『わたしの流儀』
あちこちの新聞雑誌に掲載されたエッセイを、「小説を書く」「言葉を選ぶ」「人と出会う」「酒肴を愉しむ」「旅に出る」「歳を重ねる」の6章にうまく纏めてある。しかし、これまで読んだエッセイ集2冊に収められたものと全く同じネタで書かれたものが散見されるのは、著者の不用意なのか単なる編集ミスなのか。
それはともかく、何気ない短い文章の中にも著者の思いが凝縮されていて興味深かった。例えば次のような文章を並べてみると、吉村氏の揺るぎない自我と、一見それに相反する謙虚さとが、氏の中で矛盾なく共存していて、それこそが氏の個性であることが窺えるのだ。
小説などでも、ある作品を傑作と思う人もいれば駄作と思う人もいる。それは読む人の生まれつきそなわった鑑賞眼によるもので、その人の素質なのである。
世に名作と呼ばれる作品に少しの感動もおぼえぬ場合、自分の鑑賞眼が低いなどとは決して思わぬことだ。自分の個性とは相いれぬものと考えるべきである。
島崎藤村の代表作「夜明け前」、夏目漱石の諸作品などは名作として激賞されているが、私の胸の琴線にはふれてこない。私には、他の作家の作品に感動するものが多々あり、それは私の生まれつきの個性なのだから仕方がない。(「句会」より)私も人並みに名刺を作って持っている。
歴史小説の資料収集や特殊な体験をした人の話をきく時、名刺を差し出す。しかし、私の名刺には、姓名と住所、電話番号が印刷されているだけで、肩書はない。(中略)名刺と同じように、旅に出てホテルに泊まる時も、宿泊用紙の職業欄の個所はいつも空白にする。
なぜか。
一言にして言えば、気恥ずかしいのである。果たして公然と作家だと言える身であるのだろうか、という気持ちが根強く胸にひそんでいる。
私だけではなく、小説家は一つの作品を書き上げた時、それに満足せず、次の作品こそすぐれた作品にしたいと願う。いわばいつも満足すべき個所にたどりつきたいと、荒野の中の道を一人とぼとぼと歩いているようなもので、作家であると胸を張って言える気にはなれないのである。(「名刺」より)
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