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2005/09/18

『バレンボイム/サイード 音楽と社会』

珍しくちょっとお堅い本を読んだ。「みすず書房刊」というところに惹かれたミーハーな私だが、活字も小さくて、ちょっと疲れた(笑)。例によって版元の紹介文。

かたやエルサレム生まれカイロ育ち、ニューヨークに住むパレスチナ人エドワード・サイード。かたやユダヤ人としてブエノスアイレスに生まれ、イスラエル国籍、ロンドン、パリ、シカゴ、そして現在はベルリンを中心に活躍する指揮者・ピアニスト、ダニエル・バレンボイム。つねに境界をまたいで移動しつづけている二人が、音楽と文学と社会を語り尽くした6章だ。 パレスチナとイスラエルの若き音楽家をともに招き、ともに学んだワイマール・ワークショップの話から、グローバリズムと土地、アイデンティティの問題、オスロ合意、フルトヴェングラー、ベートーヴェン、ワーグナーなど、白熱のセッションが続く。(引用終わり)

世界的な知性と現代最高の音楽家の対談を通じ、音楽と社会との関わりについて色々と考えさせられる本である。かなり抽象的な議論も多く、難解なところもあったが、個人的には次のような指摘が面白かった。

ワーグナーは、世界全体に対して例外なく音楽というもののとらえ方に影響を与えた。同時代の音楽はもとより、彼以前の音楽、主にドイツ語圏や中央ヨーロッパの古典派音楽――モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどに。そのため、第二次世界大戦までは、(これら古典派音楽の演奏に際して)ワーグナーの考えを無視することはできなかった。それらは伝統になったのだ。(引用終わり。括弧内は引用者。)

つまり、フルトヴェングラー、ワルターあたりの世代(あるいはその後継者たち)の演奏は、ワーグナーのフィルターを通したモーツァルトでありベートーヴェンであるということである。このことは、『音楽の友』の先月号にも、カーティス音楽院教授のマックス・ルドルフの発言として「カール・ベームはモーツァルトの権威といわれているが、彼のモーツァルトはワーグナーやリストを通してモーツァルトを見たものに過ぎない」と引用されていたのに符合する。ノリントンやアーノンクールらの仕事は、このワーグナーの呪縛(?)を脱して、モーツァルトやベートーヴェンが当時演奏していたスタイルに回帰しようという試みに他ならないわけだ。

ところで、日本ではバレンボイムという音楽家は、少なくとも過去はそれほど人気がなかったように思う。最近はベルリン国立歌劇場の音楽監督をしていることもあって評価は高まっていると思うが、ドイツ・オーストリア至上主義のわが国の音楽界では、アルゼンチン出身というだけで初めから色眼鏡で見られていたのだろう。しかし、個人的には以前から好きな音楽家だった。特にモーツァルトの交響曲やピアノ協奏曲の弾き振り。後者は最近のBPOとのテルデック盤もいいが、若い頃にイギリス室内管と入れたEMI盤の瑞々しく清冽な演奏はとても魅力的だった。

9月18日の練習内容 LSD37キロ

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