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2013/10/31

竹内街道・横大路を走る 後篇

昨日、竹内街道の残りと横大路を通して走った。前回ゴールの上ノ太子駅前を9時過ぎにスタート。もう10月も終わりだというのに、走り出すとすぐ汗ばむ陽気である。太子町に入り、春日西で国道166号と別れて旧道に分岐すると、早速雰囲気のある街並みが見えてきた。

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春日集落の中にある道標。民家の塀に半ば取り込まれた状態で見づらいが、「右たへまつぼさか いせよしのかうや道」と読める。右側面は植木で見えないが、「右大坂さかい 左たいしいづみ道」とあるそうである。

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太子町役場の辺りから「山田」という住居表示になるが、「大道」という古い字(あざ)も残っているそうで、難波と飛鳥を結ぶ大道のルートに当たる証左となっている。藁葺大和棟の旧山本家住宅は土日祝のみ公開で、中には入れなかった。

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街道から少し入った竹内街道歴史資料館に10時前に到着。ちょっと前なら見向きもしなかっただろうが、こういう施設に興味津々で入っていく自分が何だかおかしい(笑)。入場料200円でいろいろと勉強できた。明治時代には堺県が奈良をも併合していて、ここ太子町のミカンが竹内街道を通って大和高田の市場に出荷されるなど、大阪より奈良との関係の方が深かったそうだ。

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資料館の前庭にあった道標。先ほど通った春日集落の新池付近にあったものを移設したという。文政三年の刻銘があり、「左たゑま竹の内 よしのつぼ坂道」「すく大坂さかい道」とある。

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集落を抜けて一旦国道と合流するが、歩道はないかあっても狭くて走りにくい。「散策者多し注意」の看板などお構いなしに大型トレーラーが猛スピードで走り抜ける。竹内峠で一旦旧道に上がって奈良県葛城市に入る。府県境を示す石碑は大変ものものしく、「從是東奈良縣管轄」「從是東大和國北葛城郡磐城村大字竹之内」とある。

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竹内峠旧道。江戸末期にこの峠を駕籠で越えて堺から奈良にお嫁入りした女性の話が、歴史資料館の展示で紹介されていたのを思い出す。

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峠を下りてしばらくは標識もなく、道を間違えたかと不安になったが、向こうからいかにもハイカーの男性が歩いてきてホッとした。秋の観光シーズン真っ只中なのだ。国道にまた一旦合流して分岐した先、竹内から長尾にかけての竹内街道終点近くには、大変風情のある街並みが残る。

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司馬遼太郎氏は「街道をゆく」第1巻の中で、このように述べている。

…私事をいうと、私は幼年期や少年期には、竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする。そこが母親の実家だったからだが、(中略)竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである。
 村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変らず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変っていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。

竹内集落入口に「歴史国道竹内街道」という標識があったのは、これを意識したものかもしれない。ちなみに、「河村」という家は何軒もあった。この辺りに多い姓なのだろう。どれが司馬氏ご母堂の実家なのかは分からなかったが。

竹内街道終点の長尾神社の手前、下市街道との分岐点に2基の道標があった。右側のは「右よしのつぼさかかうや」「左はせいせ」とあり、左側の「左はせいせ」は前者と方角が90度違っている。左側のは以前ここから少し東に行った長尾神社北東隅に置かれていたものを移設したのだろう。

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ここで竹内街道は終点。少し北に移動して横大路に入る。尺土付近でちょうど昼になったので、国道沿いの中華料理店で昼食を摂る(今回は王将にあらず・笑)。食後、腹ごなしに国道をブラブラ歩いていくと大和高田市に入った。市立病院を過ぎたところで一方通行の細い旧道に変わった。

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後はひたすら真直ぐ続く旧道を東進するのみ。まもなく橿原市内に入り、普段時々車で通る景色の中を走る。コンビニの場所も知っているので不自由はない。大和八木駅前の賑やかな一郭を過ぎてまた狭い旧道に戻ると、中街道との交差点である札の辻はすぐそこだ。

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かつては旅籠だった平田家が中街道を挟んで東西に建っているが、東側(写真手前)は世代交代で住む人がいなくなったため橿原市の所有に変わり、昨年7月から交流館として公開されているそうで、観光ボランティアの人が説明に当たっていた。

さらに東進して耳成山が左に見えるとまもなく桜井市に入るが、その手前に天保十四年の刻銘がある道標を発見した。年号以外ほとんど解読不可能だが、「すぐかぐ山法ねん寺道 おか寺たちばな寺よしの道」とあるそうだ。馴染みのある近所の地名ばかりだ。(笑)

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桜井駅前から先はアーケードの商店街になっていて、その中ほどに多武峰街道との分岐点があった。道路元標もあることから、昔はここが市の中心だったのだろう。宇陀ケ辻で一旦国道に出て近鉄のガードを潜り、慈恩寺交差点で旧道に分岐する。

上街道、初瀬街道との分岐点である慈恩寺追分に15時前に到着、堺大小路からの2日間の行程を終えた。左が横大路橿原方面、奥が上街道奈良方面、手前が初瀬街道榛原方面である。

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道標はあることはあったが半分に折れ、なぜか上部だけが立ち、下部は横倒しという無残な姿である。案内板によれば江戸初期延宝年間のもので、「みぎみわならミち」「ひだりよしのかうや道」とあるそうだが、ほとんど解読出来ない。

Photo

上ノ太子から約23キロ。うち走ったのは約14キロである。近鉄大和朝倉駅で電車を待っていると、ホーム西端のはるか彼方に二上山が霞んで見えた。あの向こうから自分の足でここまで来たのだと、数字で表した距離以上の達成感を味わえた。

10月29日 ジョグ10キロ
10月30日 ジョグ14キロ
10月31日 ジョグ10キロ
月間走行  263キロ

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2013/10/28

竹内街道・横大路を走る 前篇

日本書紀の推古天皇21年(613)の条に、「難波(なにわ)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されているそうで、日本最古の官道となったこの大道とほぼ重なる竹内街道・横大路は今年で敷設1400年ということになる。

竹内街道の起点は堺の大小路で、私が小学校卒業まで住んでいた場所から1キロもない地点だ。また、竹内街道終点の葛城市長尾から接続する横大路は、今住んでいる橿原市内を横断して、桜井市の大和朝倉駅付近に至り、そこから先日走った初瀬街道、さらに伊勢本街道へと繋がる。これはもう今年走らないわけにはいかないということで、マラソン練習そっちのけで(笑)出かけることにした。

落選した大阪マラソン開催日の(別に合わせた訳ではないが・笑)27日午前10時、天王寺駅前から阪堺電車で堺の大小路に向かう。大阪唯一のレトロな路面電車の真上に、日本一高いハルカスが聳える新旧のコントラストが何とも言えない。右下の黒いのは電車の屋根だ。

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10時半に大小路を出発。古くからの堺のメインストリート大小路通りを東進し、南海堺東駅南で踏切を渡った途端、見事に道がうねり始めた。旧街道特有の緩やかなカーブの連続である。間もなく西高野街道(右)との絵に描いたような分岐点が見えてきた。正面の白い道標は平成になってからの新しいもので興味はない。(笑)

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その手前、撮影した自分が立っている辺りに安政四年の道標を発見した。「高野山女人堂十三」とある。後で調べてみると「十三」の下に「里」が埋もれていること、高野山まで1里毎に建てられた13基の道標の最初のものであることが分かった。発起人として刻まれた「小左衛門」「五兵衛」両氏に敬意を表しつつ、自分は左の竹内街道の方へ。

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途中、秋祭りの準備をしている人々がいて、倉庫に収納された大きな地車(だんじり)が通りから見えていた。中央に「榎」の文字があしらわれている。地車と言えば岸和田が全国的に有名だが、堺でも各地にあるそうだ。ちょっと写真がブレてしまった。

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この先、ときおり中央環状線に出たりしながら、大体それと並行する旧街道を進む。以前ペース走練習を行なった大泉緑地の南側、中央環状との間を通る道路も、実は竹内街道だったのだ。緑地を過ぎた辺りでお昼になったので、中央環状沿いのなか卯で昼食。幹線道路が近くにあると何かと便利だ。

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堺市から松原市に入る。松原南図書館前の辻で、河内松原駅方面から南下してきた中高野街道と出会う。図書館前に置かれた寛政九年の道標。「左さやま三日市かうや道」「右ひらの大坂道」と読める。左側面には「左さかい道」とある。しかし、なぜか奈良方面への案内はない。

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不思議に思いつつ少し東に進んだところにもう1基、同じ寛政九年のやや小ぶりの道標があった。案内板によれば、中高野街道は図書館前から一旦東に折れて竹内街道と重なり、ここでまた南に分岐していたのだ。ここの道標にはちゃんと「左ふちゐ寺上太子やまと道」とある。実はこの道標、長らく土中に埋もれていたのを、竹内街道敷設1400年を記念して今年3月に発掘復元したそうだ。道理でガイドマップに載っていないはずだ。

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中央環状美原ロータリーの大きな交差点付近でも、幹線道路を横切る形で旧道が残っている。羽曳野市に入り、溜池が多く点在する中を行くと、やがて国道170号を渡る陸橋の上から二上山が望めた。その先はカラー舗装の遊歩道になっていて、なかなか風情がある。

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大和武尊の墓とされる白鳥陵の横を通り過ぎて近鉄古市駅前に出る。この駅には何度か来ていながら、ここが竹内街道とは知らなかった。踏切を渡って緩い坂を上がっていくと、今度は東高野街道と交わる辻に嘉永元年の立派な道標があった。「左大和路上の太子たゑまつぼ坂大峯山 すぐ高野山金剛山」「右大坂 すぐさかい」とある。「たゑま」は当麻、また「すぐ」とは「もうすぐ」ではなく「まっすぐ=直進」の意味で、都合四方向全てを案内しているのだ。

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やがて石川が見えてきた。旧街道は渡し船で対岸に渡ったそうだが、今は下流に臥龍橋が架かっている。この橋を含めて、この先、通勤途上に電車から見ていた景色の中を走ったが、絵の中に入り込んだみたいでちょっと不思議な感覚だった。駒ヶ谷駅、上ノ太子駅付近の集落は、旧街道の雰囲気がよく残っている。

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この日の終点、上ノ太子駅に15時前に到着。堺から約18キロ。うち、走ったのは8キロぐらいである。

10月25日 休養
10月26日 ジョグ10キロ
10月27日 ジョグ8キロ
10月28日 ジョグ10キロ

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2013/10/24

『神去なあなあ夜話』

51tpb78xl__sl500_aa300__2三浦しをん著。『神去なあなあ日常』の続篇である。版元紹介文。

100年先を見据えて作業をしている、神去村の林業の現場。そこへ放り込まれた平野勇気も、村で暮らして1年が過ぎ、20歳になった。山仕事にも慣れ、憧れの直紀さんとドライブに出かけたりもするようになったけれど……。
お仕事小説の名手が描く林業エンタメ第二弾! 秘密がいっぱいの神去村へ、ようこそ!(引用終わり)

前作とは少し趣を異にし、ひとつの大きなストーリーというより、いくつかのエピソードを集めた作品である。「夜話」というだけあって、「あだると」な話も登場したりするが(笑)、クリスマスにまつわる微笑ましい話に癒されもする。

勇気君と直紀さんがその後どうなっていくのか、気になって仕方なく、更なる続篇に期待したいところである。

ところで、先日の伊勢参りの道中に宿泊した三重県美杉村は、「神去村」のモデルとなったところで、前作冒頭で勇気君が到着した駅は伊勢奥津駅である。三浦氏のお父さんが美杉村の出身らしい。泊まった民宿の部屋に三浦氏の色紙が置いてあった。

10月22日 ジョグ10キロ
10月23日 休養
10月24日 ジョグ10キロ

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2013/10/22

身近にある道標 その2

またまた道標ネタである(笑)。明日香から芋ケ峠を経由して吉野までのコースは、これまでもう何百回と走ってきたが、昨日は道標探しを兼ねて、キョロキョロしながらのLSDとなった。

確認できたのは4箇所。まずは明日香橘寺の北東辻にあった小ぶりな道標。「右おか寺」とある。県道から南に分岐する細い道に面しており、こちらが旧道だったのだろう。

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2番目は芋ケ峠を越えて吉野側に下りた、津風呂湖方面との分岐点、通称「象さんポイント」にあった。自然石の形状をとどめたもので、「右たふのミね おか寺」とある。多武峰はここから左に行って鹿路峠を越えた方が近いと思うのだが、昔は行けなかったのだろうか。

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3つめは、その約500m南の集落中ほど、かつてチャコという犬がいた家の近くにある平べったい形のもの。右半分は先ほどと同様、「右 たふのみね おか寺」とあるらしいが、左半分は解読不可能である。

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最後は、吉野川にかかる桜橋の南詰、県道37号と39号の分岐点にある立派なもの。正面は中央に「左 たふのみね」、その右に「おか寺 はせ」、左に「なら いせ」とある。左側面は「右 山上よしの」、右側面には「嘉永三年庚戌初秋建之」の刻銘がある。

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縦横に大きなヒビが入り、針金を巻いて固定しているのは痛々しいが、160余年の風雪に耐えて建ち続けてきた姿にはグッと来る。

4箇所とも、これまで視界には入っていたに違いないが、全く気が付かずに横を走り過ぎていた。意識していないと、物は見えてこないのだ。

10月19日 ジョグ10キロ
10月20日 休養
10月21日 LSD40キロ

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2013/10/18

身近にある道標

伊勢本街道を経験して急に愛着が感じられるようになった道標だが、実はうちの近所にもあることが分かった。場所は橿原神宮の南にある久米寺。地上の女性のふくらはぎを見て動転したため、法力を失って空から落ちたという微笑ましい伝説のある久米仙人ゆかりの寺である。

ここの敷地の南端に道標が立っていた。通りから見える2面に「左 志ん武 橿は羅」「右 おかてら たち花」とあるが、神武天皇陵、橿原神宮は左=西ではなく、寺の北にあり、岡寺、橘寺も右=東というよりは、寺から南東方向にある。どうも方角が違っているようだ。

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と思って裏の2面を見ると、「真言最初 久米寺」「大正六歳□丁巳」(□は判読不能)の刻銘がある。「久米寺」がひときわ大書されていることから、寺の案内が主たる目的で、道標も兼ねて建てられたものと考えられる。それが通りの方を向いていないのは、どこかから移設されたからかもしれない。旧道のある寺の南東側に向けて建っていたと考えれば、道標の方角とも符合する。

それから、寺の南側の通りにはこんなのもあった。「☜來目邑傳稱地道」とあり、昭和十五年の刻銘があるので、紀元2600年で大勢の人が橿原を訪れた際に、来目邑(くめむら)伝説の比定地への案内として建てられたものと思われる。この前を何回通ったか分からないのに、今日までその存在に全く気がつかずにいた。相済まぬことだったと、思わず小さく頭を下げた。(苦笑)

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10月16日 ジョグ10キロ
10月17日 休養(献血のため)
10月18日 ジョグ10キロ

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2013/10/15

伊勢本街道を歩く 第5日

最後の5日目は外宮、内宮他に参拝した。さすがに走る格好はNGなので、全行程「歩き」である。そもそも今回は伊勢本街道を走る(歩く)のが主たる目的なので、伊勢に着いた時点でもう旅は終わっていたとも言えるが、折角ここまで来てお参りせずに帰るのはもったいない。

早朝7時にホテルをチェックアウトして、まず外宮に向かう。外宮、内宮の順にお参りするのが作法らしい。5日に遷御の儀を終えたばかりで、真新しい御正殿(ごしょうでん、左奥)と、屋根に苔むし、20年の歳月を感じさせる古い御正殿(手前)、両方を見ることが出来る。

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お参りを済ませた後、先着100名に無料配付される「参宮の木札」をもらうため、外宮前観光案内所で行列に並び、30分ほど待って無事ゲットした。「タダ」とか「オマケ」には根っから弱い関西人なのである(笑)。

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これを首に提げて、いざ内宮に向けて出発である。外宮から内宮へ行くのに、普通はバスやタクシーを使うだろうが、ここで歩かないでは九仭の功を一簣に欠く。参宮街道のラスト約6キロの行程をのんびり歩くことにする。

近鉄のガードを潜り、その先の小田橋(おだのはし)を渡ると、街道は緩い登り坂となるが、ここを「間(あい)の山」というそうだ。外宮の内宮の間にある山ということで、往時は大道芸人が参拝客を楽しませたり、大変賑やかな場所であったそうだ。

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間の山を上がった辺りを古市と言い、かつて江戸吉原、京都島原と並ぶ日本三大遊郭の一つがあった大歓楽街だったそうだ。参拝の後、「精進落とし」と称して享楽に耽るのが当時のお伊勢参りのスタイルだったらしく、古い川柳に「伊勢参り、大神宮にもちょっと寄り」という秀逸な句がある。外宮から内宮に行く途中に古市があるので、途中で引っ掛かってしまったりしたのだろうか。(笑)

今は当時の繁盛ぶりが想像も出来ないほど静かな、丘の上の住宅街に変わってしまっているが、わずかに1軒、麻吉旅館が往時のままの姿で現存しており、今でも旅館として営業しているという。細い路地にかかる木の橋を潜ると、往時の酔客の大声や女郎の嬌声が聞こえたような気がした。嘘です。(笑)

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この先、伊勢自動車道を渡る手前に伊勢古市参宮街道資料館があり、遊郭や歌舞伎関係を中心に、江戸から昭和初期までの各種資料が展示されていた。中でも歌川広重の浮世絵「宮川の渡し」に心奪われた。

広重の現物は初めて見た気がするが、小さな人物の顔ひとつひとつまで実に細密に描かれている。いよいよ宮川を渡ってお伊勢参りする直前の人々の喜びと興奮が、百数十年の時を超えて伝わってくる。揃いの着物で踊りながら渡し場に向かう女たちの姿も見える。「うんうん、そら嬉しいわなあ」と、思わず絵の中の人物に語りかけてしまった。(笑)

さて、資料館で思わぬ長居をしてしまったので先を急ぐことにする。坂を下っていくと内宮の手前に猿田彦神社がある。猿田彦は天孫降臨の際に道案内した旅の神様ということで、ここまでの道中の無事を感謝しつつ参拝する。

さて、いよいよ内宮である。賑やかな「おはらい町」を通るルートもあるけれども、それは参拝後に通った方が良いと聞いていたので、国道23号の歩道を歩いて10時過ぎに宇治橋の袂に到着した。時刻のせいもあるだろうが、外宮と比べものにならないぐらい人出が多い。

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宇治橋を渡ると気持ちが引き締まるが、実はそこはまだ神域外の神苑という場所に当たる。進路右手に植えられた松の木が何となく不自然に感じられるが、昔はこの辺りにも民家が立ち並んでいたそうで、明治以降の伊勢神宮の変容を物語る一例として、西垣晴次著『お伊勢まいり』に紹介されていた。

それはともかく、五十鈴川の水で手を洗い清めて、石段を上がって御正宮(ごしょうぐう)にお参りする。外宮とは異なり奥の方まで見通すことは出来ず、また右隣の古い御正宮はほとんど窺うことが出来ない。やはりこちらの方が格式が高いということだろうか。

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生憎雨が強くなってきたので、参集殿という休憩所に入ってみたら、ガラス張りの窓の向こうで巫女さんたちが神楽を舞っていたので、ありがたく拝見させてもらった。

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参拝を終えて再び宇治橋を渡り、今度はおはらい町に入る。雨の平日というのに相当な人出である。少し早いけれども昼食を摂ることにし、とある店で伊勢うどんと手こね寿司のセットを頼んだら、胸の参宮木札を見て「サービスの小鉢が付きます」とのことで、牛あぶり焼きサラダが付いてきた。これが伝統的な施行(せぎょう)なのか、はたまた今流行りの「お・も・て・な・し」なのか。(笑)

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まるで時代劇のテーマパークのような「おかげ横丁」を覗き、適当に土産物を買って帰路に就く。最寄りの近鉄五十鈴川駅を目指して歩いていると、前方に参拝帰りらしい中年夫婦が歩いているのが見えた。実はその時まで、伊勢本街道、参宮街道を通じて、徒歩の参拝客を一人として見なかったのだ。平日とは言え式年遷宮直後なので、少しは徒歩組がいるかと予想していたのだが、最後の最後になってようやく同志を発見した思いだった。

五十鈴川駅に近づくと、この駅止まりの下り急行列車がちょうど入ってきたところだった。そのまま折り返し、12時52分発上本町行き急行となったので、さほど待たされずに帰ることが出来たが、実はこの急行、後で近鉄時刻表を見ても、ネットでダイヤ検索しても出てこない。遷宮の臨時列車か何かと思うが、そういう表示やアナウンスもなく、何かキツネにつままれたような気分である。

それはともかく、大和八木に14時半過ぎに到着、15時頃に帰宅した。五十鈴川から榛原までは1時間半ほどだった。人間の足で丸2日かかったというのに!

お盆過ぎに思いついて以来、色々と事前調査し、何度も図上シミュレーションを繰り返した上で臨んだ今回のお伊勢参り。少し道に迷った箇所はあったものの、無事に走り(歩き)通すことが出来、初めて自分の足で吉野まで行ったとき以来の冒険を成功させた思いである。

これで街道走りの面白さに目覚めたので、奈良大阪を中心にいろんな街道を走ってみたい。まずは、今年が1400年の記念イヤーであるらしい竹内街道・横大路が次なるターゲットだ。

10月14日 ジョグ10キロ
10月15日 休養

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2013/10/13

伊勢本街道を走る 第4日

第4日目となる10月8日は上多気から外宮前までの約50キロ、そのうち走ったのは約28キロである。

午前8時に「なかや」を出発。台風がさらに接近したこの日は終日小雨の降る生憎の空模様となった。上多気の集落を出るとすぐに櫃坂(ひつさか)峠が待ち構えている。「こわいとこ」3つの坂の最後である。

ほぼ国道に沿って登っていくので勾配はさほどでもない。出発から小一時間で頂上の峠に到着。この「峠」というのがここの地名なのである。かつては集落があったのが昭和50年に廃村となり、無人の家が数軒残っている。

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下り始めてすぐに国道から分岐点し、つづら折の急峻な山道を下る。途中、小規模な土砂崩れを起こしている箇所があり、かなり大きな木が道を塞いでしまっていた。慎重に足場を確かめながら山手側に回り込み、何とか越えることに成功したが、さすがに「こわいとこ」である。

櫃坂峠をクリアすると後はもう大きな峠はなく、伊勢までずっと下り基調なので気が楽になった。再び国道と合流してから、仁柿川に沿って横野という集落まで下っていく。横野は伊勢本街道と和歌山街道との分岐点に当たり、ここまで走って来て久々に見る、人家の密集した「町」である。

仁柿川はここで櫛田川に合流し、ここから当分の間櫛田川に沿って走ることになる。次の大石(おいし)には、庚申堂の石垣に組み込まれた珍しい道標があり、「大石宿 これより宮川へ七里 はせよりここまで十五里半」と刻まれている。まだ30キロ近くあるのか。ふう。

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その先、小片野というところに、実に榛原を出て以来初めてというコンビニ、サークルKがあり、パンとコーヒーで少し早めの昼食を摂った。8月に移転オープンしたばかりという真新しい店内に入ると、まるで別世界のように感じられる。

しばらく県道を行くと、櫛田川を越える津留の渡し場跡に出る。ここが「こわいとこ」というのは、川が増水すると突然通行止めになったりするという難所だったからである。今では赤い鉄橋が通じていて何の造作もなく渡れるが、県道から分岐して橋に通じる道が少々分かりにくく、道に迷う人も多いというから、やはり「こわいとこ」なのだ。

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更に櫛田川に沿って走ると、相可(おうか)の町に入る。相可高校前に椋の大木があり、県道に覆い被さるように枝を伸ばしている。「大型車通行注意」の看板があるが、伐採したらきっと祟りがあるのだろうな。

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相可名物、長新の「まつかさ餅」でおやつ休憩。米粒の形がそのまま残る素朴な餅で、上品な味わいだった。汗くさい体で店に入るのは一瞬躊躇われたが、幸い他に客がいなくて良かった。

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店の前は熊野街道と交わる「札の辻」で、道標が2本立っていたが、うち1本はどう考えても180度反対方向を向いてしまっている。なぜだろう。

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続いて多気という集落に入る。漢方薬「金粒丸」の古い看板が残っていたり、風情のある街道風景がよく残っている。

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集落を抜けてJR参宮線の踏切を渡ると、急にまた田舎の風景に変わり、やがて薄暗い未舗装の道が緩やかに登り始める。この小さな峠を伏拝坂(ふしおがみざか)と言い、昔、ここまで来た旅人が伊勢までの距離を尋ねたところ、「三里山道、五里畷(なわて、あぜ道のこと)」と嘘の長い距離を教えられ、ここから伊勢を伏せ拝んで引き返したという話が伝わる。実際は伊勢まで山道はなく、距離も半分の4里ほどしかない。ひどい話である。

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やがて田丸というこぢんまりした城下町に入る。古い町並みの一角に、伊勢本街道と熊野街道が分岐する辻があり、その角に立派な道標が立っている。三重県の資料では伊勢本街道はここまでで、この先は参宮街道としている。伊勢はもうすぐだ。

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田丸の町並みを抜け、再び参宮線の踏切を渡る。下校途中の小学生たちに交じりながら走っていると、ついに目の前に宮川が現れた。かつて渡し場があったところで、最後の「こわいとこ」である。とうとう宮川まで来たのだ。写真にすると何の変哲もない風景だが、ここまで自分の足で辿り着いた人間には万感胸に迫るものがあり、昔の旅人たちと感激を共有できたような気がした。

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この度会(わたらい)橋を渡り、伊勢市内中心部へと入っていく。古い商店街を進むと、やがて筋向(すじかい)橋が見えてきた。名古屋方面からの参宮街道との合流点であるが、川は暗渠となって橋の欄干のみが名残をとどめる。16時半過ぎに外宮前に到着。Tシャツとランパンの汗くさい体で参拝する訳にはいかないので、伊勢市駅前のホテルに泊まり、翌朝、外宮内宮を参拝することにした。

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10月12日 ジョグ10キロ
10月13日 休養

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2013/10/11

伊勢本街道を走る 第3日

10月7日から9日にかけて榛原以降の行程を完踏した。第3日目となる7日は榛原から上多気(かみたげ)までの約43キロ、そのうち走ったのは約23キロである。

前回終点の近鉄榛原駅前を7日午前7時に出発。台風接近で時折小雨が降る空模様である。この先、街道沿いには食堂もコンビニも全くないので、駅前のコンビニでおにぎりとパンを買っておく。

スタートして間もなく、船尾垣内というところに奈良県内最古、全国でも5番目に古いという道標が置かれている。残念ながら文字はもうほとんど消失しているが、「右いせみち 寛文四年」とあるそうである。長年の風雪に耐えて旅人に道を案内してきた石碑が愛しく感じられる。街道ランを始めたばかりというのに、すっかり道標フェチになってしまった自分である。(笑)

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国道から一旦旧道に入ってしばらくすると高井という宿場町に入る。更に赤埴(あかばね)、諸木野(もろきの)の集落を抜けると、最初の峠である石割峠に差し掛かる。所々岩盤が露出したようなゴツゴツした峠道で、早くも GEL-Fuji の威力を感じる。

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峠を下り始めたところの分岐は大変分かりにくいと地図に書いてあったが、注意して下りていくと簡単に分かった。それよりも峠を下りた先、上田口の専明寺の境内に入る分岐は標識もなく、その先の血原橋まで行ってしまい、民家の女性に道を尋ねる破目になった。

一旦広い県道に出るがすぐに山側に分岐、黒岩集落を通って2番目の峠、山粕峠に入っていく。峠を下りたところが山粕西口で時刻はちょうど10時。早くも腹が減ってきたので、バス停横の売店でお茶を買い、おにぎり1個を補給する。

次の鞍取峠は、昔から「お伊勢まいりしてこわいとこどこか、飼坂、櫃坂、鞍取坂、つるの渡しか宮川か」という俗謡があるぐらいの難所だそうだ。案の定と言うべきか、その入口で迷ってしまった。

地図には公衆トイレのあるバス停「山粕東口」の裏から上がるとあるが、バス停はトイレと200mほど離れた場所にあり、どちらも裏に旧道があるように見えなかったのだ。偶然自転車で通りがかった女性に尋ねて分かったのだが、伊勢本街道はトイレの裏から最初車道と平行するように通じていて、下の車道からは見えづらかったのだ。

おまけに、峠に入ってすぐの右折の標識を見落として直進してしまい、倒木だらけの谷間に入り込んで身動きが取れなくなってしまった。すぐに引き返して事なきを得たものの、一瞬パニック状態になってしまい、本当に「こわいとこ」だと実感した。

峠を下りた先は御杖村。「みつえ」とは倭姫命が杖を置いた場所ということで、伊勢神宮ゆかりの地なのである。堂前の三叉路にある道標は、「右はせ」「左いせ」と単純明快。小さくて愛らしいが、相当の年代物らしい味わいがある。

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村役場のある菅野地区には四社神社があり、倭姫がそこの井戸で手を洗って口をゆすいで禊をしたら気分が清々しくなったというのが、「すがの」という地名の由来らしい。ホンマかいな。(笑)

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菅野を出る頃に正午となり、残りの行程から大体時間が読めてきた。あまり早くに宿舎に到着せず、また翌日に足を残しておくため、午後は歩きを多く入れることにする。牛峠を越えて神末(こうずえ)という集落に入る。この地名もまた「杖」に由来するそうだ。佐田峠という小さな起伏を越えて敷津という集落に入ると、鄙びた街道の雰囲気が増してきた。

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敷津集落の外れにある丸山公園で休憩し、おにぎり1個を補給する。その先は岩坂峠の下りになっていて、途中に姫石明神というのがある。倭姫が女性病の全快を祈願した場所だという。

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峠を下りるといよいよ三重県に入る。県境が奈良側から三重側に出臍のように張り出した部分に当たる。三重県でも最も山深い土地ということになるが、それだけに昔の街道の雰囲気がよく残っている。伊勢本街道による町おこしも行われており、民家の軒先に参宮装束の菅笠が掛けられていたりする。

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間もなく次の宿場、奥津(おきつ)に到着。松阪からここまでJR名松線が通じているが、数年前の台風被害で、途中の家城(いえき)から奥津まで運休中で、バス代行運転をしている。誰もいない駅の待合室でコーヒーとパンで休憩したが、ホームと線路には雑草が茂り、まるで廃線のような寂しさが漂う。

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奥津を抜けると、いよいよ本日最後の飼坂峠に差し掛かる。ここも「こわいとこ」のひとつで、途中には首切地蔵、腰切地蔵などという、ちょっと物騒なものがある。単に坂が急なだけでなく、山賊も出没するような「こわいとこ」だったようだ。

峠を登りながらつくづく思った。往時はこんな急な峠道を「おかげ参り」の老若男女が越えていったわけで、昔の人はよほど足腰が丈夫だったに違いない。庶民にとって交通機関は徒歩しかなかったわけで、旅行とは普段から習慣化された「歩き」の延長に過ぎなかったのだ。

今では大変寂しいところだが、往時は峠の頂上に茶屋があったそうである。その跡の近くに展望台が設けられていて、これから入る上多気の集落から次の櫃坂に向かう道路が望める。伊勢はまだ「山の彼方の空遠く」である。

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峠から下りて、まだ少し時間が早かったので北畠庭園に立ち寄り、美しい枯山水の庭を眺めながら旅の疲れを癒し、17時前に農家民宿「なかや」に到着。今まで街道で見てきた古い民家のひとつに実際に泊まるというのは貴重な体験だった。

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10月6日     休養
10月7日     LSD23キロ
10月8日     LSD28キロ
10月9~10日 休養
10月11日    ジョグ10キロ

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2013/10/05

GEL-FujiRacer 2

次回から未舗装の峠道が多くなる伊勢本街道に備えて、GEL-FujiRacer 2 を購入した。先週末、峠走りの練習を兼ねて参加した笠置奈良マラニックで、主催者のKさんがゲルフジで走られていたのを見ていて、先日大阪に行った際、長居のステップに立ち寄ったら、自分のサイズの在庫が1足だけ残っていた。試しに履いてみたら意外に軽かったので即購入(笑)。付属していた靴ひもはなぜか丸くて細いものだったので、別売の平たいひもを買って付け替えた。

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曰く、「ソールにはロックプレートを搭載。足への突き上げを緩衝します」。金属か樹脂の板みたいなのが入っているのだろうか。よく分からないが、近所の不整地で試走してみた感じでは、地面のグリップがしっかりしている感じである。特に峠道を下る際に威力を発揮してくれることを期待している。

10月2日 ジョグ10キロ
10月3日 休養
10月4日 ジョグ10キロ
10月5日 休養

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2013/10/02

フランス国立放送フィル演奏会

昨夜はこの春オープンした大阪・中之島の新フェスティバルホールで、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴いた。朝比奈時代の大阪フィル定期など、旧フェスティバルホールには何度も足を運んだが、新ホールは今回が初めてである。

1階正面の赤い絨毯の大階段は旧ホールより格段に立派になったが、その分歩いて上がるより横のエスカレーターを利用する人が多いようだ(苦笑)。ホール1階はビルの5階に当たっていて、2階のエントランスから緩やかな長いエスカレーターで上がるようになっている。照明も落とされていて、非日常空間への移動を演出しているかのようだ。

中は旧ホールと同様、横に広くて客席からステージが近い構造である。当日は2階席の4列目だったが、ステージが意外なほど近くに感じられる。残響時間は十分にあるが、残響成分は抑え気味で、直接音主体に感じられた。この方が聴きやすくていいと思う。

指揮は2000年からこの楽団の音楽監督を務めるチョン・ミョンフン、ピアノ独奏はアリス=紗良・オットで、曲目はラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を挟んで、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」と幻想交響曲というプログラム。何もフランスのオケだからといって、絶対フランスものをやらなければいけないわけではないと思うのだが。

3曲中では、オットがその卓越した技巧によって、明晰にして洒脱なラヴェルの音楽を十二分に表現した協奏曲が最も良かった。序曲と交響曲もこの指揮者らしくオーソドックスで重厚な音楽づくりに好感が持てた。

オケはかなりの水準に達しているが、フォルティシモで音が飽和してしまったのが残念だった。特筆すべきは木管のうまさで、さすがはフランスのオケだ。各奏者の技術の高さはもとより、フルートからファゴットまで同じ楽器で奏でているのではないかと思えるぐらい、各楽器の音色に共通する「核」のようなものが感じられるのだ。3曲とも聞かせどころのあるコール・アングレの独特の音色が印象に残った。

アンコールは多分ラコッツィ行進曲と勝手に予想していたが、何とカルメン前奏曲が始まったので椅子からずり落ちそうになった(笑)。後で調べたら、東京公演のプログラムに入っていたので練習済みというわけだったのだ。

それにしても、残響が消えるのを待たず、我先に「ブラヴォー」と叫ぶマナー知らずの客がいまだに多いのは嘆かわしい。一度でも海外ライブ録音のCDを聴けば分かると思うのだが。

9月28日 ジョグ4キロ
9月29日 LSD30キロ
9月30日 休養
月間走行 344キロ
10月1日 ジョグ10キロ 

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