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2009/08/22

『白い航跡』上・下

1ff631e29fa03b469589c110l_aa240_吉村昭著。版元紹介文。

(上巻)明治初年、海軍・陸軍軍人の病死の最大の原因は脚気であった。その予防法を確立し、東京慈恵会医科大学を創立した高木兼寛の不屈の信念と人類愛にみちた生涯を描く歴史ロマン――薩摩藩軍医として、戊辰戦争で見聞した西洋医学に兼寛は驚き、海軍に入ってからはイギリスに留学し、近代医学を修め、帰国する。
(下巻)海軍軍医総監となった高木兼寛は、脚気の原因説をめぐり、陸軍軍医部を代表する森林太郎(鴎外)と宿命的な対決をする。実証主義に徹するイギリス医学に則る「白米食説」と、学理を重視するドイツ医学を信奉する「細菌説」の対決であった。この対決は、日清・日露戦争を経て、両者の死後初めて結着した。 (引用終わり)

8月21日 ジョグ10キロ/完全休肝
8月22日 ビルドアップ10キロを含む14キロ

著者「あとがき」によれば「兼寛についての資料は皆無に近かった」という。言わばゼロからのスタートだったわけだが、関係者に対する丹念な聞き取りや関連資料の収集により、上下2冊の長篇小説に仕立て上げた著者の力量には、いつもながら感心させられる。

中でも軍艦「龍驤」「筑波」での比較実験により、脚気の原因が白米中心の食事にあることを実証するくだりは圧巻である。「ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ」の電信を読んで感激した兼寛の喜びがひしひしと伝わる。

まだビタミンの存在も知られていなかった当時とは言え、細菌が原因と固執して譲らず、結果的に日露戦争で兵士に大量の脚気患者を発生させた陸軍首脳部の責任は重大である。その一人だった森鴎外は最後までその判断の誤りを認めず、当時から相当な批判があったようだ。

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