢えたら』のストーリーが下敷きになっていて、ハートのイルミネーションが施されたエンパイア・ステート・ビルの模型(わざわざ作ったのか?)が重要な小道具となっている。

5月7日 ジョグ10キロ
5月8日 休養

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2015/05/06

LTEでタブレットを使う

タブレットを使い始めてまだ10日ほどだが、既に日常生活に欠かせない道具になった。先日、親戚の葬儀に浜松まで日帰りで往復した際も、ニュースやメールのチェック、近鉄特急券のネット予約などに重宝した。

今回購入したのはタブレットと同じNEC系の BIGLOBE のデータSIMカード。名前の通りデータ通信専用で、音声通話やSMSは使えない。契約は最も手軽な「エントリープラン」で、月間3GB、直近72時間360MBという制約がつく。

しかし、先日の日帰り旅行の際の1日使用実績は約31MBで、これなら月間でも1GBで収まるから、何ら問題ないだろう。使い残した容量は翌月に繰り越せるというが、そのメリットを享受することも多分ないだろう。

料金は月900円(税別)と格安で、ガラケーの方が大体月1100円ぐらいだから、両方合わせても月2000円程度で、年金生活者にとっても何とか遣り繰りできる範囲ではないか。(笑)

5月4日 休養
5月5日 ジョグ10キロ
5月6日 休養

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2015/05/03

『石を積む人』

Stonemanエドワード・ムーニー・Jr.著。原題 The Pearls of The Stone Man 。版元の紹介文。

残りの人生でやり残したことをやろうとした、ひと組の仲睦まじい老夫婦。妻のアンは言った。「やりかけたままの石の塀を完成させてちょうだい」。妻との約束を果たすため、ジョーゼフは思うように動かない体で、ひとり石塀を作る。そんなある日、アンが倒れた。余命いくばくもないことを、戸惑いながらも受け入れる夫婦。アンを安心させるため、長年折り合いの悪かった息子ポールと5年ぶりに会い、関係を修復しようとするジョーゼフ。

孤独な少女シャノンとの出会いも、アンの最後の人生に花を添えるものだった。夫ジョーゼフを残したまま、とうとう死を迎えたアンは、部屋のあちこちに夫に宛てた手紙を残す。それは、伝えそびれたジョーゼフへの感謝の言葉や思いやりの言葉といった、愛のメッセージ。ひとり残され孤独感を募らせていたジョーゼフは、妻の手紙にどれほど救われたことか。アンへの愛を再認識するジョーゼフ。

ある日ジョーゼフは、ティムとアイザイアという少年ふたりに襲われる。裁判で有罪になったふたりを救うため、石塀作りを手伝ってもらうことした。アンとの約束はなんとしてでも果たさなければならない。自分には時間がない…。ぎくしゃくと、しかし確実に心を通わせながら、ジョーゼフはシャノンとティムと触れ合っていく。しかし、アイザイアとはなかなか心を通わせられない。それでも石塀は次第にできあがっていった。

石塀を作ることでアンが伝えたかったこと、それは、若い人たちに優しい手を差し伸べてほしいという、愛情溢れる切なる願いだったのだ。アンの愛は、残された者たちを救うのだろうか。ジョーゼフは、妻との約束を果たせるのだろうか。そして、少年たちにジョーゼフの思いは通じるのだろうか…。(引用終わり)

作者は高校教師で、本作で小説デビューしたという。確かに全篇に亘って何となく素人っぽい感じがしないでもないが、現代に生きる我々が見失いがちな、人と人との関係の大切さを、訥々とした語り口で真正面から訴えかけてくる。

少年たちを善導しようするジョーゼフの言動は少し説教臭い部分もあり、それが彼の悲しい最期をもたらしたわけだが、少なくともティムとシャノンのふたりは、彼のお蔭で温かい家庭を築いている。そのことを踏まえたプロローグとエピローグがあり、それらに挟まれた本篇で11年前の出来事が語られるという構成になっている。

ところで、本書は来月公開の日本映画『愛を積むひと』の原作である。出演は佐藤浩市、樋口可南子、北川景子他。やっぱりそこかい。(笑)

5月1、2日 休養
5月3日   ジョグ10キロ

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