2018/05/22

『フェリーニのアマルコルド』

Amarcord1974年、伊仏。WOWOWの紹介文。

1930年代のある年の春、イタリア北部の港町リミニ。チッタ少年は友人たちといたずらに明け暮れる毎日だが、思春期の自分にとって興味津々な大人の美女グラディスカを追い回すものの、彼女はチッタのことを子ども扱いする。それからの1年間、チッタの父親がファシズムに反対したせいで拷問を受けたり、母親が亡くなったり、グラディスカが町一番のハンサムである軍人と結婚したりといった出来事が次々とチッタの周囲で起きる。(引用終わり)

フェリーニの映画は何本か観たものの、『道』以外は難解というか、自分にはさっぱり分からない作品ばかりだったが、本作は比較的平易な内容である。というより、全体的なストーリーは存在せず、1年間の色々な出来ごとを寄せ集めただけの特異な構成である。

しかし、美しい映像表現とあわせて、個々の出来ごとの描き方がとても巧く、「ああ、確かにこういうことってあるな」と思わせる。それらを連続して観ることによって、観客は登場人物たちと同じように1年を過ごした感覚に陥る。

精神病院に入院している叔父を連れ出したものの、目を離した隙に彼が高い木に登ってしまい、「女が欲しい!」と叫び続けるシーンが有名だが、記録的な大雪で町中にうず高く積った雪の塊りの周りで、チッタとグラディスカがすれ違うシーンも大変印象的だった。

5月20日 ジョグ10キロ
5月22日 ジョグ13キロ

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2018/05/19

大発見?

久々に音楽ネタ。先日観た映画『アイ'ム ホーム』に、シューベルトの即興曲変ト長調が登場していた。私自身も大好きな曲で、さざ波のようなアルペジオに乗って、抒情的なメロディが控えめに、しかし心をこめて歌われる。

適当な詩をつけて歌えば、彼の数多い歌曲のひとつとして何ら違和感はなく、実際によく似た歌曲をどこかで聴いた気がすると以前から思っていたが、ハッキリしないままになっていた。

そのモヤモヤが遂に解消した。部分的ながら、これにそっくりな歌曲がやはり存在したのだ。シューマンの歌曲集「詩人の恋」第1曲「美しい五月に」の一節である。両者の該当箇所の譜面を示す。偶然かどうか、いずれも第9-12小節である。

シューベルト 「4つの即興曲」D899 第3番変ト長調

Impromptu

シューマン 歌曲集「詩人の恋」 第1曲「美しい五月に」

Dichterliebe

「レミソファ」「ファソシbラ」と、全く同じ音階を動いている。特にシの半音下がりが印象的で、そこが決定的な手掛かりとなった。

シューマンはシューベルトの音楽を好んでいたそうで、自分自身でもよく弾いていたに違いない。意図的な盗作とは思いたくないが、その記憶が頭のどこかに刷り込まれていたのかもしれない。

この類似はとっくの昔に誰かが指摘しているはずと思ったけれど、ネットで検索してみた限りではヒットしなかった。仁鶴師匠ではないが、もしかすると「大発見やァ!」かも?

5月18日 ジョグ10キロ

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2018/05/16

サングラスを新調

長年使ってきたサングラス(写真後)の鼻当ての部分がボロボロになったので、ついに買い替えることにした。2005年ボストンマラソンの時にはもう使っていたから、おそらく15年近くは使用してきた。一度鼻当てを紛失して製造元本社まで駆け込んだが、それからでも既に10年以上。レンズ表面にも細かいキズがいくつかあって、さすがにもうお役御免にしてもよいだろう。

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2代目(写真前)は何とユニクロである。別のものを買いに行った際に偶然店頭で見かけて即決したものだ。軽いのに顔面にしっかりホールドし、走っても揺れないところが気に入った。鼻当ては硬めの樹脂製で本体にネジ止めしてあるので、紛失や劣化の心配も少ない。何と言っても1500円というお値段が最大の魅力だ。ユニクロ依存は強まるばかりだ。(苦笑)

5月14、16日 ジョグ10キロ

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2018/05/13

『アイ'ム ホーム 覗く男』

Wakefield2016年、米。日本では劇場未公開。ブライアン・クランストン、ジェニファー・ガーナー他。WOWOWの紹介文。

弁護士ハワードはニューヨーク郊外の自宅に戻る途中、電車が停電で止まり、帰宅が遅れる。偶然、ガレージの屋根裏部屋に入り込んだ彼はそこで眠ってしまうが、翌朝目を覚まし、最近仲が悪かった妻ダイアナが、自分が浮気をしていると誤解することを恐れて家に戻れなくなる。さらに、そのまま屋根裏部屋から家族を観察することが楽しみになった彼は、近所で残飯を探してはそれを食べ、ずっと屋根裏部屋で暮らし続けるようになり…。(引用終わり)

春先からクリスマスまで、およそ1年弱に及ぶ主人公の異常な隠遁生活の顛末を描く。変態、悪趣味、性格異常…。普通の常識からすれば彼の行動はそう形容するしかなく、特に女性から不評を買うことは間違いないが、「もし…だったら」という設定の面白さは秀逸で、極論すれば本作の価値はそこだけにある。

最初のうちはすっかり取り乱し、時にはひとり涙を浮かべる妻の姿に、主人公はあるいは留飲を下げ、あるいは慙愧の念を覚えたりするが、夫の不在が長引くにつれ妻は次第にその生活にも慣れ、例年どおり夏のバケーションに出かけたり、ハロウィーンやクリスマスなど年中行事を楽しんでいる。

以下、若干ネタバレ

5月12日 LSD20キロ

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2018/05/10

『闇の叫び』

Sakebi堂場瞬一著。「アナザーフェイス」シリーズ最終の第9作。カバーの紹介文。

息子のかつての同級生の母親から連絡を受けた大友鉄。娘が通う中学の保護者が何者かに襲われたと言う。やがて別の父兄も被害に遭い、捜査に加わるも容疑者は二転三転。はたして犯人の動機は――。最愛の妻を亡くし、捜査一課から刑事総務課に異動して息子の優斗を育てるイクメン刑事シリーズ、ついに完結!(引用終わり)

通勤というものがなくなって読書量はガタンと落ちたが、このシリーズは継続して読んできた。「バリバリの事件に立ち向かうより、もう少し生活者としての刑事を描きたかった」という著者のコメントどおり、刑事ものとしては特異な「イクメン」キャラクターである大友鉄も、ついに最後の事件を迎えた。

前半で容疑者が二転三転するところはやや冗長な感じを受けたが、ある偶然から捜査線上に浮かびあがった真犯人との対決が始まってからは、俄然緊迫感を増していく。犯人が育ってきた環境と、自らの家族の状況を重ね合わせる大友には、今回の事件はとても他人事と思えず、「らしくない」ほど捜査にのめり込んでいく。

そのことを通じて、再び「刑事の血」が蘇えった大友の心境の変化、近い将来の捜査一課への復帰を予感させたところで、本シリーズは一応の終結をみている。続篇はもうないだろうが、他のシリーズに別シリーズのキャラクターをちょこっと登場させる、著者お得意の手法でもよいので、彼のその後の活躍を垣間見てみたいものだ。

それにしても、帯の部分はどうせ隠れるからと、そこだけ白紙にしたカバーデザインはいかがなものか。(苦笑)

5月8、10日 ジョグ10キロ

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2018/05/07

「地続き」その2

もうひとつは、時間的・歴史的な意味においての「地続き」である。東海道、中山道などいわゆる五街道は、慶長年間に入って徳川家康によって整備されたもので、それまで自然発生的に形成された古道をベースに、宿場や一里塚、松並木などを設け、いわば当時の幹線国道として再整備したものだ。

それ以降だけでも400年の歴史をもつ街道は、今もかなりの部分が国道や府県道として現役であり、道路自体が慶長の昔から「地続き」で現代に至っている。部分的に失われた箇所はあるものの、基本的に当時の旅人と全く同じルートを辿って、江戸から京まで歩く体験を共有できるのである。街道の脇に立つ道標は建立当時の姿を今にとどめる。鉄板に青や白のペンキを塗った現代の道路標識が果たして100年もつだろうか。

歴史小説や時代劇などでは、登場人物が東海道を行き来する場面がよく登場する。しかし、例えば「江戸から10日の強行軍で上京した」とあったとしても、途中の経過は省かれるのが普通だが、実際にその行程をたどった人間なら、その人物がその過程でどういう体験をしているか、おおよその想像がつく。

つまり、前回書いた空間的な「地続き」と合わせて、当時の人々と距離感覚、時間感覚を共有することができるわけで、大袈裟に言えば自分の中の一部に江戸時代の感覚が生まれることになり、江戸時代が現代まで「地続き」の存在であることを、自身の感覚として理解することが出来る。

一般的に江戸時代は文明開化前の暗黒の時代と言われ、またその反動か「当時の江戸は世界に冠たる先進都市だった」と言われることもあるが、そんな一面的な見方ではない、いわば等身大の江戸時代像を理解することが重要だろう。「歴史に学ぶ」とは、つまりはそういうことではないか。

5月5、6日 ジョグ10キロ

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2018/05/04

「地続き」その1

旧東海道の走り旅を終えての感想めいたことを少し書いておきたい。それは別に東海道に限らず、伊勢本街道や紀州街道など、他の街道を走ったときにも感じたことだが、「キング・オブ・街道」である東海道を完踏して、その思いはより一層強まった。

それは、旧街道が2つの意味において「地続き」だということだ。そのひとつは、空間的・地理的な意味において。もちろん、江戸(東京)と京(京都)が地続きであることは当たり前で、それは新幹線で行こうが車で行こうが変わらないのだが、ここで言いたいのは、人間の身体による距離感覚においての「地続き」ということだ。

人間の身体感覚、即ち歩く、走るときの距離感覚と、電車や自動車でのそれとは全く別物だ。電車や車に乗り込んで動き出した瞬間から、その距離感覚は人間の身体性を離れ、目的地まで地続きという体感はなくなってしまう。文明開化の頃、汽車の乗客が脱いだ履物がホームに残されていたという逸話は、ただの笑い話以上の含蓄があるように思う。

しかし、近代人にとってはその別物の感覚の方が日常となった。都市以上にクルマ社会である地方において、それはより顕著と言えるだろう。某地方都市郊外のコンビニの若い店員に、目的地までの大体の距離を尋ねたところ、とんでもない距離を言われた経験がある。車で何分ぐらいとは分かっていても、それが何キロの距離に相当するのか見当がつかないのである。

まして、朝から晩まで歩くとどのぐらいの距離を進めるのかなど、現代人の感覚からは既に失われてしまった。昔の旅人は1日に10里(40キロ)近く歩いたが、その距離を身体で実感する機会はほぼ皆無である。だから、江戸から平均14日間歩き通してようやく到達できる場所が京だということを、頭では分かっても身体で理解することは不可能である。

今回の街道走りは、まさにそれを自分自身の身体で理解する旅であったとも言える。江戸から京までを実際に走って(歩いて)、その距離を身体で実感する。言い換えれば、江戸と京が間違いなく地続きであることを、身体感覚において理解したということだ。

長くなりそうなので、もう一つの「地続き」については稿を改める。

5月3日 ジョグ10キロ

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2018/05/01

東海道を走る その24(草津~京三条大橋)

国道1号を横断した先に、江戸から119里の一里塚跡がある。ここから暫く、街道特有のうねるような道が続くが、南笠東に入って弁天池に突き当たるところは、左にカクンと折れる。池の中の弁天島には弁財天神社があり、橋で渡れるようになっている。

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江戸から120里の一里塚があった一里山付近を過ぎて旧大江村に入り、街道から左に少し入ったところに野神社舊跡がある。大江千里の住居跡と言われ、大江村の地名の由来となっている。平安時代の歌人「おおえのちさと」であって、「おおえせんり」ではないので念のため。(笑)

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次第に賑やかな市街地に入り、いよいよ瀬田の唐橋を渡るが、その手前に寛政12年建立の「太神山(たなかみやま)不動寺 是より二里半」と刻む道標がある。

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唐橋東詰には文化14年建立の道標があり、「跋難陀龍王宮 是より」「俵藤太秀郷社 川ばた半丁」と刻む。瀬田川の龍神の依頼により三上山の大ムカデを退治した、俵藤太こと藤原秀郷の伝説に基づき、龍神と秀郷を祀ってあるそうだ。

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瀬田の唐橋。古代より「唐橋を制するものは天下を制す」と称された名勝で、以前はびわ湖毎日マラソンのコースになっていた(現在は唐橋は渡らず、下流の南郷洗堰を渡るコースに変更されている)。

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大小2つの橋を渡り切って、京阪石山坂本線(以下「石坂線」)の踏切を越え(1回目)、街道は右折して北方向に転じる。国道1号、石坂線(2回目)、JR東海道線を越えた先は、かつて近江八景粟津の晴嵐と呼ばれた景勝地で、その松並木の一部が今も残る。

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この先は膳所城の城下町に入り、何度も折れ曲がる城下町特有の道筋を進む。古い民家の軒先には「ばったん」と呼ばれる折り畳み式の床几がある。

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石坂線踏切をさらに2回渡りながら琵琶湖岸に近づくと、今度は大きく西に向きを変えて、石坂線石場駅付近で5度目の踏切を渡る。その先が大津宿江戸方口である。滋賀県庁を左に見ながら進むと、「此附近露國皇太子遭難之地」の碑がある。明治24年、巡査津田三蔵がロシア皇太子ニコライに切りつけた「大津事件」が起きた場所である。

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この先、高札場があった札の辻(京町1丁目交差点)で左折すると大津宿の中心部になる。現在ではその面影は全くないが、僅かに延享3年建立の道標が残る。「蓮如上人近松御舊跡 是より半町 京大坂 江戸大津 講中」とあり、近松別院顕証寺への道筋を示している。

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この先は緩やかな上りとなり逢坂越えとなる。国道1号に合流する手前で京阪京津線の踏切(京阪線通算6度目)を渡るが、その手前左手の駐車場の基礎の一部が、何かの橋梁の跡のようである。これは事前にAさんに教えてもらっていたので気がついたが、実は東海道線旧線の橋台痕跡なのである。街道走りの途中で、ちょこっと廃線探訪。(笑)

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この先にある旧逢坂山隧道を出た線路は、国道を跨ぐ橋梁を渡って旧大津駅(現膳所駅)に向かっていたのだ。トンネル出口を背にして眺めると、その延長線上に先の橋台跡があることが分かる。

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隧道の坑門上部には太政大臣三条実美の揮毫になる「楽成頼功」の扁額がある。「落成」は落盤に通じるとして、あえて「楽成」としたそうだ。

逢坂越えの国道1号は事故のせいで大渋滞していた。昔も今も交通の難所なのだ。逢坂山関址の碑を目印に旧大谷村に入ると、国道の喧騒がウソのような静けさである。

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再び国道1号の歩道に戻り、だらだらと下っていくと、左手に月心寺がある。境内に走井と呼ばれる掘り抜き井戸があるそうだ。

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広重「大津」は左下に走井を配し、名物走井餅を商う走井茶屋の前を行く牛車を描いている。茶屋の痕跡はさすがにないが、昔も今も物流の大動脈であることに変わりはない。

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この先、名神高速京都東IC付近にある売店で、本家走り井餅を試食させてもらった。黄粉をまぶしていないのがオリジナルだそうだが、あいにく品切れだった。

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相前後するが、街道は名神高速の高架を潜った先で伏見道との分岐点、髭茶屋追分に至る。「みきハ京ミち ひたりハふしミみち」と刻む道標(昭和29年再建)があるが、左の蓮如上人御塚道標(明和3年)とともに、鉄板か何かで補修してあるのが痛々しい。

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だらだらと坂を下って、国道1号を歩道橋で越えた先に、大津宿札の辻からの別ルートである小関越えとの分岐点がある。逢坂越えを相撲の大関に見立て、それに対して小関と称した脇街道である。「三井寺観音道」「小關越」と刻んだ文政5年の道標が立つ。

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この先で、ついに近江(滋賀県)から山城(京都府)に入る。京津線四宮駅の先に「伏見六ぢざう(以下不明)」「南無地蔵菩(薩)」と刻む元禄16年の道標がある。ここにある山科六地蔵から伏見六地蔵への道を示す。

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山科駅前の繁華街を通り過ぎると間もなく、宝永4年に沢村道範なる人物が建立した五条別れ道標がある。「右ハ 三条通り」「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水 道」とある。「ひがしにし六条」は東西本願寺、「大佛」は方広寺、「今ぐま」は今熊野観音、「きよ水」は清水寺である。

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道標どおり右の道を進むと、間もなく府道143号、通称三条通りに突き当たるので右折。東海道本線ガードを潜った先に冠木門があり、てっきりここが旧東海道と思いきや、これは地下鉄東西線開通で廃止された京阪京津線の廃線跡なのである。ここでもちょこっと廃線ラン。

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この先で三条通りを左折、東海道最後の難所、日ノ岡峠越えとなる。結構な急坂で、2日間で80キロ以上走ってきた脚には堪える。昔の人も難儀したようで、多数の地蔵尊が安置され、旅人の道中安全を見守っている。

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峠越えを終えて再び三条通りに合流するところに、広重「大津」から抜け出たかのような大八車を復元したモニュメントがある。敷石には轍に合わせた溝が刻まれ、「車石」と呼ばれる。

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蹴上浄水場を経て都ホテルが見えてくると、街道走りもいよいよ最後の直線に入る。というか、もうかつての生活圏なので、「とうとう帰って来たなあ」という感覚が込み上げるが、当時は知らなかった史跡もいくつかある。

平安神宮に通じる神宮道交差点の先に、坂本龍馬お龍「結婚式場」跡という標石がある。神奈川宿で働いていたお龍と知り合った龍馬は、ここで内祝言を挙げ、新婚旅行で高千穂峰に登ったというわけだ。もう他人という気がしない。(笑)

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その先、白川に架かる白川橋東詰に、三条通白川橋道標があり、「是よりひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち」「京都為無案内旅人立之」と刻む。「京都に不案内な旅人のために立てた」もので、建立は延宝6年(1678)、京都に現存する最古の道標とのことである。

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また、ここから白川を少し下ったところに、弘化2年建立の「東梅宮並明智光秀墳」「あけちみつひて」と刻む道標がある。山崎の戦いで秀吉に敗れた光秀の首を埋めた場所らしい。

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東大路を越えて間もなく、京阪三条駅前にある高山彦九郎像に挨拶。「土下座像」と言われることもあるがそうではなく、勤皇の士である彼は御所を向いて望拝しているのである。京阪本線が地上を走っていた頃は、この像は確か三条大橋東詰にあった。

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16時半前、その三条大橋の擬宝珠にタッチして、旧東海道約489キロ、12日間の走り旅を完踏した。橋を渡ったところで、日永追分で別れて伊勢参りに行っていた弥次さん喜多さんと再会。二人とも何だかホッとした表情だ。

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広重「京師」も当然、この三条大橋を描くが、奥に見える高い山は比叡山と言われている。

Keisi

そうだとすると、この構図はおかしい。絵では鴨川が右から左に流れているが、比叡山は左岸側にあるからだ。本当は下のような絵柄になるべきところ、写真を裏焼きしたようになっているのだ。ブログもインスタもない時代、既存の名所図会と記憶を頼りに描く以上、こういう誤りは仕方ないだろうが。

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広重の絵で、橋の中ほどで菅笠を被って川面を眺めている男は、広重自身の姿だとも言われている。それに倣って、私も缶ビールを片手に川面を眺め、しばし旅の思い出に浸ったのだった。(完)

4月29日 LSD20キロ
月間走行 190キロ
5月 1日 ジョグ10キロ

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2018/04/28

東海道を走る その23(水口~草津)

2日目の20日午前8時半頃、甲西駅前をスタート。今日もよく晴れている。昨日以上に気温が上昇して、夏日になるとの予報が出ている。

次の石部宿に入る手前に、八嶋寺地蔵堂の道標がある。ここは道標だけだが、近江に入って以降だろうか、街道に沿って小さな地蔵堂を見かけることが多くなった気がする。

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石部宿に入ったところに、菜飯田楽(なめしでんがく)を供していた往時の田楽茶屋を模した休憩所がある。前述の滋賀LSDで何度か立ち寄ったことがあるが、この日はまだ開いていなかった。

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広重「石部」は、石部宿というより次の草津宿に近い、旧目川村にあった田楽茶屋「いせや」を描いている。ここはそれをモデルに作ったものらしい。屋根の感じなどそっくりだ。

Ishibe

それ以外に宿場の痕跡はほとんど残っていない。西見附跡から少し行ったところに小さな公園があり、東海道や石部宿の歴史を説明した掲示があるが、ここは目見改場(めみえあらためば)の跡で、京方面からの大名行列は、ここで一旦衣服を整えてから石部宿に入ったそうだ。

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この先に小高い山があり、かつて銅を産出したため「金山」と呼ばれていた。融通の利かない堅物のことを「石部金吉」と言うのは、ここから来ているという説がある。石部宿が飯盛り女を置かない「お堅い」宿場だったことも関係しているとか。

それはともかく、この先の街道は、金山を左に見て野洲川沿いを行く下道と、金山の手前を左に回り込む上道に分かれる。初期の東海道は下道だったが、たびたび洪水に見舞われたため、天和3年に上道が作られた。下道はLSDで走ったことがあり、今回は上道を選択。国道1号バイパス、名神高速の高架を潜ると、前方に近江富士の三上山が見えてきた。

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この先で左折して下道と合流、しばらく進むと「新善光寺道 是より一町餘」と刻む道標がある。平重盛末裔の小松宗定が夢のお告げに従い、建長5年に善光寺如来の分身を安置したものだそうだ。

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旧六地蔵村に入ると、和中散本舗大角家住宅の立派な屋敷がある。和中散は腹痛や暑気あたりに効くと評判になった街道薬で、この薬を飲んで腹痛が快癒した家康が命名したのだとか。

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JR手原駅に近づいた辺りに、「肩かえの松」がある。旅人がこの松の下で休憩し、荷物を担ぐ肩を替えたという。

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この先にある行者堂は、里内九兵衛という人がお告げにより、文政3年に大和国から役行者像を持ち帰ったのが始まりという。役行者こと役小角(えんのおづぬ)は吉野や芋ケ峠でお馴染みだが、近江国にまで勢力を伸ばしていたとは知らなかった。

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旧目川村に入る。広重が「石部」で描いた元伊勢屋跡に「田楽発祥の地」の碑が立つが、街道の雰囲気は全く残っていない。

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この先で街道は旧草津川(天井川)の堤防に突き当たり、右折して草津の市街地を目指す。新幹線のガードを潜り、国道1号線を横断した先で堤防に上がり、旧草津川を渡ったところが草津宿江戸方口で、文化13年建立の火袋付道標がある。「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」とある。

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堤防を下りてだらだらと坂を下りて行くと、中山道との追分に至る。ここにも文化13年の追分道標があり、「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と刻んでいる。建立年や形状、字体から、先の道標とセットで建立されたものではなかろうか。

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T字路を左折した先に木屋本陣遺構(国指定史跡)が現存し、一般公開されているが、入場料を取るので門から少し覗くだけである。(笑)

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宿場の今の様子。今も車や人が頻繁に行き交い、賑わい続けている。

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宿場京方口の黒門近くに立木神社があり、その境内に元の中山道追分道標が移設されている。現在立っている文化13年の道標の先代に当たり、延宝8年(1680)と滋賀県下では最も古いものである。「みぎハたうかいとういせミち」「ひだりハ中せんたうをた加みち」と刻む。

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新たに開削された新草津川を渡ってしばらく進むと、瓢泉堂前の三叉路の角に「右 やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻む寛政10年の道標がある。琵琶湖矢橋湊に通じる矢橋道との追分(分岐点)である。

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往時はここに名物姥ケ餅を商う姥ケ茶屋があり、広重「草津」はその風景を描く。店先の道標は今と同じ位置にあり、おそらく現存のものと同一であろう。広重の五十三次のうち、「戸塚」に描かれた道標も移設されて現存するが、元の場所に今も立つのはここだけではないだろうか。

Kusatsu

この追分で、旅人は「瀬田へ廻ろか矢橋へ出よか ここが思案の姥ケ餅」と迷ったそうで、また、「武士(もののふ)の 矢橋の舟は速くとも 急がば廻れ瀬田の長橋」という歌から「急がば回れ」という言葉が生まれた。

名物「うばがもち」は、近江源氏佐々木義賢が信長に滅ぼされ、その曽孫の後事を託された乳母が街道で餅を売って養育費に充てたのが発祥で、姥(乳母)の乳をかたどった小さなあんころ餅である。素朴な味わいが何だか懐かしい。

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昼時になったので、国道沿いのラーメン店で昼食休憩を取る。(続く)

4月27日 ジョグ10キロ

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2018/04/25

東海道を走る その22(坂下~水口)

鈴鹿峠を越え近江に入って間もなく、巨大な常夜燈が見えてくる。江戸中期に金毘羅参りの万人講が道中安全を祈願して建立したもので、高さ5.5メートル、重量38トンと言われる。これほどの石造物が300年近くもの間、地震や台風に耐えて立ち続けているのに驚く。

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国道1号に合流して緩やかな下り坂を進み、旧山中村に入ると、前方に新名神高速の巨大な高架橋が見えて来た。滋賀県下の新名神高速はこの地で起工されたという記念碑がある。

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もとの名神高速は米原回り(旧中山道)の比較的平坦なルートを通っているが、当時はこんな巨大橋梁を作る技術や資金がなかったのだろう。時代が下ってそれが可能になると、旧東海道に近い最短ルートを通るようになったのだ。そう言えば、これも名神・東名高速をバイパスする伊勢湾岸道は、旧東海道・七里の渡しのルートに近く、リニア中央新幹線も鈴鹿峠付近を通るルートが検討されているようだ。

また、偶然かもしれないが、ここは江戸から109里の一里塚があった場所に近い。起工記念碑向かいは一里塚緑地として整備され、櫟野観音道の道標が立っている。「いちゐのくわんおん道」とあり、櫟野村の櫟野寺(らくやじ)への参詣道を示している。

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この先、旧街道はコンクリート会社の敷地内に取り込まれてほぼ消失している。国道に迂回して猪鼻村で一旦旧道に戻り、さらに先に進むと「蟹が坂」に至る。

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平安時代、この付近に巨大な蟹が出没し、村人や旅人を苦しめたが、京の恵心僧都が説法を施したところ、蟹は自らの悪行を悟るが如く甲羅を八つに裂いてしまった。蟹の血は固まって八つの飴となり、厄除けの効があったということから、蟹の甲羅を模した「蟹が坂飴」が作られ今日に伝わっている。この先の道の駅で買い求めて旅の友にしたが、ちとばかり重かったな。(苦笑)

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この先の蟹坂古戦場跡を経て、街道は田村神社の手前で田村川を渡る。安永4年に架けられた旧田村橋は昭和初期に台風で流され、その後は架橋されないままになっていたが、平成17年に海道橋として再び架橋されたものだ。

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広重「土山」は、馬子唄のとおり「あいの土山雨が降る」中、田村橋を渡る大名行列を描く。

Tsuchiyama

坂上田村麻呂を祀る田村神社の境内を抜け、道の駅「あいの土山」で昼食休憩(塩分補給)してから街道走りを再開。間もなく土山宿に入る。ところで、「あいの」とはどういう意味なのか? 実は諸説あって、いまだに定説がないようである。詳細はこちら

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本陣跡は往時の雰囲気をとどめる。

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この先、国道1号に突き当たる地点が宿場西口で、脇往還御代参街道との分岐点に当たる。古い道標2基が立っていて、奥側は文化4年建立で「右 北国たが街道 ひの八まんみち」とあり、手前側は天明8年建立で「高埜世継観音道」とある。

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この先の旧道をしばらく進むと、野洲川(松尾川)の渡し場跡に出る。今は橋もないので国道に迂回せざるを得ない。対岸には渡し場へ下りる道の痕跡も残るが、柵が2箇所に設けられていて立ち入ることは出来ない。旧道痕跡を探索しようという街道ファン(誰のこと?)が出没するので、田んぼの所有者が業を煮やしたのだろうか。

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この先、国道1号を縫うように進む単調な区間となる。4月とは思えないほど気温が上昇して徐々にペースが落ちてくるが、茶畑の鮮やかな緑が心身をリフレッシュしてくれる。そう言えば、もうすぐ新茶の季節である。土山は茶の名産地なのだ。

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大日川を渡ると、今回の区間でほとんど唯一の松並木(僅か2、3本だが)があった。反野畷というところらしい。

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さらに進むと、間の宿があった旧大野村、旧今宿村を経て甲賀市水口に入る。上り坂をしばらく行くと、今在家の一里塚跡(江戸から112里)がある。

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前方に水口岡山城があった古城山が見えてくると、ようやく水口宿に到着である。広重「水口」は古城山を背景に、名物干瓢作りの様子を描く。

Minakuchi

広重が描いた場所はよく分からないが、古城山を背景にした現在の街道の風景。この日に宵宮を迎える「水口曳山まつり」の山車が、庫から半分だけ顔を覗かせている。

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宿場の痕跡はほとんどないが、三筋に分かれた独特の宿並みが今も残る。その西端、近江鉄道石橋駅近くの三筋の合流点には、曳山の模型に乗ったからくり時計が設置されている。

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その先には水口城があり、城下町特有の何度も曲がる(ここは六曲がり)道筋を通って水口宿を出ると、また北脇縄手という単調な直線区間となる。さらに気温が上昇してかなり辛かったが、やがて再び野洲川を渡る横田の渡し跡が見えてきた。

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明治24年に同じ場所に横田橋が架けられたが、現在は下流側に移転していて、そちらに迂回せざるを得ない。野洲川を渡ってすぐのJR三雲駅近くに、かつての渡し場(西側)にあった常夜燈が移設されている。

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三雲と言えば、かつて草津在住のランナーAさん主催のLSDで何度か来たことがある。ここでフィニッシュして、駅近くの酒屋でビールを買って飲んだりしたものだが、その酒屋の前の道が旧東海道だとは、当時は全く知るよしもなかった。

三雲駅前からしばらく行くと、3基の道標が並んでいて、真ん中は寛政9年の銘があり、「万里小路藤房卿古跡」「雲照山妙感寺 従是十四丁」と刻まれている。万里小路(までのこうじ)藤房は後醍醐天皇側近だった人で、後に出家して妙感寺を開いたそうだ。

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さらに西に進むと、大沙川(おおすながわ)隧道(明治17年築)を潜る。この辺りの川は天井川となっていて、街道は川の下をトンネルで潜るわけだ。往時は一旦河原まで上がって下りていたのだろう。左の杉の大木は弘法杉といって樹齢750年。弘法大師空海がここで昼飯を食べ、その時に使った杉箸が根付いたという話だが、空海が没したのは9世紀前半。ちと勘定が合わぬようだが。(笑)

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この先、夏美の一里塚跡(江戸から115里)を過ぎて、今度は由良谷川隧道(明治19年築)を潜る。こちらは河川の付け替え工事が行われていて、片側交互通行となっている隧道は近く姿を消してしまうだろう。

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この先のJR甲西駅付近で1日目の行程を終了。草津線で草津まで移動して、駅前ホテルに投宿。ひと風呂浴びた後は、Aさんと落ち合って久々に一献傾けたのだった。(続く)

4月23、25日 ジョグ10キロ

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