紀州街道をば南へ南へと(後半)
前半に続き快晴に恵まれた昨日、紀州街道後半、泉佐野―和歌山間を行ってきた。南海泉佐野駅近くの佐野高校前を11時前にスタート。関空自動車道の高架下を潜り、しばらくすると大坂夏の陣の樫井(かしい)古戦場跡がある。冬の陣、夏の陣というと大坂城で戦われたものとばかり思っていたが、徳川方についた紀伊浅野軍との攻防がこの地で行われ、ここでの豊臣軍の敗北がその後の趨勢を決したそうだ。
樫井川を渡ったところに海会寺(かいえじ)跡がある。律令時代の7世紀後半創建と推定される大きな寺があったそうだ。大和と同様、古くから開けていた土地なのだ。跡地の一部は神社となっているが、街道を挟んだ南側に博物館があり、見学がてらトイレを借りることが出来た。
この辺りから信達(しんだち)という宿場町に入る。本陣跡の角谷家が往時の雰囲気を残している。
ようやく古い道標を発見。文化十二年の銘がある。表面は「西国…」とあるようだが、ほとんど判読不可能である。
根来街道との交差点を過ぎ、JR阪和線のガードを潜ると、文化十一年の銘がある道標を発見。「是より あたご迎四国みち」とある。「あたご」は近くの愛宕山にある林昌寺と思われるが、「迎四国」って何だろう。八十八ケ所巡りと関係あるのかな。
和泉鳥取駅に近づくと中年男女が三々五々歩いている。熊野古道を巡るハイキングでもあったようだ。駅前のコンビニで昼食休憩。近くの小学校で行なわれている運動会のアナウンスが風に乗って聞こえてくる。
休憩の後、この日の最難関、琵琶ケ崖を越える古道に入る。入口の辺りで少し藪漕ぎすると、途中から往時そのままのような街道が現れ、「平安の小径」なる案内標識が架かっていた。
琵琶ケ崖の真下を覗きこんだところ。写真では分かりにくいが、岩盤が露出したV字型の崖が10メートルほどもあろうか。足を滑らせれば下の渓流まで一気に転落するに違いない。昔、ここを通りかかった熊野詣の琵琶法師が転落し、琵琶だけが木に架かっていたいう伝説も、あながち作り話ではないだろう。
最も細いところは片足を置くのが精一杯という狭さだが、幸い背の高さに太いロープが張られていて、しっかり掴みながら慎重に渡る。久々に股間が締め付けられる経験をしたが、後で気づくと手足のあちこちを藪蚊に刺されてしまっていた。
ここから山中渓(やまなかだに)に入る。大阪側の最後の宿場町があり、風情のある街並みが残る。
関所の跡を過ぎ、まもなく和歌山県との府県境を越える。その手前に、日本最後の仇討ち場の石碑があった。紀州加太に潜んでいた仇を討ちたいとの申し出を受けた紀州藩は(仇討ちには免許が必要だったのだ)、「その者を追放するので仇討ちしたければ国境の和泉側でせよ」と言ったそうだ。時に文久三年(1863)。幕末の混乱期とはいえ、お役人の縄張り根性は今も昔も変わらない。
和歌山側に入ったので、登りはここまでと思いきや、並行して走る阪和自動車道の路側に「登坂車線」との標識を見つけてしまいガックリ。ダラダラした坂をひらすら登り切ると、ようやく展望が開けた。
阪和道と京奈和道を結ぶ計画でもあるのか、大きなジャンクションの工事が行われていて、手持ちぶさたの警備員が挨拶してくれた。人里まで下りて来ると、やがて上淡路街道との分岐点に至る。昭和八年の比較的新しい道標が、塀に囲まれた墓地の角に隠れていた。「右加太淡島神社道 左和歌山及紀三井寺道」とある。熊野古道としては川辺王子、中村王子のある右ルートが正しいようだが、紀州街道走り旅の自分は左ルートを取る。
紀ノ川にほど近い川辺集落の曲がり角にある道標。「左北大坂みち」とある。そうか、紀州街道は紀州に入ったら大坂街道なのか。
この後、国道24号バイパスを経て、紀ノ川堤防上の県道を走り、田井ノ瀬橋で紀ノ川を渡る。巨大な中州に人家や商店があるのに驚く。吉野LSDの時に渡る吉野川は上流に当たるが、その何倍もの川幅をもつ堂々たる大河だ。
あとは大和街道(県道14号、国道24号)をひたすら西進するのみだが、あまりの暑さにコンビニに立ち寄り、ガリガリ君で涼をとることにした。店員の若い男の子に和歌山城までの距離を尋ねたら、「30キロぐらいですかね? タクシーで15分くらいかかりますし」と要領を得ない。普段歩いたり走ったりしない今の人には、車で何分というのは分かっても、実際の距離の感覚を失っているのかもしれない。帰ってから調べると実際は6キロ弱だった。
大和街道は車の通行量が多く、狭い歩道を走っているとストレスが溜まる。そのせいかどうか、こともあろうに脚に痙攣が走り始めた。大量の発汗に給水が追い付いていないのかもしれないが、本当に情けない。
街道沿いにはこんな施設も。女子専用らしい。刑務所といえば高い塀を巡らせ、随所に監視の目が光る物々しいイメージを抱くが、ここはまるで新興宗教の教団本部を思わせるモダンな雰囲気だ。
どこでも見かける郊外型の店舗が建ち並ぶ国道だが、所々に古い家屋が残っていて、ここが紛れもなく旧街道であることを物語っている。
痙攣する脚をだましだまし、16時半過ぎ、ようやく和歌山城前に到着。
本町通りにある「ふくろうの湯」でサッパリ。最近テナントの高島屋が撤退した和歌山市駅から南海特急サザンに乗り、阪急に乗り継いで池田へ猪肉を買いに行った……ではなくて(笑)、すっかり早くなった日没を眺めながら帰路についた。
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コメント
変化に富んだ?楽しそうな道ですね。(^^)
30km、タクシーで15分て、?と思いましたが、実際は6kmでしたか。面白いですね。
で、最後のオチ?は落語の話か何かですかねえ???
投稿: くー | 2014/10/01 22:05
くーさん
最後のオチは先日の前半の最初で紹介した落語「池田の猪買い」を
踏まえたものです。主人公(名前がないようなので「男」とします)と
甚兵衛さんとの遣取り。故枝雀師匠の噺のうろ覚えですが。(笑)
甚:それでお前はん、池田へはどう行たらええか知ってんのか?
男:へえ。とりあえず難波へ出まして、紀州街道をば南へ南へと…
甚:阿呆かいな。そんなことしたら和歌山へ行てまうで。
男:へえ。そやから和歌山の方から池田の方へと…
甚:和歌山から池田へて、そんなもん行けるかいな。
男:へ? 行けまへんか。おかしいなあ…。
ほたら何ですか、和歌山の人は生涯、池田へは行けまへんか?
甚:お前はん、団子理屈を言いなはんな。
投稿: まこてぃん | 2014/10/02 11:01
ありゃ~、失礼しました。m(_ _)m
http://www.youtube.com/watch?v=AIMgQC9W2Ig
一度聴いてみますかねえ。(^^;
投稿: くー | 2014/10/04 00:44