『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』
このところ、やたらとブルックナーづいている(笑)。著者は田代櫂(たしろ・かい)氏。1947年生まれで元々はギター奏者らしいが、この四六版300頁を超えるブルックナーの本格的な評伝の他にも、バイエルン王ルートヴィヒニ世の伝記なども物されており、今は執筆活動が本職なのだろう。例によって版元の紹介から。
圧倒的な音響で迫るブルックナーの交響曲。創造活動の中にひそむ「人間ブルックナー」の謎と、作品の不可思議な結実の有りようの謎をめぐる画期的評伝。ハンスリック・ブラームス派との確執が19世紀後半の音楽界を彩ることになるが、真にブルックナーが志向した音楽創造の境地とはいったい何に発していたのか。底知れぬ音楽のベクトルは、人間的なものを突き抜け、ヨーロッパ文明をも突き抜け、深々とした闇につながっている……。(引用終わり)
本書の核心部分は上記紹介文の最後(「あとがき」からの引用)でほぼ言い尽くされている。というより、「深々とした闇」とは一体何であるのか、もはや誰にも窺い知れず、これ以上説明の余地がないのかもしれない。恐らくブルックナー本人に尋ねてみたところで、「そんなこと、わしに訊かれても困るでの」というそっけない答えが返ってくるだけだろう。
ブルックナーの音楽と彼の人間性との間には途轍もない断絶がある。ブルックナーは極めつけの変わり者だ。生涯独身を貫いたにもかかわらず、晩年に至るまで美少女に目がなく、手当たり次第にラブレターを送りつけては断られる。自らの能力に関する証明書を人に書かせては蒐集する。北極マニアにして死体愛好者。何でも数え上げる癖。
そういう人間から生まれ出た音楽は、作曲者自身の個性はおろか、もはや人間の世界を超越している。本書「序」に見事な記述がある。
ブラームスの成功は、英雄的情念と小市民的憂愁を結びつけたことにあった。だがブルックナーの交響曲には、英雄も小市民もいない。そこにはまた、マーラーのような極彩色の世紀末も、蒼ざめた世界苦も、自己憐憫のカタルシスもない。それはむしろ非人間的な音楽であり、いわば「木石の音楽」である。ブルックナーの音楽を輪切りにすれば、赤い血のかわりに岩や氷がごろごろと転がり出る。(引用終わり)
では、その音楽は一体どこから来るのか。「深々とした闇」としか表現しようのないその淵源について、本書第5章掉尾の次の記述に若干の手がかりを求めることができよう。
だが彼の交響曲は、偽装した宗教曲ではない。むしろその根っこの先は、ドイツ・オーストリアの集合的無意識の奥深く、ゲルマンの古層に触れているように思える。ブルックナーの交響曲は、キリスト教の表皮を乗せたまま、彼の無意識の底から噴出した黒い山塊だ。(引用終わり)
「木石の音楽」に「ゲルマンの古層」。うまいことを言うものだ。
8月25日の練習内容 ジョグ10キロ
8月26日の練習内容 午前 ペース走(キロ4分20秒程度)20キロを含む24キロ
午後 ジョグ10キロ
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