下ツ道(中街道)を走る
気候が良くなってきたので久々の街道走りに出かけた。今回は藤原京と平城京を結ぶ古代の幹線道路下ツ道(近世の中街道)である。奈良県発行のガイドマップを手に大和西大寺駅からスタートし、まずは下ツ道終点の平城京朱雀門へ。
朱雀門から平城京南端の羅城門までは朱雀大路という大通りだったそうだが、史跡として整備された朱雀門から200メートルほどを除けば、その痕跡は今日全く失われているため、ガイドマップに従って秋篠川沿いを下っていく。堤防は自転車道として整備され、満開の桜が咲き誇っている。
間もなく大和郡山市に入り、「奈良口」という交差点を渡ると旧街道らしい雰囲気になってきた。この日最初の道標を発見。すぐ(直進の意)=北が高野山、大峯山などとなっていて、180度反対方向を向いている。
この交差点の東、秋篠川を渡る辺りに羅城門があったそうだが、高架道路の橋脚に案内板があるだけだった。
さらに南進すると稗田町という環濠集落に入る。外敵を防ぐため村の周囲に濠を巡らせたもので、ほぼ完全な形で残されている。
集落西端に道標を発見。これも、すぐ=東が大峯山上などとなっていて、90度向きが違っている。銘は天保十□□年十二月吉日、郡山日野出講中とある。
コンビニで昼食を摂った後、もうひとつの環濠集落番条町に入ると、中世にタイムスリップしたような町並みが見られた。
国道25号を渡り西名阪道の下を潜ると、そこから二階堂駅付近まで、道は大和郡山市と天理市との境界線となっている。天理市を抜け田原本町に入って間もなく、路傍に打ち捨てられたような道標を発見。「すぐ よしの高野道」とあるらしいが、半分ほど埋没してしまっている。銘は「天保三(?)年」とある。
田原本の市街地に入ってすぐの安養寺門前の道標。「右 京なら郡山 左 法里うし大坂さかい道」とある。この他にも田原本町内では何基か道標を発見した。町中を何度も曲がるルートが中世の街道筋だったためだろう。
町役場近くの満開の桜。
往時の主要交差点と思しき辻に建つ古い屋敷の前には、お決まりの道標と道路元標があった。道標は天保十年の刻銘があり、町役場による詳細な説明文が掲示されている。
その先には同様の説明文付きのものが1基、その近くには説明文のないものがもう1基あったが、どういう違いがあるのかよく分からなかった。その他、こんなモダンなものも…。
これはごく最近地元のライオンズクラブが再建したもののようで、往時はこんな風に文字が黒く塗られていたらしいのを初めて知った。でも、「すぐ 大峰山よし野かう野」の下に「道」とあったのでは?
間もなく橿原市に入り、何度か車で通ったことのある道に入ったので、ここでガイドマップはお役御免。中和幹線を渡る前の米川右岸に見事な桜並木があった。桜の木一本一本に「25号」などと番号札を提げているのが面白い。
わざわざ奈良から下ツ道(中街道)を辿ってきたが、何のことはない、自宅から近い八木町に入った辺りが実は旧街道の風情が一番残っていた。
桜だって、うちの家の前の桜並木はなかなか大したものなのだと再発見した、春の一日であった。
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コメント
いい街道ですね。
秋篠川沿いは去年6月に歩きましたが、今の時期だったらもっと気持ちよく歩けたかも?(^^;
投稿: くー | 2014/04/06 10:55
くーさん
秋篠川もいいですが若干名前負けしてるかも(笑)。
これと合流する佐保川の奈良市内寄りには、
もっと素晴らし桜並木があるそうです。
地元のKさんに教えてもらいました。
投稿: まこてぃん | 2014/04/06 16:25