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2013/10/31

竹内街道・横大路を走る 後篇

昨日、竹内街道の残りと横大路を通して走った。前回ゴールの上ノ太子駅前を9時過ぎにスタート。もう10月も終わりだというのに、走り出すとすぐ汗ばむ陽気である。太子町に入り、春日西で国道166号と別れて旧道に分岐すると、早速雰囲気のある街並みが見えてきた。

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春日集落の中にある道標。民家の塀に半ば取り込まれた状態で見づらいが、「右たへまつぼさか いせよしのかうや道」と読める。右側面は植木で見えないが、「右大坂さかい 左たいしいづみ道」とあるそうである。

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太子町役場の辺りから「山田」という住居表示になるが、「大道」という古い字(あざ)も残っているそうで、難波と飛鳥を結ぶ大道のルートに当たる証左となっている。藁葺大和棟の旧山本家住宅は土日祝のみ公開で、中には入れなかった。

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街道から少し入った竹内街道歴史資料館に10時前に到着。ちょっと前なら見向きもしなかっただろうが、こういう施設に興味津々で入っていく自分が何だかおかしい(笑)。入場料200円でいろいろと勉強できた。明治時代には堺県が奈良をも併合していて、ここ太子町のミカンが竹内街道を通って大和高田の市場に出荷されるなど、大阪より奈良との関係の方が深かったそうだ。

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資料館の前庭にあった道標。先ほど通った春日集落の新池付近にあったものを移設したという。文政三年の刻銘があり、「左たゑま竹の内 よしのつぼ坂道」「すく大坂さかい道」とある。

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集落を抜けて一旦国道と合流するが、歩道はないかあっても狭くて走りにくい。「散策者多し注意」の看板などお構いなしに大型トレーラーが猛スピードで走り抜ける。竹内峠で一旦旧道に上がって奈良県葛城市に入る。府県境を示す石碑は大変ものものしく、「從是東奈良縣管轄」「從是東大和國北葛城郡磐城村大字竹之内」とある。

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竹内峠旧道。江戸末期にこの峠を駕籠で越えて堺から奈良にお嫁入りした女性の話が、歴史資料館の展示で紹介されていたのを思い出す。

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峠を下りてしばらくは標識もなく、道を間違えたかと不安になったが、向こうからいかにもハイカーの男性が歩いてきてホッとした。秋の観光シーズン真っ只中なのだ。国道にまた一旦合流して分岐した先、竹内から長尾にかけての竹内街道終点近くには、大変風情のある街並みが残る。

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司馬遼太郎氏は「街道をゆく」第1巻の中で、このように述べている。

…私事をいうと、私は幼年期や少年期には、竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする。そこが母親の実家だったからだが、(中略)竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである。
 村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変らず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変っていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。

竹内集落入口に「歴史国道竹内街道」という標識があったのは、これを意識したものかもしれない。ちなみに、「河村」という家は何軒もあった。この辺りに多い姓なのだろう。どれが司馬氏ご母堂の実家なのかは分からなかったが。

竹内街道終点の長尾神社の手前、下市街道との分岐点に2基の道標があった。右側のは「右よしのつぼさかかうや」「左はせいせ」とあり、左側の「左はせいせ」は前者と方角が90度違っている。左側のは以前ここから少し東に行った長尾神社北東隅に置かれていたものを移設したのだろう。

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ここで竹内街道は終点。少し北に移動して横大路に入る。尺土付近でちょうど昼になったので、国道沿いの中華料理店で昼食を摂る(今回は王将にあらず・笑)。食後、腹ごなしに国道をブラブラ歩いていくと大和高田市に入った。市立病院を過ぎたところで一方通行の細い旧道に変わった。

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後はひたすら真直ぐ続く旧道を東進するのみ。まもなく橿原市内に入り、普段時々車で通る景色の中を走る。コンビニの場所も知っているので不自由はない。大和八木駅前の賑やかな一郭を過ぎてまた狭い旧道に戻ると、中街道との交差点である札の辻はすぐそこだ。

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かつては旅籠だった平田家が中街道を挟んで東西に建っているが、東側(写真手前)は世代交代で住む人がいなくなったため橿原市の所有に変わり、昨年7月から交流館として公開されているそうで、観光ボランティアの人が説明に当たっていた。

さらに東進して耳成山が左に見えるとまもなく桜井市に入るが、その手前に天保十四年の刻銘がある道標を発見した。年号以外ほとんど解読不可能だが、「すぐかぐ山法ねん寺道 おか寺たちばな寺よしの道」とあるそうだ。馴染みのある近所の地名ばかりだ。(笑)

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桜井駅前から先はアーケードの商店街になっていて、その中ほどに多武峰街道との分岐点があった。道路元標もあることから、昔はここが市の中心だったのだろう。宇陀ケ辻で一旦国道に出て近鉄のガードを潜り、慈恩寺交差点で旧道に分岐する。

上街道、初瀬街道との分岐点である慈恩寺追分に15時前に到着、堺大小路からの2日間の行程を終えた。左が横大路橿原方面、奥が上街道奈良方面、手前が初瀬街道榛原方面である。

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道標はあることはあったが半分に折れ、なぜか上部だけが立ち、下部は横倒しという無残な姿である。案内板によれば江戸初期延宝年間のもので、「みぎみわならミち」「ひだりよしのかうや道」とあるそうだが、ほとんど解読出来ない。

Photo

上ノ太子から約23キロ。うち走ったのは約14キロである。近鉄大和朝倉駅で電車を待っていると、ホーム西端のはるか彼方に二上山が霞んで見えた。あの向こうから自分の足でここまで来たのだと、数字で表した距離以上の達成感を味わえた。

10月29日 ジョグ10キロ
10月30日 ジョグ14キロ
10月31日 ジョグ10キロ
月間走行  263キロ

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